第12話


 俺とナズナは、病院の廊下を進んでいた。

 目の前は曲がり角が見える。


 廊下の周囲にある病室からは、人の気配やガヤガヤとした環境音が聞こえている。

 そんな病院の一角。

 廊下。


 この廊下の曲がり角の先には、ナズナの友人がいる病室、405号室があるはずだ。


 しかし、そこで俺は歩みを止めた。 

 この先の曲がり角を曲がると、何かが起こりそうだ。

 その何か奇妙な予感めいた感覚が頭を支配する。


 俺は立ち止まった。


「先輩?」


 ナズナが不思議そうに俺を見た。


「ちょっと、ちょっと。待ってくれ。なんか…変な感じがする。」


 俺は周囲を警戒するように見回した。


 しかし、特に変わったところは見当たらない。

 ごく普通の病院の廊下。

 清潔感に満ちた白い空間だ。


 それを確認すると幾分、違和感が和らいだ。


「先輩、大丈夫ですか?」

「ああ、すまん。気のせいかもしれない。」


 そう言いつつも、俺の中の違和感は消えなかった。

 しかし、ここで立ち止まっていても、仕方がない。


「行こうか。」


 俺はナズナに声をかけ、再び歩き始めた。

 曲がり角に差し掛かる。


 曲がった先の病室は、おそらく404号室だろう。


 俺とナズナは、曲がり角を曲がった。

 その曲がった先は…


「え?」


 思わず声が漏れた。


 周囲が一変していた。


 昼間のはずなのに、廊下は真っ暗だ。

 いや、この状況は確実に昼間などではない。

 夜。

 夜となっている。


 真っ暗闇の廊下だ。


 曲がり角を通過したとたんに、周囲が切り替わったかのようだ。

 ついさっきまでしていた、周囲からの音はなく。

 周囲には人の気配など、まったくない。


 いつの間にか、俺とナズナは夜の病院にいた。

 先ほどまでの廊下にはいる。

 しかし、今やここは暗闇に支配されていた。


 …いや、正確には、廊下のところどころに設置されている非常灯の光のみが、その周囲を照らしていた。


 その非常灯の明かりは、無機質な白い明りだ。

 遠くが全く見えないということはない。

 周辺にあるモノの輪郭くらいは、かろうじて見える、といったくらいの明るさ。


 しかし、周囲の暗さと合わさっている様子は、不気味の一言だ。

 まさにここは、夜の病院だ。


「先輩…これ…」

 

 隣にいるナズナが戸惑っていた。

 どうやら、夢ではないようだ。


 遠い先にある廊下の突き当りには、まったく光が届いてない。

 おそらく、窓の外は漆黒の闇だろう。

 なぜなら、光が差し込んできていないからだ。


「スマホのライトをつけよう。」

「は、はい。」


 ナズナは、俺が言ったようにスマホのライトをつけた。


 俺もライトをつける。

 そして、周囲を照らす。


 スマホのライトの光は、闇に吸収されるように、余り機能していない。

 心許無いが、無いよりはマシだろう。


「先輩、エレベータに戻りましょう!」

「そうだな。」


 俺とナズナは、曲がり角を戻ろうとした。


 その時、だった。 


 廊下の奥から、不気味な音が聞こえ始めた。

 キィキィという、車輪が軋むような音がする。

 俺は、スマホのライトを向ける。

 何かが見えた。


「先輩、あれ…」


 ナズナがスマホを向けながら、呟く。

 

 車椅子に乗った人物。

 そして、それを押す看護師。


 この暗い廊下で?

 明かりもつけずに?


