第六話 憂慮、焦燥に混ざる影、追伸の言葉に込められた意味。
星那は夏休み中、この家に留まると決めたようだった。千絵は声には出さず、その考えを歓迎する。自由ではあるにしろ、慣れない一人暮らしがどれだけ大変なものかは、知っているつもりだったから。
星那は、図書館で借りた本を毎日熱心に読んでいる。『読書会サークル』も、いまは活動していないのだろう。同じ姉妹でも莉世と星那は、好きなことが全然違う。あまり遊び歩くようになってしまうのも心配だが、ずっと家にいる消極性も多少気がかりではあった。記憶のなかの星那は、もう少し活発だったから。日差しが和らぐ夕方に散歩をするようになり、「同じ名前の猫を見つけた」なんて言っている。
リビングでスマートフォンを熱心に操作している星那は、年頃の少女なんだな、と思わせる危うさを含んでいた。色が白く、すらりとした体躯を持て余しているように見え、読書ばかりに興じているのがもったいなく思えてくる。その熱を他の誰かに向けられたらいいのに、と老婆心が働くのだ。
(恋人のひとりでも作ればいいのに)
つい、そんな風に思う。それが星那にとってはまったくのお節介で、余計なお世話だと分かっていても。夏の終わりを告げるように、数日前から断続的な激しい雨が続いていた。時には雷を伴って、バケツをひっくり返したような豪雨になることもあった。
九月に入ると高校の夏休みは終了し、莉世がふたたび学校に通う日常が始まった。星那は相変わらず、たまの図書館と散歩以外は外出しない毎日だ。繰り返される日々に退屈しないのかな、と千絵も思ってしまうほどだ。
「お姉ちゃん、本好きだからねぇ」
莉世はそう言ったけど、千絵にはもっと他の理由があるように思えてならなかった。読書することで現実から目を背けているように。
――お姉ちゃんはね、まだ柊くんのことが好きだと思う。
その言葉を思いだすたび、生温かい憂慮となって千絵の心を重くする。星那が「見ないようにしている」ものが柊だとしたら――と思うと胸が痛かった。特に九月の半ば頃、星那は気落ちして見えたから。
「何かあったの?」
そう聞いても、星那は首を振るだけだった。こんなとき友菜なら、星那の悩みを聞きだしてあげられるんだろうかと、無益なことを思ってしまう。
「あのね。お姉ちゃん、ツイッターで仲良くなった人と連絡が取れなくなったんだって」
星那が居間にいないときに、莉世がこっそり教えてくれた。そんな理由なのか、と胸をなでおろす一方で、いまはSNSの関係が重要になるんだろうかと思いを馳せる。もしかしたら、想像もできない繋がりが生まれるのかもしれない、と。
数日間立て続けに降った雨がやんだのは、友菜の命日の朝だった。その日の夕方、いつものように「散歩に行ってくる」と玄関先で告げた星那を千絵はひきとめなかった。雨で散歩を控えていたから、星那も歩きたいだろう。雨上がりの夕空が西の方から広がっていた。
「気をつけてね」
星那の背中に声をかける。ちょうど夕飯の支度にとりかかっているところだった。
いつもの何でもない、ありふれた日常の一場面。「うん」とかすかにうなずいた、星那の小さな声さえも意識に届いていなかった。その瞬間を千絵は――何度も、思い起こすことになる。その後――夜遅くなっても、星那は帰ってこなかった。
「ちょっと近所を見てくるから、莉世はこのまま家にいて」
莉世にそう告げた声は、隠しきれない動揺のために少しかすれていた。
十七時半ごろ家を出たきり、すでに五時間が経っている。時計は二十二時を回っていた。英樹にも連絡は入れてある。こんなときに限って、会議で遅くなるそうだ。
「私も行く」
莉世はそう言って立ちあがる。けれど、千絵はどうしても連れて行く気になれなかった。
「莉世は家にいて。私がいないあいだに帰ってくるかもしれないでしょう? そしたら、すぐに連絡して」
分かった、と言う莉世は、すでに泣きだしそうだった。いつもと違う異常事態になることを察して怯えている。千絵はつとめて何でもなく、諭すような声で言う。
「遅くなるかもしれないから、疲れたら先に眠ってて」
表に出ると、蒸し暑さが途端に体を包み込む。
道路わきの外灯だけが、夜の闇を照らしていた。この暗闇のどこかに星那がいるのだと思うだけで、胸が引き裂かれるような心もとなさにおそわれる。
(いつも暗くなる前に、家に戻ってきてたのに……)
何度押したか知れない、端末の通話ボタンを押す。着信は何度も入れていた。そのたびに空虚なコール音が途切れることなく鳴り響く。今も、またそうだった。
(何かの事件か、事故に巻き込まれたのかもしれない)
暗い街路地を歩いていると、悪い想像ばかりが手に負えない形となって、どんどん膨らんでいってしまう。千絵はそれを振り切るように、自然と早足になっていた。心臓の脈拍が速くなる。千絵は辺りを見回しながら、住宅街を歩き回った。
