第三話② 帰省、同じ名前の猫、目が離せなくなる写真。


 新幹線から在来線の電車を乗り継いだ先に、私の生まれた場所はある。目的の駅にたどり着く頃には、もう夕方になっていた。空調が効いた車内に閉じ込められていたせいか、外の日差しが肌の上で、やけにぬるく感じられる。三月に故郷を離れて半年。まぶしさに目を細めつつ、十九歳になってもまるで子供みたいだ、なんて自嘲気味に考える。この先、大人になっても変わらない自分がいる気がした。大切なものは見つからないまま。それを手放して忘れることが、「大人になること」だとしたら、切り離せない想いはどこへ向ければいいのだろう。そこまで考えると、もうその先は浮かばなくて、やり場のない気持ちが胸に漂うのにまかせた。

 駅から家へ向かう途中、不意に赤いボールがてんてんと前に転がってきて、思わず拾い上げていた。周りを見ると、十歳くらいの男の子が、じっと私を見つめていた。

「君の?」

 男の子は、「うん」とうなずく。

「ありがとう」

 ひとりで駆けていく後ろ姿が、柊の小さい頃に似ているような気がして、その考えに苦笑する。西から始まった夕焼けは、今や淡い紫になって空いっぱいに広がっていた。


「えっ、荷物それだけ?」

 家の玄関の扉を開けてくれたのは莉世だった。高校も夏休みなのだ。

「だって着替えは家にあるし、持ってくる物もなかったから」

 ポーターの肩掛け鞄は見た目のカジュアルさと、意外にたくさん収納できるところが気に入っている。財布、定期入れ、スマートフォン、キーケース、ポーチ、文庫本。それが中身のすべてだった。

「星那、お帰り」

「ただいま」

 出迎えてくれた千絵を見て、なぜか泣きたくなってしまう。父は仕事――補習や部活の指導があり、夏休み中もいないのだ。この人が家に来てくれて本当に良かった、と思う。

 帰ってきた家のなかは、とても懐かしい匂いがした。幼い頃から知っている――母が生きていた頃から、ずっと変わらない空気。まるで昔に戻ったような感傷的な気持ちになる。

「ホリーっていう人の写真、見た?」

 千絵さんが作ってくれた晩御飯(コーンクリームコロッケにピカタ、カボチャのサラダとビシソワーズ。私の好物ばかりだった)を食べ終えて、すっかりお腹が満たされると、莉世は私にそう聞いた。

「見たよ。どれも綺麗な写真だね」

「あれ、加工されてるのかな」

「どうだろう」

 写真のことはよく分からない――けれど、まるでその場の空気まで写しとったようなのだ。「なくしてしまった大切なもの」を思いだそうとするように。抽象的だけれど、なぜかとても特別な雰囲気。

(たぶん、かなしそうだからだ)

 「ホリー」が撮る写真はすべて、哀愁が漂って見えるのだ。過去に「失われたもの」を、そっと悼んでいるように。

「お姉ちゃんのツイアカ、なんていう名前なの?」

「リコリスだよ」

 タイムライン画面を表示させてみる。リコリス(@lycoris_radiata)

「何かの名前?」

「彼岸花の学名なの」

「もしかして、これも彼岸花?」

 莉世はまるいアイコンを指差す。そう、と私はうなずいた。

「白い彼岸花なんてあるんだ。赤しかないと思ってた」

 母を亡くす前、私もそう思っていた。そんなに多くは咲いていない、めずらしい花なのかもしれない。

「なんで彼岸花にしてるの?」

「うーん、なんとなく……」

 本当は理由があったのに、私はそうごまかした。頭の奥で咲き初める、彼岸花の遠い陰影。その記憶は今も、一番大切な場所にある。

 私の部屋は、以前と同じ状態で残されていた。中学一年生の秋。引っ越しをする直前から、時が止まっているように。教科書や使っていたノート、当時好きだった漫画も、本棚に整然と並んでいる。他にもさまざまな物が処分されずに残っていて、胸が少しだけ苦しくなる。柊とこの先も一緒だと信じていた自分が、微かな残像になって部屋に垣間見えていた。あのときと一体、何が変わったというのだろう。スマートフォンを持ち始めたのは、高校になってからだった。暗い画面を起動させ、ツイッターを開くと、「ホリー」のアイコンをタップする。と、新しい画像が一枚投稿されていて、瞬間、目が離せなくなった。

