第五話① 五瀬川、いつかの約束の場所、理由なんて探せない。
半年ぶりに訪れた故郷は、まるであちこちに自分の欠片がまぎれているみたいだった。
毎日歩いた通学路。下校途中に見かけると、眠っていた庭先の犬。ずっと変わらない住宅街の見覚えのある屋根の形。空を背景に屹立する、鉄塔の武骨なシルエット。小学一年生の頃から、柊と一緒に過ごした場所。
日が西に沈んでも、表は茹だるような暑さだ。それでも散歩に出たくなるのは、郷愁に身を浸したくなってしまうからかもしれない。自然と足は、柊がいた家の方へ向いてしまう。
(もしかしたら、柊も帰省するかもしれない)
そう思いつつ、とうとう玄関のチャイムを押す勇気は持てなかった。千絵によると、柊は近所の家にいないという話だった。お父さんは見かけるけど、と。
そんな言葉のいちいちに、胸が不穏にざわめいた。
(お盆まで待っていれば、柊も戻ってくるかな……)
そんな捨てきれない思いと、柊は再会を望んでいないだろうという懸念が、同時に胸に迫ってきて、七回忌が終わっても動くことができなかった。幸い夏休み中は、一日もシフトを入れていない。マスターも、「いつも頑張ってるから、ゆっくりしてきな」と言ってくれた。
大学の夏休みは長い。八月の初めから九月の下旬――二十六日まで、まるっと休暇期間だった。その間、キャンパス内も立ち入りが制限されるから、『徒然』の読書会は十月からになるだろう。そうなると、ひとり暮らしのアパートに戻る理由が何もないのは事実だった。
「夏休み中はもう、こっちの家でゆっくりしたら」
そんな千絵の勧めもあり、好きな本を読みながら無為に過ごしてしまっている。何より、家にいると、千絵のつくったご飯を食べられるのが嬉しかった。高校のときは、帰宅が遅い父に代わって、三人分の夕食を作ったりもしていたけれど、すっかり怠けてしまっている。一人暮らしを始めたら、自炊しようと思ってたのに。意外と「自分のため」だけのご飯は、ちゃんと作る気になれなかった。
玉ねぎやベーコン、ミックスビーンズをコンソメでゆっくり煮たスープや、千絵のお手製のシチューなんかが、口にするたび身に沁みた。
(私は自分で思う以上に、今も傷ついているのかもしれない)
家族の温もりに包まれると、普段は意識しない痛みが露呈していくようだった。私はまだ、自分で思う以上に傷ついていて、喪失を補う方法をずっと探しているのかも、と。
時間があり余っているのは、一方で贅沢なことだった。読書に飽きてしまうと、自然とツイッターを眺める時間が多くなった。「ホリー」とのやり取りはあれから、心の隙間を埋めるように、断続的に続いていた。最初は、投稿された写真の感想を送っていたけれど、気づけば何気ないことを話すようになっていた。
『毎日、暑いですね』
今日、そう言葉を送ると、
『そうですね』
と返ってきた。
『ホリーさんは毎日、何をして過ごしているんですか?』
『夕方涼しくなってから、散歩することが多いです』
『それ、私とおんなじ(笑)』
話すうちに、ときどき敬語が外れるようになった。こんなやり取りを誰かと交わすことも初めてだった。DMで話す私は、いつも少しだけ饒舌になった。この人が潜在的に抱えている「喪失感」にシンパシーを感じていた。言葉に表せないことも、「ホリー」ならきっと分かってくれる。そんな美しい錯覚に、ずっと酔っていたかった。
毎日散歩していると、徐々に歩くコースが決まるようになってくる。たいてい日中は本を読み、日が沈む頃、外に出た。五瀬川を通りすぎると、夕日を受けて水面がチラチラまたたくのが見えた。
(もう少ししたら川岸に、彼岸花も咲くのかな)
ひとりきりで歩いていると、柊の面差しばかり浮かんで目の前が曇るようだった。
(忘れなきゃ)
西日が五瀬川を照り返すのを眺めながら、初めてそう考えた。こんな気持ちをずっと、引きずっていてはいけないと。誰よりもそう知っていたのに、決断することができなかった。柊との思い出が、心の底で消えない光を放つのを無視することができなかった。
(忘れなきゃ)
固く決意するたびに想いが苦く広がって、泣きたい気持ちにおそわれる。この初恋だけが、私のなかで一番大切なものだったから。忘れようと努力しても、きっと忘れられないだろう、けれど。
(そのためにも、柊と会って話ができたらいいのに……)
日が沈めば、反射する川面の輝きも闇にまぎれていってしまう。いつまでもずっと好きでいて、どれだけ柊を想っていたか、思い知らせてみたかった。でも、そんな行動にひとかけらの意味もないのだ。柊はたぶん――私のことを、嫌いになってしまったから。たとえ何の変化も望んでいないのだとしても。停滞したままでいたら、もうどこにも進めない。
白黒の猫を見かけたのは、いつもの夕方――散歩中のことだった。
「にゃあ」と鳴く声がして上を見あげると、家の土塀に猫がいた。黒と白のハチワレ猫。目の上に眉毛みたいな白い点がついている。
「セナ?」
特徴が似ている気がして、試しにそう呼びかけた。猫は興味深そうに、じっとこちらを見つめてくる。
「あんまり遠くに行かないようにね」
猫はもう一度「にゃあ」と鳴いた。なんだか気持ちが通じ合ったみたいに思えて嬉しくなる。表札を見ると、『浦部』とあった。
(やっぱり、あの子の猫なのかな)
手を伸ばして、やわらかそうな喉をゆっくり撫でてみる。猫は気持ちよさそうに、目を閉じたまま動かなかった。
「いい子だね」
しばらくそうしていると、玄関の開く音がした。
と、やはり見覚えのある少年が目をまるくして立っていた。
「あ、お姉さん」
信也くんだ。ということは、この家が「おばあちゃん家」なのだろう。
「この子がセナ?」
「そう」
「可愛いね」
セナは物怖じしない性格なのか、撫でられるままになっている。
「また、こうやって撫でてもいい?」
信也くんは「うん」と笑う。
純真な笑顔を向けられて、同じように微笑んだ。散歩コースの楽しみを見つけたような気分だった。スマートフォンで写真を撮らせてもらうことにする。セナは猫らしい鷹揚さで、ずっと目を閉じていた。
『ホリーさんは、誰かと約束を交わしたことってありますか?』
忘れられなくなるような。
そう言葉を付け足した。
窓際に接したベッドの上、夜風が少しだけ開けたカーテンの隙間から入ってくる。それでもずいぶん蒸し暑い。もう少ししたら冷房のスイッチを入れよう、と決める。眠れない夜。スマートフォンの液晶だけが、唯一の光源となって青白い光を放っている。相手もまだ起きていたのか、その後すぐに通知がきた。
『ありませんよ』
『リコリスさんは、あるんですか?』
そう問いかけが返ってきて、指先をとめて考える。
(どうだろう)
でも本当は、考えるまでもなかったのだ。まるで書きかけのノートを途中で破り捨てるように、唐突に柊との関係は終わった。近くにあると思ってた光は、気づけば手の届かない彼方に遠ざかっていた。交わしたかった約束は、胸のなかにあったのに。それを口にする機会さえ、私は与えられなかった。でも、その質問を否定で答えたくはなくて、
『約束の場所ならありますよ』
気づけば、そう言っていた。
『それは恋人との?』
恋人との。
そうだったら、どんなにいいだろう。
SNSはきっと、そんな嘘であふれている。少しでも良く見せたくて。流れていく日常に価値があるって信じたくて。でも、そんな見栄をはっても自分を偽ることにしかならない。
『片想いしていた人との、です』
本当は、柊を過去形で語れるくらいにならなければいけないのだろう。
自傷行為にも似た感情でそう考える。
『いいですね。どんな場所なんですか?』
『川の近くなんですけど、とてもきれいなところなんです』
柊と見つけた約束の場所。
最初に訪れた秋の日を、私はずっと覚えている。
小学六年生の秋。私は柊と一緒に、目的の場所を訪れた。
曼殊沙華公園。当日はよく晴れていて、涼しい風が吹いていた。空気の清涼さに深呼吸したくなるような。筋状の雲がいくつも、刷いたような水色の遠い空に流れていた。
家からそんなに離れてないのに、初めて行く場所だった。公園の敷地内には、常緑性の広葉樹が植わっていて、数えきれないほどの彼岸花が咲いていた。まるで赤い絨毯を敷きつめたみたいな光景だった。木々の緑と一面の赤の対比が鮮やかだった。
「すごいね」
気づけば、圧倒されていた。
赤い花弁のせいだろうか。こんなに一斉に咲いていると、花自体が静かに燃えているような迫力があった。隣で柊も、「うん」とうなずく。ちょうど咲き始めの時期で、色んな人が立ちどまってはカメラや端末を向けていた。何も持っていない私は、目の前の風景をただ見つめることしかできなかった。少しでも記憶に残るように。忘れないでいられるように。
公園のむこうに五瀬川の水面の輝きが見えていた。
「あっちの方にも行ってみよう」
そう言ったのは私だった。橋は架かっていなかったけど、そこは浅瀬になっていて、飛び石を踏めば渡れそうだった。川の流れは穏やかだった。それでもいざ前にすると、尻込みして足がすくんだ。
「行けるかな」
「一緒に渡れば怖くないよ」
柊はそう言って前に立ち、先導しようとするように私の手を握りしめた。
いつもそうだった。何かを思いつくのは私で、柊は目的を達成させる最善の方法を探してくれる。だから、柊がそばにいてくれれば何も怖くなかったし、何でもできるような気がした。突拍子のない提案は絶えず柊に回収されて、ひとりではたどり着けない場所に私を連れていってくれた。たとえ何でもない場所でも、柊といるだけで特別だった。世界に隠されている秘密を、ふたりなら探せると思っていた。だからきっと、「約束の場所」を見つけたのも偶然なんかじゃなかったのだ。
川を渡った先は、雑草が入り乱れていて管理されてないようだった。丈の長い葦やススキが、向こう岸からこちら側をちょうど見えなくさせていた。まるで、川を挟んだこの場所は、本当の彼岸みたいだった。現実世界の此岸から五瀬川を飛び越えて、隠り世に渡ってきたように。そう思ったのは、その先に広がる光景が非現実的に見えたからだ。
そこには――見つかるまいとするように、一本の白い彼岸花がひっそりと可憐に咲いていた。形状は同じなのに、色が違っているだけでまったく印象が変わって見えた。白色の彼岸花が傾き始めた日差しに照らされ、風に吹かれている様子は、とても幻想的だった。この世のものとは思えないほど。
「きれい……」
思わず、そうつぶやいた。
西日が花弁の白を透かして、淡く光るようだった。
「初めて見た。希少種かな」
柊が、隣でそう言った。
もともと自然界に白色のものというのは少ない。目立つし、たいてい種の保存が効かないことが多いのだ。だからふたりとも、その花を目にするのは初めてだった。
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