第二話② 追憶、幼かったふたり、今でも信じられないこと。
最初のアルバイトの日。
「あっ、千絵ちゃんホントにいるー」
十四時から待機していると、まずそう言って家に入ってきたのは星那だった。
「星那? 柊くんは?」
千絵が慌てて腰をあげると、星那の後ろからもうひとり、男の子が入ってくる。この子が柊くんか、と千絵は胸をなで下ろした。
「なんで一緒に帰ってくるの」
「だってお母さんが、千絵ちゃんが来るって言ってたから……」
ランドセルを置いて、そのままこちらに来たのだろう。千絵も星那に会えるのは嬉しい。でも、これはれっきとした「アルバイト」で、初日から失敗できないと千絵は気を引きしめた。背後に控えていた、柊の前に屈みこむ。
「お父さんから聞いてるかな? 今日から家のお手伝いをすることになった
千絵が視線を合わせると、柊はペコッとお辞儀をした。ずいぶんおとなしい男の子だ。
人見知りしているのかもしれない。星那が来てくれたのが、少し有難くもあった。ふたりきりだと、どう接していいか最初は分からなかっただろう。
「千絵ちゃんって、呼んでいいよ」
星那が隣でそう言うと、柊はそれにもうなずいた。
入学して間もないのに、もう宿題があるという。星那は持っていた手提げから、ファイルと筆箱を取りだした。平仮名を「あ」から順番に書きとっていくプリントだ。
「さくらは しゅう」という名前を、柊は六歳にしては、とても上手に書いていた。
「なっていう字が難しい」
プリントを広げて、星那は自分の「な」の字が気に入らなかったのか、ごしごし消しゴムでこすっている。
千絵はおやつを出してあげた。チョコレート・チップの入ったクッキー。柊にアレルギーはないという話だから助かる。「莉世は卵アレルギーがある」と、前に友菜が言っていた。
「牛乳でいい?」
台所から呼びかける。冷蔵庫の中身は好きに使っていいと言われている。
「いいよー」
明るく答えたのは星那だ。
「柊くんは?」
「柊もそれでいいってー」
ふたりが宿題をしている間に、夕飯の下ごしらえをした。洗濯物もそろそろ畳まないといけないだろう。星那がいてくれるから、柊を放っておけるので助かる。妹がいるからだろうか。星那は四月生まれらしい「お姉さん風」を吹かせていた。柊は内向的だけど、星那を受け容れていることが、その様子から伝わってくる。弟ができたつもりでいるみたいで微笑ましい。
一階の奥の座敷には真新しそうな祭壇があって、線香をあげた跡があった。柊の母親は遺影のなかで、優しい笑みを湛えている。肺ガン、と聞かされていた。入退院を何度も繰り返しながら闘病を続け、三月の終わりに亡くなったのだ。
柊を残していくのはさぞかし無念だっただろうと、千絵は胸が痛くなった。本当なら、ここで宿題を見てあげたり、おやつを出してあげたり、洗濯物を畳んだり、晩御飯をつくるのは、この人の役目だったはずだ。柊も「お母さん」になら、初めての学校生活について、あれこれ話をしただろう。柊はまだ、母親を亡くしたばかりの子供なのだ。あの小さな体に、一体どれだけのさみしさを抱え持っているのだろう。だから、星那も柊を気にかけているのかもしれない。「お葬式で会って、仲良くなった」と言っていた。
柊は、吐露できない感情を、まるで星那とだけは分けあっているかのようだった。それは、死別のかなしみが奥底に漂っているだけに、より優しくて繊細な関わり方のように思えた。
宿題が終わる頃、着信があって、それは友菜からのものだった。友菜は、星那が柊の家に行ったと知らなかったらしい。
「玄関先にランドセルだけ置いてあるから、まさかと思って。星那、邪魔しちゃったでしょう?」
「ううん、ずいぶん助かってる」
宿題をやり終えたふたりは、居間でテレビを眺めている。星那がいて助かったのは事実だ。
「せっかくだから、こっちで夕飯まで済ませていったら?」
千絵はそう提案した。父親の帰宅は二十時だから、星那がいてもいいだろう。その方が柊も、ご飯を食べてくれる気がしたのだ。
「星那、ちゃんとお母さんに言ってから来なきゃだめでしょう?」
