【百合小説】幻想の檻(かご)から解き放たれて―羽ばたく少女たちの物語―
藍埜佑(あいのたすく)
第1章:紫苑の夢、檻の中の少女
薄明かりの差し込む窓辺に佇む少女の姿があった。漆黒の長髪を朝靄のように靡かせ、遠くを見つめる瞳は深い紫苑色を湛えている。彼女の名は綾小路 紫苑(あやのこうじ しおん)。17歳、私立桔梗女学院の2年生。
紫苑は、いつものように早朝の静寂に包まれた自室で目覚めていた。淡い紫色のシルクのパジャマが、彼女の白磁のような肌に優しく寄り添っている。しかし、今朝はどこか違和感があった。微かに震える指先で額に触れると、冷や汗が滲んでいる。
「また、あの夢……」
呟いた言葉が、静寂を破る。その声は、まるで風鈴のように繊細で清らかだった。
紫苑が見た夢。それは鮮明すぎるほどに鮮やかで、しかし輪郭のぼやけた不可思議な光景だった。見知らぬ少女が檻の中で踊っている。その姿は美しく、まるで月光を纏ったかのようだった。しかし同時に、その眼差しには言い知れない哀しみが宿っていた。紫苑は何度もその少女に手を伸ばそうとするのだが、どうしても届かない。指先が触れそうで触れない距離で、少女は儚げに微笑むのだった。
そんな夢を、ここ数日間続けて見ていた。
紫苑は深くため息をつき、ベッドから立ち上がった。鏡台の前に立ち、自分の姿を確認する。長い黒髪が、まるで夜の帳のように背中を覆っている。白磁のような肌に、紫苑色の瞳が神秘的な輝きを放っていた。
制服に袖を通しながら、彼女は再び呟いた。
「きっと、ただの夢よ……」
自分に言い聞かせるように。しかし、その言葉とは裏腹に、紫苑の心の奥底では確信めいたものが芽生えていた。この夢には、きっと何か意味があるのだと。
制服姿になった紫苑は、最後にネックレスを身につけた。それは、亡き祖母から受け継いだ、紫水晶のペンダント。いつも身につけることで、心が落ち着くのを感じる。
朝食を済ませ、玄関を出る頃には、街はすっかり目覚めていた。初夏の清々しい朝の空気が紫苑の頬をなでる。
「しおんちゃーん! おはよー!」
元気な声と共に現れたのは、幼なじみの桜庭 椿(さくらば つばき)だった。明るい茜色の髪を二つに結い、笑顔が眩しい少女。紫苑とは対照的な、太陽のような存在だった。
「おはよう、つばき」
紫苑は微笑みを返す。椿の明るさは、いつも紫苑の心を和ませた。
椿は今日も可愛らしい。制服のリボンは少し歪んでいるけれど、それが彼女らしさを際立たせている。頬には健康的な桃色が差し、唇は朝露に濡れた花びらのように艶やかだ。
「今日ね、放課後に寄りたいお店があるんだ! しおんちゃんも一緒に行かない?」
椿は弾むような足取りで、紫苑の隣を歩きながら話しかけてきた。その仕草には、無邪気さと少女らしい魅力が溢れている。
「ごめんね。今日は生徒会の仕事があるの」
「えー、また? 最近忙しいね」
椿が不満げに頬を膨らませる。その仕草があまりにも愛らしく、紫苑は思わず頬を緩めた。
「ごめん。また今度ね」
紫苑は申し訳なさそうに微笑んだ。椿の髪が朝日に照らされて輝いているのを見て、思わず手を伸ばす。椿の柔らかな髪を優しく撫でながら、紫苑は言った。
「髪、少し乱れてるわよ」
その仕草に、椿は少し赤面した。
「あ、ありがと……」
二人の間に、ほんの一瞬だけ甘い空気が流れる。
実際のところ、生徒会の仕事は口実に過ぎなかった。ここ最近、紫苑は放課後になると決まって図書室に足を運んでいた。あの不思議な夢の意味を探るために。しかし、その調べものの内容を椿に話すのは躊躇われた。きっと心配させてしまうだろうから。
そんな会話を交わしながら、二人は朝靄に包まれた街を抜けていく。やがて、彼女たちの通う私立桔梗女学院の姿が見えてきた。古風な洋館風の校舎は、朝日に照らされてまるで絵本から抜け出してきたかのような美しさだった。
紫苑は、ふと空を見上げた。
どこからともなく、一枚の羽が舞い落ちてくる。純白で、しかし縁が薄く青紫色に染まったその羽を、紫苑は空中でキャッチした。
「綺麗……」
思わず呟いた言葉に、椿が首をかしげる。
「何が綺麗なの?」
「ほら、この羽」
紫苑が手のひらを広げると、そこには何もなかった。
「え……?」
驚いて辺りを見回す紫苑。しかし、羽の姿はどこにも見当たらなかった。
「大丈夫? しおんちゃん、最近ボーっとしてることが多いよ?」
椿が心配そうに紫苑の顔を覗き込む。その瞳には、親友への深い愛情が宿っていた。
「ううん、大丈夫。気のせいだったのかも」
紫苑は取り繕うように笑顔を見せたが、心の中では不安が渦巻いていた。あの羽は、夢の中で見た檻の中の少女が纏っていた羽衣と、どこか似ていたのだ。
そして、その瞬間。紫苑の視界の隅に、一瞬だけ青紫色の光が走った。
「……っ!」
思わず振り返る紫苑。しかし、そこには何もなかった。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
紫苑は首を横に振った。しかし、心の奥底では確信が芽生えていた。
これは、きっと始まりの予感。
そう、物語の幕開けを告げる、小さな兆しなのだと。
校門をくぐる二人の後ろで、桜の花びらが舞い散る。その光景は、まるでこれから始まる物語を祝福しているかのようだった。
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