第一話③ 桜、初めての読書会、再生される面影のなか。


「でも三年も待ったのに、この男つれなさすぎじゃない?」

 水曜日の読書会。

 そう発言したのは、文学部の苅谷かりやという先輩だった。黒縁の眼鏡に三角形のピアスを両耳につけている。他にも亜優と私を併せて、六人のメンバーが集まっていた。

 話題になっているのは、『伊勢物語』の二十四段目。都へ宮仕えに行った男を待ち続けた女が、三年目にして他の男と枕を交わすことになった。よりによってその夜に、ずっと待っていた男が帰ってくるという筋書きだ。タイミングの絶妙さがいかにも物語的だった。しかし当時、夫が他国に行って戻らない場合は三年後に離婚が認められたらしく、その制度を考慮すると必然にも思えてくる。

「別れた日をふたりとも、覚えてたってことだよね」

 先輩のひとりが言ったとき、不思議と胸が締めつけられた。

 離れていても想いあっていたふたり。でも戻ってきた男は女の事情を知ると、「その男と幸せに暮らしなさい」と言って、あっさり立ち去ってしまうのだ。やっと会えたのに物足りないと感じるほどの潔さで。男を待っていた女の歌が、ホワイトボードに書き写された。


あづさ弓引けど引かねどむかしより 心は君に寄りにしものを

(あなたのお気持ちはどうであっても、ずっと私の心はあなたに寄り添っていましたのに)


 男が去るのが耐えがたくて女は追いかけるが、もう見つけることはできない。

 そしてとうとう、清水の湧き出るところで女は死んでしまうのだ。


あひ思はで離れぬる人をとどめかね わが身は今ぞ消え果てぬめる

(私はこれほど思っているのに、同じように思ってくれないで離れてしまったあの人を引きとめることができなくて、私の身は今ここで消え果ててしまうようです)


 と、言い残して。


「初めての読書会はどうだった?」

 解散し、亜優と別れて階段を下りていたところ、そう声をかけられた。真宮先輩だ。

気づけば二時間が経過していた。後半は各々好きな小説を紹介したり、履修した方がいい科目を教えてもらったり、講義に特徴のある教授の話なんかで終わった。つまりほとんど雑談だ。

 私は緊張したのもあって、あまり発言しなかった。それでも、持ち込まれた差し入れのジュースとお菓子をつまみながら古典の読解をするのは、なかなか悪くない時間だった。特に、自分の想像が及ばないような部分まで解釈を深められるのが良かった。

「面白かったです、とても」

 だからそれは社交辞令ではなく、私の本当の気持ちだった。

 先輩たちが交わす、いくつかの台詞が胸に刺さった。どんな発言にも、自分の想いを重ねてしまう。そうやっていくつもの共感を得てきた物語なのだろう。

「楽しめたのなら良かったよ」

 彼はそう言って微笑んだ。

「何が印象に残ってる?」

「苅谷先輩が言うように、二十四段の男の人はそっけなさすぎる気がしました」

「そういう感想は多いだろうね」

 彼は私の言葉を継ぐ。

「虚栄だとも捉えられる。でも、僕はその男は本当に彼女の幸せを祈っていたんじゃないかな、と思うよ。ふたりはとても長い間、お互いを慈しんでいたんだ。相手の気持ちが分かるほどに。だからこそ男は、彼女の幸せを心から願っていたし、女はそんな彼だから、どこまでも追っていったんだろう」

 それは私にもよく分かる、馴染みのある気持ちだった。

「でも彼は結局、彼女が死んでしまったことも気づかないままなんですよね……」

「その先は書かれていないからね。追いつけなかったのなら、知らないままなんだろう。そういう心のすれ違いは仕方ないのかもしれないけど、悲劇的ではあるよね」

 たとえ消え果ててしまっても伝えたかった想いの強さに、私は一瞬魅せられた。それだけの気持ちを抱えるのは、さぞかし苦しかっただろう。だからこそ女の人は、一度忘れようとしたのだ。でも想いは薄れずに、地の果てまででも彼を追いかけていきたかっただろう。

 今では私も、二十四段で詠まれた歌を覚えていた。

 あづさ弓引けど引かねどむかしより 心は君に寄りにしものを

「結局、一途すぎるのも身を破滅させるよって作者は言いたかったのかな。離婚が決まる夜に戻ってきた男にも、それなりの未練はあったと思う。でも彼女のことを思って、手放そうとしたんだろうね」

 その考えは『女』の立場からすると、やはりつれないように思える。抱える気持ちは同じなのに――

 本部棟の外に出ると、辺りは夕焼けに染まっていた。金色に縁どられた雲に、太陽がゆっくりと沈んでいく。筋状の雲は風に吹かれて、どんどん形を変えていた。桜はすっかり散っている。樹木の暗いシルエットが幾何学的な影となって、群青の空に映えている。

 人の顔が見えなくなる、黄昏時は苦手だった。ときどきどうしようもなく、不安な気持ちになってしまう。母が突然、家からいなくなったのも夕方だった。用事があると出て行ったきり、母は戻らなかったのだ。父は不在で、家には私たち姉妹が残された。

