第一話 『お客様のお悩み、お聞かせください』

「はぁー」

 胸の中にあるズンとした重たい気持ち。

 少しでも楽になりたくて外に吐き出すもそれは一瞬で、解決には至らない。

「何してんだ私……」

 少しでも気を紛らわしたくて声を出したが、効果は無かった。

 私がこんな感情に襲われているのには、理由がある。

 私には好きな人が居る。と言っても、つい十数分前に自覚したばかりなのだが……

 その子の名前は榎井えのいカナ。小柄で愛想が良く、笑顔がとっても可愛い。学校の中で男子から密かな人気を集めている女の子。

 私の幼馴染で、幼い頃から中学生になった今でも一緒にいる存在。これからも彼女とは、一緒に過ごしていくものだと思い込んでいた。あの現場に遭遇するまでは──


 それは放課後のことだ。いつものようにカナに帰ろうと声をかけると、「今日は一緒に帰れないから先に帰っていて欲しい」と言われた。

 普段なら彼女の方から「うん、帰る!」と抱き着いてくるものなのだが、違う回答に私は一瞬呆気にとられた。

 私はどんな顔をしていたのだろう。とにかく困惑した事だけは覚えている。

 気になったので、何かあるのかと聞いてみれば「いのりには関係ないから」と、はぐらかされてしまった。

 彼女があんな態度をとるのは初めてだった。

 胸がチクリとした。何故そう感じたのか、分からなかった。

 どうしても気になってしまった私は、先に帰るふりをして彼女を尾行した。バレていたかもしれないが、私の心臓はバクバクと鳴っていて、見つかるかどうかなど気に掛ける余裕はなかった。

