第17話

 俺は屋上の扉のドアノブに手を掛けた。

 金属製のそれに触れると、ヒンヤリとした。

 勝手口のような扉の窓から見えるのは、相変わらずの漆黒の闇だ。


 一気にドアノブを回す。


「なんだこれ…」


 ドアの向こうには、病院の廊下ではなく、漆黒の空間が広がっていた。

 目の前に広がる光景は、漆黒の闇。


 それは単なる暗闇ではない。

 光を吸収している、真っ黒さ。

 スマホの光など、あってないようなものだろう。


「これは…」


 言葉が出ない。

 ナズナも同じように、その空間を見つめて固まっていた。


「異界と現世の狭間よ」


 ホノカさんの声が響く。

 振り返ると、彼女の表情はとても険しい。


「ちょっと遅れたみたい。だけど、私たちは、ここを通り抜けないと戻れないわ。」


 ホノカさんはそう言っているが、ちょっと迷っているようだ。


「どうすればいいいんだ?」

「ナズナさん、ツバキ君。これから絶対に私の手を離さないでね。」


 俺が問いかけると、ホノカさんが手を差し出してきた。


 俺がホノカさんの右手を

 ナズナは、ホノカさんの空いた左手を


 ナズナと俺は、迷わずその手を掴む。


 その瞬間、不思議な感覚に包まれた。

 まるで、ホノカさんの存在が、この漆黒の空間から俺たちを守っているかのような安心感。


 ホノカさんこそが命綱なんだ。

 

 俺は彼女を頼りつつも、ナズナと共に無事にここを抜け出すために進むことにした。


「さあ、行くわよ。」


 ホノカさんがそう言って扉の向こうへと進み始めた。

 ゆっくりとした様子だ。

 一歩、また一歩。

 ドアを俺たちも潜り抜ける。


「先輩、気を付けて。このドア。ちょっと狭いですよ。」

「分かった。」


 俺とナズナはやり取りをしながら、窮屈ながらドアを潜りぬける。

 ホノカさんはちょっと先で待っているようだ。


「いい?二人とも。」

「はい。」

「はーい。」

 

 こんな状況でも、元気に返事をするナズナ。

 気を使って、元気そうに見せているのかもしれない。


 俺たちは闇の中へと進んでいく。

 この空間の異様さは、言葉では表現できないほどだ。

 まず、無音ではない。

 もっと正確に言うならば、感覚だ。

 いうならば、身体の中から聞こえる脈動する音のような感じが全身に伝わっている。

 

