それから……
その後、ペドロが僕の前に現れることはなかった。
僕はというと、あれから、ほとんどの時間を部屋で過ごしている。何をするでもなく、ぼんやりと。
ペドロと過ごした一週間……あれは、本当に現実だったのだろうか?
僕は、自分の頭に残っている記憶を総動員させ、同時にペドロに関する情報を集めようと試みた。彼の語った話について、ネットで調べてみたのだ。
その結果、レイカーズなる重警備刑務所が本当に存在することは分かった。また、メキシコがどういう国であるかも理解できた。
だが、そこまでだった。ペドロという男の存在した証拠は、どこにもなかったのだ。アメリカで七人を殺害して警察に逮捕され、レイカーズ刑務所に入れられた。その後に脱獄し、日本に渡って来た。そんな怪物じみた殺人鬼の記録など、どこにも載っていなかったのだ。
しかし、僕の記憶の中には……今も、はっきりと存在している。
ある日、僕は久しぶりに外出した。
公園に行き、ベンチに腰を降ろす。ここで、ペドロはひとりの男を死体に変えて座らせておいたのだ。思えば、それがペドロとの出会いだった。あの時、僕が双眼鏡を手にしていなければ……ペドロとは一生、無関係でいられたのかもしれない。
その時、幼い子供がこちらに歩いて来た。まだ四歳か五歳くらいだろうか。子供は僕を無視し、真っ直ぐ歩いていく。公園の真ん中にある池を見つめていた。
僕の目には、その子供の後頭部が映っていた。
ふと、赤羽のことを思い出した。
赤羽の後頭部に石を降り下ろした時、あいつは悲鳴を上げたのだ。つい先ほどまで、立派で勇ましい言葉を吐いていたのに。
さらに遡れば、あいつは数年前に僕の人生を滅茶苦茶にした。
だが、今はただの死体なのだ。
僕が殺した。
後頭部を、石で殴ってやったのだ。
思わず笑みがこぼれた。その時の感触が甦る。頭蓋骨が砕け、中の脳が潰れるのがはっきりとわかった。人間を人間たらしめているのは、脳の存在である。だが、僕は赤羽の頭蓋骨と脳を潰してやった。
いとも簡単に。
人体というものは、意外と、簡単に壊れるものなのだ。もっとも、人を殺さずに、それを理解するのは難しい。
さらに言うと、人を殺すのはさらに難しい行為だ。
しかし、今の僕はその両方を経験している。
僕の目の前にいる子供は、無防備な背中を向けている。殺そうと思えば、簡単に殺せるだろう。
不意に、松橋の首を絞めた時のことが甦る。首を絞め続け、やがて手のひらに伝わってくる死の感触。
人の命を奪う時、僕は神の役割を演じるのだ……人の死を司る、死神に。
この手を伸ばし、子供の首を絞める。
もう一度、あの感触を味わえる──
「ともくん、そんなとこで何してるの? こっちにいらっしゃい」
不意に、女の声が聞こえた。すると子供は振り向き、そちらの方に駆けて行く。子供の母親だろうか。
その時になって、僕はようやく我に返る。自分のしようとしていたことに気づき、愕然となった。
今、あの子供を殺そうとしていたのだ。
何の罪もない子供を。
深淵を覗き込むとき、深淵もまたお前を覗き込んでいるのだ。
誰の言葉だったろうか。だが今になって、僕はその言葉の意味が、僅かながら理解できた気がする。
あの悪魔のごとき男と過ごした日々。ペドロと色んな話をした。かなりの時間、行動を共にしてきた。その間に、ペドロは僕の中にすっかり入り込んでいたのだ。悪魔が聖人を堕落させるように……いや、吸血鬼が噛みついて仲間を増やしていくように、ペドロは僕を変えてしまったのだ。
殺人鬼へと。
人を殺したい──
僕はもう一度、あの感触を味わいたかった。手の中で、命の火が消える瞬間を……その瞬間、瞳の輝きも消える。体から魂が抜け、人間から肉の塊へと変化するのだ。
あの瞬間、僕は人間を超越した存在へと変われる。
違う!
