第三話③ 帰省、同じ名前の猫、目が離せなくなる写真。


 先輩にラインを送ったのは、帰省した日の夜だった。

『メッセージありがとうございます。でも、今は誰とも付きあう気はないんです』

 それが、正直な気持ちだった。

 数時間後、返信がきた。

『他に好きなひとがいるの?』

 両目が、その言葉をとらえる。

 好きなひと。

 果たして、柊を「好きなひと」だと言っていいのか分からなかった。私が好きだった柊は、もう過去にしかいないかもしれない。急に彼の心の在り処が分からなくなってしまったから。それは、予想していた以上に苦しいことだった。恋はもっと甘やかで楽しいものだと思っていたのに、私の知っている恋愛は、永遠に癒えることのない深い傷跡のようだった。

(この先もずっと――この想いを抱えたままでいるのかな)

 そう思うと、喉の奥が締めつけられるような気がする。

 それほど重くて、自分ではどうすることもできないもの。

 もし、「いる」と応えたら、誰なのか聞かれるだろうか。いまだに「好き」でいると認めるのが怖かった。柊に惹かれていたときの煌めくような甘苦しさは、もうとっくに消えていた。私の心の半分は喪失の痛みに切り裂かれて、すでに壊死してしまっている。こんな重い気持ちを、「好き」だなんて表せない。柊を思い返すたび、泣きたいような気持ちになる。

「大好き」だった。本当に。とても。

 思い出を過去にできないまま、身動きがとれなくなるほどに。それなのに、「好き」の二文字すら、私は伝えられなかった。

『僕は君が、とても好きだよ』 

 先輩はそう言ってくれた。

 それはとても単純で、分かりやすい好意だった。

 だから、その感情に寄りかかりたくなっていた。ただ、それだけだったのだ。

『忘れられないひとなら、います』

 迷ったすえ、そう応えた。

 その言葉だけが本当だった。どこにも行きつかない想い。

「忘れたい」って、ずっと願っていたはずなのに。先輩を選ばなかったのは、矛盾しているのかもしれない。本当に柊のことを「忘れたい」って思うなら。このまま過去に縛られているのが、よくないことも分かってる。

 それでも――まだ気持ちを切りかえることができなかった。どれだけ生産性がなくても。傷つくだけの想いでも。

 ひとを好きになることは、とても苦しいことだって、そう知ってしまったから。

『教えてくれて、ありがとう』

 そんなメッセージが届いて、なんだか無性に泣きたくなった。

 温かな好意にすがって、過去を全部手放して、楽になれたらよかったのに。

――その傷跡すら、私は大切にしてしまう。

(こんなのって、どうかしてる)

 自嘲気味に、そう思う。

(柊はもう、私のことなんて忘れてるかもしれないのに)

 自分ばかり好きでいて、伝えるすべさえなくしていて、その気持ちを容認することすら怖いと思うなんて。どうかしてる、ともう一度思う。

 しかも私は、いまだに再会を期待しているのだ。

 故郷に帰ってきたせいか、中学生だった自分が風景のなかに溶けていて、何度もよみがえる思い出に息がつまりそうになる。その痛みを感じるときだけ、過去から遠く引き離された「私」ばかりが浮き彫りになる。


 先輩とラインをした翌日、きのうと同じ少年を見かけた。コンビニでアイスを買った帰り、その子も手にビニールの小さな袋を下げていた。

「僕、ひとり?」

 思わず声をかけたのは、その背中が少しだけ頼りなさそうに見えたからだ。その子はハッとすると、「きのうのひと」だと気づいたのか、目のなかの警戒の色をゆるめた。

「おつかい。セナのおやつがなくなったから」

「え?」

 名前を呼ばれてビックリした。思わず少年の手元を見ると、猫の絵柄が載ったパウチがひとつ入っている。『ねこのごはん・おさかなフレーク』

「猫?」

 うん、と少年はうなずいた。

「ぼくの飼ってる猫」

「セナっていう名前なんだ……」

 すごい偶然だ、と思う。少年も私と同じコンビニの袋を下げていた。キャットフードも売られてるのか、となんとなく新鮮な気持ちになる。

「お姉さんも、星那っていうんだよ」

「そうなの?」

 その言葉に、少年もちょっと驚いたようだった。

 名前は、F1レーサーの「アイルトン・セナ」から採ったんだ、と嬉しそうに教えてくれた。

「この辺りに住んでるの?」

「ううん、本当の家は東京のほう」

「本当の家?」

「おばあちゃん家に来てるんだ。セナも一緒に」

 夏休みだからか、と納得する。遊びに来ているのだろう。家族と、飼っている猫も連れて。

「セナは、何色の猫なの?」

「白と黒のハチワレ猫。とってもかわいいよ。でも、前に一度、行方不明になっちゃったんだ」

 そのときを思いだしたのか、少年の顔が暗くなる。

「そうなんだ」

「でもね、猫探しの達人がいて」

「猫探しの達人?」

 予想外の言葉に、ほんの少し吹きだした。

「お母さんがそう言ってた。その人に見つけてもらったんだ」

「よかったね」

 心からそう言った。飼い猫でも、とても大切な家族の一員だろうから。

「うん、よかった。本当に」

 少年は真剣な顔をして、最後にポツリとつぶやいた。

「もう会えないと思ったから」

「会ってみたいな。セナちゃんに」

 同じ名前の猫なんて、なかなか巡り合えないだろう。

「いいよ」

 と少年は即答した。「また会えたとき」

 うん、と知らず微笑んでいた。

「君は、なんていう名前なの?」

 信也、と少年は名乗った。小学四年生だという。

 今度、みんなでお墓参りに行くんだ、と彼は言った。


 帰宅した後、スマートフォンでツイッターを起動すると、通知が表示されていた。

 まさか、と思って息を呑む。そこには、

『悲しき想い出、ですよね』

「ホリー」の空のアイコンとともに、そう言葉が載っていた。

 きのうの質問の答えだ。彼岸花の花言葉。

 返信が来るとは思わなかった。今までみたいに黙殺されるだろうと、そう思っていただけに、自然と動悸が速まった。「ホリー」から返事が来たことが、まだ信じられなかった。

『そうです。よく知っていますね』

 不意に、この人にとっても彼岸花は大切な花なんじゃないかって、そんな憶測が渦巻いた。私がいつまでもこの花を特別視してしまうように。一方で、そんなはずない、と打ち消す。たぶん気まぐれにリプライを送ってみただけなのだろう。だとしても、「目を離せない」と思う写真を撮る人から、こんな風に言葉が返ってくるのは嬉しかった。

(世界に公開されない場所で、もっと話をしてみたい)

 その衝動に動かされるまま、タイムラインを開いていた。今度こそ、返信はないだろう。うるさがられるかもしれない。それでも――

 その日から、私は「ホリー」とふたりだけの会話を交わすようになった。とても他愛のないことを、ダイレクトメッセージを使って。

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