 どこかむせ返るような血や膿の匂い。

 いや、匂いや音、その他の感覚器官に働きかけるような雰囲気が漂っている。

 死を連想させる空間。


 歩みを進めるにつれ、周囲から明確な音が聞こえ始めた。

 かすかに聞こえる、悲鳴や泣き声のようなもの。


「この声は?」

「ここに取り残された魂たちよ。関わってはダメよ。気にせずに進んで。」


 ホノカさんの声は的確に答える。

 そうだ。

 俺たちはホノカさんの手を握り、それを指針に先に進まなければ。


 俺たちは黙々と歩を進めていた。

 どれくらい歩いただろうか。

 5分しか歩いていない気がするし、一日近く歩いた気もする。


 この空間の圧倒的な雰囲気。


 鼻や耳、皮膚を通してではない。

 何か、むせ返るような感覚が直接、脳に伝わってくる。


 その主張は様々だが、一つだけ共通していることがある。

 死だ。


 そのぼやけていながらも、感じることが出来る奇妙な状況によって。

 俺の時間感覚が完全に失われている。


 このまま、ここにいると、頭がおかしくなりそうだ。


「ツバキ君。ナズナさん。絶対に手を離さないで!」


 何度もかもしれない、ホノカさんの言葉。

 それによって、気力が少しだけ回復する気がする。


 癒し。

 まるで、生きるための力のようなものが、ホノカさんから注入されている気がした。

 それを気力に俺は先に進む。


「先輩!頑張りましょう。」


 ナズナは俺に声を掛けることで奮い立たせているようだ。


「ああ!」


 そう答えたとき、突然、俺は立ち止まりそうになった。

 背中に冷たい視線を感じたのだ。


 振り返らなければならない。

 ここで確認しなければ、絶対に後悔する。


 俺は足を止めた。

 手を繋いでいるので、ホノカさんの歩みも停まる。

 次いでナズナもだ。


「どうしたんですか、先輩!」


 ナズナが問いかけてきている。

 しかし、俺はそれどころじゃない。

 とにかく、後ろを振り返りたい。


 後ろが気になる。

 後ろを見なければ。前に進んでいる場合じゃない。

 そう、後ろで俺を見ている。

 後ろに進んで確認ければ。

 後ろに進む。

 後ろ後ろ後ろ後ろ後ろ後ろ後ろ後ろ後ろに後ろが


「ツバキ君!止まらないで。引き止めようとしているわ」


 ホノカさんの言葉で、俺の思考がストップした。 

 そして、俺は気がついた。

 俺の思考が奪われそうになっていたことに。


 何か後ろの存在によって、俺の思考が奪われかけていた。


「ああ、分かった。すまない。」


 俺は、ホノカさんによって、その負の思考を断ち切ることが出来た。

 危ない。

 油断も隙も無い、とはこのことだろう。

 

「ツバキ君の方に行ってくれて良かったわ。」

「えっ?」


 どういう意味だろうか。


「さあ、進むわよ。二人とも。」


 ホノカさんは、再び、歩みだした。


「分かりました。」


 ナズナが答えている。


「分かった。行こう。」


 俺も、そう答えることにした。


 それからは、むせ返るような死に満ちた漆黒の空間を進んでいく。

 腐敗した死体とともいると、その匂いに慣れていくように

 俺は、この雰囲気に慣れてきている気がしてきた。


 その時だった。


「あっ!」


 ナズナの悲鳴。


「誰かが足を掴んで…!」


 俺は思わず、ナズナの足を見た。

 何もない。


「ツバキ君。そのままで!」


 そう言ったホノカさんの身体が、一瞬、白く光った。

 周囲のむせ返る死の雰囲気が瞬時に消え去る。


 しかし、目が眩むような一瞬の光が消えるとともに、再び、漆黒の闇が戻ってきた。


「ナズナさん。足は動きそう?」

「あっ、はい!ありがとうございます。ホノカさん!」


 ナズナは、助かったようだ。

 

