第五話② 五瀬川、いつかの約束の場所、理由なんて探せない。
「ここ、ふたりだけの秘密の場所にしない?」
風が吹きわたった後、私はそう口にした。
「秘密?」
「ふたりだけの秘密基地」
いいね、と柊も賛成した。
「来年また彼岸花が咲く頃になったら、ここに来よう」
「約束だよ」
少しはにかんでそう言うと、「うん」と柊もうなずいた。
次の年の秋――私も柊も、約束のことを覚えていた。それがふたりで会う最後の日になるなんて、そのときの私は全然、想像もしていなかった。
五瀬川を渡ったことを心に思い描いたからか、不意に大学で習った万葉集の歌が浮かんだ。
(信濃の千曲の川の細れ石も、愛しい君が踏んだ石なら、玉と思って拾いましょう)
確かそんな意味だった。初めてこの歌を知ったとき、柊のことを思いだした。
君し踏みてば玉と拾はむ。
愛しい人が触れたものなら、それが河原の小石でも何より特別になってしまう。そんな気持ちで私も、ずっと恋をしていたのだ。自覚するのが遅かっただけで、初めて言葉を交わしたときから、本当はずっと惹かれていた。柊にまつわるものは、もう記憶の底にしかなくて、手を触れることもできない。
「ホリー」が私と同じ大学生だと知ったのは、八月の中旬ごろだった。
『何回生?』
という問いかけに、
『一回生』
とホリーは答えた。
『じゃあ、もしかして同い年?』
『ああ、そうなるのかな』
『すごい偶然だね』
『そうだね』
『散歩以外は何してるの?』
『ツイッターの通りだよ。気ままに写真撮ったりしてる』
『優雅だね』
『そういう君も、散歩と読書をする日々なんでしょ?w 僕とそんなに変わらないよ』
口元だけで微笑んで、
『確かにw』
と相槌を打つ。
ホリーは自分を表す一人称に「僕」を使う。それだけで性別は分からないけど、男性のような気がしていた。冷房が苦手な私は夜のいっときカーテンを開けて、扇風機を回している。やっぱり暑くて眠れないから、あきらめてスイッチを入れるまで、気づけばずっと話していた。数日置かずに会話が続いていくこともあった。
『どこの大学に行ってるの?』
『東京』
とホリーは答える。
『都心だね』
『リコリスは?』
『私は名古屋』
『そっか』
『夏休みはいつまで?』
『九月の下旬かな』
出身はどこ? とは聞かなかった。ただ、ホリーが東京にいるという事実に否応なく胸が騒いだ。柊も東京にいるような、そんな気がしていたからだ。ここからだと、私の大学の方がずっと遠い。昔から上京することは、地元だと自然な流れだった。みんな高校までは家から通える場所にして、東京の大学に進学する。だから可能性として、柊が東京にいる確率は高いと思っていた。
『私も東京の大学を選んでおけば良かったかな』
そんな言葉を口にする。
そしたらすれ違うように、柊に会えたかもしれないのに。
結局お盆を過ぎても、柊は姿を見せなかった。
すごく家が近所だから、帰省したならすぐ分かる。何しろ、毎日のように夕方散歩に出ていたから。相変わらず過去に固執したまま、どこへも行けない気持ちでいる。せめてこの想いだけでも伝えることができたらいいのに。たとえフラれると分かっていても。
(もう顔も見たくないほど、嫌われたってことなのかな……)
それは今まで何度も、見ないようにしていたことだ。引っ越しの直前、柊の態度が硬化した理由だけでも知りたいのに。わだかまりは心の奥で、永遠に溶けない雪のように濁ったまま消えてくれない。
あっという間に八月が過ぎて、気づけば九月になっていた。莉世は毎日部活――軟式テニスの練習――に行ったり、出歩いたりと忙しそうだ。読書している私を見ては、「よく飽きないね」と笑われる。ずっと家にいる私と違って、莉世はどんどん日焼けする。「日焼け止めを塗っても、黒くなってしまう」そうだ。そういうときの莉世は、健康的で見ててまぶしい。「ホリー」と話していることは、莉世に言えないままだった。言ったら、大騒ぎされる気がした。相変わらずホリーは、誰のリプライも返さない。『どうして?』って一度聞いたら、『面倒だから』と言っていた。
『私には返してくれたのに?』
ふざけ半分でそう聞くと、
『たまたま花言葉、知ってたから』
きっとそうなんだろう。けれど、それでここまで会話が続くというのは不思議だった。
『あの彼岸花、どこで撮ったの?』
白い彼岸花の写真。私も白い品種は、あの場所でしか見たことがない。
『どこだったかな。忘れちゃった』
『去年撮ったの?』
うん、とホリーは応えた。
『めずらしいなと思って、たぶん撮ったんじゃないかな』
どこか曖昧な返答だった。本当に聞きたいことは、ときどきはぐらかされてしまう。それ以上近づかれるのを、まるで恐れているみたいに。仲良くなったつもりでも、優しく拒絶するように。私はホリーにとって、日常の何でもないことを雑談できる相手なのだ。それでいいと思っていた。この会話が休暇中の余白を埋めてくれるなら。
――白い彼岸花の花言葉って、知ってる?