 カナの行先は体育館裏だった。

 薄暗く、人の寄り付かない場所。普段の彼女ならまず足を運ばない所だろう。

 物陰に隠れて観察していると、男子が一人近づいて来た。見かけない顔だったが、学年色が同じだったので恐らく他クラスの人だろう。

 もしやあの男がカナを脅しているのか? もしそうだったら絶対に許さない。

 こぶしに力が入る。

 カナに危険が訪れない様、見守る必要があると感じた私はいつでも飛び出せるよう身構えた。

 何やら話しているようだったが、この位置からでは聞こえない。もう少し大きな声で話してもらえないだろうか。

 そう思っていた時だ。

「──なのでお、俺と付き合ってくださいっ!」

 その一言が聞こえた。ハッキリと。

 右手をカナに差し出し腰を折る男子を見て、私は目を見開いた。

 つきあってください……ツキアッテクダサイ……

 理解するのに数秒かかった。いや、もしかしたらもっとかかっていたかもしれない。

 カナは男子に告白されていたのだ。

 ──付き合ってください──

 突如、言葉を理解したその刹那。頭のてっぺんから足の爪先へと、血の気が引いていく感覚に襲われた。

 頭の中が真っ白になり、胸に穴が開いたんじゃないかと錯覚する。目の前がチカチカして、上手く息が出来ない、とても苦しい。

 しゃがみ込んでいなければ私は倒れていたに違いない。

「……ごめんなさい」

 その一言が耳に届く、申し訳なさそうな、悲しげな声。

 カナは告白してきた男子よりも腰を深く折り、その場を走り去て行った。

少しして、男子もその場から消えた。うなだれながら。

 私だけが残った。

 ほっと、胸を撫で下ろし、口から安堵の息を吐く。

 カナの一言で私の症状は落ち着いていた。

 ここにいてもしょうがないので、私も学校を出た。そして冒頭に至る。


 私はカナの事が好きになっていたようだ。

 いつからかは分からない。

 それでもさっきの感情がどういったものなのか、私は理解していた。

 この気持ちをどうしよう。カナに伝えるべきか、そのまま隠すべきか。


 こうして、自分の気持ちに気付いた私は、どうしようかと悩んで……ふと、周りを見た。

「ここ、どこ?」

 真っ白な霧に包まれていた。

 先程まで私が歩いていた住宅街の姿は無く、代わりに辺り一面を草原が広がっていた。

 状況が把握できず、パニックに陥りそうになるが、まずは落ち着こうと深呼吸をする。

 何事も冷静になって対処するべきだ、とテレビか雑誌で見た記憶がある。

 落ち着いたおかげか、少し余裕が出来たと思う。

 もう一度辺りを見渡す。霧に包まれた草原のど真ん中。

「ど、どうしよう……」

 余裕が出来てもそれは一時的に過ぎない。

 少しずつ焦りが戻ってくる。

 すると、左斜め後方に光る何かを見つけた。

「あそこに、何か手掛かりがあるかもしれない」

 立ち止まっていてもどうしようもない。光へと向かう。

 この行動が最善なのかは分からない。そもそもそんな事を考える余裕が私にはなかった。

 そして、その光のもとにたどり着いた。

 正体は一軒の建物。

 中の様子は見えないが、学校の近くにあるコンビニに似ていた。

 入口らしき所に看板が付いているので読み上げる。

「〈ざばとっぷ〉……お店、なのかな?」

 ひとまず、入ってみよう……人がいれば、帰る方法を聞けるかも知れない。

 少し腰が引けながらも、目の前の建物へと足を踏み入れた。


 中はコンビニのようだ。思っていた以上に普通の。

 ドアを開けて入るとチリンと鈴の音が二回、静かに店内に鳴り響いた。喫茶店かとも思ったが、室内のつくりは私の知るコンビニと変わらない。

 棚には商品が置かれ、店の奥には飲み物などを冷やすショーケースがある。

「いらっしゃいませ」

 店の中を観察していると、突然背後から声が聞こえてきた。

 びくりとして私はばっと振り返った。

 そこには──このお店の制服なのだろうか──真っ黒に染まった服に身を包んだ店員と思しき女性が、愛想の良い表情をして立っていた。

「……っ」

 私はゴクリと息を飲んだ。

 彼女の姿が異様だったからだ。

 頭に三角の帽子を被り、髪は濃い紫色。腰下まで伸びている。糸目の愛想の良さそうな表情が変にバランスを取っていた。

 その笑みは張り付けたような、何かを隠しているかのような。見ていて違和感を覚えた。

 まるで、魔女の様だった。


     ◇


「いらっしゃいませ」

 一人の少女が入店した。あの制服は○○中学校の生徒さんかな。

 ボクは元気な声で挨拶をした。どんな時でも、お店に来てくれた人はみんな大切な〈お客様〉だからね。

 そんな〈お客様〉は店の中を不安げに見渡していた。

 ボクの声に気が付くと、ビクリと肩を上げてこちらを向いた。なんて可愛いのだろうか。

 こちらにゆっくりと近づいて来る。

「あ、あの、すみません……」

「はい、いかがなさいましたか?」

 〈お客様〉には笑顔が大切。

 不安そうな表情を浮かべる〈お客様〉を安心させるため、笑顔でボクは応対した。

 何か分からないことでもあったのかな?

 〈お客様〉は一拍を置いて答えた。

「ここは、どこですか?」


 ──なんだ、いつものパターンか。うん、大丈夫そうだね。

 それなら対応はいつもと同じでいいかな。

「私、さっきまで普段通る道を歩いていたはずなのに、気付いたらここにいて……」

 オロオロする〈お客様〉を前に、ボクは口元に人差し指を置くことで制止した。

 ここに来る人の大半は同じ反応をするなぁ。

「ここは〈ざばとっぷ〉、お悩みを抱えた〈お客様〉がたどり着くコンビニです」

 ボクは分かりやすく簡潔に、説明をする。

「お悩み……コンビニ……?」

 どうやら上手く理解出来なかったみたいだ。どうやって説明しよう。

 ボクは説明が苦手なんだよね。

「当店は〈お客様〉のお悩みを解決する為の商品を提供しています」

 今度は上手く伝わったのか、ボクの説明を聞いた〈お客様〉は困った顔をした。

「でも、私……お金持ってないです」

 なんだ、そんなこと、気にしなくていいのに。

「大丈夫ですよ〈お客様〉。お代は頂きませんので」

 フフフと笑みを浮かべて伝えると、〈お客様〉は驚いた表情をしていた。

「ここへたどり着いた人はみんなボクの〈お客様〉ですから」

「……その商品っていうのは、どういうものがありますか?」

 しばらく黙り込んでいたことに、ボクは何かしてしまったのかと不安になる。

 しかし、そんなことはなく、安心した。

「……」

「あの、どうかしたんですか?」

「いえ、興味を持って頂けたようで歓喜しておりました」

 やっぱり、人間の反応は面白い。

 それでは、とボクは前置きをして……

「〈お客様〉のお悩みに合わせてこちらでご用意させていただきます。なので──」

 お悩みをお聞かせください。と〈お客様〉へ言葉を投げかけた。


     ◇


「……あれ?」

 気が付くと、空は夕焼け色に染まり、カラスが鳴いている。

 辺りを見渡すと、そこはさっきまで歩いていた住宅街だった。

 さっきのは、夢……?

