第11話 本屋 ※顕仁
「スマホ持って風呂に入って。ヤバいと思ったら電話を鳴らして」
適当なダイレクトメールのハガキに俺の電話番号を書いて渡す。
番号は変わっていないけれど過去に美玖が俺の番号をどうしたのかを知りたくなくて、短い挨拶で家を出る。
数歩進んで、戻って鍵が掛かっているか確かめる。
美玖がいる家が宝箱のように感じる。
しかしヤバい。
ポエマーみたいな俺もヤバい、俺の家といういまは俺だけの空間にいる美玖に無意識に手が伸びる。
一つの空間で女と過ごすのは慣れているから大したことはないと思った俺は馬鹿だ。
祖母ちゃんのエプロンをつけていたのになんでだ。髪を耳にかける仕草や味見して油で艶っぽくなった唇にゾクゾクした。
風呂なんて危なすぎる。
普通の一軒家、防音はそれなりしかない。風呂から聞こえる音に絶対に色々想像してしまう。
……経験値ゼロの童貞みたいだ。
外に出てくると言ったとき美玖は明らかにホッとしていた。
何もしないと言っても完全に信じていなかったのだろうし、武器はあっても怖さはあったのだろう。
俊典おじさんの女の子への気遣いを思い出してよかった。
父さんにおじさんと飲む予定があるか聞いて酒を差し入れよう。
時間を潰す場所にあまり選択肢はない。
よく行くブックカフェ、慣れた道をのんびり歩く。
煩悩に負けないためにもっと離れたところにいったほうがいいかもしれないが、いざというときは駆けつけないといけないから遠くにはいけない。
ヤバい、もう家に戻りなくなった。
グッと力が籠もる感覚に深く溜め息を吐く、いま家に戻っては色々駄目だろう。
***
「いらっしゃいませ……あっ」
最後の声のトーンの上がり、顔に浮かんだ笑顔。
しまった。
自惚れだと承知しているけれどこの店員は俺のことを好ましく思っている。
ここに来るときはいつも一人だから毎回ここで会うたびに二人きりでの話に誘われる。
仕事を理由に断るのも面倒になって彼女が入っていそうな時間は外していたのにうっかりしていた。
「平日のこんな時間に珍しいですね。今日はお休みですか?」
何かを期待する上目遣いに溜め息を押し殺し、対外的な微笑みで無難に対応しようとしてふと気づく。
読書家に人気のあるこのブックカフェに通っていたのはここに美玖がくるかもしれないと思ったからで、俺はもう美玖を探さなくていい。
鞄の中のスマホが重みを増した気がした。
「コーヒーを、砂糖とミルクは無しで」
俺の素っ気ない態度に彼女は驚いていたが、無視して適当な席につくと持ってきた本を開く。
本から顔を離さないまま目線だけ動かせば彼女はカウンターを素通りしてハンカチを目元に当ててバックヤードに向かった。
「うける」
「落とすって自信満々だったのに」
「泣いているアピールがすごっ」
仕事仲間なら仲良しじゃなくても別にいいのだが、表は仲良しで裏で貶し合うのは見ていて楽しいものではない。
それに仕事をしよう、俺のコーヒーはちゃんとくるのか?
コーヒーはきた。
残念ながら砂糖とミルクは付いていたが。
このブックカフェは個人の本の販売スペースがある。棚のスペースを年間いくらかで借りて、そこで本を売る。
どのスペースも個性豊かで、売り手のおすすめだったり自費出版の本もある。
美玖に一冊買っていくか。
趣味に合わなければ家に置いていってもらえばいい。
軽い気持ちだと自分に嘘をつく。
その証拠はなかなか決まらない、普段はあまり見ないポップもしっかり読む。
美玖に気に入ってもらいたい。
3ヶ月が過ぎて別れても美玖の傍に置いてもらえるくらい気に入る本を探したい。
これは3ヶ月くらいの付き合い。
期間限定は美玖が結婚するかもしれないから。
結婚と俺との付き合いがどう繋がるか。
美玖がまだ俺に何かを感じていたと自惚れらば仮説が立つ。
美玖は俺とちゃんと別れて、俺がつけた痕跡を消そうとしている。
縁を切っただけで別れていないから再会すればワンちゃんあると俺を励ましてくれた姉ちゃん、ありがとう。
外れていたら恥ずかしい仮説だが、美玖の意図が分からないまま3ヶ月が過ぎて足掻いてみせればよかったと後悔するよりマシ。
祖母ちゃんの中の祖父ちゃんのように、美玖の中の俺を消させて堪るか。
美玖のことを考えていたら美玖が家にいるかどうか不安になる。本当に余裕がない。
2冊選んで購入し、席に戻ってコーヒーを飲む。
時間潰しに持ってきた読みかけの本は図書館で借りた推理小説。
推理小説は読んで2回までだから買うのはコスパが悪い。
美玖に会うまであまり本は読まなかった。
最初は美玖と同じ空間にいるための口実、そして読書に夢中な美玖の邪魔をしないために本を読み始めた。
その後は美玖にまた会いたくて本屋を巡り、時々あの図書館に行って偶然会えることを願っていた。
***
「あのお」
伺うようだが申し訳なさのない媚びた声に内心溜め息が出る。本を読んでいるのが見えないのか?
スマホの画面を見れば家を出て四十分。
家に戻るにはまだ早いし、コーヒーも半分残っている。騒ぎになって得はないから顔を上げる。
この店でよく見かける女だった。
「一人ですか?」
「ええ」
店内で立っている客はいない、飲み物は一人分。この状況でわざと確認する女は俺がなんと返してもここに居座る。彼女待ちと言っても「それまで一緒に」と言うので厄介だ。
「その本、私も読んだんですよお」
「そうですか」
ネタバレ厳禁の推理小説だから本の内容には踏み込めない。
「先生の新刊、楽しみですね。よく一人できてますよね、お家近いんですか? 私もすぐ近くで、奇遇ですね……運命、だったりして」
脈絡はないけれど、この短時間で運命の出会いにまで持っていった……ん?
「失礼」
スマホのロックを解除すると十年ぶりに画面上に美玖の名前があった。
可能なら目薬を買ってきてほしいというメッセージだが、肩肘張らない自然な会話が十年前からずっと付き合いが続いていたように俺に錯覚させる。
「すみません、家で待っている女性がいるので」
「え、嘘っ」
嘘ではない。
とりあえず残っていたコーヒーを冷めていたので一気に飲み干して席を立つ。
待っている女性、か。
……自分で言ってゾクゾクしてるよ。なんのために家を出てきたのか。
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