第五話③ 問い、暴く言葉、生きる意味など分からない。
「……涌井先生も、生きることに迷ったことがあるのですか?」
教授は僕の方を向いて、にこりと微笑んだ。
「鋭いね。まあ、『どうして生きるのか』と思い悩むのは、大抵の人間が通る道さ。ワタシの場合は、こんなに苦しいのになんで生きてるんだろうと沈んでいた時に、自分を変えるきっかけをくれた人が、運よく近くにいてくれたんだ。その人のおかげで、ワタシは今も生きていると言っても過言じゃないね」
「そうなんですか……。その人は、今?」
教授の家族構成や交友関係は知らないが、親友となって今も付き合いがあるか、あるいはその人が女性であるなら恋人にでもなっていたら素敵だと思った。けれど僕のこの何気ない問いが、人との会話においてもっと気を付けねばならないことだったと気付くのは、すぐ後だった。
「亡くなられたよ」と、教授は微笑みを湛えたまま、静かに答えた。
「あ……、すみません」
僕は思わず頭を下げた。
「ハハ、どうして謝るんだい。キミが殺したのかな?」
「い、いえ」
さすがに冗談だと分かったが、かぶりを振った。
涌井教授は立ち上がり、腰に手を当てて背中を反らせた。
「まあ、色々言ったけど、結局は人間それぞれが好きに生きるしかないんだよな。キミも迷って立ち止まって苦しんでないで、キミの思うように行動するといい」
そして僕の前に立ち、僕を見下ろして、言う。その表情は逆光になっていて、見えなかった。
「察するにキミは、誰かを殺めた罪の意識に苦しんでいるんだろう?」
息が止まった。取り巻く空気が冷たくなったのを感じた。
教授はジャケットのポケットから黒いゴルフボールを二つ取り出し、右手でころころと回し始めた。昨日もそれをやっていたことを、ふと思い出す。
「簡単な推理だよ。昨日南戸クンが持って来た手紙。『この学校には殺人犯がいる』……だったかな? その内容に、キミはひどく怯えているように見えた。そして、あれが彼女のイタズラだったと分かった時の、キミの安堵」
感情を殺すのは得意なはずだった。けれど、読まれていた。涌井教授は手に持っていた紙を胸の高さに掲げた。
「そして今日のこの手紙。『川に落とされた』、『どうして。私を殺すの』、『私は生きたかった』。誰かに殺された者の言葉だね。亡者の怨念なんて非科学的なものはないと思うし、これも誰かのイタズラだと思うが、この言葉にキミはパニックを起こすほど追い詰められていた」
血の気が引いていく。僕はここで、終わるのだろか。でももう、それも、いいのかもしれない。どうせ、意味のない命だ。
教授は優しい声で続けた。
「ワタシは警察じゃない。どんな背景があるのかは知らないし、問い詰めないよ。キミは悪い人には見えないし、何かのっぴきならない事情があったんだろう。ただ、そこまで苦しんでいるなら、自首なり何なりした方が、楽になるんじゃないかな」
何度も考えたことだった。僕の中にだけ秘められている事実――それはあの日から消えないままどんどんと膨らんでいき、いつでも僕を内側から圧迫してくる――それを吐露し、裁かれること。そうした方が楽だろうと、何度も考えた。けれど弱い僕は、その一歩を踏み出せないまま、膨らみ続ける恐怖と悔恨と懺悔を抱えたまま、ここまで歩いてきてしまった。
「まあ、ゆっくり考えてみるといい。キミの過去にどう折り合いをつけるのか、をね。ワタシでよければ、いつでも相談に乗るよ。そうだ、連絡先を教えておこうね」
そう言うと教授はゴルフボールをポケットにしまい、別のポケットからペンを取り出すと、持っていた手紙に何かを書き込み、僕に渡した。見ると、「涌井敏弘」という名前の横に、電話番号とメールアドレスが書いてある。
「ワタシはキミが抱える罪も秘密も、誰にも話さない。約束しよう。だからキミは、キミがどうすべきかを考え、行動するんだ。いいね」