「──あ」

 右手に違和感を覚え、視線を向けると、掌サイズのまんじゅうが握られていた。

 色は黒で少し硬い。黒糖でできているのだろうか、甘い匂いがする。

「夢じゃ、ない」

 思わず私はつぶやく。

 同時に、店員さんとのやり取りを思い出していく。


『それは盲頭(もうじゅう)。それを食べさせると、その人の意思は食べさせた本人、つまり──』

 ──貴方にだけ向くようになります。


 確かそう言っていた気がする。

 他にも何か話したはずなのだが、思い出せない。

 どうやってここへ帰って来たのかもだ。

 知りたくても、その術がない。夢だったと結論付ければそれで解決するかもしれないけれど、私の手にはそれを否定する物がある。

 考えを変えてみよう、今はコンビニでの出来事が現実だったという事の方が重要だ。

「あの店員の言っている事が本当なら……」

 このまんじゅうをカナに食べて貰えば、幼馴染以上の対象として私を見てくれる。

 そんな思いが沸くが、それでいいのだろうか。

 カナの気持ちを無視していいのだろうか。

 私の中で気持ちが葛藤する。

 そんな時だった。

「あ、いのり……」

「……えっ」

 背後から、今まさに考えていた相手の物が聞こえた。好きだと自覚した、愛しい声が。

 振り返るとそこには、

「カナ? なんで」

「なんでって、こっちのセリフだよ。先に帰ったはずなのに、なんでまだここに居るの」

「あ、えっと考え事してて……」

 私はとっさに嘘をついた。半分は本当だが。

 告白の現場を見ていた、などとは口が裂けても言えない。

 心の中でごめんと謝る。

 カナは少し怪しむ素振りでこちらを見ている。

 やがて「あっ」と声を上げた。

 まさか隠れて見ていた事がバレたのかと一瞬焦るが、彼女の視線は私の右手。正確にはまんじゅうに釘付けだった。

 カナは生粋の甘党だ。

 疲れた時などは必ずと言っていいほど甘いものを食べている。

 多分、告白されたことで気疲れしたんだ。だから今の彼女は甘いものを欲していて、このまんじゅうに目を奪われているんだ。

 先に立ち去ったはずのカナがここに居るのも、近くのコンビニで甘いものを食べようとしていたのだろう。

 私はそう思った。

 コンビニ。その単語に、まんじゅうと店員さんとのやり取りを再度思い出す。

 ゴクリ、と喉が鳴る。


「……まんじゅう、食べる?」

 気が付けば言葉を零していた。もしかしたら今のは私でなくカナの声だったかもしれない。

「食べていいの?」

 違った、カナは返事をした。

 つまり、今の発言は私で間違いないということになる。

 彼女の光り輝いた瞳を見てしまえば、否定などできようはずがない。

 私はまんじゅうを渡した。

 カナは受け取るとまんじゅうを口いっぱいに頬張った。

「お、おいしい……」

 小さい口がまんじゅうによって膨れる。

 その姿がリスに重なって見えて、とても可愛いなと思った。

 こんな姿を物心つくときから見てきたんだ。好きにならないで何になるというのか。

 好きになる以外の選択肢など存在しない。そんな風に考えていると、

「……な、何見てるのよ」

 口を両手で小さく隠したカナが、ジト目で私を見ていた。

「ふふ、可愛いなと思って」

 思ったことをそのまま伝えてみた。

「ふぇっ、ちょ、ちょっとやめてよ」

 彼女はあわてて顔を隠した。可愛いのは本当なのに。

 この気持ちに気付くのに、だいぶ時間がかかってしまったなと私は恥じる。

 だが今はそんなことどうだっていい──

「あはは、カナってば面白い」

「もう、からかわないでよー!」

「ごめんごめん」

「ふん……その、いのり」

 明後日の方向を向いているカナがちらりと私を見る。

 彼女の頬は膨れている。怒っているせいか、それともまんじゅうのせいか。私には分からない。

「まんじゅう……ありがと」

「……うん」

 ──今はただ、隣にいられればそれで満足なのだから。


     ◇


「神道、今日もこれ頼んだぞ」

 ある日の放課後、私は職員室で担任からプリントの入ったファイルを貰う。

 私は「はい」と答えてからそれを受け取った。