(彼岸花……)

 夕暮れの空を背景に、彼岸花の群生を近くで切り取った写真だった。開花時期には早いから、去年撮ったものだろうか。驚いたことに、そのなかには一本だけ白い彼岸花があった。唯一、この世界で、無視できないと思うもの。気づいたら右手の指先が、リプライの画面を選んでいた。

『彼岸花の花言葉って知ってますか?』

 どうしてそんなことを、聞いてしまったのだろう。私が今まで見た限り、「ホリー」が誰かのコメントに返信をしたことはない。

『綺麗ですね』『癒されました』『いつも見てます』『映り込んでる影が不思議』『スマホで撮っているんですか?』

 時折寄せられるリプライの言葉は、すべて黙殺されたままだ。「ホリー」は他者との繋がりを欲していないようだった。それを見たとき思ったのだ。この人は、誰かに見せるために写真を撮ってるわけじゃない。これはすべて――自分のために撮られた風景なんだろう、と。

 彼岸花は、柊の誕生日の花だった。十一月十五日。

 同じ質問を、柊に一度したことがある。まだ小学生のときに。

「柊は、彼岸花の花言葉って知ってる?」

 学校の下校途中だった。そう尋ねたのは、ちょうど視線の先に彼岸花が見えたからだ。

 咲き乱れるその赤は、まるで射るような鮮やかさで川岸の緑を染めていた。

「知らないな」

 柊は、そんなこと気にとめたこともないという様子だった。ちょうどクラスで誕生花や、占いが流行ってる時期だった。

「一般的な意味はね、『悲しき想い出』とか『あきらめ』っていうみたい」

 そうなんだ、と柊も自然と川岸の方に目をやった。

「彼岸花自体が、摘むと不吉って言われているくらいだからね」

「ふうん。あんなに綺麗なのに」

 お彼岸の時期に咲くからだろうか。ちょっと近寄りがたくて、ミステリアスにも見える花。

「五瀬川の近くに、彼岸花がたくさん植えられている公園があるの。今度、柊と行ってみたいな」

 そのとき私は、柊と繋がる何もかもが特別なものに見えていた。その欠片を拾い集めて、全部共有したかった。

「中学になっても、よろしくね」

 一緒に過ごす時間を少しでも長く引き伸ばせば、その分この先も隣にいられるような気がしていた。そのときは、柊もまったく同じ気持ちでいることが、私にはちゃんと分かっていた。何も言葉を交わさなくても、ただそばにいるだけで通じ合ってる気がしたのだ。

「うん」

 とつぶやかれた声に、甘いような温かさが胸いっぱいにあふれてきた。

 それだけで、もう充分だった。あのとき私を取り巻いていた優しい世界の中心に、いつも柊がいてくれた。触れられるほど、すぐ近くに。手を伸ばせば届く距離に。

 記憶は凍結されたまま、どんどん彩度を失っていく。このまま想い続けることに、何の意味もないのだとしても。私の時間は、あのときから変わらず、ずっと止まったまま。過去に捕らえられた自分を手放すことができないでいる。

 それが危険なことだって、頭のなかでは分かっていた。

 気づけば私の意識は、いつも過去に向いている。「今の私」は、体だけ成長した抜け殻だ。

(前は、そんなことなかったのに)

 まるで、心の一部を失ってしまったようだった。その空白をずっと、たくさんの本で埋めてきた。でも、それだけでは満たされなくなったのだ。いつのまにか、空洞はどんどん大きくなっていて、そのたびに「私」は希薄になる。

 きっと、莉世もそのことを薄々感づいているのだろう。だから頻繁に「彼氏をつくったほうがいい」なんて口にするのだ。好きな人もいないのに。

 口の端に笑みが漏れる。

(そう、私は先輩を「好き」になることはできなかった)

 本当に「好き」になることが、どういうことか知っていたから。ひりひりするほど痛くて、思い出ばかりがまぶしくて、もう届かないはずなのに、いつまでも追い求めてしまう。

 それが――私が唯一、知ってるはずの恋だった。手放したいほど苦しいのに、いつまでも胸の底にある。そのときの気持ちの温度が、今も私を蝕んでいる。

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