第五話① 問い、暴く言葉、生きる意味など分からない。
この学校には殺人犯がいる。
僕を脅かしたその手紙は、日本文学のゼミで同じ班になっている南戸司のイタズラによるものだった。怯えながらも、心の一部ではまともなものであるはずがないと思ってはいたが、まさかこんなに身近な人間によるものだとは。
「だって、こういう謎めいた手紙があって、カレイドスコープのみんなが盛り上がったら、柊も興味持ってくれるかなぁって思ってさぁ」
「だから、どうして君はそこまで僕にこだわるんだよ。もっと他の、見込みのある人たちへの勧誘に時間を割いた方が、有意義だと思うけど」
「だって、ボクは……」
南戸はそこで口を噤んで、また耳を赤くしていった。
自分のことを「ボク」と呼ぶ、少し変わった女子生徒の南戸は、髪も長くなく、いつもパンツルックで、スカート等のいわゆる女性らしい格好をしている所を見たことがない。そのせいか周りから小柄な男性だと勘違いされることも少なくないらしいが、本人は寧ろその誤解を楽しんでいるようでさえある。
話のきっかけは忘れてしまったが、以前、二人でゼミの研究発表に向け中原中也の資料を探していた時に、南戸はこんなことを言っていた。
「ボクを女と知った上で告白してくる女の子もいてさ、色んな人がいるよねーって思うよ。だから、ボクがこういうボクであることも、何の問題もないと思うんだ」
「それはそうだ。他者だったり、メディアが作り出した文化だったり風習なんかに合わせて自分を偽ったり、繕ったりする必要なんてない。君は君の思うように、自由に生きればいい」
と、その時の僕は、書棚の一番下の段に詰め込まれている中也全集を引っ張り出しながら言ったように思う。
「桜羽くんは程よく他人に無関心だからいいね。ボクの親も、友達も、女なら女らしくしなさいって言うからさ、自由に生きればいいとかそんな風に言ってくれる人ってなかなかいないよ。さっき言った、ボクに告白してきた女の子もさ、お断りした途端に、『その気がないんなら男みたいな格好しないでよ!』って怒り出しちゃってさぁ」
「それはひどいね」
「でしょー!」
「その子も、君という人間の本質を見て好きになったわけじゃなくて、その子の理想だったり性癖だったりを満たしてくれそうな、君の一部の属性だけを見て、期待しちゃったんだろうね」
全集を持って立ち上がった僕を見上げて、彼女は言った。
「ボクという人間の本質って、何かな?」
「さあ、それはまだ付き合いの浅い僕には答えられない」
「付き合いが深くなれば答えられる?」
「その可能性は否定できないけど、人が人を完全に、一つの思い込みも決めつけもなく理解することなんて、不可能だとも思うよ」
「ねえ、柊って呼んでもいい?」
突然投げかけられたその提案に、僕はすぐに返答できなかった。親しい友人もいない僕を下の名前で呼ぶ人は、親族を除いては、あの人しかいなかった。だからその特別な関係性が僕の中に宝物のように残っていて、そこに新たな一人が加わることは、大切な宝物の輝きを薄れさせてしまうことのような気がした。けれど南戸のその提案を無下にするのも悪いことだ、と、宝物が近くにあったあの頃よりも少しだけ大人になった僕は思ったのだ。だから慣れない微笑みを作って、「いいよ」と答えた。
その日から南戸は僕を「柊」と呼び、それまで以上に僕に纏わりつくようになった。
そして今、涌井教授室兼、非公認探偵サークルカレイドスコープの部室にて、イタズラを看破された南戸は、顔を赤くして涙目になりながら、僕を睨みつけているのだ。妙な悪だくみに巻き込まれた僕が睨むならまだしも、なぜ僕が睨まれなければならないのだろうか。
岩住部長は相変わらず本を読みふけり、涌井教授は可笑しくてしかたない様子で笑いを堪えながら、僕たちの様子を伺っていた。事態が膠着した状況に助けを求めるように教授に視線を送ると、彼は僕の肩をばしばしと叩いた。
「ま、そういうことだからサクラハクン、もう諦めて入部したまえ。乙女の怒りを鎮めるにはそれしか道はないようだよ」
「なんで僕が怒りを向けられるのかが分からないんですが……」
「強いて言うなら、君がそれを分からないということに、南戸クンは怒っているんだと思うけどね」
なぜ南戸が僕を睨んでいるか、それが分からない僕に、南戸は怒っている? それこそ訳が分からなない。
「別に怪しい宗教団体とか、マルチ商法を勧める集団とかじゃない。ちょっと変で暇な人達が集って妙なことをしてる、いたって健全なサークルだよ、カレイドスコープは」
「とても健全に聞こえない紹介でしたけど」