 あの夕間暮れから、まるで心の一部を失ってしまったようだと思う。そしてそのなかには、柊との思い出も含まれていた。

「ご飯でも食べる?」

 という誘いを、私はやんわり断った。バイトのない日だったから、本当は行っても良かったのに。こんなさみしい夕暮れに、ひとりでいたくなかったのに。でも、その感傷はいつも柊に向けられていて、まだ他の誰かと分かち合うわけにいかなかった。そんなことをすれば、自分を見失ったまま、偽りで接することになる。

(きっと、真宮先輩と親しくなるのは簡単だろう)

 そういう新しい関係でしか、癒せないものもあるのだろう。そう感じる一方で、柊への想いを隠したまま、誰かに自分自身を明け渡すわけにはいかなかった。

「じゃあ、また読書会で」

 彼は私に手を振ると、地下鉄へ続く階段の先へと吸いこまれていく。私は歩いていくことにした。本当はこの時間帯に、ひとりで家にいたくない。だからこそ夕方に、アルバイトを入れたのだ。そしたら慌ただしく苦手な時間は過ぎていって、夜になって眠れたから。

――お姉ちゃんも過去をひきずってないで、誰かと付き合ってみるべきだよ。

 莉世に何度言われただろう。

 夕闇に呑まれた街路地は、車の往来が激しくなる。行き来する車のヘッドライトと、チェーン店やコンビニに灯った明かりばかりがまぶしい。柊と繋がれないのなら、永遠にひとりでいたいと思う、その気持ちに偽りはない。半分以上は虚勢だった。そう信じていれば、いつか会える気がするから。どれだけ確率が低くても、そう望んでいたかった。

 柊は私よりもずっと早く、実の母親を亡くしていた。

 初めて会った日のことを、今もよく覚えている。家が近所だったため、母は葬儀の手伝いに急遽行くことになったのだ。日曜日だった。父は家にいて、莉世と一緒に留守番をしていても良かったけど、「同い年の子のお母さんが、病気で亡くなった」と聞いて、じっとしていられなくなったのだ。私は『死』というものを、まだよく知らなかった。だから純粋な好奇心もそこには含まれていたと思う。

 黒いワンピースに着替えて、私は母についていった。初めてのお葬式だった。みんな黒い服を着ていて、手には数珠を持っていた。

 私は、をすぐに見つけた。

 黒いブレザーに黒いズボンに黒い靴下を身につけて、口を真一文字に引き結んでいるそのさまは、なんだか怒ってるみたいだった。でも、今なら分かる。柊は泣けなかったのだ。

 大勢の人を前に、自分自身のかなしみを持て余したまま佇んでいた。その様子は大人からすると、健気に強がって見えたのだろう。柊を取り囲む人々の方が泣いてることが多かった。

「柊くん、かわいそうにねぇ」

「まだこんなに小さいのに」

 そんな言葉が漏れ聞こえた。その子は、たくさんの同情を前に困惑しているみたいだった。焼香が順に始まると、私も母親の動きを隣で見ながら手を合わせた。その子は祭壇の近くの席で、父親の隣に座っていた。私が頭を下げると、その子も軽く頭を下げた。はりつめた眼差しだった。

 法師の読経が終わり、人々が退出し始めると、母に短く「トイレ」と言って席を立った。『その子』と対面したのは、誰もいない廊下だった。

「しゅうっていうの?」

 私は、とっさにそう言った。

 何て声をかければいいのか全然分からなかったけど、大人たちがそう呼んだことを覚えていたから。

「うん」

 と彼はうなずいた。

 その目がわずかに開かれる。いきなり名前を言われて、少し戸惑っているように。

「私は、せな」

 私は言った。まず、ちゃんと自己紹介するのが礼儀だと思ったから。

「春から一緒に同じ小学校に行くんだって。お母さんがそう言ってた」

 近所に同い年の男の子がいることは、前から聞いて知っていた。柊は目をパチパチさせて、「そうなんだ」と口元でつぶやく。

「うん。だから、よろしくね」

 私がにっこりしてみせると、柊は一瞬だけ、泣きだしそうな顔をした。

 その表情の変化だけで、今までずっと我慢していたのが伝わって、同時に私も泣きたくなった。でも、大人たちみたいに「かわいそう」とは言いたくなかった。代わりに「大丈夫」と私は言ってあげたかった。まだ知り合って間もない、同い年の男の子に。

 柊は学校では、ひとりで本を読んでいて、その様子はどことなく沈んでいるようだった。

(柊は本当にとても、お母さんが好きだったんだ)

 その気持ちを想像するたび胸が締めつけられて、放っておくことができなかった。その時期の柊の面倒を見ていたのが千絵だった。覚えているのは、千絵が「家事手伝い」として、柊の家に行っていたこと。留年してまだ大学生だった千絵は、母に紹介されて、その仕事を引き受けた。

(千絵さんはまったく、人を世話するのに向いている)

 住宅街には明かりが灯り、辺りは次第にやってくる夜に包まれ始めている。私はひとり歩きながら、飽くことなく再生される幼い頃の思い出と、追憶に浸り続けていた。

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