第二話『使い捨て出来ない物がある』

 学校が終わり、放課後。

 各々が教室を出て帰ろうとしているところを、俺は狙った。

「そーれっ」

「きゃっ」

 油断している女子を狙い、スカートをめくる。

 中にある閉ざされた景色が、一瞬だけ露になる。

「お、黒だ」

 瞬間を逃さず、目の前に映る色を目に焼き付ける。

 そしてそのまま逃げようとしたのだが……

「おい石井、その子に謝れ」

「げっ、杉田」

 進行方向のその先に、眼鏡をかけたいかにも真面目そうな男が立ちはだかる。

 こいつの名前は杉田。真面目かつイケメンで、女子からの人気が高い。

 男子からは少し嫌われている。理由は女子にモテているから以外にない。

 さも当然とでもいうように、後ろに女子が数人いた。

 ……羨ましいなんて思ってない。

 最低や謝りなよ、可哀そう。などの声が杉田と一緒にいる女子から聞こえてきた。

 めんどくさい。こういう時は……

「あ、こら逃げるなー!」

 後ろから女子の怒鳴り声が聞こえてくるが、俺はそれを無視してその場から逃げた。

 戦略的撤退ってやつよ。


「クソッ」

 地面に落ちていた小さい石ころを蹴る。

 タッタッタッとリズム良く転がっていくのを見ながら、イラついている原因の顔を思い出す。

「あーあ、人気者はいいなぁ。何をやっても、周りの女子が味方してくれるんだからさ」

 まあ、流石にスカートめくりは味方してくれないだろうが。

 はあとため息を零して、地面を見る。

 足元には石ころが沢山転がっている。石たちをいくつも蹴る、蹴って蹴って蹴って、ストレスを発散していく。

 一つ一つはそれ程でなくても、いくつも蹴ればスカッとしていく。

 どれくらいしたか、そろそろ家にたどり着いてもおかしくないくらいは、時間が経っていたと思う。

「……は?」

 顔を上げて、直後に思考が硬直した。

 目の前には、家どころか何も無かった。何も見えないほど、真っ白い霧が視界を覆い隠していた。

 慌てて足元を見ると、いつも歩いている砂利道ではなく、草の生えた草原になっていた。

 蹴っていた石ころも無い。

 さっきまで砂利道だったはず……

「どういう事だよこれっ」

 驚きを隠せない、大体学校から家までそんなにかからない距離にあるのだ。

 〈迷子〉という二文字が頭を過る。

 ブワッと、冷たい汗が出てくる。

 いやいやいや、そんなわけあるかっ、だってあの道はもう何百回と歩いたんだぞ、今さら迷子になるわけないだろ?