以前に一度だけ、私は柊にそう聞いた。
その言葉の意味は、いまも一番大切な場所にある。
(それこそが、私が柊を忘れられない理由かもしれない)
ふいに、その言葉をホリーと共有したくなった。
『ホリーさんは、白い彼岸花の花言葉って知ってる?』
色によって、花が宿す意味は全然違ってくる。
よほど詳しくなければ、そんなこと知らないはずだった。
けれど。
『知ってるよ』
ホリーはそう言った。
その言葉を見た瞬間、誰にも見せなかった部分にそっと触れられたような気がした。
なぜだろう。
ホリーと話していると、ときどき胸が苦しくなる。
何もかも共有できる気がして、強いめまいにおそわれる。
(もしかしたら、このひとも誰かを失ったのかもしれない)
だから、「ホリー」の抱えた寂しさに、切りとられた写真の影に共振してしまうのだ。
心の奥を揺さぶられて、言葉の端々に反射する傷痕の光に魅せられる。
(直接会って話せたらいいのに)
そのとき、初めてそう思った。
でも――その一方で、ホリーはそれを望まない気がした。
これ以上、ひとと関わることを拒絶しているように思えた。
私が日常の一端を共有することができたのは、とても稀なことなのだと。
*
ホリーへの見方が変わったのは九月も半ばを過ぎた、ある夜のことだった。
その日、いつものように彼のタイムラインには画像が投稿されていた。まるい大きな月の写真。ああ、満月なんだ、と思いあたって空を見た。流れる雲に時折隠れそうになりながら、天頂近くに昇った月が冴えた光を放っていた。
いつかの会話を思いだす。
――月が綺麗ですねっていう言葉に隠されている意味、分かる?
中一のときに交わした言葉。
回想は痛みを伴って、心に淡く広がっていく。
――つまり『好き』っていうことなの?
――『愛している』っていう意味だよ。
(ホリーはその言葉、知ってるかな……)
ほんの気まぐれのつもりだった。いつものようにDMで『月が綺麗ですね』とだけ打って送信する。数刻後に通知が鳴った。
『ああ、夏目漱石だっけ』
『よく知ってるね』
『一応、文学部だから』
(あ、文学部だったんだ……)
こんなに話をしてるのに、それを知るのも初めてだった。なぜだろう、ホリーの間には共通点がたくさんあった。大学一年生で、同じように文学部で、言葉で表せないような喪失感を抱えている。静かに共鳴するような気持ちを勝手に抱いてしまう。
『そう言われたら、なんて答える?』
思考の一部が働かない。
処理速度が落ちて、かたまってしまうデータみたいに、やけに重くなっていく。それでも手はとまらない。
『つまりその言葉に、告白の意味が含まれていたら』
あの日からずっと、私は思い出に縛られたままでいる。
次にきた返信の文面に、思わず目を奪われた。
『次の満月も一緒に見あげましょうって、そう言うよ』
それは、巧妙にまぎれこんだ美しい嘘のようだった。
――次の満月も一緒に見あげましょうって、そう言うかな。
一語一句違わずに、それは柊の言葉だった。
(どうして、この人がそれを言うの)
まるで、あまりにも出来過ぎた演戯を眺めているようだ。第三者がつづった筋書きをたどっているように。
(そんなはずない)
その回答は、私の心を揺るがせた。色んな感情がごちゃまぜになる。一刻も早く、ホリーが柊じゃないって確信できるような言葉を探しあてたかった。だってそんな想像は、あまりにまぶしすぎたから。
『ホリーの誕生日っていつ?』
少し唐突に私は尋ねる。
それで決着がつくはずだった。
それなのに――
『十一月十五日だよ』
当たり前のように、ホリーは私にそう言った。
目の前が暗くなるような錯覚に一瞬、とらわれる。焦点が定まらないなかで、ホリーのアカウント名だけが視界にくっきり浮かびあがった。
ホリー(@holly_penitence)
(どうして気づかなかったんだろう……)
hollyは英語で「柊(ひいらぎ)」のこと。penitenceは罪に対する後悔、という意味だ。
この人は想像も及ばない、重い十字架を背負っている。理由さえ知らされないまま、消えた柊の後ろ姿とアカウント名が重なった。
(柊なの?)
そう尋ねたい気持ちが、胸の底から湧きあがる。ホリーは正体を明かさないだろう。でも、『月が綺麗ですね』の答えも誕生日も一緒なら、他にどんな質問をすれば決定打になるのだろう。
『ホリーは、女性?』
試しにそう聞いてみたら、
『男性だよ』
と返ってきた。
『僕を女性だと思っていたの?w』
そんな冗談めいた言葉に答える余裕なんてない。
(――柊)
もう何年もずっと、ひとりで回り道をしていた。ここで言葉を呑みこめば、それは消えないしこりとなって胸を重くするだろう。これ以上の鬱屈を抱えるのはごめんだった。
(違うなら、違うでかまわない)
たまたま返答の仕方が一緒で、同じ誕生日の別人だってあり得るのだ。茫漠としたSNSの海にも似た闇のなかで無意識に繋がっていた相手が、ずっと忘れられない初恋の人だったなんて、とても信じられないから。理由を探せないくらい私は柊に惹かれていて、ホリーが柊かもしれないなんて推測は苦しすぎるから。
期待と焦燥で胸がつまる。まるで画面越しに息の根を止められてしまったように。うまく呼吸できないまま、この感情を終わらせたくて、私は震える指先でもうひとつ質問を書き添えた。
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