「それに、別に活動のノルマとか、義務があるわけでもない。ワタシも顔を見たことすらない幽霊部員だってたくさんいるよ。君も、名前を入れるだけでいいんだ。それだけで、目の前の少女を笑わせることができると思えば、安いものだろう?」
「……まあ、それくらいなら」
正直もう、この場から解放されたかった。僕がここの幽霊部員になることですんなり帰れるのなら、それでいい。
それまでしかめっ面だった南戸の表情が氷解するようにほどけ、微かな驚きを滲ませた顔になった。
「え、柊、カレイドスコープに入るの? 今、そう言った?」
「幽霊部員で良ければだけど」
南戸は花が開くようにみるみる表情を明るくしていった。感情が分かりやすく、変わりやすい、忙しい人だ。つくづく探偵には向かないと思う。
本を読んでいる岩住部長が、本から顔を上げないまま言った。
「俺は、来る者は拒まず、去る者は追わず、が信条だ。特に入部試験などを設ける予定はないし、いつでも抜けてくれて構わんが、くれぐれも俺の邪魔だけはしないでくれたまえよ、新入部員」
「またまたぁ、そんなこと言って、仲間が増えて岩住センパイも嬉しいくせにぃ」
そうからかう南戸に、岩住部長は「黙れ南戸」と一喝した。いつもの掛け合いなのか、二人の様子を見ていた涌井教授は楽しげに笑っていた。
次の講義があるからと教授室を退室し廊下を歩く僕の後ろを、南戸はちょろちょろとついてくる。
「じゃあじゃあ、明日のポスト確認はボクと一緒に回ろうよ、柊。晴れて君も部員になったわけだし」
「幽霊部員だけどね。というか、あのポストの確認って毎日やってるの?」
僕の問いに含ませた呆れの気配を気にもせず、南戸はその薄い胸を張って誇らしげに答えた。
「そりゃあそうさ。悩めるクライアントの依頼を放置することなど、あってはならないからね!」
「でも、投函はほとんどないんだろ? 今日のだって、君のイタズラだったわけだし」
「うっ」
南戸が足を止めたので、僕も歩くのをやめ、振り返る。彼女は不安そうな表情で僕を見ていた。
「騙してごめん、柊……。怒ってる?」
「いや、それはもういいんだけど、」
毎日のチェックは効率が悪いんじゃないのか――そう言おうとしたが、南戸の言葉に遮られた。
「良かったぁ。ボク、柊に嫌われたら一晩くらい寝込んじゃうと思うから、ほっとしたよ。じゃあそういうわけで、明日の集合場所はラインしとくからね!」
やるとは言ってないんだけど……それに、一晩寝込むというのは普通に夜眠っているだけじゃないのか――そう突っ込むヒマも与えず、南戸は「じゃあボクこっちだから!」と言って駆けて行った。
その後ろ姿を見送りながら僕はまたため息をつき、次の講義の内容を思い出しながら歩き出した。が、すぐに後ろから呼び止められた。
「サクラハクン、サクラハクン」
振り返ると、涌井教授だ。彼は一枚の紙を片手に持ち、爽やかな笑みを浮かべて駆け寄る。
「ごめんごめん、部員の情報をもらわないといけないのを忘れてたよ。この紙に名前と連絡先、現住所、実家の住所を書いてもらえるかな。後でワタシがデータベースに入れておくから」
「え、名前と連絡先は分かりますけど、実家の住所なんて要るんですか?」
「まあ念のためってやつだよ。大学だと一人暮らししてる学生も多いだろ? そんな子にもしものことがあったら、すぐご実家に連絡しないといけないからね」
違和感はあったが、「ほら早く、ワタシも講義あるんだから」と急かされ、僕は教授から渡されたプリントの裏面に、文字を書き込んでいく。
「ふむ、桜羽柊って書くんだね。風流な名前だねぇ」
後ろから覗き込んでくる教授が気になるが、僕も急ぐ必要があるので無視して書き進めた。
「お、実家、埼玉なのかい。奇遇だねえ、ワタシもなんだよ」
埼玉から東京に出てくる学生など沢山いるだろうに。その全ての生徒に「奇遇」と言っているのだろうか。思いがけない巡り合いは、頻繁に起きないからこそ奇遇と呼ばれるのだ。そんなことを考えながら文字を書き終え、教授にプリントを渡した。
「ありがとう。じゃあこれからよろしくな、桜羽クン」
「幽霊部員ですけどね」
僕の念押しが伝わったのか分かりにくい笑顔で、涌井教授は去って行った。
次の講義の時間、宣言通り南戸からラインが来た。
『明日の昼休み、今日会った三号館学食の席に座ってて』
非効率極まりないポスト確認作業への僕の参加はやはり揺るがないようで、僕はまた、長いため息をついた。
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