こんなのは狂っている。僕は何がしたいんだ?
人殺しか? 僕は人を殺したいのか?
僕は──
・・・
「ナオちゃんよ、最後まで読んだか?」
「ええ、一応は」
「で、どう思う? そのノートに書かれていたのは、本当にあったことだと思うか?」
「うーん、はっきり言って信じられないですね。出来の悪い素人ミステリー、としか言い様がないです」
尚輝はそう言って、ノートを正義に手渡す。
正義はそれを受け取り、事務机の上に置く。ふと事務所の窓を見ると、西日の強い光が射してきた。正義は思わず目を細める。
夏目正義と坂本尚輝はコンビを組み、私立探偵をやっている。今回の依頼は、一年ほど前から行方がわからなくなった小岩哲也という少年の捜索である。手がかりのひとつとして、両親から哲也の残したノートを渡された。
尚輝はそのノートを家に持ち帰り、最初から最後まで目を通してみたのだ。
「ナオちゃんも、そう思うかい? このノートに書いてあることはデタラメだ、と」
「ええ。ただひとつだけ、引っかかる点があります」
「引っかかる点?」
「はい。そのノートに、桑原徳馬って出てきますよね」
「桑原徳馬?」
訝しげな表情になる正義に向かい、尚輝は口の端を歪めて見せた。
「ええ。その桑原ってのは……知る人ぞ知る、って感じのヤクザなんですよ。利用できるものは何でも利用し、金に変える男です。単なる引きこもりのガキが、桑原の名前を知っているとは思えないんですよね」
そうなのだ。桑原は裏の世界では、知る人ぞ知る存在である。尚輝は直に会ったことはないが、その噂は聞いていた。
単なる引きこもりの少年が、どこから桑原の名を知ったのか。そのあたりは謎である。ネットで調べたくらいで、ポンと出てくる名前ではないのだ。裏の世界に足を踏み入れた経験のある人間でない限り、桑原の名前を知っているはずがない。
「そうか。実は俺も、少し調べてみたんだよ。そうしたら、奇妙なことが判明した。このノートに登場している赤羽健司、児玉智也、松橋修一郎……その三人は、一年ほど前から行方不明だ。捜索願いも出ている」
「本当ですか……」
「ああ。明日は直接、部屋に立ち入って調べることになってる。今さら、何も出てきやしないだろうけどな。まあ、これも仕事だ。やれるだけのことは、やってみるよ」
翌日、二人は哲也の部屋を訪れた。
部屋の中は、しんと静まり返っている。ところどころ埃が積もっている点を見るに、哲也がいなくなってから、この部屋には誰も訪れていないらしい。両親も、数年ぶりに部屋に入ったと言っていた。
「正義さん、これ……」
尚輝が何かを拾い上げ、正義に見せる。それは、何かの破片だった。
「ゲームのコントローラー、だよな……」
正義は呟いた。破壊されたコントローラーらしきものの一部だろうか。
(次の瞬間、僕は目を見張った。それなりに頑丈なはずのコントローラーが、一瞬のうちに握り潰されたのだ。ペドロの手のひらの中で、いとも容易く粉々に砕け散ってしまった)
ノートには、そう書かれていた。では、これがペドロの壊したコントローラーの破片なのだろうか。
いくら何でも、そんなバカなことがあるだろうか。
机の上には、双眼鏡が置かれていた。正義はそれを手に取り、窓のそばに行ってみた。一方、尚輝は机の引き出しを開けている。
その途端、顔色が変わった。
「正義さん、これ……」
尚輝が、何かを差し出してきた。正義はそれを手に取る。名刺だ。
(桑原興行代表取締役 桑原徳馬)
名刺には、そう印刷されていた。
「間違いないよ。小岩哲也は、桑原と会ったことがあるんだ」
尚輝の声は、震えている。