電話が終わってから千絵がたしなめると、星那はふくれっ面をした。
「だって、言ったら絶対、反対されると思ったから」
怒られると思ったのだろう。星那がしょんぼりしていると、
「星那がいてくれて嬉しいよ」
隣で、柊がそう言った。
その声は、思いのほか明瞭で高く澄んでいた。もっともじもじとしか話せないと思った千絵は、声の響きに柊の利発さを感じとっていた。この子はおとなしそうに見えて、やはり聡明な男の子なんだと。
星那が地元から離れた大学を受けると知ったとき、柊のことはもう忘れたのだと思っていた。引っ越しして五年も経てば、人が変わるのも当然だ。
(七回忌か……)
一方、未だに友菜の死が信じられない気持ちでいる。こんな風に、自分が「蓮見先生」の妻になってしまったことも。あの幼かった姉妹の継母になっていることも。
『全部、僕のせいなんだ』
六年前。
英樹は憔悴しきったまま、友菜の死に打ちのめされていた。千絵は、今にも崩れ落ちそうなかなしみを前に、どうしても英樹のもとから立ち去ることができなかった。
『結婚してほしい』
苦し気にそう告げられたときも。
自分の耳を疑いつつ、それは一番自然な物事の帰結のようだった。英樹は自分を責め続けて、その深い悔悟に呑まれてしまいそうだった。ひとりで抱え続けるのは、もう限界だったのだ。千絵は結局、同じ感情に突き動かされていた。友菜が妊娠して、産後鬱になったときと。
三回忌を終えた後、プロポーズを受けたのは、友菜もどこかでそれを望んでいる気がしたからだ。それに継母になれば、星那たち姉妹をずっと、近くで気にかけることもできる。
もし、友菜の死に英樹の過失が少しでも含まれているのなら、それを一緒に背負いたかった。そう思ったときには、目の前の人を愛そうと、すでにもう決めていた。
高校の頃、「先生を許せない」と思ったことが、遠い昔のようだった。真逆の感情のはずなのに同じくらい強い気持ちで、千絵はこの悲劇に終止符を打ちたいと思ったのだ。
「お姉ちゃんはね、まだ柊くんのことが好きだと思う」
夕食を食べ終えた後、莉世がポツリとそう言った。
教師という仕事は存外忙しいのか、相変わらず英樹の帰宅時間は遅い。テレビから、バラエティー番組の騒々しい音がする。
「そうなの?」
食後のお茶を出しながら、一方でそれはあり得ると思った。そして同時にやりきれなくなる。柊の心はもう、星那のもとに留まっていない。
(僕の連絡先を、星那には教えないでほしい)
あれはどう考えても、星那を拒絶する言葉だった。
しかしだからといって、どうすることができるだろう。
「小さい頃の話でしょう?」
千絵はそう一蹴した。そんなことは過去の話で、取るに足らないというように。
「それに今頃誰か、気になる人いるかもよ?」
星那は大学生なのだ。そして柊も。『小さい頃、好きだった人』は、いずれ淡い思い出に変わっていくのが普通だろう。たとえそれが一時の、とても美しい初恋でも。
「お姉ちゃん、頑固だからなぁ。それに真面目すぎるし」
莉世はお姉ちゃんっ子だ。いつも、遠く離れた姉のことを口にする。
(私たちはみんな、違う喪失のなかにいる)
互いの優しさを分け合いながら、これからも暮らしていくのだろう。
(――でも)
愁いの『真実』を、気取られるわけにはいかなかった。
千絵がずっと――何よりも、信じられないと思うもの。
「たくさん、ごちそう作らなきゃね」
いつのまにか、とても「母親らしく」振る舞っている自分に気づく。友菜の代わりにはなれなくても、そうすることで何かを補おうとするように。
暗い窓の向こう側では、細かな雨が降っていた。雨音を聞くといつも、省察的な気持ちになる。戻れない過去にいる友菜の本心を探してばかりいる。
「あ、お父さん帰ってきたよ」
莉世が短くそう告げる。
ただいま、と玄関先から声が聞こえたときには、千絵はもう普段の明るい笑顔に戻っていた。
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