第二話① 追憶、幼かったふたり、今でも信じられないこと。


「お姉ちゃん、来週帰ってくるって」

 莉世にそう言われたとき、台所で夕飯――豚肉の生姜焼きと、ナスの煮浸しとポテトサラダ――の支度を整えながら、千絵は少しホッとした。星那が通う大学から、ここまで四時間近くかかる。新幹線を使っても半日になる道のりだ。地元の大学にすれば、ここからだって通えたのに、星那はそうしなかった。一度決めたことはなかなか翻さないのだ。そういう頑ななところは、友菜に似ているのかもしれない。

 莉世によると星那は、『読書会サークル』に入ったそうだ。その選択を千絵は、いかにも星那らしいと思う。新しい出会いもあるだろう。星那はもう十九歳だ。生まれたての小さな赤ちゃんだった星那がもうすぐ成人するのかと思うと千絵は感慨深くなり、その成長を友菜も見られたら良かったのに、と思う。冷蔵庫をチェックして星那の好物を買ってこようと、ともすれば感傷に陥りそうな頭のなかを切り替えた。

 以前、オムライスとかハンバーグとか、そういう子供向けのメニューを作っていたことを思いだす。柊は大人びた子供だった。千絵の目から見ても、柊と星那はお互いに自然な好意を抱いていた――小学一年生のときから。千絵は考えて首を振る。それも幼い頃の話だ。

 千絵は、星那と莉世が守られて幸福でいることは、自分の責務だと思っていた。大切でかけがえのない、友菜が残した子供たち。

『星那のことは、もういいの?』

 一度だけ千絵は、メールで柊に問いかけた。

 あれはいつのことだっただろう。東京の大学に決まったという連絡を柊からもらったときかもしれない。おめでとう、というメッセージをひと通り送った後、何げなくそう聞いたのだ。

『うん』

 返信は短かった。

 そして、こう続いていた。

『僕の連絡先を、星那には教えないでほしい』

 会いたくない理由があるのだろうと千絵は思い、それ以上は聞かなかった。柊も、もう子供じゃない。今頃、東京で大学生活をきっと楽しんでいるはずだ。それならそれで構わない。

 法事が近いせいか、この頃、千絵は昔のことを頻繁に思いだしてしまう。


「赤ちゃんがいるの」

 高三の夏。

 友菜に打ち明けられたとき、千絵は「信じられない」と思った。その事実にではなく、友菜が少しのためらいもなく産もうと決意していることに。しかも相手はよりによって、担任の数学教師だった。

「先生は知ってるの?」

 友菜はうなずいて、「高校を卒業したら、結婚するつもりだ」と言った。

 進学校で有名な、保守的な学校だった。世間は当然、『生徒が妊娠した』という事実を放っておかなかったし、ずいぶん問題視され、ありとあらゆる非難の対象になった。時には友菜に対して、聞き間違いではと思うほど野卑な雑言があった。もともと評判の良い先生が相手だったことも、事態を悪化させていた。友菜はその容姿から告白されることも多く、それが押しなべて周囲の反感を買ったのだろう。そのうち、友菜が蓮見先生を「誘って」妊娠に至ったのだと、根も葉もない噂が立った。そうでなければ、あの真面目で優秀な先生が、生徒に手を出すはずがない、と。

 懲戒処分として数カ月の停職が決まったことで、世間はどちらかというと先生に同情的になった。ふたりが結婚を前提にしているという事実から、かろうじて免職はまぬがれたものの、あと少しで教員免許を失効するところだったのだ。友菜の家には嫌がらせの電話がかかるようになり、イジメやストーカー被害も起きた。お腹の膨らみが目立つ前に、友菜は高校を中退した。友菜の両親は出産に強く反対していて、そのことで関係に亀裂が生じ、もう修復できなかった。友菜は少しずつ逃げ場を失い、ゆっくりと確実に病んでいった。

 当時、千絵は友菜を取り巻く何もかもが許せなかった。妊娠させた先生も、正論をふりかざして叩きのめそうとする世間も、同情や失望を織り交ぜて面白がるクラスメイトも。

 陣痛が起きてから八時間後、満天の星が輝く夜に、友菜は無事に出産した。生まれたばかりの赤ん坊に、星那、と名付けたのは友菜だ。那由多に拡がるこの世界の、輝く星みたいだから、と。

 千絵は東京の大学に行くことが決まっていたけれど、しばらく二人の新居――先生がいたアパートで過ごした。首も座らない赤子の世話は、想像をはるかに超えて大変なものだった。友菜は、産後一カ月は安静に過ごさなければいけない。千絵は家事もままならない初めての育児を目の当たりにし、その過酷さにおののいた。両親に勘当された友菜は、誰にも頼れない状態だった。しかも、新しい赴任先に就いたばかりの先生は、業務が忙しいのか連日、深夜まで帰ってこなかった。

(このまま放っておいたら、友菜も赤ちゃんも死んでしまう)

 誇張ではなく、そう思った。友菜は産後鬱になりかけている状態で、とても日中ひとりで育児ができるとは思えなかった。あとで聞いた話によると――友菜は自分を責めていたのだ。合意の上だったとはいえ、予期せぬ妊娠によって誰よりも大切な人を貶めてしまったという事実にいわれない責任を感じていた。その無力感が、妊娠中からずっと友菜を追いつめてしまったのだ。

 気づいたら、すでに千絵にとっては「先生」ではなくなった英樹と、友菜と交代で世話をしていた。千絵が柊に会ったのは、それから五年後のことだった。


 四月の初め。

「家事手伝いのバイトしない?」

 友菜にそう聞かれたとき、千絵は本当に引き受けることになるとは思わなかった。

「家事手伝い?」

「お葬式のお手伝いに行ったとき、桜羽さんに聞かれたの。誰か良さそうな人がいれば、紹介してほしいって」

 星那の七歳の誕生日と入学のお祝いに、久しぶりに蓮見家を訪れたときのことだった。

すっかり『お母さん』が板についた友菜は、吐息交じりにつぶやいた。

「すごく近所だから、私が行けたらいいんだけど。莉世がまだ小さいし」

 妹の莉世は、三歳だった。千絵といえば、高校を卒業してから友菜のサポートに忙しく、二十四にしてやっと四回生にたどりついたところだった。三回生の終わりから就職活動を始め、大手の保険会社からすでに内定をもらっていた。

「もちろん無理にとは言わないけど、柊くんのことが心配で」

「柊くん?」

「星那の同級生なの。今は、お父さんが帰宅するまで家でひとりで過ごしてる。学童保育は十八時までだし、申請する暇もなかったとかで……。民間で預かってもらうよりかは、シッターさんを雇いたいみたい」

 就職活動が終わって、落ちついている時期だった。

 少しでも役に立てるなら。千絵はそんな気持ちで、最終的に柊の家を訪ねることになったのだ。


「最初は慣れないだろうから、できる範囲でやれることをしてもらえれば大丈夫。正直、柊と一緒にいてくれるだけで助かるよ」

 よほど心配していたのだろう。対面した日、柊の父親は目を和ませてそう言った。

大体、帰宅するのは二十時頃になるという。

「それまでいてもらえたら嬉しいけど、どうかな」

 千絵はもちろん了承した。まだ六歳の男の子をひとりにさせるわけにはいかない。

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