第9話


 バスがトンネルに入った瞬間、周囲の景色が一変した。

 窓の外には何も見えず、ただ深い闇が広がっている。

 トンネル内のはずのランプや標識も一切見えない。

 まるで、俺たちを乗せたバスだけが、無限の闇の中を進んでいるかのようだ。


 唯一の光源は車内灯だけだ。

 それも、最近の省エネ志向なのか、薄暗い。

 その微かな明かりが、バス内を照らしている。


 俺たちはバスの一番後ろの広い座席に隣り合って座っている。

 俺の隣にナズナ、そしてナズナの横にホノカさんだ。

 この状況さえなければ、まるで修学旅行のような雰囲気かもしれない。


 ふと、場違いな考えが頭をよぎる。

 ホノカさんが神様だってことは別として。

 女子高生のような二人を連れ歩いている今の俺って、どう見えるんだろう。


 そんな思考の最中、バスが大きく揺れた。


「ガタン」


 車内灯が一瞬チラついたかと思うと、すぐに元に戻る。

 しかし、何かが変わった気がする。

 まるで誰かが前の座席にいるような、そんな気配を感じた。


 目を凝らして見ても、確かに俺たち三人以外には誰もいない。

 なのに、この違和感は何だろう。


 そのとき、ホノカさんの緊迫した声が響いた。


「ツバキ君、ナズナさん。これから絶対に、この席から離れないで!」


 その言葉に、俺は思わず身を引き締めた。

 次の瞬間、信じられない光景が目の前に広がる。


 これまで空いていたはずの座席に、人が座っているのだ。

 10人ほどだろうか。

 男性も女性も、お年寄りも若者も混じっている。

 全員が力なく、静かに前を向いて座っている。


 しかし、その姿には生気が感じられない。

 まるで人形のように、不自然な静けさを漂わせている。


「な、なんだこれ…。霊なのか?」


 思わず声に出してしまった。

 隣でナズナが小さく震えている。


「ホノカさん。これって…」


 ナズナの声も震えていた。


「ナズナさん、ツバキ君、落ち着いて」


 ホノカさんの声には緊張感が溢れている。


「彼らは、悪霊よ。でも、私たちが席に座っているうちは、大丈夫。だから…」


 その言葉を最後まで聞く前に、恐ろしい光景が目の前で繰り広げられた。


 一番前の座席に座っていた男性が、ゆっくりと首を回し始めたのだ。

 人間の限界をはるかに超えて、首が180度回転する。

 俺たちの方を向いた顔は、青白く、目は虚ろで、そして不気味な笑みを浮かべている。


「ひっ!」


 ナズナが俺にしがみついてきた。

 次々と他の「乗客」たちも首を回し、全員が俺たちを見つめている。

 その目には、明らかな悪意が宿っていた。


 ホノカさんが、慎重に言葉を選びながら説明を始めた。


「ツバキ君、ナズナさん。これから私の言うことをよく聞いて。絶対に今の席から離れないで。そして、私がこの席を離れている間、どんなに怖くても彼らから目を離さないで」

「どういうことだ?」


 ホノカさんの説明に疑問を感じた、俺は尋ねた。


「あの悪霊たちは、席に座っている人には手出しできないの。でも、誰も彼らを見ていないと、私たちが席に座っていないと見なされてしまう。だから、必ず誰かが彼らを見続けていないといけないの」


