第一話② 桜、初めての読書会、再生される面影のなか。


「新入生? ようこそ『徒然』へ」

 ドアをノックして開けると、にこやかにそう迎えられた。背が高くすらっとした容姿の男子学生だった。もしかしてこの人が、と思う間もなく、

「初めまして。代表をしている真宮りょうです」

 と、フルネームでその人は名乗った。

「あいにく、今日は僕ひとりなんだ」

 部屋のなかは閑散としている。

 端の本棚には分厚い本がいくつも並べられていた。机が中央に寄せられていて、南に面した窓際には、デスクトップ式のパソコンが一台置かれている。ブラインドの隙間から、別棟の図書館が見えていた。

「初めまして、蓮見はすみ星那です」

 そう挨拶すると、

「星那? めずらしい名前だね」

 彼はそう言って微笑んだ。その様子には、どこか人を寛がせる柔和さがあるようだった。口元から笑みが消えないせいかもしれない。それは新入生を歓迎するポーズではなく、彼の地なのかもしれなかった。

「ここって、もしかしてゼミ室ですか?」

 入り口に文学部の教授の名前が記されていた。

 原喜朗、と言えば星那も履修している古典文学の先生だ。

 そうだよ、と彼は答える。

「もともと原ゼミのメンバーがつくったのが『徒然』なんだ。最初は卒論の精度を高めるためものだったけど、次第に読書会サークルに形を変えていったんだよ。全部、去年からいた先輩に聞いた話だけどね」

 一回生だとゼミに所属しなくていいから、あまり知られていないかな、と彼は言葉を付け足した。なるほど、そういう理由で古典を主にしてるのか、と納得した。背後に教授が控えているなら知見も広がるし、論考を重ねることもできる。

「古典をみんなで読むんですか?」

 その問いかけに、彼は短くうなずいた。

「一応ね。次は『伊勢物語』になる予定だよ。蓮見さんは読んだことある?」

「いえ……」

 思わず口ごもる。高校の授業で「かきつばた」を折句として詠んだ「東下り」の段を習った記憶がうっすらとあるが、それだけで読んだとは言えないだろう。

「参加するなら読んだ方が楽しめると思うけど、読まなくても大丈夫だよ。こうするって、決まりはないんだ。古典を敷居の高いものではなくて、気軽に扱えたらいいなと思っているんだよ」

(古典を気軽に……)

 それは、今までにない発想だった。高校では、古語や特殊な文法を覚えるだけで精一杯だったのだ。か行変格活用とか上一段活用とか。それだけですでに「古典は難しいもの」という偏見があるのは確かだった。読書会ではゼミ室を使うのが大半だけど、喫茶店やカフェで開かれることもあるらしい。

「次は来週の水曜だね。『伊勢物語』の好きな段を紹介しあう予定だよ。初めてのメンバーが多いから、この場所にしようと思ってる」

 気がむいたら参加してくれると嬉しいな。彼はそう締めくくった。


 早速図書室に行って、現代語訳付きの『伊勢物語』を一冊借りた。「昔、男ありけり」で始まる有名な歌物語。さまざまな状況を描いた恋愛の短編小説だ。幼馴染みの恋もそのなかには描かれている。

 「筒井筒」と呼ばれる二十三段目。子供の頃一緒に遊んでいた男女が、最後に歌を交わしあう。物語のなかで初恋を成就させたふたりが、なんだかとてもまぶしかった。


 「モンターニュ」という名前の喫茶店でアルバイトをすることは、入学前から決まっていた。高校のとき、父と莉世と三人でこの近所に住んでいて、そのときからの常連だった。喫茶店というよりも、創作レストランと言った方が近いかもしれない。食べ物はスパゲッティがメインで、種類がとても多かった。何より驚いたのは通常メニューと別に、甘いパスタがあることだ。抹茶とか生クリームや餡子を使ったスパゲッティ。甘口の人には好評で、見た目のインパクトもさることながら何と言っても量が多い。食べきれないと思うほど。「モンターニュ」は山盛りのパスタと一風変わった料理を出すことで有名な、学生が多いこの地域に古くからあるお店だった。えんじ色で革張りのソファーが並ぶ、ゆったりくつろげる雰囲気が高校の頃から好きだった。

 こっちの大学を受けるという話をしたときは、マスターにも驚かれた。任期が終わるのと同時に郷里に戻るつもりだと、父親が話したからだろう。そのため、私も当然一緒だと思われていたのだ。地元に戻りたい気持ちもあったが、この付近の大学のオープンキャンパスに行ったことが、私の背中を後押しした。

(戻ったら柊に会えるかもしれない)

