第2章:月光の囁き
放課後の図書室は、静寂に包まれていた。夕暮れの柔らかな光が窓から差し込み、本棚の影を長く伸ばしている。その薄暗がりの中、一人の少女が真剣な面持ちで本を読み耽っていた。
綾小路 紫苑。
彼女は、ここ数日間、毎日のように図書室に足を運んでいた。手にしているのは、『幻想生物大全』という分厚い古書。ページをめくるたびに、埃っぽい匂いが鼻をくすぐる。その香りは、どこか懐かしく、紫苑を遠い記憶へと誘う。
「鳥人……鳥の特徴を持つ人間の姿をした存在か」
紫苑は、小さく呟いた。夢に出てきた檻の中の少女。彼女が纏っていた羽衣。そして今朝見た不思議な羽。それらがすべて繋がっているような気がしていた。
ページをめくる音だけが響く静寂の中、突如、背後から声がした。
「こんな所にいたのね、綾小路さん」
「!」
紫苑は驚いて振り返った。そこには、生徒会長の月城 胡蝶(つきしろ こちょう)が立っていた。長い銀髪を後ろで結い、凛とした姿勢で佇む彼女は、まるで月光を纏ったかのように美しかった。
「月城先輩……」
「いつも放課後はここにいるって聞いたから。探しに来たのよ」
胡蝶は、紫苑の隣に座った。その仕草には、どこか計算された優雅さがあった。彼女の纏う香水の香り??ジャスミンとバニラの甘美な調べ??が、紫苑の鼻腔をくすぐる。
「何を読んでいるの?」
胡蝶が身を乗り出し、紫苑の本を覗き込む。その瞬間、二人の間に流れる空気が、微妙に変化した。胡蝶の長い睫毛が、紫苑の頬をかすかに撫でる。
「これは……幻想上の生き物についての本? 珍しいわね」
「ええ、ちょっと興味があって……」
紫苑は言葉を濁した。夢のことを話すべきか迷ったが、結局黙っていた。しかし、胡蝶の鋭い眼差しは、すでに紫苑の心の内を見透かしているかのようだった。
「そう。でも、あなたらしくないわね」
胡蝶の瞳に、不思議そうな色が浮かぶ。その瞳は、まるで満月の夜のように神秘的で美しかった。
「どうして……そう思うんですか?」
「だって、綾小路さんは現実主義者でしょう? いつも冷静で、論理的で。こんなファンタジーみたいな本を読むなんて」
胡蝶の言葉に、紫苑は少し驚いた。自分のことをそこまで観察していたとは思わなかった。胡蝶の洞察力の鋭さに、紫苑は心臓が高鳴るのを感じた。
「私にだって、夢を見る時くらいはあります」
紫苑は、少し反発するように言った。その声には、普段の彼女からは想像もつかないような感情の揺らぎがあった。
「夢?」
胡蝶が、急に興味深そうな表情を浮かべる。その瞳が、まるで紫苑の心の奥底まで覗き込もうとするかのように輝いた。
「ええ、最近、奇妙な夢を見るんです。檻の中で踊る少女の夢を」
言葉が口をついて出た瞬間、紫苑は後悔した。こんなことを話すべきじゃなかった。きっと変に思われる。そう思った紫苑は、慌てて視線を逸らした。
しかし、胡蝶の反応は意外なものだった。
「それって……もしかして、青紫色の羽を持つ少女?」
「え……?」
紫苑は、驚きのあまり息を呑んだ。胡蝶の言葉に、心臓が大きく跳ねた。
「どうして、それを……」
「私も、似たような夢を見たことがあるの」
胡蝶の声は、急に低く、秘密めいたものになった。その声色に、紫苑は思わず身を乗り出した。
「本当ですか?」
「ええ。でも、私の場合は檻の外にいたわ。中にいる少女に手を伸ばそうとしても、どうしても届かなくて……」
胡蝶の言葉に、紫苑は背筋に冷たいものが走るのを感じた。まるで、自分の夢の続きを聞いているかのようだった。
「それで、私もその夢の意味を探っていたの。そしたら……」
胡蝶は言葉を切った。そして、紫苑の耳元に顔を寄せ、囁くように続けた。その吐息が紫苑の首筋をくすぐり、思わずゾクリとした。
「伝説を見つけたわ。『紫苑の鳥の檻』という伝説を」
「紫苑の鳥の檻……」
紫苑が、その言葉を反復する。まるで呪文のように。その瞬間、彼女の胸元の紫水晶のペンダントが、かすかに輝いたように見えた。
