第六ワ 変化、光アル未来、ソシテ地獄ノ門ガ開ク。
「よくやった、やればできるじゃないか、悪くないぞ、この調子で、今日も生きよう」
朝、洗面台の鏡に向かって笑顔を作り、そう言った。
彼女が教えてくれたこの魔法を、ぼくは夜眠る前と、朝の登校の前、毎日欠かさず行っていた。
父親が目覚める前にゴミ出しを済ませる――自分を褒める。アルバイトで客にきちんと挨拶をする――自分を褒める。お釣りを間違えずに渡す――自分を褒める。因数分解のこの問題を一分以内に解く――自分を褒める。彼女に相応しい男になれるよう筋トレをする――自分を褒める。
小さな目標を作り、達成して、自分を褒める。それを繰り返していると、不思議なことにこの胸の中に、少しずつでも確かな温度が宿っていくのを感じていた。塞ぎ込んで暗く湿っていた心の、錆び付いた扉が僅かに開き、そこから爽やかな風が通っていくように感じた。
授業中に彼女と筆談を交わす幸福な時間は、無慈悲にも席替えによって断たれた。休憩時間に話しかけに行くような行動力はぼくにはなく、彼女の方も、ぼくに関わろうとすることはなかった。しかし時折、離れていても視線がぶつかることがあり、その度にぼくは胸が燃えるような熱さと満ち足りた気持ちを感じたのだ。
津田たちの地味な嫌がらせは、時が経つと共に次第に薄れ、やがて自然消滅のような形でなくなっていった。さすがに高校生ともなれば、人を傷付けて遊ぶことにも飽きるのか、もっと刺激的なことを見つけたのか、ぼくが中学時代に受けていたような苛烈な虐めにまでは発展しなかった。あるいは、彼女の約束を忠実に実践し続けて自信がついたことでぼくに変化が起こり、彼らのターゲットの条件から外れたのかもしれない。
そういう訳で、ぼくは(時折父に殴られること意外は)比較的平穏な高校生活を手に入れることができた。これも全て、彼女の魔法の言葉のおかげだ。
筆談することはなくなっても、彼女との約束は毎日守り続けた。賢く、強く、彼女を守り幸福に出来る理想的な男になるために、ぼくは日々自分を磨き続けた。コンビニバイトの休憩時間にファッション誌を読み、髪型や言動にも気を使うようにした。女性に好印象を与える最大の要素は、爽やかさだという。突然自分を変えることは難しいが、少しずつ、一歩ずつ、改善していくことならできる。大事なのは、積み重ねなのだ。
学年が上がり二年生になると、彼女とクラスまでも別になってしまった。それでも、教室移動時などで廊下を歩いている時、向こうから彼女が歩いてくるのが見えると、彼女もぼくに気付き、すれ違う際に小さく会釈をしてくれる。誰にも気付かれないくらいの微かさで。それはきっと、ぼくにしか気付けないメッセージだ。そんな時間があるだけで、その日は一日幸福な気分でいられた。
これまでの人生で一度たりとも感じたことのない、自分で自分を認められるような、自分という存在を、命を、愛せるような、そんな優しく温かな光で世界が満ちるように思えた。誇張でも比喩でもなく、人生が変わったのだ。かつてのような、幸福を感じる度にその裏に不幸を感じ取り、裏切られることへの予防線を張って自分を守ろうとする卑屈なぼくは、もういない。
彼女のおかげだ。彼女のおかげだ。彼女のおかげだ。
ぼくの中で愛情が無制限に膨らんでいく。それは身体を内側から満たし、張り裂けそうなくらいだ。しかしそれも、なんて心地良い痛みだろうか。
やがてぼくは、彼女と結ばれるのだろう。以前は想像も出来なかったそんな未来が、今は現実味を持って思い描くことができた。それはきっと、決まっていることだ。そうでなければ、初めて彼女を見た時に、ああまで衝撃を受けるはずがない。