 小五が迷子になったとか、クラスの連中に知られたら笑い者確定だ。

 恥ずかしくて学校に行くどころの話じゃなくなる。

 元の場所に戻らないと、なんとしてでも。

「でも、どうやったら元の場所に戻れるんだ……」

 さっきは否定したが、俺は今絶賛迷子だ。

 いや、やっぱり否定する。迷子になったというのを誰にも知られなければそれは迷子になったとは言わないからな。うん、俺は迷子じゃない。

「にしても、霧なんてここらじゃ見ないぞ……」

 少しずつ、確実に、不安が増していく。

 ……怖い、恐怖。

 もしこのまま帰り道を見つけられなかったら。

 家に帰れなかったら。

 俺に待ち受けているのは……

「──ひぃっ」

 その先を考える事はできなかった。

 思わず腰から力が抜け、しりもちをつく。

 口から情けない声が出た、クラスの連中ですら聞いたことのない声だっただろう。

 自分の口からこんな声出るんだな、と思った。

 混乱しているはずなのに、妙に冷静だった。

 変な感じ。

「……っぷ、あはは」

 何が面白いのか自分でも分からない。

 それでも何故だか笑えてきて、そのおかげか不安な気持ちが少しマシになった。

「ははは……ふぅ」

 ひとしきり笑ってから、目の端に溜まった涙を拭う。

 一度深呼吸をしてから周りを見渡すと、光が見えた。

 それ以外、他には何も見えない。

 そこに行けば帰り道が分かるかもしれない。

 俺はその光を目指して走る。


 その正体は、一軒の建物だった。


 薄暗い霧の中、淡い光がガラス窓から漏れて辺りを照らす。

 不気味だった。直感がここには入るなと告げてくる。

「でも、ここ以外何も見えない」

 一刻も早く帰りたかった俺は、その建物へと足を踏み入れる。


 中はコンビニだった。

 どこでも見る、普通のコンビニ。

 一瞬自分は迷子になんかなっていなくて、お菓子を買いに来たんじゃないかと錯覚する。

 錯覚は本当に一瞬だった。外の霧を見ると、その考えは霧散した。

 外は霧で何も見えないが、店内は奥の方まではっきりと見えた。

 ただどこを見ても、人の気配はない。


「いらっしゃいませ」

 店内を一周して、入口へと戻って来たとき、声が聞こえた。

 バッとそちらへ身体を向けると、レジに女性が立っている。

 入ったときは誰もいなかったのに、気付いたらそこに居たのだ。

 まず視界に入ったのは腰まで伸びた紫色の髪、見えているのか分からない細い目。

 それから黒色に染まった服。

 ……店員、なのだろうか。

「……」

 俺は、声を出せなかった。

 血の気が引いていく、蛇に睨まれたカエルとは、まさにこの状態を言うのではないか。

 そんなどうでもいい事を考えていた。

 どれくらいそのままで居たか。

「〈お客様〉のお悩み、お聞かせくださいな」

 店員のその言葉を聞くまで、俺はその場から動けなかった。


     ◇


「いらっしゃいませ」

 入店した〈お客様〉に声をかけた。

 背は小さく、ランドセルを背負い、顔もまだ幼い。

 その表情は不安に塗りつぶされていたが、ボクを見てから驚きへと変わる。

 表情がコロコロ変わって可愛いな、と思った。

 すると今度は顔色が悪くなった。血の気でも引いたのだろうか。

「〈お客様〉のお悩み、お聞かせくださいな」

 声をかけてみる。できるだけ優しく。微笑みをおまけに。

 ビクッと肩が小さく跳ね、ぎこちなくこちらへと近づいて来る。

 幼さ故か、警戒心が強い。

 どうやって警戒を解こう……ボクは思考を巡らす。

「〈お客様〉」

 声をかけるとまたビクッと肩を揺らした。

 なんだかおもしろくなってきた。

 けど遊び過ぎるのも良くない、早く本題に入らないと。

「そんなに警戒されますと、ボクも悲しくなります」

 少しいたずら気味に、眉を下げてみた。

 効果はあったらしく、申し訳なさそうにごめんなさいと謝ってくれた。

 これで少しは警戒を解くことが出来ただろうか、まあ最悪どちらでもいいのだが。


「……帰る方法を教えてください」

 さて、なんと言って話を始めようかと考えていると、意外にも〈お客様〉の方から声をかけてくれた。

 自主的に来たわけではないようだ。まあそうだろう。

 自分の意思で来るような人間は、もう少なくなった。

 大抵の人間が迷い込む形で、この空間にやって来る。

 帰そうと思えばすぐに帰せるのだが、それだと面白くない。

 だからボクは──

「そうですね、ボクなら帰る方法を知っていますよ」

 そう言うと、一気にパアァっと〈お客様〉の顔が明るくなった。

 でもその前に、とボクは人差し指を口に当てて。

「〈お客様〉のお悩み、ボクに教えてくれませんか?」

 ──〈お客様〉へと問いかけるのだった。


     ◇


「──……あれ?」

 気が付くと、そこはいつも歩く見知った場所だった。

 さっきまでのは……夢?

