第3章 記憶の花園
放課後、図書室。私は一人で本を読んでいた。正確に言えば、「読んで」というより「眺めて」いた。ページをめくるたびに、文字や図が写真のように頭に焼き付いていく。まるで、脳内に本の完全なコピーができあがっていくような感覚だ。
「りーん!」
声の主を振り返ると、さくらが笑顔で近づいてきた。髪の毛が少し乱れていて、頬が上気している。どうやら走ってきたらしい。
「さくら? どうしたの?」
「ごめんね、探しちゃって。明日の数学のテスト、一緒に勉強しない?」
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で何かが「カチッ」と音を立てた気がした。そして、目の前に広大な花園が広がる。それは私の記憶の花園。数学に関する全ての知識が、美しい花となって咲き誇っている。
「あ、うん。いいよ」
さくらと向かい合って座り、教科書を開く。問題を解き始めたさくらの横顔を見つめていると、昨日の感覚が蘇ってくる。胸の奥がキュッと締め付けられるような、でも同時に温かさも感じる不思議な感覚。
「あー、もう! この問題さっぱりわからない」
さくらが困った表情で言う。私は深呼吸をして、記憶の花園に踏み込んだ。
「これね、こういう風に考えるんだよ」
言葉が自然と口から溢れ出す。複雑な数式を、まるで詩を朗読するかのように説明していく。さくらの目が次第に輝きを増していくのがわかる。
「わぁ、凛ってすごいね! こんなに頭いいなんて知らなかった」
さくらの言葉に、私は少し躊躇した。でも、この子になら話せるかもしれない。そう思った。
「実は……私、すごく記憶力がいいの。一度見たものは全部覚えちゃうの」
「え? 本当に?」
さくらが目を丸くして驚いている。その反応に、少し勇気が出た。
「うん。例えば……」
私は目を閉じ、記憶を辿る。
「今日の昼休み、さくらが読んでいた小説。表紙は薄紫色で、タイトルは『星空のカノン』。著者は……」
「ちょっと待って! 本当に全部覚えてるの?」
さくらが身を乗り出して言った。その顔が急に近づいて、私は息を飲む。
「う、うん。変かな……?」
「全然変じゃない! むしろ、すごいよ!」
さくらの目が輝いている。その瞳に映る自分を見て、胸が高鳴る。
「ねぇ、他にも覚えてることある? 私のこととか」
「えっと……」
さくらの質問に、私の中で記憶の花びらが舞い始めた。さくらに関する記憶が次々と蘇ってくる。
「去年の体育祭。さくらは白組で、赤いハチマキをしていた。髪は三つ編みで、右足首に絆創膏を貼っていた。リレーの第四走者で、クラスで一番速かった。ゴールした後、みんなに抱きしめられて、すごく嬉しそうだった」
言葉が溢れ出す。さくらの目が徐々に大きくなっていく。
「それから、今年の始業式。さくらは少し寝坊して、髪を整えるのを忘れてた。でも、制服のリボンは完璧に結んであった。教室に入ってきた時、窓から差し込む朝日で、さくらの髪が金色に輝いて見えた」
「り、凛……」
さくらの声が震えている。私は我に返り、慌てて口を閉じた。
「ご、ごめん。変に思われたよね」
「ううん、そんなことない」
さくらが小さな声で言った。その瞳に、何かが宿っているように見えた。驚きと……もう一つ、何か別の感情。
「凛の記憶力、本当にすごいね。でも、それ以上に……」
さくらが言葉を探している。私は息を潜めて待つ。
「私のことを、そんなに覚えていてくれて……嬉しい」
その言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。頬が熱くなるのを感じる。
「さくらのこと、よく見てたから」
思わず口走ってしまった言葉に、自分でも驚く。さくらの頬が薄っすらと赤くなった。
「私も……凛のこと、よく見てた」
二人の間に、不思議な空気が流れる。それは、ほんのりと甘い香りがするような、温かな空気。
「ねぇ、凛」
「うん?」
「その……明日のテスト、頑張ろうね」
さくらが言った。その言葉の裏に、何か別の意味が隠されているような気がした。
「うん、頑張ろう」
私たちは再び教科書に目を向けた。でも、もう数学の問題は目に入ってこない。代わりに、さくらの存在が強く意識される。肩が触れ合うたびに、小さな電流が走る。
窓の外では、夕暮れの空が赤く染まっていた。図書室の中は、オレンジ色の柔らかな光に包まれている。その光の中で、私たちは静かに時を過ごした。言葉を交わさなくても、何か大切なものが二人の間で生まれつつあることを感じながら。
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