「ええ。その伝説によると、世界の狭間に存在する檻があって、そこには無限の可能性を持つ『紫苑の鳥』が囚われているの。その鳥を解放する者には、望みが一つだけ叶うんですって」
胡蝶の話を聞きながら、紫苑の頭の中では様々な思いが駆け巡っていた。夢、羽、伝説。それらが全て繋がっているような気がしてならない。そして、自分の名前と同じ「紫苑」という言葉に、運命的なものを感じずにはいられなかった。
「でも、それはただの伝説でしょう? 現実にあるはずがない」
紫苑は、自分に言い聞かせるように言った。しかし、その声には確信が欠けていた。
「そうね。でも……」
胡蝶は立ち上がり、窓際に歩み寄った。夕暮れの空が、オレンジ色に染まっている。その光景は、まるで絵画のように美しかった。
「もし、その伝説が本当だとしたら? もし、私たちが見ている夢が、何かの前兆だとしたら?」
胡蝶の言葉は、紫苑の心に深く刺さった。理性では否定したいのに、どこか心の奥底では、その可能性を信じたい自分がいる。
「月城先輩……」
「綾小路さん、一緒に探してみない? この伝説の真相を」
胡蝶が振り返り、紫苑に手を差し伸べた。その瞳には、決意と期待が混ざり合っていた。月光のように輝く銀髪が、夕陽に照らされて幻想的な輝きを放っている。
紫苑は、一瞬躊躇した。しかし、次の瞬間、彼女は胡蝶の手を取っていた。その手は、想像以上に柔らかく温かかった。
「はい、一緒に探しましょう」
その瞬間、二人の周りを青紫色の光が走った。それは一瞬のことで、気がついた時にはもう消えていたが、二人とも確かに見たのだ。
図書室の窓の外で、一枚の青紫色の羽がゆっくりと舞い落ちていく。その羽は、月の光を受けて神秘的な輝きを放っていた。
「あれは……!」
紫苑が思わず声を上げる。胡蝶は静かに頷いた。
「間違いないわ。これは私たちへの導きよ」
胡蝶の声には、確信が満ちていた。
紫苑は、胸の高鳴りを感じながら、胡蝶の手をより強く握った。二人の指が絡み合う。その温もりが、紫苑に勇気を与えた。
「でも、どこから始めればいいんでしょう?」
紫苑が尋ねる。
「それはね……」
胡蝶はにっこりと微笑んだ。その笑顔は、月の光のように神秘的で美しかった。
「明日の朝、駅前で待ち合わせしましょう。そこから、私たちの冒険が始まるわ」
紫苑は無言で頷いた。胸の中で、不安と期待が入り混じっている。しかし、胡蝶の手の温もりが、その不安を少しずつ溶かしていくのを感じた。
図書室の窓から差し込む夕陽が、二人の姿を優しく包み込む。その光景は、まるでこれから始まる物語の序章のようだった。
紫苑は、胡蝶の横顔を見つめた。その美しさに、思わず息を呑む。銀髪に映る夕陽の光、長い睫毛、優雅な鼻筋、そして柔らかな唇。すべてが完璧で、まるで彫刻のようだった。
「月城先輩……」
紫苑が思わず呟く。胡蝶が振り返り、紫苑と目が合う。
「なあに?」
「ありがとうございます。こんな私の話を信じてくれて」
胡蝶は優しく微笑んだ。
「あなたを信じないわけがないでしょう。私たち、特別な繋がりがあるのよ。そう感じない?」
その言葉に、紫苑の心臓が大きく跳ねた。確かに、胡蝶と一緒にいると、不思議と心が落ち着く。まるで、長年の親友であるかのように。
「はい、感じます」
紫苑はそう答えた。そして、勇気を出して付け加えた。
「先輩と一緒なら、どんな冒険でも乗り越えられる気がします」
胡蝶の瞳が、月明かりのように輝いた。
「ええ、きっとそうよ」
二人は再び手を握り合った。その手の中に、これから始まる冒険への期待と、お互いへの信頼が詰まっていた。
図書室を後にする二人の後ろで、一冊の本がそっと床に落ちた。それは『幻想生物大全』だった。開いたページには、青紫色の羽を持つ美しい鳥の絵が描かれていた。
物語は、静かに、しかし確実に動き出していた。
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