 ファイルには、その日の授業で使ったプリントなどが入っている。

 休んだ人に届けるため、先生にお願いされたのだ。

 理由は、私が一番その子の家に近いから。

「……」

 私は無言で歩いていた。

 何も考えず、歩く。

 流れる景色をただ眺めながら。

 やがて自宅が視界に入るが、中には入らず通り過ぎた。

 だってまだ、休みの子にファイルを届けてないから。


 数歩歩いて、足を止めた。

 表札には榎井と書いてある。カナの名字。

「あら、いのりちゃんいらっしゃい」

 チャイムを鳴らす前に、カナのお母さんが顔を出した。

 笑っているはずなのに、その表情はどこか、暗い。

 どうやら庭の手入れをしていたらしい。

「おばさん……これ、プリントです」

「毎日悪いわね、ありがとう」

 顔色がまた悪くなってる。

 おばさんはお礼を言うと、私からファイルを受け取って家の中へ戻ろうとした。

 すみません、と呼び止める。

「いのりに会わせて下さい」

 でも、とおばさんは渋る。

 いのりは熱を出して休んでいる、それももう一週間。

 私が渡したまんじゅうを口にした翌日から。

 最初は心配だけだった。

 しかし、休む日数が増えるほど、まんじゅうが何か関係しているのではないかと考えるようになっていた。

「お願いします」

 頭を下げ、一生懸命お願いをする。

「……分かったわ、上がって頂戴」

 私は頭を上げおばさんの顔を見つめ、それからもう一度頭を下げた。

 何かを覚悟したような、辛いような、そんな表情をしていた。

「……こ、これは」

「……」

 私はカナの部屋に入ったことを後悔した。

 彼女はベッドにいた。

 起き上がっていたが、その瞳は虚ろで、部屋の隅を見つめている。

 おばさんがカナに声をかけたが、彼女からの反応はない。

 いったいどういうことだ、訳が分からない。

「風邪じゃ、ないんですか……」

 隣に立つおばさんが泣きそうな顔で私を見た。

 ある日を境にこうなってしまったと言う。

 病院にも連れて行ったが、原因は分からなかったらしい。

 健康体そのものと言われたそうだ。

 日付を聞くと、やはり私がまんじゅうをあげた翌日。

 やっぱり、あのまんじゅうが原因なんだ、私のせいだ。

「そんな……どうして」

 カナ、と名前を口にした時だった。

「……いのり?」

 彼女が、私を見ていた。

 目に光が宿っている。

「カナ?」

「うん、そうだよ」

 小首をかしげて不思議そうにしている。

 隣を見ると、おばさんは信じられないとでも言いたげな表情でカナを見ていた。

 雫が一つ、また一つと床に落ちていく。

 オロオロと近寄り抱き着く、良かったと言っていた。

 その間も、カナはずっと私を見ていた。

 まるでそこに居るおばさんが見えていないかのように……


「それじゃあ、また明日来ます」

 玄関口でおばさんに挨拶をして、私は家に帰ることにした。


 翌日、私は学校に行く前にカナの様子を見に行った。

「……どういう、こと?」

 部屋に入ると、カナは昨日と同じようにベッドで上半身を起こし、また虚ろな眼差しで部屋の隅を見ていた。

 どうして、いったいあのまんじゅうはカナに何をしたんだ。

 頭の中に、霧の中で出会った店員の顔が浮かぶ。

「昨日は元に戻ったのに、いったい何が……」

 そばに近寄り、彼女の手を握る。

 カナの手は暖かかった。

 少しほっとした、彼女の体温を感じることが出来た。

「……カナ?」

 手を握り返された。

 顔を上げると、目が合った。

「いのり、おはよう」

「カナ、身体は大丈夫なの?」

 私は不安になり、尋ねた。

 まんじゅうによる影響を知りたかった。

 知って、あのコンビニにもう一度行かなければと思った。

「平気だよ」

 にかっと笑い、なんともないと、彼女は言った。

 その言葉は何故か、私の胸の中にすとんとはまるようだった。

 それなら大丈夫だと、私は納得した。

「それじゃ、先に学校行ってるね」

 カナに手を振り、部屋を後にしようと背を向けると制服の裾を掴まれた。

「え、やだ、行かないでよ」

 ……え?

