第五話② 問い、暴く言葉、生きる意味など分からない。
*
翌日、二つの講義を終えて昼休みになると、僕はしぶしぶと学食に向かって歩いた。昼の校舎は多くの学生が行き交っており、雑音に溢れている。人は人と話し、笑い、絆を作り、友好を深め、中には恋人となり、未来の約束に心を躍らせる者もいるだろう。こういう時に、僕はいつも、考えてしまう。
もし、あの時、あの場所で。いくつもの可能性の中で選び取った選択が、一つでも、ほんの少しでも、違っていたら。今でも、僕は、彼女の隣を、歩けたのだろうか。
大切な人がいたんだ。大好きな人がいたんだ。でもそれは全部、過去でしかなくて。
頭の中が重くなる。胸が苦しくなる。想い出が呪いに変わっていく。過去が、僕を離さない。
人混みを避けるように俯いて歩いていると、
「あっ、柊! よかった見つけられて」
と後ろから呼び止められた。振り返ると、南戸が萎れた表情で立っていた。
「ごめん、今日涌井センセーにいっぱい仕事を頼まれちゃってさ、ポスト確認一緒に行けなくなってしまったよ」
「そうか。別に謝ることではないよ」
では今日はポスト確認はないのだろう、と僕は少し気が楽になる。確認が一日滞ったくらいで、問題があるとは思えない。
「だから、これは君に預けるよ」
そう言って南戸が渡してきたものを受け取る。銀色の、小さな鍵のようだ。
「これは、何?」
「珍しく察しが悪いじゃないか、ワトソンくん。ポストの南京錠を開ける鍵だよ。三つのポストの設置場所は覚えてるかな? 分かんなくなったら連絡してね!」
南戸は笑顔でぶんぶんと手を振りながら駆けていった。表情も行動も、忙しい人だ。取り残された僕は仕方なく鍵をシャツの胸ポケットに入れ、再び歩き出した。
辿り着いた学食はやはりかなりの賑わいで、不本意な任務を放棄したくなる。しかし昼休みが始まってまだそう時間が経ってないからか、目当ての隅のテーブルには人はいないようだった。
「やらなかった」と言えば責められるだろうし、確認もせずに「手紙はなかった」と嘘をつくのは躊躇われる。僕は嘘をつくのが苦手であることを自覚している。だから、さっさとこの仕事を終えてしまおう。
足早に目的のテーブルに近付き、昨日座って本を読んでいた場所で、僕はかがみこんだ。そういえば実物を見るのは初めてだな、なんて思う。テーブルの天板の裏側に、簡素な白いプラスチックの箱が取り付けられており、「Aliis si licet, tibi non licet.」と書かれた紙が貼られていた。確かラテン語で、「たとえ他人に許されても、あなた自身には許されない」という意味だったか。探偵への依頼を投函するポストに記載する言葉には相応しくない気がする。
胸ポケットから鍵を取り出し、南京錠を開けた。どうせ何も入ってないのだろう、と思いながら蓋を開け、僕は驚く。ポストの中には、折り畳まれた紙が一枚鎮座していた。誰からも忘れ去られたように静かに。あるいは、獲物に襲い掛かる機会を耽々と狙う猟犬のような鋭さで。不用意に触れたら、指が切れてしまうような、そんな気さえした。
ふと、後方から話し声が近付いてくるのに気付いた。空いているこのテーブルに学生が向かって来ているのだろう。僕は手を伸ばしてポストの中の紙を摘まみ出した。指が切れるようなことは当然なかった。蓋を閉め、南京錠をかけると、立ち上がって歩き出す。根拠はまるでないが、不気味な不安が胸を叩いていた。
騒がしい学食は落ち着かないので、僕は校舎を出て、ひとけのない中庭のはずれのベンチに腰掛けた。初夏の陽射しは暑いくらいなのに、紙を摘まんでいる手は冷たく凍えていくようだ。
僕の仕事は、ポストに投函がないか確認することだ。だからこの手紙を、僕が開いて内容まで確認する義理はない。このまま、折り畳まれた状態のまま、南戸なり、岩住部長なり、涌井教授なりに渡せばいいのだ。それで僕の仕事は終わるはずだ。
なのに、僕の内側の全てが、恐れながら、怯えながら、この紙を開けと叫んでいるように感じる。鼓動が早くなっていく。冷や汗が滲み出る。
唾を飲み込み、深呼吸をして、両手で紙を持ち直す。
どうせまた誰かのイタズラか、下らない内容のものだろう。だから、早く確認して、楽になろう。そう自分に言い聞かせ、四つ折りにされている紙を開いた。手書きではなく、プリンターで印刷された文字が、無機質に並んでいる。