 その期待もずっと、胸のなかに兆していた。でも結局、ひとりで残ることを選んだ。柊に会いたいと思う一方、拒絶されるのが怖かった。逡巡しているうちに時間だけが過ぎていき、私は目の前の現実だけを見据えることにした。地元に戻ったら、通える範囲の大学しか選べなくなる懸念もあった。家族の干渉から離れたい気持ちもあり、その頃にはすでに志望大学を絞っていた。

「星那ちゃんが今月から入ってくれて助かったよ」

 ホールスタッフの子が抜けて人が足りなかったのもあって、私はすぐに採用された。

 夜遅くなることをマスターは心配してくれて、八時であがってもいいんだよ、と言ってくれる。時給はおまけしとくから、と。でも、そんなわけにもいかない。

 私にとっては、ここで晩御飯を食べられるのがありがたかった。アルバイトにはまかないがあって、数時間しか働かないのに好きなパスタを出してくれる。毎日の食事作りが面倒なものだということは、一週間もしないうちにすでに身に沁みていた。外食したり、コンビニで買ったりすれば楽だけど、どうしても食費がかさんでしまう。今のところ、朝はシリアルにして、お昼は学食で亜優と食べ、夜はこの場所ですませている。ラストオーダーの九時を過ぎると、閉店の九時半までにまかないを食べさせてもらっていた。

 着替えて表に出る頃には、夕暮れに染まっていた空はすっかり暗くなっている。そんなに働かなくても充分な仕送りを、父親からは受けとっていた。それでも毎日のようにバイトを入れてしまうのは、余計なことを考える時間を少しでも減らしたかったからだ。

 気づけば私の心はいつも、柊と最後に会った『あの日』に戻っていってしまう。あの一日を境に、すべてが変わってしまったのだ。いつまでも続くと思っていた穏やかで大切な日常は、あのとき突然破られて永遠に戻っては来なかった。

 六年前の九月。父はもともと、ひとりで単身赴任する予定だった。それが、母が亡くなったことで、私も莉世もその場所に残るわけにはいかなくなった。柊が急によそよそしい態度をとるようになったのもその頃だった。家に電話をかけても柊は決して出なかったし、引っ越す当日すら、姿を見せることはなかった。

 柊がいきなり冷たくなった理由を私は知りたかった。もし怒らせたのなら、何も覚えがなくても素直に謝りたいと思った。最後まで柊と喧嘩したような状態でいるのは辛かった。突然、引っ越すことが決まったからかもしれない。でも……

 何も答えは出ないまま、私は柊に「さよなら」を言うことさえできなかった。母が亡くなる直前まで、何の変調もなかったはずだ。最後に柊と会ったあの日。私は何より特別な『しるし』を手に入れたつもりでいた。それなのに――


「月が綺麗ですねっていう言葉に隠されている意味、分かる?」

 中学一年生のある日、柊は私にそう聞いた。

 一緒になった帰り道。

「隠された意味?」

 おうむ返しに聞くと、柊は「うん」とうなずいて、

「夏目漱石が『I love you』を、そう訳したんだって」

「それって『坊ちゃん』を書いた人?」

 ちょうど国語の教科書に、その人の話が載っていた。そうそう、と柊は相槌を打つ。

「つまり『好き』っていうことなの?」

「『愛している』っていう意味だよ」

 柊のはなった言葉に、わずかに頬が熱くなる。

「でも、それって伝わるかな」

 動揺したことを隠すように、私は少し早口になった。愛の告白としては、婉曲すぎる気がしたのだ。

「伝わらないかもね。情緒的だとは思うけど」

 苦笑交じりに柊は言う。

「柊なら何て答える?」

「何が?」

「もし、月が綺麗ですねって誰かに言われたとして、それが愛の告白なら」

「そうだなぁ」

 柊は少し考えた後、

「次の満月も一緒に見あげましょうって、そう言うかな」

 季節は夏の初めだった。

 梅雨が明けたばかりの空は、白い雲を背景にコントラストを増していた。その名残が夕方になっても淡い紫色になって西の空を染めていた。私は柊と同じクラスで、それは世界を彩る美しい偶然のひとつに思えた。ずっとこの先も、一緒に過ごすのだと思っていた。中学校に入る頃、幼馴染みの異性が「初恋の人」に変わるのを私は感じとっていた。多少の気恥ずかしさを、そのたびごとに覚えながら。


 三時間働いただけなのに慣れない立ち仕事のせいか、帰途につく頃にはすっかりくたびれてしまっている。考え事をしすぎて眠れないことが、前はよくあったものだ。今は程よい疲労感が、すぐに眠りへといざなってくれる。夢を見ることもない。私は夢のなかでさえ、柊に会えないままだった。


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