第2章 記憶の海

 教室に入ると、すぐにさくらの姿が目に入った。長い茶色の髪を後ろで一つに束ね、制服の襟元をきちんと整えている。私たちの視線が合い、さくらが柔らかな笑顔を向けてきた。


「おはよう、凛」


「お、おはよう……さくら」


 動揺を悟られないよう、平静を装って自分の席に着く。でも、さくらの近くにいるだけで、昨日の感覚が蘇ってくる。温かい吐息、柔らかな指先、ほのかな香り……。


「はい、みんな着席! 朝のホームルームを始めます」


 担任の藤掛先生の声で、教室が静まり返る。


「えーと、来週の文化祭の出し物について、クラスで最終決定をしたいと思います。候補に挙がっているのは、『お化け屋敷』『メイド喫茶』『クイズ大会』の3つです。この中から多数決で決めましょう」


 藤掛先生の言葉を聞きながら、私は不思議な感覚に襲われた。まるで、海の中にいるような感覚。周りの音が少し遠くなり、代わりに頭の中で様々な情報が波のように押し寄せてくる。


 ……文化祭。去年のクラスの出し物は劇だった。『ロミオとジュリエット』の現代版。私は裏方で、セリフを全部覚えてしまった。一昨年は……。


「凛? 凛!」


 さくらの声で我に返る。どうやら、藤掛先生が私に何か質問をしていたらしい。


「ご、ごめんなさい。もう一度お願いします」


 クラスメイトたちのくすくすという笑い声が聞こえる。顔が熱くなるのを感じた。


「はぁ……。葉月さん、あなたはどの案に賛成ですか?」


「あ、えっと……」


 慌てて3つの案を思い返す。それぞれの案のメリット、デメリットが頭の中で整理されていく。まるで、コンピュータのように高速で情報を処理している自分がいる。


「クイズ大会がいいと思います」


「へぇ、珍しい選択ね。理由は?」


「はい。お化け屋敷は準備に時間がかかりすぎると思います。去年の2年A組がお化け屋敷をやった時、準備不足で当日トラブルが多発しました。メイド喫茶は人気がありそうですが、3年C組が既に企画しているので、差別化が難しいです。一方、クイズ大会なら準備も比較的簡単で、みんなの得意分野を生かせると思います。また、去年から実施されていない企画なので、新鮮さもあります」


 言い終わった瞬間、教室が静まり返った。藤掛先生も、クラスメイトたちも、驚いた表情で私を見つめている。


「え、えーと……そうね。よく考えられているわ」


 藤掛先生が困惑した様子で言った。その後、クラスで話し合いが行われ、結局クイズ大会に決まった。


 ホームルームが終わり、1時間目の授業が始まる。英語の教科書を開きながら、さっきの出来事を思い返す。あの時の私は、まるで別人のようだった。普段は人前で長々と話すことが苦手な私が、あんなにスラスラと話せるなんて。


 そして、私はまたあの感覚に襲われる。記憶の海に潜るような感覚。教科書に書かれている英文を見ただけで、関連する文法や単語、例文が次々と頭に浮かんでくる。


 これが私の「能力」なのか。でも、なぜこんな力が私にあるんだろう? そして、これは祝福なのか、それとも呪いなのか……。


 そんなことを考えていると、ふとさくらの後ろ姿が目に入った。長い髪が背中で揺れている。さくらの存在が、私の中にある混乱を少し和らげてくれるような気がした。


 けれど同時に、新たな不安が芽生える。この「普通じゃない」私を、さくらは受け入れてくれるだろうか。私の中にある、もう一つの「普通じゃない」気持ちと一緒に……。

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