「それに私、学校も行きたくない」

 私は耳を疑った。彼女は今なんと言った、行かないと言ったのか?

 普段真面目な彼女が、学校に行きたくないと言ったのだ。

「ど、どうしたの急に」

 様子がおかしい。

 私の知る彼女じゃない。

「あなた……本当にカナ?」

「そうだよ」

 間を置かずに答えた。

 急に何を言っているの、とカナは不思議そうにしていた。

 さも当然だというように言った。

「と、とにかく私先行くからカナも来てね!」

 私は逃げだすように学校へと向かって走った。

 結局、カナはその日一日学校に来なかった。

 授業の内容なんて何一つ頭に残っていない。


「今日もこれ頼んだ……ん、どうかしたのか」

「……いえ、いつも通りですよ」

 放課後になり、昨日と同じように先生からプリントの入ったファイルを貰う。

 私はまた帰り道を無言で歩いていた。

 空は夕焼け色に染まり、カラスが鳴いている。

「カナがああなってしまったのは、きっと私のせい」

 あの日も、こんな空の色だったな、などと考えていたその時。

 瞬きをした、その刹那。

「ここは……!」

 目の前には、辺り一面が霧に包まれた草原が広がっていた。

 この光景には見覚えがあった。

 ──あの時と同じだ!

 つまり、この前と同じように進めば……

「……ッ! ある、あの時と、同じ光」

 あそこに、あのコンビニが。

 カナをおかしくした、原因が。

 絶対に……許さない。

 私は考えるよりも先に走り出していた。


     ◇


 店の商品の調子を確かめ、それもあらかた終わり、外を見つめていた。

 今日も相も変わらず外は霧に覆われている。

 客は来ない。

 退屈で、窮屈で、暇であくびが出る。ついでに少しの涙も。

 一緒に伸びをした。背中の骨がポキポキと鳴った。

「今日も何事もなく一日が終わるぅー。何か面白い事でも……」

 無いかな、とつぶやきかけた時だ。

 室内の風が大きく揺れた。正確には、外と中の空気が強制的に入れ替わった。

「フフフ……来た」

 ボクは瞬時に表の方で何が起きているのかを理解した。

 だって、この空気の揺れ方は、いつも特大の幸せをボクへ届けてくれるのだから……!


 ボクは早速席を立ち、表の方へと姿を出した。

 身だしなみを整える事すら忘れて。

「いらっしゃいませ、フフフ、またお会いしましたね」

 ボクの〈お客様〉──

 〈お客様〉はボクを見るや否や駆け寄って来た。表情は硬い。

 何かあったのかな? なんとなく……いや、言いたいことは分かっている。

「カナをもとに戻して!」

 挨拶もなく、開口一番。知らない誰かの名前を口にした。

 予想は大当たり、ボクはボクに金メダルを上げたいくらいの的中だ。

「フ、フッフフ」

 予想通りの流れに笑いが漏れる。

「な、何がおかしいのよ」

 何がおかしいって、もうボクを笑わせるのはよしてくれ、どうせ心の中では気付いているんだろう?