「あと少しよ。がんばって!」


 ホノカさんは、手短に励ます言葉を口にする。

 そう彼女がいなければ、俺たちは何度、ここで得体の知れないものに捕まってしまったことやら。


「分かった!ナズナ、進もう。」

「はい!」


 俺は、ホノカさんの励ましで、ちょっとばかし、気力が回復した気がした。

 俺たちは、死から抜け出すように、この漆黒の先に進む。


 淡々と、しかし確実に。


 そのとき、遠くに光が見えた。

 まるでトンネルを抜けるときのように、出口らしきものが見えてきたのだ。


「あれが出口ね。急いで!」


 俺たちは光に向かって進みだした。


 背後では、得体の知れない主張が届く。


 悲痛な思い。

 感情の塊のようなもの。

 それが俺たちをこの地に留まらせようとしてくる。


「もう少しよ!」


 ホノカさんは、俺とナズナの手を強く握り、先へと進んでいく。


 光が近づいてくる。

 あと数メートル…。

 あと1メートル…。

 あと…。


 その瞬間、背後から強烈な引力を感じた。

 まるで、闇そのものが俺たちを引き戻そうとしているかのようだ。


「絶対に手を離さないで!」


 ホノカさんはそう言った。


 そして——。

 眩しい光の中へ飛び込んだ瞬間、意識が遠のいていく。


「一度、異界に足を踏み入れた者は、異界へ引き寄せられやすくなるの。でも、大丈夫。私はいつもあなたたちのそばにいるから」


 ホノカさんの声が、遠くから聞こえてきた。


 目を開けると、そこは病院の正面玄関だった。

 明るい日差しが差し込み、人々が普通に行き交っている。

 まるで、さっきまでの出来事が嘘のようだ。


 俺は確認するように周囲を見回す。

 先ほど、あの屋上で見た赤い原色のような空とは対照的な光景だ。

 柔らかな夕暮れの光が広がっていた。


 病院の自動ドアが開閉する音、人々が歩く音や会話を交わす人々の声。

 そして、通りを行き交う車のエンジン音。

 それらは間違いなく、現実世界の音だった。


 消毒液の香りが僅かに混じる、病院特有の空気。

 その空気の匂いの雰囲気というものがあるならば、それは先ほどまでとは全く違う。


 ここは、俺が知っている病院なのだ。


「先輩?」


 ナズナが俺に訪ねて来た。

 彼女の手は、まだ俺の手をしっかりと握ったままだ。


「俺たちは、無事に戻れたみたいだ。」


 そう言いながらも、俺は周囲を警戒するように見回していた。

 しかし、そこにあるのは日常の風景だけだった。


 しっかりと確認をした俺は、ナズナと顔を見合わせる。

 そこには、どこか安堵の表情がある。


「ホノカさんは…?」


 ナズナが小さな声で尋ねる。

 俺も周囲を見回したが、ホノカさんの姿は見当たらなかった。

 

 しかし、あの漆黒の闇で感じていたホノカさんの存在感を微かに感じていた。


 だからおそらく、彼女は近くにいるのだろう。

 目には見えないけれど、確かにそこにいるのだ。

 きっと、俺たちを見守っているのだろう。


「きっと、俺たちを見守ってくれてるさ」

「そうですね。」


 ナズナは微笑みながら答える。

 まるで太陽のように輝くナズナの笑顔。


 俺は、そんな彼女の頭を優しく撫でた。

 しばらくそうしていたが、突然、ナズナは恥ずかそうな顔をした。


「先輩。いいんですけど。あの。」

「なんだ。」

「ここ、人前です。」


 ああ、そうだ。

 俺は気が付いた。


「ああ、すまんすまん。」

「もう。」


 照れているナズナも可愛いな。

 俺はそう思った。 


「じゃあ、帰ろうか」


 俺は珍しく主導権を握った。

 ナズナの手を取る。


「あっ、もう。」


 ナズナは何かを言いたげだったが。

 無言でついてきた。


 俺たちは、病院の前にあるバス停にまで一緒に歩いていく。


「次のバスまで時間がありますね。」


 ナズナの声。


「ああ、待つか。」


 俺はナズナと共に、バスが来るのを待つことにした。


 バス停のベンチに座りながら、俺は空を見上げた。


「先輩、大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫だ。ただ、さっきまでのことが夢みたいで…」


 俺はさっきのことを思い出す。

 夢。

 それも思いっきり悪夢の分類だ。


 病院のような異界での出来事を、どう受け止めればいいのか分からない。


「私も同じです。でも、先輩と一緒に体験したから、夢じゃないって分かります」

「そうだな。ただ俺は、ナズナと一緒で良かったと思う。」


 柄もなく、俺はそう言ってしまう。

 だって怖かったんだもん。

 

 でも、ナズナは俺のことを茶化したりしてこなかった。


「もう、先輩ったら…」


 珍しく純情な反応だ。

 ナズナの頬が少し赤くなっている。


「えへへ。」


 ナズナはちょっと笑うと、照れ隠しのように、ナズナは俺の肩を軽く叩いてきた。

 …やっぱり、いつものナズナだ。

 いつもの感じ。

 その様子に俺は安心した。


「帰りはどこかに寄ってから、帰りますか?」

「そうするか。」


 そうだ。

 なにか夕食の材料でも買って帰ろう。


 その時、遠くにバスが向かってくるのを見た。


「あっ、バスが着ました。」

「また、このバスから異界へ行ったりしてな。」

「やめてくださいよ、もう。」


 ナズナは、もううんざりといった様子だ。


 俺たちは、バスに乗るために立ち上がった。

 

 そして、俺はスマホを開く。

 時間はまだまだ夕方。

 夜までは時間がある。


 バスが到着する。

 バスからは、人が吐き出される。


 そして、俺たちの周囲の人たちもバスに乗り込み始めた。

 その行列にしたがって、俺とナズナもバスへと乗り込む。


 いつものように、ナズナと一緒に席に座る。

 俺とナズナは隣り合うように座った。


 そうすると、バスが動き出す。

 窓の外の景色が流れていった。


 その夕暮れの街並みが、ここが平和であることを物語っていた。

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