 明らかにまともじゃない。


 俺は、スマホを向けてよく見る。


 何か車いすに乗っているのは、人ではない。

 …いや、人ではあったんだろう。


 人のようなもの。

 皮膚は水ぶくれによって、大きく変貌している。

 車いすに乗っているからこそ、なんとなく原型を想像できるが。

 もし、そうでなければ、それは単なる肉塊としか認識できなかったかもしれない。


 車いすに乗っているのは、腐乱死体だ。

 もちろん、医療的にはまったく運ぶ意味などない。


「ナズナ、逃げるぞ!」


 俺は咄嗟にナズナの手を取り、来た道を引き返し始めた。


 俺たちは全力で走った。

 背後では、相変わらず、キィキィという音が聞こえてきている。


 真っ暗とはいえ、廊下の構造は変わらない。


 406、407、408…

 それらの病室の前を走る。


 そして、ナースステーションの前を通る。

 エレベータが見える。

 もうすぐだ。

 すぐにエレベータに到着する。

 車いすを押す音は、遠ざかっている。

 しかし、それは俺とナズナが走っているからで、走ることをやめたら、すぐに追いつかれてしまう気がした。


「先輩、もうすぐです!」


 ナズナと俺は滑り込むように、エレベータの前に到着する。


 そして、スマホのライトを当てる。

 エレベータのボタンを確認して、下りのボタンを連打する。


「反応ないです!」


 何度押しても、エレベーターは動かない。

 まるで電力が供給されていないように、まったく動いていない。


「くそっ…」


 俺は周囲を見回した。

 ナースステーションに逃げるか?

