七日目(3)
ペドロの言葉に、ただただ呆然となるばかりだった。では僕と赤羽は、ここで殺し合いをしなくてはならないのか。
そう思った瞬間、ひとりでに言葉が出ていた。
「な、何でそんなことを──」
「君は人殺しなんだよ、哲也くん」
ペドロの声は、ひどく無機質だった。僕の全身は硬直し、彼の言葉を黙って聞いていた。それしか、出来ることがなかったのだ。
「君は既に、こっち側の人間なんだよ。人をふたり殺しているんだからね。こっち側の世界に、自らの意思で足を踏み入れたんだ。ならば、君が殺される側になったとしても、文句は言えないはずだよ。いいかい、この廃墟から外に出るには、階段を使わなくてはならない。その階段は、俺が見張っている。この階段を上がれる者はひとりだけだ。君か、あるいは赤羽くんか。でなければ、二人とも殺す」
僕はひとり、廃墟の中を進んで行った。
目が暗闇に慣れてきたらしく、何とか見えるようにはなってきた。だが、せいぜい数メートル先がぼんやり見えるだけだ。もし仮に、赤羽が物陰にでも潜んでいたなら、見つけることは出来ない。
もし隙を突かれたら、赤羽はためらうことなく僕を殺すだろう。あいつは、それが出来る男なのだ。あの三人の中で一番体が大きくケンカも強い。しかし、赤羽の怖さはそれだけではない。あいつには度胸がある。精神面もまた、他の二人とは比べ物にならないくらい強い。やると言ったことは、必ずやる男だった。
あいつなら、殺人もためらわずに行なうだろう。ならば、
僕は出来るだけ音を立てないよう、静かに進んで行った。
目の前にある扉を開け、中に入っていった。まずは、武器になる物を探さなくてはならない。
次の瞬間、背後に人の気配を感じた。慌てて振り向こうとする。
だが遅かった。僕は口をふさがれ、うつ伏せの状態で押し倒されていた。その力は、物凄く強い。
さらに首には、鋭く尖った物が押し付けられている。
「いいか……黙って俺の話を聞け。わかったな」
耳元で聞こえてきたのは、紛れもなく赤羽の声だった。だが、昔と比べると何か違う。こんな状況であるにもかかわらず、妙に落ち着いているのだ。ただ、腕力の強さは相変わらずだった。ペドロは丸二日間、ほとんど何も食べていないと言っていた。そんな状態にもかかわらず、僕より遥かに強い。
殺される──
頭の中を、恐怖と絶望が支配していく。この体勢では、抵抗すら出来ないまま殺されてしまうだろう。
しかし赤羽の口から出たのは、全く想定外の言葉だった。
「いいか、黙って聞け。小岩……俺は、お前を殺す気はない。わかったな? わかったなら、俺の手を叩け」
殺す気はない?
その言葉を聞いた時……安心するより、むしろ混乱していた。この状況で、いったい何を言い出すのだろう?
訳がわからぬまま、僕は赤羽の腕を叩いた。
すると、赤羽は押し殺したような声で話し続ける。
「いいか……あのペドロとかいうおっさんは狂ってやがる。まともじゃない。二人で協力して、ここから逃げよう」
僕の頭は、さらに混乱した。ペドロが狂っているのは、もとより承知の上だ。だが、二人で協力する、とはどういうことだ? 自分の立場が分かっているのだろうか?
こちらの混乱をよそに、赤羽は一方的に喋り続けた。
「お前だってわかるだろうが。俺たちが殺し合う理由なんかない。いや、お前の方にはあるかもしれないが……それに関しては謝る。俺に出来る償いはするつもりだ。けどな、それとこれとは別なんじゃないのか? 罪は生きていてこそ、償えるんだろうが」
赤羽の口から出てくる言葉は、しごく真っ当なものだった。僕の記憶に存在していた赤羽と、同じ人間の吐いている言葉だとはとても思えない。僕の頭はさらに混乱していった。
そんな中、赤羽はなおも喋り続ける。
「黙って聞いてくれ。いいか、俺はお前にしたことを覚えている。言い訳にしかならないが、すまなかったと思っている。俺に復讐したければ、すればいい。だがな、それは今することじゃない。今、俺を殺せば……お前の気は済むだろう。しかし、凶悪な犯罪者をひとり野放しにすることになるんだぞ。それでいいのかよ?」
そう言うと、赤羽は僕の口をふさいでいる手を離した。同時に、首に突きつけられている鋭い物も離れていく。
僕は荒い息を吐いた。恐る恐る、赤羽の方を向く。暗闇のため、人相の判別までは難しい。だが、先ほどの声は間違いなく赤羽のものだった。
次の瞬間、僕は思わず声を発していた。
「いったい、何を考えている──」
その途端、またしても手が伸びてきた。口をふさがれる。
「もっと小さな声で話せ。あいつに聞かれたらどうするんだ」
赤羽は耳元で、押し殺したような声を出した。僕は口をふさがれた状態で、うんうんと頷く。
「いいか、俺がペドロの注意を引き付ける。だから、お前はここから逃げろ。逃げて、警察を呼んでくれ」
「け、警察?」
小声で尋ねると、彼は頷いた。
「そうだ。あいつだけは野放しにしておけない。放っておいたら、この先何をしでかすかわからないぞ。小岩、これは俺たちがしなきゃいけないことなんだよ。人として、しなきゃならないことなんだ」
人として?