「……夢じゃ、なさそうだな」

 俺の左手には付箋が握られていた。

 店員の声を思い出す──


『──なるほど、〈お客様〉のお悩みは自分も人気者になりたい、ですね』

 そうですねぇと手に顎を置き考える店員。

 その姿は凄く凛々しかった。

『でしたら、こんな商品はいかがでしょう』

 と言って、店員が取って来たのは付箋だった。

 俺は首を傾げる。からかわれているのだろうか。

 なんだか少しムッとした。

 店員はクスっと微笑んだ。

『フフフ、まあまあ怒らないでください、これでもボク、しっかり者なんですよ』

 店員の声はふわりとしていて、気を抜くとボーッとしてしまう。

 そんな事知ってか知らずか、話を進めていく店員。

『これは換箋(かんせん)、読んで字のごとく、貼った相手と〈お客様〉の意識を入れ替える物です』

 それは、凄いのだろうか……?

『フフフ、使ってみれば分かりますよ。物は試しです、こちら無料で差し上げますね』

 まるで俺の心を読んでいるかのように話を進める店員に、その付箋への興味と、試してみたいという好奇心が沸き上がった。

『あ、ありがとうございます』

 恐る恐る受け取ると、店員は微笑みながら『これが仕事ですから』と言ってきた。

『最後に注意点として、効果はきっかり十分です。それを忘れないでくださいね』

『分かりました!』

 俺は元気良く返事をして、そのままコンビニを勢い良く出た。


 出たところまでは覚えているのだが、それからどうやってこの場所に戻って来たのかだけは思い出せない。

 だがそんな事、もうどうでもよかった。

 だって、こんな面白そうな物を貰ったのだ、早く試したい。

 俺は夕焼け色に染まる空の下を全速力で走った。

 カラスの声が鳴り響いていたが、家に着くころには聞こえなくなっていた。

 空も暗い、早く家に入らないと。

「お、ゴロウ、ただいま」

 家に着くと、外で飼っている愛犬のゴロウが元気良く出迎えてくれた。

 フワフワのしっぽがフリフリと揺れている。

 そうだ、と思い俺は左手に握っていた付箋を見る。

 付箋はかなり分厚い。

「試しに一枚使ってみるか」

 俺は付箋を一枚剝がし、ゴロウに貼ろうとして手を止めた。

「どこに貼ろう」

 俺が考えていると、ゴロウは前足で付箋を取ってしまった。

 前足にくっつく。

「あ、何すんだよゴロウ」

 これでは貴重な一枚が無駄になってしまう。

 いや、そもそもそんな魔法みたいな事、現実にあるのか。

 疑問に思い、舞い上がっていた自分が馬鹿らしいと思い始めた時だった。

「ふ、付箋が……消えていく?」

 ゴロウの前足に引っ付いていた付箋がスッと消えた。

 この出来事に頭の思考が止まってしまう。

 状況を理解しようとしたその時、目の前が真っ暗になった。

 だがそれも一瞬で、すぐに視界が目の前の景色を映す。

「あれ、なんか視線が低いな、それに体勢もなんだかおかしい……え」

 言葉を失った。

 なぜなら、目の前に俺がいたからだ。

「どういう事だ、なんで俺がもう一人いるんだよっ」

 自分がもう一人いる、そのことが怖くて、焦り、汗が止まらない。

「……っぐぇ!」

 家の外に逃げようとして、何かに首を引っ張られた。

 すごく苦しい、痛い。

 なんとか後ろを振り返り、その正体を確認する。

 そして驚愕した。

 正体はリードだった。普段、愛犬のゴロウを犬小屋と繋げている紐。

 犬小屋の前から視界の下に繋がっている。

 まさか、と思い自分の手を見た。

 犬だった。犬の手、前足の部分。

 俺は入れ替わったのだ、自宅の愛犬と。

「すごい、本物だ! これは本物だ!」

 やっほーいと喜んでいると、家の扉が開いた。

「こらゴロウ、吠えるのをやめなさい!」

 近所迷惑でしょう、と言いながら顔を覗かせたのは母さんだ。

 その表情は少し怒っていた。

 そうか、今の俺は犬だから、吠えているように聞こえるのか。

 俺は母さんの足元へと駆け寄る。

 よしよしと頭や首をなでてくれる母さん。

 とっても気持ちが良かった。犬の生活も悪くないな、とか一瞬思ったのは内緒だ。

「あ、こらミノル、遅かったじゃないの! 早く入りなさい」

 しまった!