 いや、あれは受付の窓から入ってこられそうだ。

 ダメだ、どうすればいいんだ。


「先輩、階段!こっちに階段があります!」


 ナズナの声に、俺は我に返った。

 エレベータから、さらに進んだ先に階段があるようだ。

 奥には非常口を示している明かりが、ぼんやりと周囲を照らしている。


「ナズナ、分かった。行こう。」


 俺はナズナの手に引かれて、階段のほうへと進む。


 キィキィ…。


 その間にも、背後から聞こえる音が、後ろからどんどん近づいて来ていた。


「1階へ行きましょう!」

「分かった!」


 俺とナズナは、階段を駆け下りる。

 一階。

 出口さえ見つければ…


 窓の外から光が入ってきていない、そこが気になるところではあるのだが。

 出口だ。

 とりあえず、一階へいこう。


 4階から1階まで一気に階段を降りるのだ。

 階段には、踊り場に設置された非常灯の明かり以外に、何もない。


「気をつけろよ。」

「はい!」


 足元に気をつける。

 こんなときにケガなんて目も当てられない。


 とはいえ、小走りに俺とナズナは階段を駆け下りて行った。

 たいした時間もかからずに、1階の廊下へと降りてくることに成功だ。


 1階の廊下も、4階の廊下のように真っ暗だった。

 非常灯の光によって、周囲が辛うじて確認できる。


 しかし、聞こえてきていた。

 キィキィという音だ。


 それは廊下の遠くから聞こえた。


「ああ、先輩!います!あれが!」


 俺の手を引いているナズナが叫んだ。

 そう。非常灯の明かりによって、遠くでうっすらと動いている者が見えた。 


 スマホのライト向ける。


 先ほど4階で見た、車椅子を押す看護師の姿があった。

 この階段は、廊下の突き当りに設置されていた。

 あの看護師は出入り口の方向を塞ぐように、こちらへ近づいてきているのだ。


「上だ!」

「はい!」


 俺はナズナの手を引く。

 これまで来た道を戻る。再び階段を上り始めた。

 ナズナも黙って従う。


 1階から2階へ。

 階段を一気に駆け上がった。


 そして、2階の廊下へと階段から観察する。

 音は聞こえていない。


 相変わらずの暗さの中、廊下の遠くをスマホのライトで確認する。

 2階には今のところ、あの車いすを押す看護師はいないようだ。


「よし、進むぞ。」

「はい。」


 俺はナズナの手を引く。

 そして、進みがてらに見つけたスイッチを押した。

 おそらく、廊下にある傾向のスイッチ。


 蛍光灯はつかない。

 まあ、想定内ではある。


「ダメですね。」

「そうだな。」


 俺たちはつかないことを受け入れる。

 そして、スマホのライトの明かりを頼りにさらに進む。


 エレベータが見えてきた。


 とりあえず、エレベータのボタンを押す。

 反応は全くない。


 エレベータは使えないようだ。


「ダメですね。」

「ああ。」


 俺たちはすぐに諦めた。

 別の手段が必要だ。


 俺はナズナの手を引いて2階の廊下を進んだ。

 ナースステーションを抜けて病室を確認する。

 214号室。


 俺は、その病室を開けようとする。

 開かない。


「ナズナ、開かない。」

「手伝います!」


 ナズナと俺は、その引き戸に力を掛けて開けようとする。

 しかし、スムーズに開閉するはずの扉はまったく動かない。


「ダメですね。」

「試しに隣の部屋も試してみよう。」


 俺は隣の部屋も同じように手をかけた。

 ナズナと俺の二人で動かそうとしても、ビクとも動かない。

 どの病室のドアも、まるで溶接されたかのように固く閉ざされていた。


「先輩、何か手がかりがあればいんですけど…」


 ナズナは周囲を警戒している様子でそう言った。

 確かにそうだ。


 俺も正直、これからどうしたらいいのか分からなかった。


 周囲を見回す。


 廊下。病室。遠くには2階のナースステーション。

 さらに奥には、登ってきた階段だ。

 そして、反応のないエレベータ。


 スマホのライトが照らす範囲は狭く、その先は深い闇に包まれている。

 非常灯の光も、弱々しく感じる。


 その時だ。


 キィキィ…


 遠くから、あの忌まわしい音が聞こえてきた。


「くそっ、また来やがった」


 音は確実に近づいてきている。


 しかも今回は、階段の方から音が聞こえてきた。

 つまり、この2階の廊下を突き当りまで進むしかない。


 しかし、突き当りまで行ったあとは?

 もう、その後がないのだ。


 ナズナの手を引いて、俺は廊下を走り始めた。

 まっすぐ進む。

 そして、曲がり角を曲がる。


 周囲の様子は、4階と同じだ。

 そして、曲がり角を曲がった先にいる俺たちには、廊下の突き当りまでは見えない。

 しかし、どの階も同じ構造であるならば。

 この廊下の先は行き止まりであることは、確実だ。


「先輩、あそこ!」


 ナズナは、トイレを指さしている。

 そう、その扉がちょっとだけ開いているのだ。

 ということは、中に入ることが出来るだろう。


「分かった!」


 その目についたトイレに入ることにした。

 俺はナズナと共に、トイレへと入る。

 女子トイレだが非常事態だ。


 俺たちが、トイレへと駆け込む間にも、後ろから音が聞こえてきた。


 トイレの中に入ると、薄暗い空間が広がっていた。


 天井には蛍光灯が取り付けられているが、廊下と同じように完全に消灯していた。

 その代わりに、非常灯らしき小さな赤い光が、かすかに空間を照らしていた。


 スマホのライトで照らすと、清潔感のある白いタイルの床と壁が見て取れた。

 光沢のある表面が、スマホの光を反射して、一瞬まばゆいほどの輝きを放つ。

 トイレには、4つの個室が整然と並んでいる。


 学校などにも見られるような、仕切りの個室だ。

 床から天井まで届かない仕切り板は、上部と下部に少し隙間がある。


 扉は個室側にドアが開くタイプの開き戸だ。


「こっちです。」


 ナズナが俺の手を引いた。


 俺はナズナと共に、トイレの個室へと入った。

 入ったのは、一番奥の個室。

 トイレの手前から数えると4番目の個室だ。


 個室に入った俺とナズナは、個室の扉を閉める。

 そして、真っ先に中から鍵をかけた。

 俺たちは、無言でスマホのライトを消した。


 狭い空間に二人で押し込められ、お互いの息遣いが聞こえるほどの空間だ。


 その暗闇の中で、俺たちは息を潜めた。

 目が慣れてくると、かすかに個室の輪郭が見えてきた。


 しばらくすると、トイレの外からキィキィという音が聞こえてきた。

 俺とナズナは、まるで息をするのも忘れたかのように、じっと耳を澄ます。


 俺は心の中で祈った。

 頼む、このままトイレを通り過ぎてくれ…。


 キィキィ…


 しかし、その祈りは届かなかった。

 その音は廊下を通り過ぎていかなかった。


 ドタン!


 トイレのドアが開く音がした。 


 キィキィ…

 

 音は、こちらへと確実に近づいてきた。


 あの車いすの看護師は、このトイレの中に入ってきたのだ。

 呼吸をする音すら潜めている。

 だけど、俺は無意識のうちに、ナズナの手を強く握っていた。

 するとナズナも俺の手を握り返してきた。


 キィキィ


 トイレ内を車いすが移動する音だけが響く。


 悪夢とはこのことだろう。

 そう、俺が小さなころに見た、どこまでも何かに追われる夢。

 それは、今の状況そのものだった。


 あれには、俺たちがトイレに入ったのが分かっているのだろうか?