二年のクラスでは、友人が出来た。ぼくは積極的に友人を作りたいと思ってはいなかったが、
笹塚は以前、悪びれる様子もなくこう言っていた。
「お前がクラスの女子から評判がいいから、一緒にいれば俺も注目されるかなぁと思ってさ。やっぱ男としては、カノジョくらい欲しいじゃん?」
それはつまり、本当の友情というものではなく、共にいると都合が良いから付き合うだけ、ということだ。「本当の友情」というものが果たしてどういうものなのか、ぼくにも分からないが、一人きりでいるよりは誰かといた方が学生生活は何かと都合が良いということが分かっていたので、ぼくは笹塚と、「契約」のような交友関係を結んでいた。
夏季休暇も近付いたある夏の日の昼休み、笹塚がいつものようにぼくの前の席の椅子に勝手に座り、話しかけてきた。他人の席に座るのは、本来の席の持ち主に迷惑だと、何度言っても理解しない。
「おいおい聞いたぜぇ、ひでえじゃねぇか」
「……何の話?」
そこで笹塚は周りを伺うようにキョロキョロした後、声を潜めて続けた。
「お前、恵美ちゃんにコクられて、振ったんだって?」
「ああ……」
大橋恵美。クラスの女子で、先日帰宅途中のぼくを呼び止めると、
「同じクラスになってから、君のことずっといいなぁと思ってたんだ。もうすぐ夏休みも始まるし、わたしと付き合ってよ」
と言ってきた。当然ぼくは、丁重に断った。
「ありがとう、そう思ってくれることは、とても嬉しいよ。でも、ごめん。ぼくには、大切な人がいるんだ」
眉を下げ、心底申し訳なく思っているような、少し悲し気な微笑みを浮かべて。こういう状況ではこういう表情が相応しい、と、いくつものファッション誌や週刊誌などで学んだ。
だってぼくには、彼女と結ばれる未来があるのだから。別の女性になど、興味の一欠片さえ持ち得ない。
そういえば今日は大橋恵美の姿を朝から見かけないな、と今更ながら気付いたところで、笹塚は信じられないものを見るような目をぼくに向けてきた。
「ホントもったいないことしたなぁお前。恵美ちゃんは俺的学年可愛い女子ランキングの五位だってのに」
「失礼なランキングを勝手に作るんじゃないよ」
「いやいや、俺の目は確かだぜぇ? 十七年培ってきた女子格付け能力は、俺の唯一の自慢だからな」
そんな下らないものをこれまでの人生をかけて育み、それが唯一の自慢だというこの笹塚という男が、あまりに哀れに思えた。呆れながらも、「契約」の友人のため、話に乗ってやることにした。
「ちなみにそのランキングの一位は誰なんだい?」
「そりゃあもちろん――」
自信ありげに笹塚が口にした名前に、ぼくは過敏に反応した。それは彼女の名だった。途端に体の内側が熱くなっていく。自身の中の揺るがぬ愛情を再確認すると同時に、笹塚に対して、汚い口で彼女の名を呼ぶな、という怒りが湧いた。
「あの子はホントかわいいよなぁ。一年の時にはもう先輩たちに目ぇ付けられて絡まれたらしいぜ。ちょいムリヤリ気味に合コンに誘われて、結局断ったみたいだけどさ」
そんなこと、知らなかった。ぼくが知らない彼女のことを笹塚が知っているということ、そして彼女に絡んだというその先輩たちに対し、殺意にも似た憎悪が、醜悪な怪物のようにぼくの中に発生するのを感じる。
彼女に触れるな。声をかけるな。彼女をその視界に入れるな。それが許されるのは、ぼくだけなんだ。
「お、おい、どうした、顔が怖ぇよ……」
笹塚の言葉で我に返る。彼女の隣に立つに相応しい男になるために、感情のコントロールを練習しなければならない。今日の目標は、それにしよう。
「いや、何でもない。ちょっと考えごとしてた」