 俺は今犬で、これじゃあ箸とか使えない、どうしよう。

 ほら早く、と母さんが連れて行ったのは俺だった。中身がゴロウの。

「待って母さん、俺はこっちだよ!」

「こらゴロウ! もう吠えちゃだめよ、これ以上吠えると明日のご飯の量減らしますからね」

 な、ご飯減らされるのは困る。って、違うそれは俺じゃなくてゴロウだ。

 ああもう頭の中がこんがらがってくる。

 今、俺の姿は犬だ。これじゃあ何を言っても通じない。

 そうこうしている内に、母さんは俺の身体を連れて家の中に入ってしまった。

 どうしよう……お腹が空いた。

 犬小屋の前に置いてある餌の入った器に視線が釘付けになる。

「いやでも俺、犬の餌なんか食えないって……」

 ポタ、ポタと冷たいものが前足に落ちてきたので見ると、それはよだれだった。

 俺の、正確にはゴロウの。

 お腹は空いている、さっきからキュルキュル鳴っている。

 だが犬のご飯は食べたくない、そう思い抗おうとしているのに、身体は一歩ずつ餌の入った器へと進んで行く。

 そして、抵抗むなしく器の前まで来てしまった。

 よだれは止まらない。足元がべちゃべちゃになっている。

 そしてついに、口を器の中に突っ込んだ。

「……っでぇ」

 その瞬間、硬いもの同士のぶつかる感触が口を襲った。

 すごく痛かった、歯が取れるんじゃないかと思う痛み。

「珍しく大人しいと思ったら、何やってんのよ」

 前から母さんの呆れた声と、ため息が聞こえてくる。

 周りを見回すと、そこは家の中だった。

 元に、戻った……?

 俺は外に出てゴロウを見た。

 餌の入った器に顔を埋めて、勢い良く食べていた。

 一度顔を上げ、こちらを見る。口の中をモゴモゴしていた。

「……っあ」

 ──付箋の効果はきっかり十分。

 コンビニで店員が言っていた言葉を思い出す。

 あの言葉が、鈍痛と一緒にゆっくり、ゆっくりと俺の中に響いていた。


     ◇


 それから俺は沢山入れ替わった。

 人、動物、そして虫。とにかく興味を持ったものに貼り付けて入れ替わる。

 分かったことは、生きてないものには貼っても無駄。

 そしてもう一つ。

 俺が入れ替わった人は入れ替わっている最中の記憶が残らないらしい。

 だが例外はあるようだ。

「おい、石井っ」

 誰かが俺の名前を呼んだ。正確には知っている声なのだが。

 振り返ると、そこには俺が立っていた。そう、俺だ。

「おいおい何を言ってるんだ、石井はお前だろ?」

 馬鹿にするように、ふざけた口調で、目の前の俺に言った。

 なんだかおかしな光景だな。

 目の前に俺がいる、やっぱり何度見てもこればかりは慣れない。

「っく、分かったよ……杉田」

 観念したように、俺──杉田が返事をした。

 何か話したそうな顔をしている。

「説明しろって顔、してんな」

「当たり前だ、これはどういう事だ」

 顔を近づけて鼻息荒く聞いてくる杉田。

 顔は俺だからシュールで面白い。

「俺は意識を交換できるようになったんだ」

 簡潔に説明する。

 杉田が何言ってんだこいつ、とでも言いたげな顔をしていたが、現状を考えてか何も言ってこなかった。

 少しして俺たちは元に戻った。


 俺は杉田を中心に入れ替わるようになった。

 入れ替わると記憶は元のままだが、身体能力などは入れ替わった人物のになる。

 悔しいことに、杉田は俺より運動が出来た。

 俺は杉田の身体を利用して俺を孤立させることにした。

 何を言っているんだ? と思うかもしれないが、周りの女子を巧みに操って自分を孤立させていくのはなかなかに楽しかった。

 なぜ自分で自分を孤立させるのか。

 俺は杉田と入れ替わることが出来る。それ即ち、間接的に杉田を孤立させているのと同じだ。

 俺は別に周りに人が寄って来なくなろうと気にしない。だって杉田になればいいんだから。

 最初は俺の姿で抵抗していた杉田だったが、普段話を聞いてくれる女子が厳しい言葉をいくつもかけるからか、おとなしくなった。

 元に戻ったとき、もう俺をいじめるのはやめにしないか、と女子に話しかけているところを見た事がある。

 だが女子は、杉田君はなんて優しいんだろうと思うだけで、俺に対する態度は全く変わらなかった。

 その相手の中身が杉田本人とは気付いていないのだから、腹を抱えて笑ったね。

 女子は恐ろしいよ。

 それから授業、休み時間、隙を見ては何度も、何度も──

 そしてある日、入れ替わっている最中に杉田はやらかした。

「先生、僕の話を信じてください!」

 その日も、休み時間を利用して俺は杉田と入れ替わっていた。

 杉田の身体に居る時だけ、俺は学校の人気者になれた。

 いっその事、この時間が続いてくれれば、なんて考える事も増えてきた。

 もっと人気者になりたい、杉田になりたい。

 そんな矢先に、やつ杉田はとうとう先生に助けを求めてしまった。

 俺はまずい、と思ったがそれは杞憂に終わった。

「お前はいつまでそうやってふざけるつもりだ! いつまでも悪戯が通用すると思うなっ」

 先生はそう言って、杉田を叱った。正確には俺なのだが、俺の意識は杉田の中にいる。

 そろそろ効果が切れる頃だな、次はどこで貼ってやろうか。なんて考えている時だった。

「もうこんなの耐えられない!」

 俺の声だった。

 俺の身体は廊下を走り、階段を駆け下りて行った。横を通り過ぎる時、俺を一睨みして。

 後で元に戻ったら帰るのは俺なんだから、遠くに行かないでほしいな。

 などと考えながら、窓から外を見つめていた。

「おい、あれミノルじゃねえか」

 他の外を見ていた連中から俺の名前が聞こえた。

 その視線の先を追いかけてみる。

「おいおい、あいつマジか」

 学校を出て行く俺の姿がそこにはあった。

 気付いたら俺も追いかけていた。

 今更追いかけたってどうせ追いつけないだろうが、このままでは俺がよく分からないところから帰る羽目になる。杉田の身体でどこかへ行けばあいつもよく分からない場所から帰ることになる。言わば道連れってやつだ。


