第16話


 俺たちは血液・一般検査室を出た。

 5階の廊下に戻ると、相変わらずの暗さが広がっている。


 ホノカさんは先に進んでいる。

 そう、これから屋上へ向かうのだ。


「屋上か…」

「先輩、エレベータで行けますかね?」


 ナズナが俺に尋ねる。

 確かに、エレベータが動くようになったのは事実だ。


「エレベータのボタンに屋上があればいけるだろ。」

「そうだったら、一番いいわね。」


 ホノカさんは何か含みがある様子だったが、そう言ってくれた。

 ま、この異界じゃ何があってもおかしくはない。


「だけど、それは難しいかもしれないわ。たぶん、エレベーターは屋上まで行かないわ。エレベータを最上階で降りて、そこから階段を使うことになるでしょう」


 そのホノカさんの説明を聞きながら、学校の屋上のことを俺は思い出していた。

 立ち入り禁止のあれである。

 ここもそんな構造なのかな?

 と、くだらないことを俺は思った。


「じゃあ、まずはエレベーターで最上階まで行きましょう」


 ナズナの提案に、俺たちは同意した。

 5階の廊下を歩き、エレベーターに向かう。

 スマホのライトが、周囲の闇を少しかき消してくれる。


 エレベーターに到着すると、ホノカさんがボタンを押した。

 しばらくして、エレベーターが到着する音が聞こえた。


 扉が開く。

 俺たちは中に入った。


「RFって書いてあるボタンがありますね」


 ナズナが指摘する。

 確かに、屋上であることを示す「RF」というボタンがあった。


「でも、先輩。こんなボタン、さっきありましたっけ?」


 ナズナがそんなことを言っている。


 …確かに、そんなボタンってさっきまであったけ?

 でも、まあ。

 今あるんだからいいだろう、俺はそう思った。


「まあ、良く見てなかったから、さっきもあったんだろう。」

「えー。でも、こんなボタン。さっきは絶対なかったと思うんですけど。」


 ナズナは自信ありげだ。


「うーん。」

「ホノカさん、このボタンでいいと思いますか?」


 俺が悩んでいると、ナズナはホノカさんに聞いている。


「ナズナさん、そこを押しましょう」


 結局、俺とナズナは、ホノカさんの言葉に従うことにした。

 俺がその「RF」ボタンを押す。


 エレベーターが上昇を始めた。

 静かな上昇が続く。

 俺たちは、エレベータが到着するのを待った。


 ガタン


 エレベーターが止まり、到着を知らす音とともに扉が開いた。


「着いたわ」


 ホノカさんが言う。

 俺たちは、エレベーターを降りた。


 RFの階は、これまでの階とは少し様子が違っていた。

 白く清潔な綺麗な内装ではなかった。

 壁はコンクリートがむき出しだった。

 非常灯の明かりはそのままだが、雰囲気が異なる。


 病院というよりも、工事現場のような。

 まるで、建物の裏側に迷い込んだかのような印象だ。


「へぇ…。」


 周囲をスマホで照らしながら、ナズナが見ている。


 その時だった。

 音が遠くから聞こえてきた。


 キィキィ…


 聞き間違いのない、あの車いすを押す音だ。

 

「あっ!」


 ナズナが小さく悲鳴を上げる。


「あの音は…」


 俺が言いかけると、ホノカさんが頷いた。


「階段へ!」


 ホノカさんはそう言って、俺たちを引っ張っていく。

 俺たちは、急いで廊下を進む。


 そう。ここもこれまでのフロアとは、内装や雰囲気こそ違うが、建物の構造は同じなのだ。

 俺たちは階段の方向へ向かっていく。


 キィキィ…


 音は確実に近づいてきている。

 俺は思わず、肩に掛けた保冷バッグを強く握りしめていた。


「ナズナ!」


 俺はナズナの手を握る。


 ホノカさんを先導に、ナズナ、最後に俺が廊下を走る。

 その工事現場のような廊下を無我夢中で走った。

 途中にある非常灯の明かりだけが俺たちの行く先を照らしていた。


「もうすぐ、階段よ!」


 ホノカさんが叫ぶ。


 その先には、確かに階段があった。

 階段に到着すると、そのまま上り始める。


「はぁ…はぁ…」


 息が上がる。

 しかし、立ち止まるわけにはいかない。


 この階段を使えば屋上だ。


「急いで!」


 ホノカさんの声に促され、俺たちは階段を上っていく。


 RFから屋上へ。


 自分たちは階段を上る。

 そして、階段を登り切りそうとなった。

 屋上直前には、踊り場が見える。


 そこにはアルミサッシと窓によって構成された開き戸が設置されている。

 その様相は、まさに勝手口のようだ。

 おそらく間違いなく、屋上へと続いている扉に違いない。


 ただ、その勝手口のドアにある窓から光は差し込んできていない。

 つまり、その先は真っ暗のようだ。

 何も見えない。


 これは進んでも大丈夫なのか?

 しかし、後ろから追手が来ている以上、選択肢はない。


 俺たちは階段から、その扉の前へと進んだ。


「開けるわ!」


 先導するホノカさんはそう言って、その勝手口のようなドアノブに手を掛けた。

 ドアノブは回っているみたいだ。

 ホノカさんが手をかけると、意外にもすんなりとドアが開いた。


 ドアを開けた先が見えた。

 夕日か?