 その知らんぷりは、いつまで持つのかな。

「カナが、ここで貰ったまんじゅうを食べた子がおかしくなったの。貴方ならその原因、分かるでしょ?」

「ほお、それはそれは、大変でしたね」

 わざとらしく、心配したふりをしてみる。

 あぁ、〈お客様〉ってば、そんな怒りの色を浮かべちゃって、かわいい。

「あ、貴方、ふざけてるのっ」

「まぁまぁ、落ち着いて下さい、ここで叫んでしまえば、分かるものも分からなくなってしまいますよ?」

 ボクは少し微笑みを浮かべ、口の前に人差し指を添える。

 〈お客様〉に言葉が通じたのか、少しおとなしくなってくれた。

 なんて従順なんだろう。

 それでは、と前置きをして、ボクは話を始めた。

「〈お客様〉に以前提供した商品。覚えておられますか?」

 小首をかしげて問いかけると、〈お客様〉はこくり、と小さくうなずいてくれた。

 では、その効能についても? と問いかけると、〈お客様〉は視線を泳がせた。

 この〈お客様〉も最後までは覚えられなかったのか……残念だ。

「あのまんじゅう……いや盲頭ですが、食べた人の意思を持ち主にだけ(・・)向けさせるものです。つまり──」


 ──盲頭を食べた彼女は、〈お客様〉だけを意識するようになりました。


「そ、それって、どういうことなの」

「え、何、今ので分からなかったの?」

 あ、しまったつい本音が、ボクとしたことがはしたないね。

「コホン、仕方ないですね。まだご理解いただけていないようですので、ボクが隅から隅まで教えて差し上げましょう」

 〈お客様〉は呆気に取られている。そんなにボクの本音、おかしかったかな?

 まあいい。そんなこと、今に忘れることになるさ。

「貴方は願いました。『彼女の隣に居続けたい』と、そうですね」

「ええ、そうあれば良いと思ったわ」

 だからボクはその願いを、悩みを解決するためにはどうすればいいのか、それはもう考えたさ、考え、考え、考え……そして、たどり着いた結果。

「その子の思考を〈お客様〉一色にしちゃえば良い、とね」

「それってまさか……」

「そう、彼女はもう、学校の事、友達の事、外の世界の事、すべてにおいて何も考えてなどいません。興味を失った状態にあります」

 勿論、育ての親に対してもね。と付け加える。

 あ、〈お客様〉の顔が歪み始めた。いいねぇ、そうだよそう来なくちゃ! その表情がボクは見たいんだ! もっと、もっとよく見せてくれよ‼

 ああ、興奮が止まらないね、ここ数日、待っていた甲斐のある反応だ。美しい……。


 ──でも、まだ終わりじゃないよ。


「私のせいで……カナは」

「何を言っているんですか、〈お客様〉。貴方のお悩み、解決したんですから、もっと喜んでくださいよ」

 ボクはあえて、火に油を注ぐように、〈お客様〉へと言葉を投げかける。

「何を言っているのっ、こんなの、私の望みなわけ……」

 頭を抱え、その場にしゃがみ込む〈お客様〉。

 否定しようとするその唇に、ボクは寄り添い、自分の人差し指で蓋をしてあげた。

「いいえ、〈お客様〉。それが貴方のお望みなのですよ」

 フルフルと弱弱しく首を左右に振る〈お客様〉、その目には水がこれでもかと溜まっている。いずれその水たちは窮屈な部屋から逃げ出すように零れ落ちて行く、何を求めているのだろう、自由かな? それとも……まあいい。その先に待つのは、ただの虚無なのだから。

「私が……もど、めだのはぁ……かなのどなりに、これ、がらも……」

 途中から嗚咽が混じって何を言っているのか良く分からない。

 この表情もいいね、でも、まだだ。

 膝をついて涙を流す〈お客様〉、最後の一押しといこうか。

 ボクは〈お客様〉……いや、彼女の耳元へと顔を近づけ──


 ──これでずっと、彼女は貴方の隣に居ますよ。


 ボソリと囁く。すっと受け入れられるように優しく、優しく。

「あ、あああぁ」

 涙は、留まるところを知らず溢れた。

 彼女の顔を覗き込むと、顔はぐしゃぐしゃになり、穴という穴から液体が溢れ、どれがどこから出ているのか分からない。

 彼女の瞳にはもう何も映っていなかった。

 どこまでも、どこまでも果てしなく続く黒。闇。

「フフフ、これで貴方もボクとオソロイだね」

 ほら……と顔をガラス窓の方に向ける。

 霧を背景に映るのは、ボクと彼女の光の灯らない黒い瞳。

 片方は口角をこれでもかと広げ上げ、紫色のピアスがキラキラと怪しく光る。もう片方はぐしゃぐしゃの顔に、嗚咽を我慢するために口をキュッと閉じている。


 ボクは彼女の顔を見つめる。焦点の合わない瞳を。

 最高の絶望を……ありがとう。

 とても、美しいですよ。

 ボクは心の中で、彼女に感謝を述べた。

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