 そのつもり、だったのに……

 ただのいたずらのつもりだったのに……

「……は、な、なんだよこれ」

 目の前に、俺が転がってた。

 後頭部がこちらを向いている為、どんな表情をしているのかは分からない。

「お、おい、杉田? 大丈夫か?」

 声をかけるが返事は無い。

 地面には、赤い色をした液体が広がっている。

 そばに寄り、身体を揺する。べちゃり、と何かが手に付いた。

 ──血だった。

「へ、あ、あぁ……」

 俺の身体は、車に撥ねられてしまったらしい。

 つまり、杉田は……死──

「──お友達は死んでいませんよ、〈お客様〉」

 背後から、そんな一言が聞こえてきた。

 少し前に聞いた声。忘れかけていた記憶が、蘇る。

「お、お前……あの時の」

 霧のコンビニで出会った、店員の女性が、背後に居た。


     ◇


 なかなか店に帰って来ないから様子を見に来てみれば、どうやら正解だった。

 危うく、大切な絶望を見損ねるところだった。

 それにしても、最初は犬だったから記憶をいじらなくて済んだのに、対象者以外にも使うんだから、こっちはその対処に疲れたよ。

「あいつは、生きてるのか?」

 ん? ああ、〈お客様〉が乗っ取ってる身体の持ち主の事よね。

「ええ、〈お客様〉のご友人は生きますよ」

 これから、ですけどね。

「よ、良かった……俺、いくらなんでもやり過ぎたよ。後で謝らなくちゃ」

 謝る? 〈お客様〉は何を言っているのだろうか。

 あ、そうか、またうまく説明出来てなかったんだ。

 どうしようかな……時間もないし。

「そうですねぇ、残念ながら、〈お客様〉は謝ることは不可能かと思います」

「は、なんで?」

 〈お客様〉がムスッとして聞き返してくる。

 考えれば分かるはずなんだけどな。

「分からないんですか?」

 そうだ、ちょっと悪戯してみよう。

「お前、俺を馬鹿にしてるのかっ」

 ああ、怒っちゃった。

「でも実際、理解出来てないじゃないですか」

「だから、どういう事だよ!」

 反応がかわいい。

 でも残念だ、その反応とももう……お別れなのだから。

「見てください、〈お客様〉の本来の身体は今、どういう状態なのかを」

「どうって、俺はこの通りピンピン、し、て……あ」

 〈お客様〉は入れ替わっている子の両手を見て、ハッとして道路に横たわっている自分の身体を見た。

 そう、〈お客様〉の身体は今、亡き者となっている。

「あれは、もう生きるのに適さない状態ですかね」

 ボクはぼそりとつぶやいた。

 〈お客様〉にはしっかりと聞こえていたみたいだ。

「でも、俺は生きてる……そう、だろ?」

 崩れかけた表情、強がっている。冷や汗が〈お客様〉──少年の顔から止めどなく湧いて出てくる。

「それでは、最大級のヒントを差し上げましょう」

 ここまで教えちゃうボクってば、なんて優しいんでしょうか。

 おっと、心の中まで接客モードになってしまった。

 こっちに長居すると調子が狂うな。

「そのヒントって、なんだ」

 なあ、教えてくれよ。とボクの裾を引っ張って尋ねてくる。

 目には涙が溜まり、鼻水も出てる。

 恐らく、心の中では気付いているが、理性がそれに気付くのを止めているんだろう。そうしないと、精神が保てなくなるから。

 一種の防衛本能といったところか。

 このまま言わないという手もあるが、ボクがそれを選ぶわけないだろう?

「そんなにせがまれてしまうと、教えないわけにはいきませんね」

 腰を折り、その場にしゃがむ。

 少年を見上げる形になろうとしたのだが、膝から崩れ落ちてボクと視線が同じ高さになった。

「フフフ、では、のヒントです」

 笑顔で、少年を見る。彼にとっては、これが人生最期の光景になるのだろう。

 ああ、ボクの顔が最期に見る光景だとは、なんて光栄なことだろう。

 少年の瞳には、ボクの開かれた黒い瞳と、紫色の舌ピアスが映っている。

 肩に手を添え、耳元へ口を近づける。そして、そっと囁く。


 ──付箋の効果は、きっかり十分でしたね。


「……っぁ」

 声にならない悲鳴を上げ、少年はその場に倒れてしまった。

 さて、もう効果が切れる頃合いだ。

 ボクは視線を様々な液体でぐっしょりと濡れた少年から道に横たわっている方へと移す。

 その時、ビクンッ! と一際激しく、ボロボロの身体が跳ねた。

 ……戻ったか。

 恐らく数分は死んだ身体に生きた魂が入り込んだ状態になる。

 もう一度死ぬまでの数分間、考えつかない程の苦痛に苛まれることだろう。

「フフ、フフッフフフフフ」

 苦しんでいる彼を想像しただけで、とても幸せな気持ちになる。

 はあぁ、胸がぽかぽかする。

 コツコツ、と足音をゆっくり立て、少年の身体に近づく。

「最高の絶望を……ありがとうございます」

 ボロボロの少年。その耳元で、ボクは心からの感謝を述べた。

 死んだ直後でも、耳は聞こえるらしい。

 暗闇の中で苦痛に悶える彼に、この声が届くかどうかは分からない。

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