第七話② 疑惑、失われた真実、指先さえも届かない。
母が亡くなる直前――彼岸入りの日の夕方。私はひとりきりで、約束の場所を訪れた。
その頃の母は、何かに悩んでいるようだった。「どうしたの?」って聞いても教えてもらえなかったけど、ひとりでいるとき遠目にその横顔を盗み見ると、びっくりするほどさみし気な顔をするのを知っていた。そのときも、川向こうに白い彼岸花が咲いていた。柊と見つけた約束の場所。ちょうど最初の日と同じ、沈みそうな夕日が西からまっすぐ差していた。
「星那」
後ろから呼ばれてふりむくと、柊が川を渡るのが見えた。
――来年また彼岸花が咲く頃になったら、ここに来よう。
そう約束したことを、柊も覚えていてくれたのだ。でも今は、胸にたまった憂鬱がなかなか晴れてくれなかった。表情を隠すのが苦手な私は、すぐに柊に気づかれてしまう。
「元気ないね」
草むらにひとり座ったまま、ぼんやりしているところだった。
心配されるのが嬉しくて、「うん」と言って口をつぐんだ。こういうとき、柊は安易に理由を尋ねたりしない。私が言いたくなるまで待っていてくれるのだ。黙ったまま、かなしみを共有しようとするように、ずっと隣にいてくれる。そういうとき、本当に優しいのは柊の方だといつも思う。その気持ちに寄りかかって夕日を見つめているうちに、自然と話し始めていた。
「お母さんがね、変なんだ」
「変?」
「なんか、悩んでるみたい」
「千絵さんにも言った?」
「うん」
「お父さんにも?」
「うん、相談はしてるみたい」
「そっか」
柊はしばらく黙っていた。状況を吟味するように。
「それなら、きっと大丈夫だよ」
それを確信するような、約束するような声だった。
「それで元気なかったの?」
うん、とうなずきそうになって、本当は違う、と思ってた。様子がおかしくなってから、私が何を話しても、母は上の空だった。いつもならもっと、ちゃんと話を聞いてくれるのに。最近の母は私が見えていないようなのだ。それがなんだかさみしくて、落ち込んでしまっていたんだと。体操座りしている隣に、柊も座りこんでいた。中一にもなって、そんなことで悩んでる自分が恥ずかしくて、ただ目を伏せていた。
影が差して見あげると、柊が気遣うように私をのぞきこんでいた。――と、言葉を発するより先に柊の顔が近づいて、唇がそっと合わさった。何が起きたか分からなかった。座って目を見開いたまま、動くこともできなかった。一秒にも満たない時間。触れたかどうかも分からない一瞬。でも、数秒後ようやく何をされたか呑みこめて、みるみる頬が熱くなる。
きっと真っ赤になっていた。私は泣きだしそうだった。柊だけが私をこんな風に、制御不能にしてしまう。すでになすすべもなく、柊に恋してしまっていた。
(柊も、もしかしてそうなのかな……)
そのときは、両想いの『しるし』を手に入れたような気持ちだった。疑いようもなくそれは、ファーストキスだったから。本当に触れたか確かめたくて、もう一度してみたくなって、そんなことを想像すると、顔がますます熱く火照った。
「ねえ、柊」
胸のなかのモヤモヤは、跡形もなく消えていた。動揺をまぎらわすように、私は話しかけていた。いますぐ何か言わないと、その場に座りこんだまま動けなくなりそうだったから。
目は、自然とかたわらにある彼岸花に吸い寄せられた。
去年の秋、柊と見つけた一本の白い彼岸花。
私は、もうそのときには色ごとで花の宿す意味が違うことを知っていた。
「白い彼岸花の花言葉って、知ってる?」
あのとき感じた、あふれるような胸いっぱいの甘苦しさは、今も消えずに残っていた。柊と交わした口づけは、色褪せない記憶とともに心に刻み込まれている。忘れることもできないまま、切り離すこともかなわずに、十三歳だった私と今を結びつけている。
川に呑みこまれた腕をつかんだことは覚えていた。
そのまま一緒に流されて――どれくらい時間が経っただろう。途中から記憶が曖昧だった。私は信也くんを、助けることができただろうか。
(助けられていたらいいな)
抱きかかえたまま岸につかまらせようと必死だった。川の流れる音で何も聞こえなかったのに、今は水を打ったような静寂がどこまでも続いていた。
(ここは……)
気づいたら、辺りは一面暗くなっていた。無我夢中でいるうちに、夜になってしまったようだ。湿った風の匂いがした。川に流されたはずなのに、地面の硬い感触がした。いまは冷たくも寒くもない。そんな体の感覚さえ、闇にまぎれるようだった。
――と、揺らめく影が視界をよぎる。
そばに誰かがいる気配。水の音はしなかった。
ふいに、ここが同じ川岸であるということに気づく。
増水し荒々しかった流れも、いまは静かになっている。
私は目を閉じたまま、気を失っているようだった。
直後、目の前の誰かが言った。
「もしかしたら意識を取り戻すかもしれないから」
知らない男の人の声。
その人は焦っているように、誰かに話しかけていた。
「キミ、声をかけながら、あの人の身体を強く揺すっていてあげてくれないか!」
「わ、分かりましたっ」
その声を聞いた瞬間――言い表せない衝撃が体の内部を突き抜けた。
(――柊?)