 オレンジ色の光が見えた。

 いや、それにしては何かがおかしいけども。


「出られるわ!ついて来て!」


 ホノカさんは、そう言って俺たちを先導する。


 そして、俺たちは屋上に出た。

 周囲を確認した俺は、その目の前に広がる光景に言葉を失った。


「これは…」


 空が、真っ赤だった。

 まるで原色の赤をそのまま空にぶちまけたかのような、異様な光景。

 それは夜でも夕方でもない、地球上ではありえない大気。


 太陽や雲は一切見えない。ただただ、赤い空が一面に続いていた。

 その空は、まるで地獄のようだった。


 俺は息を呑んだ。

 ナズナは俺の腕にしがみついていた。


「ツバキ君、ナズナさん。気をつけて」


 ホノカさんの声に、我に返る。


 周囲を確認すると、病院を構成している鉄筋コンクリートが床になっている。

 その病院の屋上には、エアコンの室外機だろうか。

 設備らしきものが並んでいた。

 その向こうに、人のようなものが見えた。


「あれは…」


 俺が言葉を失っていると、その人のようなものがこちらに向かって動き始めた。

 しかし、それが近づいてくると分かった。

 それは人の形をしていたが、明らかに人間ではなかった。


 異様に長い手足。

 首も、まるでゴムのように伸びている。

 そして、その目は…血走っていた。


 その存在が俺たちに向かって走ってきている!


「ツバキ君、輸血パックを!」


 ホノカさんの声に、俺は我に返る。

 急いで保冷バッグから輸血パックを取り出した。


「遠くへ投げて!」


 ホノカさんの指示に従い、俺は輸血パックを遠くに投げた。


 その瞬間、その存在は走る向きを変えた。


 まるで、向かっていく目標を俺たちから輸血パックへ変更したかのようだ。

 その首の長い存在は、一目散にそれは輸血パックへと走り出している。


「二人とも、その場にいて!」


 ホノカさんが叫ぶ。

 同時に、彼女を中心に強烈な光が放たれた。


 俺は全く目が見えない。

 白い空間に満ちていた。


 しかし、目が眩んだのは一瞬だけだ。


 その一瞬が終わると、また、地獄のような赤い空の屋上へと戻ってきていた。


 遠くで、あの存在は苦しそうに身をよじっている。


「消えない…」


 ホノカさんの声が聞こえた。

 悪霊は弱っている様子だが、完全には消滅していない。


 その存在は、再び輸血パックから俺たちへと目を合わせた。

 そのペースが幾分とスローダウンしていた。

 まるで負傷して、足を引きずるかのような様子だ。


 しかし、ゆっくりとはいえ、その存在はこちらに向かってきた。


「逃げるしかないわ。」


 ホノカさんは、諦めたかのようにそういった。

 その声に俺とナズナは、屋上に入ってきた勝手口のほうへと進もうとした。


 その時だった。

 いつの間にか、車いすを押してくる看護師がいた。

 それも、屋上から階段へと続く扉の前に立っている。


 逃げ道がない。


「ホノカさん。囲まれた!」


 俺は口にした。


「先輩!どうすれば…。」


 ナズナもパニックに陥りつつあった。


「二人とも!こっちよ。」


 ホノカさんは、俺とナズナの手を引いて走り出した。

 俺たちはホノカさんについていく。


 大丈夫なのだろうか。

 俺たちは、車いすの看護師とも、屋上の存在からも離れた場所へと移動する。


 意外なことに車いすを押す看護師は、俺たちの方には関心を示していなかった。

 看護師は、まっすぐにその屋上の存在へと向かっているようだった。


「こっちに来ないのか。」


 俺は呟く。

 そして、よく見ると、車いすの看護師の後ろには様々な霊が見えた。

 どれも明らかに人間としてはどこかが欠損していたり、もはや原型のない形をしていたりしている。

 それらの霊が、車いすの看護師を先導にして、一斉に屋上の存在へ向かって押し寄せていっている。 

 俺たちの存在など目もくれないようだ。


「ホノカさん?これは…。」

「彼らは全員、あの屋上の悪霊に恨みがあるみたいよ。」


 まるで大量の霊による濁流のようなものが発生していた。


 緩慢な動作しかできない屋上の存在には、どうすることもできないようだ。

 やがて、押し寄せてくる大量の霊による濁流によって、屋上の存在が捕まってしまった。

 その濁流によって、屋上の存在は無力にも押し流されていく。

 そして、その濁流の流れによって、その存在は屋上というスペースの隅へと押しやられていった。


 今や、フェンスと霊の濁流によって、その存在は押し付けられていた。

 そして、ついに屋上のフェンスがなぎ倒される。


 ズドン!


 最後に何かが屋上から落とされる音が聞こえた。

 その音を最後として、周囲が静寂に包まれた。


 絵の具のような赤い空の下、屋上には何もいなくなった。

 無音が満ちている。


「終わったの…?」

「ええ、一応は」


 ホノカさんは、優しくそう言った。


「良かった。」


 俺は安堵からか、そのセリフを心の底から吐き出した。


「でもまだ、安心するのは早いわ。」

「え?」


 俺は驚いて周りを見回す。赤い空はそのままにだった。

 エアコンの室外機のようなものも、屋上らしい風景もそのままだ。

 

 しかし、何か違和感を感じる。


「これは…」


 ホノカさんが俺たちに向き直る。


「急いで。屋上のドアへ向かって」


 俺とナズナは指示されたとおりに、急いで勝手口のようなドアに向かう。



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