第6話 動かされる日 - 1
昨日までのどんよりとした空気を忘れたかのような晴天、過ごしやすい気温の木曜日。
開店前のcafeユーニでは、詩季がカウンターの椅子に座って読書をしていた。文字を追い、ページをめくるのを繰り返すその姿に、普段のにこやかさはない。声をかけるのも
最後のページを読み終わったのだろう。想いを巡らすように宙を見つめた瞬間、ぽろりと涙をこぼした。
その時、ちょうど裏口から入ってきたのは黒いキャップを被り、同じ色のシャツを来ている暁斗。5秒ほど動かなくなった後、おもむろに背負っていたリュックからポケットティッシュを取り出した。
「マスター、大丈夫ですか……?」
差し出されたそれを詩季はありがとうと言いながら受け取る。こぼれた涙をティッシュで拭い、ふうと息を吐いた。
「ごめんね、この本がすごく良くて。自分を表現するのが苦手な女の子の成長物語なんだけどね。その女の子に似ている子を知ってるから、余計感情移入しちゃって。物語で泣くなんて久しぶりだなぁ」
「一瞬、何か大変なことが起こったのかと思っちゃいましたよ。悪いことじゃなくてよかったです」
「心配かけてごめんね。そしてありがとう」
詩季は、数枚減ったポケットティッシュを返し、そういえばと話し出す。
「開店まで1時間もあるけど、もう準備全て終わってるんだよね。キッチンの方もやっておいたよ」
わずかに目を見開いた暁斗を見て、詩季はいたずらが成功したかのような笑みを浮かべた。
(本が読みたいがために早く来て準備した甲斐があったみたい。ひとまず読みたいものは全部読めたし、ついでに暁斗くんを驚かせることができたし。これこそ、してやったりというものでは……!)
「それは……ありがとうございます。ちなみにですが、何時くらいに来たんですか? 一人でやるとなると結構時間がかかりそうですが」
「えっとね、本を読み始めたのが9時過ぎだったから……、7時半くらいだったかな? のんびりやって1時間半かかったね」
「……7時半ですか。俺その時は夢の中で空飛んでましたよ」
「そっか、暁斗くんは空飛んでたのか」
(いいなぁ、僕も空飛んでみたいな。空を飛んで、この町をぐるっと一周してみたい。夢の話だけど夢あるよね)
「はい、気づいたら宇宙に浮いてました」
「宇宙まで行っちゃってたかぁ——」
二人はたわいもない話をしながら、のんびりと開店前の確認をしていた。そんな中、突如店内に鳩時計の音が響く。
びくっと肩を揺らした暁斗は音のなる方を向いた。
「もうこんな時間か」
振り向いた先にいた詩季はポケットからスマホを取り出し、鳴り続ける鳩時計の音を止める。時刻は10時55分を示していた。
「あのマスター、それは……?」
「開店時間お知らせ鳩時計くんだよ。いつもと違う流れだったし、うっかりしちゃいそうだったからね」
(暁斗くんが納得したように頷いてくれた……! 開店時間お知らせ鳩時計くん、適当に考えた名前だけど我ながらいいネーミングなのかもしれないね!)
何か勘違いしているようだが、暁斗が納得したのはアラームをかけたことについてである。
うまくいったと言わんばかりの表情を抑えきれていなかった詩季は、すぐに切り替え、余裕たっぷりないつもの感じに戻った。
「さて、開店するよー」
「了解です」
暁斗の言葉に頷き、店内の壁に立てかけていた看板をおもてに出す。中に戻ろうとした時、詩季の目に何かを話す男女二人の姿が留まった。ダークグレーと空色を基調とした制服を着た二人は、cafeユーニから30メートルほど離れたところを歩いている。
(あれって近所の高校の制服……? ということは高校生だよね? でも平日のこの時間って授業中なんじゃ?)
何かを言い争う様子を見せたと思ったら、女の子がつかつかと詩季に向かってやって来た。
少し癖のついた黒髪のボブヘアに気怠げなすみれ色の瞳。前髪の一部をピンで留めている。彼女は、白いシャツとダークグレーに空色のチェック柄が入ったスカートを着ており、首元の蝶結びをした空色のスカーフが印象的な制服を着ていた。
女の子は詩季の前で立ち止まり、じっと見つめる。負けじと女の子を見つめ返したのは何なのだろうか。まるで一触即発な雰囲気だ。
(僕は何をしているんだろう。つい見つめ返してしまったけど、女子高生に大人がやっていいことではないような……。えっと、かなりまずくない?)