この坂本尚輝という男は、かつてプロのボクサーだったのだ。片方の目の視力を失い引退した後は、裏の世界に足を踏み入れた。荒事専門の仕事師として活動していた時期もあったのだ。殺人事件に関わったこともある。その後は足を洗い探偵になったが、滅多なことでは怯えたりしない男だ。正義も、尚輝をパートナーとして信頼している。
その尚輝が、明らかに動揺している。
「あのノートに書かれてることは、本当なのかもしれないよ」
尚輝の言葉に、眉を潜める正義。
「ああ、かもしれないな」
言いながら、正義は名刺を財布の中にしまった。
その瞬間、背筋に冷たいものが走る──
慌てて振り向いた。だが、窓には誰もいない。
正義は言い様のない不安を感じた。持っていた双眼鏡を目に当て、外を見る。
双眼鏡のレンズ越しに、真幌公園の風景が見えていた。巨大な池、ブランコや滑り台といった遊具、遊んでいる子供たち。
そして、ベンチに座る二人の男。
「何だと?」
思わず声を洩らす正義。ベンチには、中年男と少年が座っている。中年男は肌の色が浅黒く、身長はさほど高くないように見える。しかし腕は異様に長く、がっちりした体格の持ち主である。顔立ちや肌の色は明らかに日本人のものではない。かといって、欧米人とも違う。見た目からは年齢を推し量れないが、少なくとも三十歳を過ぎているのは確かだ。そして、どこか野獣のような雰囲気を漂わせている。
中年男は、こちらを見てニヤリと笑った。
正義は、思わず双眼鏡を落とす。彼とて、これまで私立探偵として活動してきた。恐ろしい体験や奇妙な体験もしている。ロシア人マフィアに拉致された女性を救い出したこともあるのだ。
しかし、あの男はロシア人マフィアよりも遥かに恐ろしい存在だ。正義の本能がそう告げていた。
あれがペドロなのか──
「どうかしたのか?」
正義のただならぬ様子に気づいた尚輝が、心配そうに覗き込む。
しかし正義は答えなかった。無言のまま双眼鏡を拾い、再び公園の方に目を凝らす。
すると、不気味な中年男の姿は消えていた。ベンチには少年がひとり、取り残されている。
その少年の顔には、見覚えがあった。
「小岩……哲也……」
呆然とした表情で呟いた。
ベンチに座っていた者は、小岩哲也だった。死体と化し、ベンチに座らせられていたのだ。周辺には警官が集まり、騒然とした雰囲気になっている。
正義は一応、事情聴取を受けた。もっとも、それは形式的なものだ。哲也の死因は心臓麻痺だったし、ふたりは何の関係もない。
警察の見解としては、哲也は妄想に取り憑かれて家出し、あちこちさ迷っている間に肉体が衰弱していった。さらに幸な偶然が重なり、心臓麻痺を起こした……と発表された。
だが正義は、そんな発表など、まるきり信じていなかった。
彼は見たのだ。公園にて、哲也の隣にいた者を。あれは間違いなく、哲也のノートに書かれていたペドロなのだ。あの悪魔のような男が哲也を殺し、ベンチに座らせておいた。何のためかは知らない。そもそも、ペドロにとって、人を殺すのに理由などいらないのだろう。
そう、ペドロは今もどこかにいるのだ。他人の幸福や生命をありとあらゆる残忍な方法で消し去り、代わりに害毒を振り撒き続けていくのだ。
それに対し、凡人に出来ることなど何もない。凡人に出来ることはただ、ペドロのような人間のふりをした悪魔と出会わないように祈ることだけだ。
哲也のノートの最後のページには、こう記されていた。
「僕は悪魔を殺す」
正義は思うのだ。最期に哲也が殺したのは、他ならぬ自分自身だったのではないか。
自分の中に生まれし悪魔を──
悪魔と過ごした一週間 板倉恭司 @bakabond
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