第三話① 帰省、同じ名前の猫、目が離せなくなる写真。


 アナウンスの声が、絶え間なくホームに響いている。滑るようにやってきた新幹線に乗り込むと、窓側に空いている席を見つけて、早速そこに落ち着いた。膝の上に鞄を置く。文庫本を開く代わりに、スマートフォンを取りだした。

 これは、私のなかでは、割とめずらしいことだった(もちろん鞄のなかには、読みかけの本が入っている)。いつも本を持ち歩くのは、高校のときからの習慣だ。時間があるときは何よりもまず、読書をしている。それなのに。

 SNSのアプリを押す。自分のタイムラインから、すでに見慣れたツイッターのアイコン画面をタップした。

 ホリー(@holly_penitence)という人を知ったのは、一カ月くらい前――七月の曇った蒸し暑い夜。莉世からラインのメッセージが届いたときのことだった。

「お姉ちゃん、ツイッターやってる?」

 その吹きだしから始まって、

「この人の写真、すごく良いよ」

「きっと気に入ると思う」

「よかったら、見てみて」

 莉世は、写真を撮るのが趣味だ。

 十六歳の誕生日には、NATURA CLASSICAというフィルムカメラを買ってもらって、淡い色合いの写真――主に風景の――を、色々撮って残している。その関連で見つけたのだろう。気に入ったものができると共有したがるのは、小さい頃から変わらない。ラインに貼られたリンクを押すと、ツイッターに移動した。そこには「ホリー」という人が映した、たくさんの写真が並んでいる。水たまりに映る空。紫色の夕暮れと花の暗いシルエット。流星みたいな飛行機雲。揺れる川面の波紋と落ち葉。いつのまにか――吸い寄せられるように、その画像を眺めていた。コメントは何も入れていない。写真には何かの影が薄く映り込んでいて、見てると頭がぼうっとした。ただ綺麗なだけじゃない、不思議な雰囲気があるのだ。

(加工してあるのかな……)

 最初はそう思ったけれど、それだけではなさそうだった。フォローしている人はいない。それなのにフォロワー数は、すでに千人を越えていた。新しく投稿された写真――夕闇にまぎれる住宅街と、背景に淡く広がる空――に、♡マークの「いいね」を押す。ついで、高速で流れていく窓の外に目をやった。車窓の風景を眺めていると、気持ちも少しずつ凪いでいく。車内は冷房が効いていて、表の溶けそうな日差しからも一時的に守られていた。七月末に全部の定期試験を終えてしまうと、事前の約束通り、私は帰ることにした。

(夏休みに入ったら、ちゃんと帰省するように)

 千絵さんが言う言葉には、いつもなんとなく逆らえない。かなわないと思うのだ。優しさの奥に毅然とした強さを感じるからかもしれない。初めての一人暮らしの寄る辺なさを味わうと、帰る場所があるのは有難いと痛感する。地元に着くまで四時間半。時間だけはたっぷりとある。スマートフォンの表示を消すと、ようやく読みかけの本に私はとりかかることにした。

 『徒然』の読書会は月に数回開かれていて、真宮先輩に誘われるまま、参加してしまう自分がいた。最初は、「亜優に言われて仕方なく」付き合うつもりだったのに。読書会を通じて、古典に触れることが多くなったのは事実だった。『伊勢物語』に始まって、『堤中納言物語』、『落窪物語』、『とりかへばや物語』……


「当時は死後、初めて契りを結んだ相手に会えると思われていたんだよ」

 『とりかへばや物語』を扱ったときに、真宮先輩はそう言った。

 気づけばふたりで、本部棟のゼミ室から地下鉄までの道のりを一緒に帰るようになった。その日、扱った物語の感想を言い合うようになったのだ。

「逢瀬、という言葉があるだろう? あれは、三途の川で逢うことを意味しているのかもしれないね」

 会話を重ねていくうちに、彼の言葉が心の底に触れることが多くなった。普段は意識していないさみしさを刺激されるのかもしれない。それは温かな共感になって、ある種の心地よい連帯を生みだすようになっていた。

「物語のなかで、宰相の君が四の君に後朝の歌を送るだろう?

わがために、えに深ければ三瀬川、のちの逢瀬も誰かたづねん。あれは、三途の川を渡るとき、あなたを背負うのは私ですって主張しているんだよ」

「三途の川のことを、三瀬川っていうんですね」

 反射的に、故郷の川の名前に似ていると思った。母が流されて亡くなった川。死後に繋がっていく『逢瀬』。

「そう。平安時代には、三途の川で、最初の相手に背負われて渡るという俗信があるんだ。『源氏物語』にも、それを踏まえた歌があるよ」

 真宮先輩の住んでる場所は、私のアパートから一駅分の距離だった。話が佳境に入ると、もっと小説について話したい欲求が湧きあがった。そのたびに、先輩が女性だったらよかったのにって仕方のないことを考えてしまう。そしたら何の気兼ねもなく、家に遊びに行けたのに。

 日が暗く沈む頃、一人暮らしの異性の家を訪ねるということは、サークルの先輩後輩という関係を大きく変えそうで怖かった。一方で、自分のなかの一か所――柊への想いさえ「なかったこと」にしてしまえば、それはいとも簡単に踏み破られると知っていた。だからこそ、私は恐れたのだ。きっと私は彼のなかに、柊の面影を見てしまう。柊に触れられるように、感じたいと思ってしまう。先輩はそれを見抜くだろう。とても賢い人だから、何かを察知しながらも知らないふりをするだろう。「そうやって関係を結ぶ男女もいる」という寛容さで、私は受け容れられるだろう。

「じゃあ、また読書会で」

 いつもの挨拶を交わす瞬間、何度その背中をひきとめたいと思ったか知れない。一緒にご飯を食べて、小説の話をして、目の前の現実だけをずっと見ていられたら、未だに熱を持つ想いも忘れられるかもしれないって。

 隣を歩いている途中、何度か手が触れ合った。もし手を握られたら、拒めないと知っていた。それくらいギリギリの均衡を、私自身は保っていた。夕闇に呑まれる空の下、夜へと続いていく時間を一緒に共有できたら、とても素敵だっただろう。でも、その一歩はずっと踏みだせないまま――夏季休暇が始まる前、一通のメッセージが届いた。

『僕は君が、とても好きだよ』

 前期の定期試験が終わった日の午後だった。

 講義棟のなかで、その言葉を見つめながら、しばらくの間その場から動くことができなかった。そのまま夏季休暇に入れたのは幸いだった。私は未だに何の返信もできないままでいる。『ありがとうございます』その一言だけでも送った方がいいって、頭のなかでは分かってたのに。


 物思いに沈んでいると、時間はあっという間に過ぎる。告白されたことを莉世に話したら、きっと狂喜するだろう。そんな様子が目に浮かぶ。

 私は――亜優にさえ、このことを話していなかった。何の整理もついてないのだ。先輩と後輩という関係性が心地よくて、その先に進んでしまったら、私は私でいられない。「柊を好きな自分」は、それほど深く根差していて、簡単に取り除けないことを嫌というほど思い知った。忘れた方がいいって理性では分かっていても、もうどうしようもないのだ。先輩に告白されたことは、誰にも言わないつもりでいた。風景は次々と変わっていく。本を膝に置いたまま、とりとめのないことをひとりで考えているうちに、いつのまにか眠っていた。

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