僕は小さくうなずいた。あるいはそれは、暗くうつむいただけだったかもしれない。
それじゃあ、と言って歩き出した教授は、少しして足を止め、僕に言った。
「ああそうだ、死生観についての過去の偉人の言葉で、もう一つワタシが好きなのがあるんだ」
なぜ今さらそんなことを言うのだろう。そう思いながら、僕は力なく教授の方を見た。
「『生まれてきて良かったなって思うことが何べんかあるだろう。そのために人間生きてんじゃねえのか』ってね」
正直もう頭が働かなかったが、僅かな義務感で口を動かす。
「……それは、誰の言葉ですか?」
「車虎次郎さ。『男はつらいよ』って映画のね。ハハハ」
目の前に殺人犯がいるとは思えないほど、教授は爽やかに笑って去って行った。
*
僕はそれから大学に行かず、ずっとアパートの部屋にいた。真夜中に近所の二四時間営業のスーパーで食料を買い、日中は部屋で過ごす。そんな無為な日々を一ヶ月近く送った。南戸からいくつもラインや通話が来ていたが、全て無視した。
ずっと考えていた。僕はどうすべきなのか。
警察に行くことも考えたが、今までと同様、踏ん切りがつかなかった。もう何年も前の出来事で、どういう判断がされたのか分からないが事故死として処理されたと、当時の新聞で知っていた。僕が出頭した所で、まともに取り合われるか分からない。
死ぬことも考えた。このアパートの部屋でどうすれば死ねるかをいくつも考えた。天井の照明にロープをかける。手首を切る。部屋をガスで満たす。どれも誰かに迷惑をかけると思い、実行しなかった。生きることは苦痛なのに、死んで終わらせることさえ簡単に出来ないのが、皮肉に思えた。
いや、本当は、怖いんだ。警察で詰問されることも、死ぬことも、そのために痛い思いをすることも、全部怖い。だから僕は何も出来ないまま、ずるずると、惰性で生きている。あの日から、ずっと。
テーブルに置いていたスマートフォンが振動し、何かの通知を知らせる。力なく僕はそれを手に取り、画面を開く。南戸からのラインだった。彼女に僕の住所が知られていなくて良かった、と思う。南戸なら、いつまでも大学に来ない僕を心配して、あるいは怒って、ここまで押しかけてくるだろう。けれど今の僕は、彼女とまともに向き合える気がしない。だから、知られていなくて、よかった。
スワイプで通知を消して、何気なくスマホのホーム画面を表示した。アプリはあまり入れておらず、カメラや、ブラウザ、ライン、メール、電話、そしてたまに戯れに写真を投稿していたツイッターのアイコンくらいしかそこに並んでいない。ラインと電話のアイコンには、赤い丸の中に白い数字があり、無数の未読があることを知らせている。全て南戸だろう。ツイッターの青と白の鳥のアイコンにも通知のバッジが付いていて、僕はそれをタップした。
僕のツイートに対して、いくつもの「いいね」と、リプライが付いている。写真に対する感想や質問など簡単なものだが、僕はそれらに返事をしたことがなかった。
僕の投稿に、世界のどこかの誰かが反応をする。以前はそのことに、自分の存在を遠回しに感じることが出来た。でも今は、どの通知も心を潤さない。言葉も何もなく、ただ写真を載せているだけだというのに、皆暇なんだな、と思うくらいだ。
僕は長く息を吐き出して、ホーム画面からブラウザを立ち上げた。乗り換え案内のページを開き、最寄り駅から地元の駅までの経路を調べる。
いくつもの大切な想い出と、呪われた記憶がある、故郷。
最期をそこで迎えるのが、贖罪に相応しいと思った。
季節はいつの間にか、夏になっていた。
僕だけが世界に取り残されているように、思った。
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