彼岸の川に落とされた。冷たい水が肺を満たしていく。
なぜ。どうして。私を殺すの。
痛い。苦しい。悲しい。私は生きたかった。
世界があなたを許しても、あなたがあなたを許さない。
「あああああああ!」
紙を投げ捨てたが、軽いそれは風にはらりと揺れて、僕の足元に落ちた。
「違う! 違う! 僕は! 違う! そんなつもりはなかったんだ! ああああああああ!」
頭を抱え、髪を掻きむしり、叫びが口から溢れ出す。内側を満たす恐怖と悔恨と混乱を全て吐き出したくても、次から次にそれは湧き出てくる。
「許してください! 許してください! 許してください!」
――たとえ他人に許されても、あなた自身には許されない。
ポストに書かれた言葉が脳裏をよぎる。誰が僕を許そうとも、僕が僕を許さない。僕は僕を許せない。愛しい過去が呪いに変わる。大切な想い出が毒になり、首を絞める。息が出来ない。涙が溢れる。僕は一体、どうして生きているのだろう。きっと、死んでしまった方が、楽なんだ。
「助けてください……助けてください……」
「桜羽クン!」
突然肩を揺すられて、僕は驚愕した。見ると、涌井教授が腰をかがめて、ベンチの上で縮こまる僕の肩を掴んでいた。
「どうしたんだい、そんなに怯えて。何かあったのか?」
「あ、あ……」
「とりあえず、落ち着いて。ワタシがいるから、大丈夫だよ。ほら、深呼吸して」
息を吸い、吐く。息を吸い、吐く。息を吸い――吐く。
恐怖も絶望も胸の中に貼りついて動かないが、思考は落ち着いてきた。死神に心臓を握られたような、冷たい観念がそうさせたのかもしれない。見ると、涌井教授は僕が先ほど投げ捨てた紙を右手に持っていた。
「これを見てパニックになっていたのかい? 読ませてもらったけど、なんだいこりゃ。ホラー小説の導入か?」
「い、いえ、何でも、ないんです」
「何でもないってことはないだろう。あれだけ尋常じゃない感じで怯えてたんだ。この手紙に何か心当たりがあるんだろう? 話してみてくれないか。何か力になれるかもしれない」
そう言いながら涌井教授は、僕の隣に腰掛けた。
話してどうにかなるものではない。過去は変わらないし、僕の罪も変わらない。けれど、ずっと誰かに訊きたいことがあった。縋りつける答えが欲しかった。
「……僕たちは、どうして生きているんでしょうか」
「また随分と哲学的な問いだね」と涌井教授は小さく笑いながら言った。「その質問が、この紙と関係あるのかい?」
「いえ、直接は、関係ないです」
「……ふむ、そうだな」
教授は僕から視線を外し、正面を向いた。中庭には小さな芝生のエリアがあるが、手入れされていないのか、様々な雑草が風に揺れている。
「我々は何故生きるのか。その問いの意図は、動物としての生存本能、つまり、『種の保存と繁栄』の枠の外にあるものを求めていると受け取るよ。それは高次な生命体としての人間、ひいては桜羽クンやワタシといった、個々の命の存在の意味を問うているんだよね」
「はい」
「ぶっちゃけて言ってしまえば、そんなものそれぞれで考えてくれって話になってしまうんだが、この究極の問いは、遥か過去から人類が繰り返し探し続けてきたものだ。そういうものは、偉人の言葉が参考になる場合が多い」
そう言って教授は、ゆっくりと息を吸うと、誰かが遺したのであろう言葉を、丁寧に発音していった。
「死んでみたところでなんの役に立つのだろうか。まだ死ぬには早すぎる。せっかく自分のために生まれてきたものを全部自分のものにしもせずにあの世に旅立つなんて、果たしてぼくのすべきことだろうか」
ニーチェやフロイトでも引用されると思ったが、聞きなれない言葉だった。だから僕は教授に尋ねた。
「誰の言葉ですか?」
「シドニー・ガブリエル・コレットというフランスの作家だよ。ワタシはこの言葉に触れた時、自分の中に生きる力のようなものの萌芽を感じたね。まだ死ななくてもいいか、もう少し好きに生きてみるか、と思ったんだよ」
そう言う教授の話には、引っかかるものがあった。生きる力の萌芽を感じ取れる者は、死に極限まで近付いた者だけではないのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます