第四話② 傷口、届かなかった声、守りたいと思ったもの。
納骨堂は、本堂の廊下を渡った先にあり、木目の棚が規則正しく並んでいる場所だった。金色の菩薩像を前に最後のお参りを済ませると、骨壺は納骨堂の棚のひとつに収蔵された。
「いつでも来たいときに、お参りに来てくれてかまいませんよ」
濃き紫の袈裟をまとった法師はそう言った。
千絵は、友菜があの電話を最後に消えてしまったような気がする。川に身を投げたのは、まったくの別人なんじゃないかと。
納骨堂のなかは、普段は人が入れないように錠が下ろしてあるという。こんな風に遺骨が、ひとつひとつ入っているとは思わなかった。人は死んだらその直後に、骨になってしまうのだ。後悔に苛まれるたび、目に涙がにじんでくる。一方で千絵は、友菜に置いていかれたような、見捨てられてしまったような気持ちで今もいるのだった。
それでも納骨を済ませると、ひとつの区切りがついたような感情が胸に湧いてきて、かなしみが徐々に摩耗していくのが、やるせなかった。
(友菜は、幸せだったはずだ)
何度も、千絵はそう思う。
(英樹さんがいて、星那や莉世がいて。どんな傷を抱えていても、この毎日が幸せじゃなかったなんてはずがない)
英樹と結婚して、千絵は一層強くそう思うようになった。
「高校のときのお母さんって、どんな感じだったの?」
以前、星那にそう聞かれた。
十代半ば――同じくらいの年齢で結婚と出産を果たした友菜を、もっと知りたいと思うように。
「とっても可愛い子だったよ」
千絵は微笑んでそう応えた。
当時の友菜のことは、今も鮮明に覚えている。
高校の入学式のあと。友菜を初めて見かけたのは、同じ教室のなかだった。
(なんて綺麗な子なんだろう)
知らないうちに、見とれていた。
肌は陶器のようになめらかで透きとおっていた。長い髪が、春の穏やかな陽差しを受けて光っていた。友菜は誰もがちょっと目をとめてしまうような、そんな雰囲気をそなえていた。実際、友菜に惹かれている男子は教室に何人もいた。
(いったい何を食べたら、あんなに可愛くなるんだろう)
そう思ってしまうほど。
でも、本人はそんなこと気にもとめていなかった。どれだけ注目されているかも、まるで気づいていないように。入学して間もない頃は、窓際の席に座って、よく本を読んでいた。その様子が、ますます視線を集めてしまうとも知らずに。
友菜がひとり静かに本のページを繰っていると、その場所だけ時間が止まっているかのようだった。あの横顔に見とれた生徒が、いったい何人いただろう。
友菜はとても優しくて、春の陽射しみたいだった。困っているひとがいたら、助けずにはいられない温かさを持っていた。可愛くて、優しくて、前向きで、千絵の目から見ても友菜は、非の打ち所がない女の子のように見えた。
でも、その優しさの裏に過酷な現実があったなんて、誰が想像できただろう。友菜がいつでも平等に分け隔てなくふるまえたのは、痛みを知っていたからだ。
最初ひとりでいた友菜も、五月になる頃にはクラスのなかに馴染んでいった。
友菜と「親友」になれたのは、先輩に囲まれていたところを助けたのがきっかけだった。入学当初からひそかに、「とても可愛い女子がいる」と学校で噂になっていたのだ。そのため、友菜は高学年の生徒に絡まれることが多かった。なかにはずいぶん強引で軽薄な先輩もいたと思う。
千絵が見かけたとき、友菜は腕をつかまれていて、抵抗してもなかなか振りほどけないようだった。
「いいじゃん、ちょっと付き合ってよ」
「部活入ってないみたいだし、時間余ってるんでしょ?」
そうたたみかける男子生徒は複数いた。
放課後の廊下には人気がなくて、友菜はそのときひとりだった。
友菜がその誘いを拒んでいるのは明白だった。
考える前に、声をかけた。
「
その頃はまだ友菜のことを、上の名前で呼んでいた。
千絵がそう言うと、友菜はハッとしたようにふりむいた。
それは、とっさの嘘だった。
友菜は私を見あげると、泣きそうな顔でうなずいた。その目は少しうるんでいた。よほど困っていたのだろう。その表情を見た瞬間、名前も知らない「先輩」たちに燃えるような怒りが湧いた。ひとりじゃ断られるからって、逃げられないように複数で迫るなんて卑劣だと思った。
嘘が功を奏したのか引き下がった相手を前に、千絵は半ば奪うように友菜のことを引き取った。友菜によると、「他校との合コン」メンバーに入れられるところだったという。