内心詩季が焦り出した時、思ったことが口をついて出たかのように女の子は呟いた。
「おにーさん、小さいね?」
ぴしりと止まったように、詩季は微動だにしなかった。それに対し、目の前で手を振ってみたりじっと見つめてみたりする女の子。後ろから男の子が慌ててやってきた。
センターで分けた黒いショートヘアに、はつらつとしたすみれ色の瞳。男の子は、女の子と同じ色をもっていた。白いシャツと空色のチェック柄が入ったダークグレーの長ズボン、空色のスカーフはネクタイのように結んでいる。
そんな男の子は突然頭を下げた。
「うちの姉がすみません! ほら姉ちゃんも謝って!」
「……ごめんなさい?」
うながされた女の子は、なぜ謝る必要があるのかと言いたげに頭を下げた。謝られた詩季は不自然な笑顔になっている。
(小さい、小さいかぁ。そうだね、実際そうだよ。身長163センチだよ。誰に言われなくても気にしてるんだよね。それを面と向かって言うなんてね。……あーダメだ。今、口を開いてしまったら理詰めで怒ってしまいそう。暁斗くんに、あれはよっぽどのことがない限りやらないでって言われてるからね。なんか怖いらしいから。うーん、とりあえず笑っとこうか)
おそるおそる詩季の様子をうかがった男の子は女の子にこそこそと話しかけた。
「ね、姉ちゃん何やらかしたの……? この方めっちゃ怒ってるんだけど」
「別に何もやらかしてないけど」
「いや絶対やらかしてるから、姉ちゃんの何もやらかしてないは信用ならないから」
(こそこそ話しているつもりだろうけど、聞こえているよ、君たち。というか、この子たちはどうしてここにいるんだろうね? ユーニに何か用があったのかな。そうじゃなかったらここで立ち止まったりしないよね。ということは……お客様?)
はっと気づいた詩季は目だけが笑っていない不自然な笑顔を崩し、ぎこちなく笑った。その表情にいつもの余裕はない。
「えっと、とりあえず入ります?」
怒りの気配が消えた詩季に、二人は顔を見合わせた。
「——ご注文お決まりになりましたらお声がけください」
お冷とおてふきを差し出した詩季に対し、カウンターに座った二人はありがとうございますと述べた。
(いつも通りにできてるかな……。さっきはちょっと怒りの感情が出てきてしまったし。お客様に対してなんたる失態、やらかしてしまった……)
「あの、注文いいですか……?」
おそるおそるといった様子で声をかけたのは男の子だった。
「はい。もちろんですよ」
「えっと、コーヒーと花氷パルフェをお願いします」
「コーヒーと花氷パルフェですね。かしこまりました。少々お待ちください」
詩季はよれよれとした足取りでキッチンへと向かう。いつものようにこっそりとホールの様子をうかがっていた暁斗に話しかけた。
「暁斗くん、花氷パルフェお願いします……」
「了解です。……あの、大丈夫ですか?」
(暁斗くんの心配が心に沁みる……)
「僕、やらかしてしまったかも」
「……マスターが何をやらかしてしまったのかは分かりませんが、大丈夫です。マスターなら取り返せます」
「取り返す?」
「そうです。やらかしたことをチャラにするくらいのこと、マスターならできます」
(確かに、暁斗くんの言う通りだね。ここで後悔したり反省したりしててもしょうがない。お客様がいるんだから、来てよかったと思ってもらわないと、だね。反省会は後でしよう)
「ありがとう。頑張って取り返すね……!」
その言葉に少しだけ口角を上げた暁斗を見て、詩季はカウンターに戻りコーヒーを入れ始めた。しばらくするとその香ばしい香りと湯気が店内に立ち上る。
無駄がなく、洗練された詩季の手捌きを、二人の客はきらきらと目を輝かせて見つめていた。
(このお客様たち、落ち着いて見てみるとよく似てる。男の子が姉ちゃんと呼んでいたし
「コーヒーを入れてるところを見るのは珍しいですか?」
「た、確かに珍しいかもです」
「
「ちょっ、姉ちゃん、言わないでよ! 恥ずかしいじゃん」
「否定はしないんだね。なるほどなるほど」
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