そばにうずくまる小さな影。
それは間違いなく、私の知っている柊だった。
およそ六年前と同じ。聞き損じるはずがない。
(来てくれたの……?)
横たわって動けない『私』の前に柊がいる。
記憶と寸分も変わらない声。そこで、おかしな点に気づく。これが本当に柊なら、もっと大人になっているはずだ。目の前にいる柊は、十三歳のままだった。
(これは、誰の記憶なの?)
そのときになって私は、これが『過去』であることに気づいた。
(じゃあ、ここで寝かされているのは)
同じ場所。同じ時間帯。
今日は――母の命日だった。
橋の上に寝かされているのは、六年前の『蓮見友菜』だ。
(そのときと同じ出来事を、追体験しているとしたら)
暗くてお互いの顔も判別することはかなわない。けれど、そこにいるのは確かに、柊以外にあり得なかった。
頭のなかが混乱して、何も考えられなくなる。懐かしさと困惑で、胸の底が熱くなる。
男の人に言われた通り、柊は懸命に『私』の体を前後に揺らし始めた。
その合間に、最初の男の人は消えていた。川岸の深い闇のなか、柊はひとり取り残される。
『私』が寝かされていたのは、細い橋の上だった。すぐ下に速い流れがある。私は状況の危うさに気づいた。でも、柊は気が動転しているのか、まわりが見えていなかった。
柊が揺するたびに、大きく体は傾いでいった。腕がだらんと下がっていて、意識は戻りそうにない。
直後――まるで冷たい川底に吸いこまれていくように、『私』の体は落下した。
手を伸ばしても遅かった。指先さえも届かない。柊が『私』と同じように、ハッとうろたえるのが分かった。その顔からみるみる血の気が失せて蒼白になる。
『おぼれていた子供を助けようとしたんだよ』
過去にそう語った父親の声が思い浮かんだ。
その言葉を、私は一度も疑ったことはない。
でも、それはきっと、作為的に両親がつくった優しい嘘だった。
これが真実なんだと、瞬間私は理解した。失われたまま二度と、告げられなかった真実だと。penitenceという言葉が浮かぶ。罪に対する後悔、罪。もしも私の母の死が、柊のせいだったとしたら。
(きっと……だからだったんだ)
六年前に柊がこつぜんと姿を消した理由。
(もし、その原因が母の死因にあったなら)
不完全だったピースが繋がっていくようだった。いや、これでもまだ完全ではないのかもしれない。私は結局、六年前のあの日の柊しか知らないのだから。
(……でも)
無性に柊に会いたかった。
ずっと、焦がれるように、それだけを願い続けていた。忘れられる気持ちなら、とっくに忘れていただろう。柊に刻まれた傷痕は、私のなかにも残っている。
過去の柊は少しのあいだ、呆然とその場に佇んでいた。そうしていれば『私』が戻ってくるんじゃないかって、そう期待するように。
圧倒的に濃い闇が辺り一面を満たしていた。柊の体もその黒に侵食されていきそうで、それ以上は見えなかった。川の流れは想像していた以上に速かった。どこまでも続く暗い淵に『私』は押し流されていく。――と、『私』の体と同じように、流れに呑まれるものがあった。
(柊、お願い。私に気づいて)
完全に沈んでしまう直前、私は見つけたものを取ると、思いきり川岸へ投げはなった。
ふたたび意識が遠ざかる。
水泡と見まがうような何かは、『私』のまわりを漂いながら、同じように果てしない闇へと吸いこまれていった。
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