 ホノカさんがそう言い終わるや否や、一番前の男性が立ち上がった。

 その顔には、さっきまでの不気味な笑みが消え、今や憎悪に満ちた表情が浮かんでいる。


 男性に続いて、他の「乗客」たちも次々と立ち上がり、俺たちに向かって歩き始めた。

 その動きは、ゆっくりとして緩慢だが、確実にこちらへ向かっている。


 ヤバい悪霊だと。

 直観的に感じてしまった。


「…分かった。とりあえず、ナズナか俺のどちらかが見ていれば大丈夫なんだな。」

「そうよ。絶対に、彼らから目を離さないで」


 恐怖を抑えるしかない。


「さて、私も立ち上がるわ。そのまま、耐えるのよ。」


 そういって、ホノカさんは席を立ちあがる。

 その瞬間、彼女が消えた。


「えっ?」


 俺は声を上げる。

 そして、改めて今のホノカさんがいなくなった状況を認識する。


 恐怖。

 そう、頼るもの、縋るものがない。

 絶望。


 しかし、ホノカさんの言葉という希望がある。

 そう、信じるしかないのだ。


 憎悪の顔。

 彼らは怒りに満ちた視線を向けている。

 ゆっくりと、確実に近づいてくる。


「ナズナ、大丈夫か?」


 俺は隣のナズナに声をかけた。

 彼女は俺の腕にしがみついたままだ。


「は、はい…大丈夫です。」


 ナズナの声からは恐怖の色が聞こえる。

 しかし、それでも彼女は悪霊たちから目を離さないように必死に見つめていた。

 俺も同じように、近づいてくる悪霊たちを観察する。


 目が合う。

 彼らは訴えているのだ。

 死ね、と。


 最前列にいる男性の悪霊。

 それが今や、俺たちの前から3列目まで来ていた。


「ホノカさん…。」


 気丈なナズナは、ホノカさんのことを気にかけているようだ。


「大丈夫だ、ナズナ。ホノカさんは無事だ。すぐに戻ってくるさ。」


 そう言いながら、俺はナズナの手を握った。

 彼女の手は、汗ばんでいる。


 悪霊たちは、今や2列目まで迫っていた。

 ここまで近づいていれば、何かが理解できた。

 つまり、彼らの念のようなものが感じられる。


 彼らは、生者を妬んでいるのだ。

 命がある俺たちを。


 妬みや嫉妬などの感情の権化。

 あるいは、その感情以外がなくなっている。


 彼らとの会話など不可能だ。


 そんな存在が確実に近づいて来ていた。


「くそっ…」


 思わず呟いてしまう。

 こんな状況でも、俺に出来ることは何もない。

 ただ座って、悪霊たちを見つめ続けるしかないのだ。

 ホノカさんを信じて。


 悪霊たちがさらに接近する。

 俺は、ナズナを守らなければという思いに駆られる。


 席から立つことはできないが。

 何か…。

 何かできることはないのか?


 俺は彼らを観察しつつ、必死に考える。


 彼らは、もう目の前だ。

 手を伸ばせば、身体に触れるだろう。


 俺は、何もせずに彼らを見る。

 彼らは、俺とナズナを見ている。

 確かに、ホノカさんのいうように彼らはそれ以上、何もしてこない。


 しかし、俺の脳裏に何かが浮かんだ。

 悲しい気持ち。

 何かを失ったような感情で胸がいっぱいになった。


 悲しく、冷たい感情が俺を支配する。

 席を立つべきか?

 そう、俺は死んでもいい。

 俺はここで死んで楽になるべきだ。


 間違いない。

 俺は席を立とうとした。

 彼らは俺を見ている。

 先ほどまでの表情とは違う、どこか安らぎに満ちた顔。


 …いや、ナズナは?