 曲がり角で俺たちの姿は見えていなかったはずだけども。


 キィキィ


 車いすを押す音が止んだ。

 無音が続く。


 ドタン!


 トイレの個室を開ける音が響いた。

 出入り口からみて、一番手前の扉を開けたようだ。


 もちろん、そこには中に誰もいない。


 看護師は、個室の扉を開けることで中に人がいるのかを確認しているようだ。


 キィキィ


 続いて、車いすが動く音がした。


 どうやら看護師は、トイレの中を入念に調べている。

 俺たちがいる個室は、部屋の出入り口からだと4番目だ。

 あと、3個…


 ドタン!


 手前から2番目の個室のドアが開けられる音が響く。

 もちろん、そこに誰もいない。


 キィキィ。


 車いすが動く音がする。

 俺はどうすればいいのか、考える。

 しかし、逃げる場所はない。

 何も出来ない。


 ドタン!


 扉を開ける音が響いた。

 なにしろ、俺たちのいる隣の個室を開けているのだ。


 キィキィ


 俺とナズナは息を潜めて、じっと耳を澄ました。

 車いすの音は、この個室のすぐ前で止まった。


 そう、次は俺たちのいる個室を確認する気なのだ。


 ドン!


 扉を開けようとした。

 しかし、鍵がかかっているので、開くことはない。


 ドン!ドン!ドン!


 開けようとする音が激しくなっていく。

 俺とナズナは、開きそうになる扉を全力で抑える。


 扉が開かないように。

 願わくば、この扉が壊れませんように。


 しばらく、扉を抑えていると、やがて音がしなくなった。

 諦めたのか?


 俺とナズナは、無言のまま扉を抑える力を緩める。

 お互いの顔を見合わせる。

 息を潜めているが、ちょっとだけ安堵が漂った。


 助かったのかもしれない。

 俺はそう思った。


 しかし、ナズナの顔を見ると

 何かを凝視していた。


「あっ!あっ!」


 ナズナが息を吐きだすかのように何かを発しようとしているが、意味を成すことはない。

 ナズナは、天井のほうを見ている。

 俺も、その方向を見た。


 トイレ個室の仕切り板。

 天井まで届かない仕切り板は、上のほうに少し隙間がある。

 そこから、車いすを押していた看護師が俺たちを覗いていた。


 俺の血が凍りつく思いがした。


 仕切り板と天井の間、そこから覗き込む看護師の顔は、人間のそれではなかった。

 目は異様に大きく見開かれていた。


 俺は、とっさにナズナを抱き寄せる。

 何がなんでも、彼女を守らなければ。

 そう思った。


 その時だった。

 周囲は真っ白な光に包まれた。

 まるで、目の前でフラッシュを焚かれたかのような。

 強力な光源が発生していた。


 何も見えない。

 白い空間しか見えなかった。

 しかし、それは一瞬だけだ。


 すぐに光は止んだ。

 目が慣れない。

 しかし、トイレの個室のままだった。


 びっくりして俺は、仕切り板と天井の間を見た。

 しかし、そこには誰もいなかった。


「二人とも、扉を開けていいわよ。」


 ホノカさんの声がトイレの個室の外から聞こえた。


「ホノカさん!」


 ナズナが個室の鍵を開けようとした。

 罠ではないだろうな?

 いや、でも。

 

 俺は先ほどの光はホノカさんだと感じていた。

 だから大丈夫だと踏んでいる。

 まあ、どちらにしても、この個室に永久にいるわけにはいかないのだ。


 俺はナズナが鍵を開けて、扉を開けようとしたのを止めなかった。

 ナズナが、トイレの扉を開けた。


 腰まで伸びる黒い髪。

 すらりとしたスタイル。

 セーラー服姿にもかかわらず、どこか年上らしき雰囲気の美人。

 ホノカさんで間違いない。


「良かった。」


 ナズナは、ホノカさんに抱き着いていた。

 俺は再会を喜んではいたが、どう反応すればいいのか、分からない。

 おそらく、固まっていた。

 ここに来るまでに、いろいろなことが在りすぎた。

 何か余裕がないのだ。


「二人とも、とりあえずトイレから出ましょう?」


 そのホノカさんの言葉に、俺は従うことにした。

 ホノカさんの近くにいるナズナもそれに頷いている。


 そして、俺たちはホノカさんに従って、その女子トイレから廊下へと出た。


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