散歩コースは知らないけれど、そんなに遠くには行かないはずだ。家を出たときの星那は、裾の長いワンピースにサンダルという格好で、そのまま自発的にどこかへ行ったとは考えにくい。部屋のなかを調べたら、帰省するときに持っていたポーターの鞄が残されていた。財布やポーチや、家の鍵も。ないのは、スマートフォンだけだ。星那はスマホだけ持って、家を出たはずなのだ。それなのに、電話は繋がらない。ラインすらも既読にならない。
『まだ帰ってこないの?』『どこにいるの?』『大丈夫?』『迎えに行くから連絡して』
そんな言葉をもう、十件くらい送っていた。手元にスマホがあるはずなのに連絡がつかない、という事実が単純に恐ろしかった。この気持ちは以前、経験したことがある。
友菜が亡くなった当日――六年前の今日。友菜は五瀬川で、その命を落としたのだ。
(五瀬川……)
消えた友菜の面影が焦燥と混ざりあって、心を塗りつぶしていく。気づけば千絵は、五瀬川の方角へむかって駆けだしていた。
当時の記憶が、足元から立ちのぼってくるようだった。
あの日――英樹から友菜の訃報を受けとったときは足が震えた。
(まさか。何かの間違いだ)
そう思って仕事を放りだし、タクシーで斎場に駆けつけると、すでに冷たくなった友菜が棺のなかに寝かされていた。警察から「自殺」だと聞かされたのは、その後だ。容赦のない現実だけが、目の前に繰り広げられていた。感情が追いつかなかった。友菜の死は、あまりにも突然だった。作りものの映像か、まがいものの悪い夢を見せられているかのようだった。過去の幻影が浮かぶたび、千絵はそれを振り払う。
連日の雨のせいで、川の水かさは増していた。普段は穏やかな水面も流れが速くなっている。
「星那!」
千絵は川辺で呼びかける。堤防沿いの道際まで、水飛沫が迫っていた。川は暗くて見渡せない。懐中電灯を持ってこなかったことを後悔した。散歩していた時間帯は、ここまで暗くなかったはずだ。雨で増水はしているが、よほど近くに行かない限り、足を取られたりしないだろう。だとしたら、誰かに攫われたか。
女子が連れ去られる事件は、全国で無数に起きている。その恐れを考えると、胸が潰れるようだった。何より、連絡がつかないのだ。もし今の星那が、スマホを操作できないとしたら――……そのとき着信音が鳴って、見ると英樹からだった。
「まだ見つからないの。もうずいぶん遅いのに」
いつのまにか家を出て、一時間近く経っていた。
「どこにいるの?」
「五瀬川の堤防付近」
「今から車で向かうから」
短い通話が切れた後、千絵はしばらくその場を動くことができなかった。押しつぶされそうな不安が胸のなかを占拠している。
と、ふと思いたって千絵はもう一度スマホを開くと、そのなかのアドレスのひとつにメッセージを入力した。どうしてそんなことをしようと思ったか分からない。でも無性に、そうしないではいられない気持ちだった。
『星那が見つからないの』
用件も前置きも何も入れず、ただそれだけを打ち込んだ。
『ずっと探しているのに、全然見つからない。こんなこと今までなかったのに』
なぜ、そんな言葉を送ってしまったんだろう。
迷惑に思うに違いない。もう何の関わりあいも持ちたくないと思ってるはずだ。それなのに、藁にも縋る思いでそうしてしまう自分がいた。返信はないものとあきらめていた。
――が、予想以上に早く、受信を知らせる通知が来た。光る画面にただ一言。
浮かびあがった言葉は、目を射抜くように鮮やかだった。
『いつから?』
それは真摯な問いかけだった。それだけで少し泣きそうになる。
抱えていた焦慮を分かち合えた気持ちになる。
『今日の夕方。スマホを持ってるはずなんだけど、全然連絡がつかなくて』
『分かった』
ただそれだけの言葉。なのに、ほんの少しだけ安堵している自分がいた。まだ何の手がかりも見つかってはいないのに――星那を見つけられるのは、柊のような気がしたのだ。過去、ふたりの間にどんなことがあったとしても、柊なら星那がどこにいても、見つけられるんじゃないかって。
『何か心当たりある? いま東京にいるんでしょう?』
続けてメールを送ったのは、本気か知りたかったからだ。この六年間ずっと、何の音沙汰もなかった柊に心当たりがあるはずない。それでも、聞かずにはいられない。
通知音が鳴ったのは、それから少し後だった。英樹と合流して、ふたりで川辺を回っていた頃。ポロンと軽やかな音がして、柊からの追伸だと気づいた。
『必ず、僕が見つけるから』
その言葉を見た瞬間、まぶたが急に熱を帯びて、もう抑えられなかった。涙で視界がにじんでいく。その意味はもう明白だった。何の根拠もなく、柊が来てくれるなら大丈夫だとそう思えた。
(――星那)
まるで暗闇を映したように、川向こうは見渡せない。星那が近くにいるはずなのに、闇夜に遮られたまま、見えなくなってしまったように。
(どうか見つかりますように……)
ふたたびあふれそうになる涙を必死でこらえながら、千絵はそう念じ続ける。
手分けして探していた途中、千絵は川岸にうずくまる人影を見つけてハッとした。思わず駆け寄ってよく見ると――まだ幼い男の子が目を閉じたまま倒れていた。
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