女子の人数が足りなくて、というのが主な理由だった。
「本当に連れていかれると思った……先輩たち、しつこくて」
ふたりきりになった後、そうつぶやいた友菜の声は少し震えていた。
「あのままだったら逃げられなかったよ。本当に助かった。ありがとう」
「そんな可愛いと大変だね……」
千絵は心からそう言った。
綺麗なものを見ると、手に入れたくてたまらなくなる傲慢な人種だっているのだ。
クラスにも友菜を遠巻きに見てる男子はいたけれど、同じ一年同士だと、そこまで強硬手段に出る生徒はいなかった。
あの先輩たちの餌食にならなくてよかった、と千絵は胸をなでおろした。
「それ、お世辞?」
本気で言ってるのに、友菜は容姿が可愛いという自覚がまるでないようだった。
「いや、本気だって。ホント危ないから、ひとりにならない方がいいよ」
「大げさだなぁ」
友菜はそう言って、ふっとほどけるような笑みを見せた。
それからだ。千絵が友菜の面倒を見るようになっていったのは。
(友菜を守らなきゃ)
ずっとそう思っていた。
放っておいたら、理不尽に奪われそうで嫌だった。
それくらい、千絵は友菜のことを好きになっていた。
(私がそばにいて、守らなきゃ)
ずっとそう思っていたのに、友菜は頼りがいのある『別の大人』を見つけたのだ。
見つけて、繋がって、愛しあった。
これ以上ないくらいに、自分を追いつめてしまうほど。
高校三年生のとき、まさか担任の先生が友菜の「理解者」になるなんて、まったく想像できなかった。友菜が――特に父親から、虐待を受けていたことも。
普段の友菜は明るくて、そんな素振りは見せなかった。具体的に何をされていたかは分からない。けれど、制服で見えない部分には殴られたような跡があったと、のちに英樹が教えてくれた。学校で発覚しないよう、口止めもされていただろう。その傷痕をただひとり、「先生」だけが知っていた。いま思えば、友菜は学校で『良い子』を頑張っていた。明るくて、面倒見がよくて、誰に対しても優しくて、それはきっと友菜の『理想』とする姿だった。
学校で明るくふるまうことで、友菜は心の底にある傷を覆い隠していた。容姿に無頓着だったのは、「本当の友菜」が深く傷つけられたからだ。だから、何度まわりのひとに「可愛い」って言われても、心に響かなかったのだろう。
友菜は『理想』を演じることで、学校にいるときだけは「普通」の女の子でいられた。先生はその事実を知って、手を差しのべたのだろう。そして友菜は、その手にすがりつくしかなかったのだ。
友菜は、信頼できる大人が必要だったに違いない。取り巻く過酷な現実を一緒に渡りあえるひとが。その当時は、そんな状況のすべてが許せなかった。でも、そのいっさいは過ぎ去っていったことだ。どれだけ思い返しても、友菜は現実に還らない。だからこそ、この家庭を千絵は守っていたかった。そうじゃなければ、友菜が精一杯生きた証が消えてしまう気がしたから。千絵は、ただそれだけは死守したいと思ったのだ。たとえこの先、どんな困難な日々がやってきても。
「帰りに喫茶店で、みんなでアイスでも食べよっか」
寺院をあとにすると、千絵はそう提案した。
「行く行くー」
莉世が華やいだ声をだす。「いいね」と英樹も賛同した。
夕方に傾く日差しのなか。硬い喪服に身を包んで長時間の法事のために、みんな少しだけ疲れていた。ふと見ると、星那が本堂の方を振りむいたまま止まっていた。遠くを見つめる視線だった。全身に静けさが漂っている。名前を呼ぶことさえ、少しためらってしまうような。無意識に星那の視線を追う。
――と、一羽の美しい青色の蝶がひらひらと虚空に舞っていた。はじめは蝶だと気づかなかった。一片の青い花びらが揺れているかに見えたのだ。夕暮れに染まる空の下、青い蝶が飛ぶ様子はどこか幻想的だった。星那と同様、千絵もいっときその場から動けなくなる。一瞬だけ、すべての時間が止まったかのように。
「お姉ちゃん、行くよー」
莉世が屈託なく、立ちどまる星那に呼びかけた。西日が木々の合間から黄金色の光となって、石畳に反射する。舞い飛んでいた青い蝶は黄昏の光に呑みこまれて、やがて見えなくなっていた。
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