 俺の思考が止まった。


「先輩、私…。」


 俺の隣にいるナズナが、涙を流していた。


「ナズナ、だめだ!」


 俺は、席を立とうとするナズナを抑えた。


「私…私…」


 ナズナは意味の分からないことを言っている。

 俺もなにかよく分からない気持ちでいっぱいだった。


 しかし、ナズナだけは死なせは、しない。

 俺はナズナを守った後に死ぬべきだ。


「先輩、じゃまをしないで」


 ナズナが泣きじゃくりながら、席を立とうする。


 俺は、ナズナを動こうとするナズナを抱きかかえるように抑えた。


 すると、目の前の霊たちが俺に怒りの目を向けていた。

 憤怒。

 その底には、嫉妬の念がある。


 ああ、俺は騙されていた。

 こいつらに。


 俺は死ぬ必要なんてない。

 もちろん、ナズナもだ。


 そうだ。

 今は悪霊に惑わされている場合じゃない。

 ナズナを助けるべき。

 そして、この悪霊に対峙しなければいけない。


 俺が目のまえの悪霊への怒りの感情を抱いた時だった。

 憤怒。

 怒りが交差していた。


 そのとき、突然バスが大きく揺れた。

 目の前が真っ白になった。

 ライトの光が、目に当たったかのように周囲は真っ白になった。


「うわっ!」

「きゃ!」


 俺とナズナは思わず声を上げる。


 その瞬間、目の前の光景が一変した。


 すぐに真っ白な風景は収まる。

 そして、バスの光景に戻った。

 相変わらず、窓の外は真っ暗で、室内灯も薄暗い。


 しかし、悪霊たちの姿が消えた。

 初めから、なにもなかったかのように。


 俺とナズナは抱きしめあったまま、周囲を見渡す。

 ホノカさんが、そんな俺たちの目の前に立っていた。


「お待たせしたわね。」


 ホノカさんは少し疲れた様子だったが、微笑んでいる。


「二人とも良く頑張ったわね。悪霊は払ったわ。もう席から立っても、大丈夫よ。」


 ホノカさんはそう言って、再び俺たちの隣に座った。


「落ち着いて?」


 ホノカさんは、俺やナズナに声を掛ける。

 しかし、俺もナズナも動転していることもあって、なんて言えばいいのか分からなかった。


「ありがとうございます、ホノカさん。」


 動揺しているナズナの声。


「ええ、ナズナさん。もう安全よ。」

「は、はい。」


 ナズナは、ホノカさんと話すことでいくらか、話を続けられるようになった様子だ。


「ナズナ、大丈夫か?」


 俺もようやく、その言葉を口にすることができた。


「先輩。ありがとうございます。あ、あのさっき、私、私…。」

「ああ、分かってる。」

「さっきまで、私、死のうとしてました。」


 ナズナは、そう言って言葉を整理しようとしている。


「ナズナさん。悪霊にあてられたのよ。多分、ツバキ君も。」


 ホノカさんが説明するかのように語り始めた。


「手出しをできない悪霊が、そういった手を使うの。悪意ある感情へと誘導されそうになったのよ。」

「ああ、でも俺は…。ナズナを助けなきゃ、と思った。」

「強い思いがあれば、植え付けられた感情へは、流れない。」


 ホノカさんが、何かを思うようにポツリとそういった。


「先輩、すいません。」

「え?どうして謝る必要があるんだ?」

「私は、その。先輩を信じていなかった。だから、悪霊に誘導されそうになって…。」


 ナズナは申し訳なさそうな顔をしていた。


「いいえ。それも違うの。ナズナさん。」


 横からホノカさんが優しくナズナに語り掛け始めた。


「ツバキ君の場合は、私との関係もあるからよ。神である私との。だから、普通の人よりも少しだけ影響を受けにくいの。」

「それはどういうことですか?」


 ナズナが、ホノカさんに問いかける。


「それは…。」


 ホノカさんが困ったような顔をする。

 どう説明するべきなのか、悩んでいるような感じだ。


「先輩の記憶と関係があるのですね?」

「そうよ。」


 ホノカさんは、ナズナに答えた。


 ホノカさんの言葉に、俺は頭の中がモヤモヤとするのを感じた。


「先輩、大丈夫ですか?」


 ナズナが心配そうに俺を見ている。


「ああ、大丈夫だ。ただ、少し頭が…」


 俺は額を押さえた。

 その何か。

 何かの記憶を思い出そうとする。

 しかし、それを無理に思い出そうとすると、頭が重くなる感じがした。 


「無理に思い出そうとしなくていいのよ、ツバキ君。」


 ホノカさんが優しく言った。


「きっと、少しずつ思い出していくはずよ。今は、このバスが終点に着くまでに集中しましょう。」

「分かった。」


 俺は、思い出すことをやめた。

 そう、時期が来るのを待つ。

 今は、悪戯に精神に負担を掛けるところじゃない。


「それで、このトンネルはいつ抜けるんだ?」

「もう少しでしょう。あと少しすれば、何かが見えてくるはずよ。」


 ホノカさんの言葉に、俺とナズナは頷いた。


 そのとき、突然バスの速度が上がった気がした。


 窓の外を見ると、わずかに光が見え始めていた。


「あっ、出口が見えてきました!」


 ナズナが声を上げた。


「ええ、もうすぐトンネルを出るわ。」


 ホノカさんが言う。

 俺たちはそのまま、バスがトンネルの出口に近づいていくのを見ていた。

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