「まあとにかくさ、あれくらいのレベルになると、俺には完全に高嶺の花だよ。手が出ねえよ。だから十位から二十位くらいの子を狙ってるんだけど、お前どう思う? ちょっと意見聞かせてくれよ」
そんな言動をしている時点で笹塚には望みはないだろう、というのは口にしない。
以前クラスの女子生徒から、「なんで笹塚みたいなやつと友達やってるの?」と訊かれたことがある。その時は「彼はあれでいい所もあるんだよ」と、爽やかに微笑んで適当なことを言ったが、ぼく自身彼の「いい所」を見つけられないし、笹塚が女子たちから良く思われていないのは明白だ。
笹塚のランキングトークを聞き流しながら、彼女のことを考えた。春の桜のように美しく、そよ風のように優しい彼女だ。惹かれる男は多いのだろう。彼女が、例えば笹塚のような無知で低俗な連中を相手にするとは思えないが、狡猾な手段で彼女を誑かす小賢しい男が現れないとも限らない。だからぼくはもっと早く、より高く、彼女に相応しい男になり、彼女を守れるよう研鑽していかなければならない。
ぼくはそれまで以上に、「今日達成する目標」のハードルを上げ、勉学も肉体の鍛錬もストイックに続けていった。いつの間にか、父もぼくを殴らなくなった。
「よくやった、やればできるじゃないか、悪くないぞ、この調子で、明日も生きよう」
進み続ければ、幸せは訪れると思っていた。
未来は輝いているものだと信じていた。
彼女と共に優しい光の世界を歩けると考えていた。
けれど、それらの温かな希望が全て、ぼくの作り出した幻影だったのだと分かったのは、三年生の夏の日だった。
最終学年も同じクラスになり、相変わらずぼくに纏わりついていた笹塚が、その日は朝から妙に興奮した様子で、下卑た笑いを口元に滲ませながらぼくに知らせてきた。
「おいおい大ニュースだぜ! 俺的学年可愛い女子ランキング三年連続一位の――」
笹塚は彼女の名を口にした。残念ながら三年になってもぼくは彼女と別のクラスで、そして彼女との関係の進展もない状態だった。その彼女に関する大ニュースとは何だろうか。ぼくは無関心を装いながら、耳をそばだてた。
「いやぁ、マジで驚いたわ。人は見かけによらねぇもんだなぁ。ふひひっ」
「何だよ、気になる言い方だな。話す気がないのなら席に戻ってくれよ」
「気になるかぁ? 気になるよなぁ。ホントすげぇ話だからさぁ。俺もついさっき、人づてに聞いたばかりなんだけどよ……」
笹塚は入手したその「大ニュース」をぼくに伝えるのが楽しくて仕方ないような様子でニヤニヤとしながら、右手を口元に当て、ぼくの右耳に顔を近付けてきた。笹塚の息が耳にかかるのが著しく不快だが、彼女の情報を得るために堪えた。
「実はな――」
声が空気を震わせ、鼓膜を叩き、神経を通り、脳に到達する。音の羅列を認識し、その意味を理解する。それは一瞬のことだった。
ぼくは、光が射していると感じていたこのぼくの世界が、再び闇に閉ざされるのを感じた。いや、それは、以前の卑屈なぼくが見ていた単調な闇よりも、もっと深く、暗く。激痛を伴い怨嗟の絶叫がこだまする、どろどろと粘度を持った、漆黒のマグマのような地獄の暗闇だ。
爆発する感情を抑えきれず、ぼくは自我を失っていた。後から知らされたことだが、ぼくはその後すぐ、笹塚を殴り飛ばしたらしい。
そんな未来を知る由もなく、笹塚は呆然とするぼくの目の前で手をひらひらさせながら、呑気な声で呼びかける。
「そんなにショックだったか? さてはお前、惚れてたな? 残念だったなぁ、ひひひひっ」
それでも動かないぼくの肩を掴んで揺すりながら、笹塚はぼくの名を呼んだ。
「おーい、聞いてんのかよぉ、涌井ィ」
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