その言葉は、今の僕にとってあまりにも衝撃的だった。人として、しなきゃならないこと……今の今まで、そんなことは意識してもいなかったのだ。ひたすら恐怖に怯えていた。
なのに赤羽は、こんな状況下にあってなお、人間らしさを捨てていないのだ。僕は改めて、赤羽という男が変わったことを理解した。
それと同時に、ある感情が湧き上がってきていた。
「もう一度言う。今だけは、俺に対する恨みは忘れてくれ。あいつを……ペドロを警察に逮捕させるんだ」
「わかった。協力する」
押し殺した声で、僕は答えた。
「そうか……お前なら、そう言ってくれると思っていたよ。ペドロは、階段にいると言ってたんだな?」
「うん」
僕は頷いた。その時、足が地面に転がっている石に触れる。あるいは石ではなく、コンクリート片だったかもしれないが。かなり大きめだ。リンゴほどの大きさだろうか。
「わかった。じゃあ、俺が奴を引き付ける。その隙に、お前は外に行って警察を呼んで来てくれ」
そう言って、赤羽は背を向ける。
僕は、足元の石を拾い上げた。
直後、赤羽の後頭部に叩きつけた──
松橋と児玉を殺した時、僕の中に明確な殺意は無かったように思う。どちらの場合も、ペドロがすぐそばにいた。松橋と児玉への憎しみよりも、ペドロに対する恐怖の方が強かった。その恐怖に突き動かされ、僕は二人を殺したのだ。
しかし、赤羽の場合は違う。
あいつは変わっていた。昔の面影は欠片もない。僕が引き込もっている数年の間に、赤羽は人間として大きく成長していた。
こんな異常事態であるにもかかわらず、赤羽はまるでヒーローのように行動しようとしていたのだ。僕を殺せるチャンスがあったにもかかわらず、命を助けてくれた。
それだけではない。二人で、ペドロに立ち向かおうと提案してきたのだ。
その行動は、本当に立派なものだ。フィクションの世界だったら、主人公の取る行動だろう。
だが……そんな赤羽を、僕は許せなかったのだ。
赤羽はいつの間にか、僕よりもずっと上等な人間になっていた。
ペドロのような怪物に拉致され、挙げ句にこんな廃墟に放置される。さらに、僕と殺し合うように命令されたのだ。普通の人間なら、百人中九十九人がペドロに従うだろう。そして、僕を殺していたはずだ。
しかし、赤羽はそうしなかった。
そんな赤羽の姿を、行動を見ていると……自分という人間が、あまりにも惨めに思えてきたのだ。
そう、気高い人間の存在は時として、憎悪の対象になる。自らの惨めさを、そして卑小さを思い知らされてしまうからだ……。
僕は明確な殺意を持って、赤羽の後頭部を殴り続けた。室内には赤羽の悲鳴と、何かが潰れるような音が響き渡る。だが、僕は殴る手を止めない。何度も何度も、握りしめた石を降り下ろしていく──
やがて、赤羽は完全に動かなくなった。
「よくやったよ、哲也くん。死体の方は約束通り、きちんと始末しておく。これで君は、別人として生きていけるはずだ」
帰り道、車の中でペドロはそう言った。だが、僕は何も答えられなかった。
この数日間で、僕は三人を殺した。そこに一体、何の意味があったのだろうか。
続いて発せられたペドロの言葉は、意外なものだった。
「俺は、ここを去らなくてはならない。実は、片付けなければならない用事が出来てね。君とも、これでお別れだ。僅か一週間だったが、君と過ごした日々は楽しいものだったよ」
「え……」
僕は愕然となった。一体どういう事なのだろう……片付けなければならない用事とは?
「心配しなくてもいいよ。あの三人の死体は、必ず始末しておく。君が警察に逮捕される可能性は無い。死体が無ければ、ただの行方不明だしね」
「用事って何ですか? 何処に行くんです?」
尋ねると、ペドロは不意に車を停めた。
こちらを向き、ニヤリと笑う。
「用事ねえ……それは言えないな。どうしても知りたいのなら、流九市に来るといい。俺は当分、そこにいるつもりだ」
「流九市?」
「そうだ。まあ、一週間か一ヶ月か……どのくらいになるかはわからない。そこで用事を片付けたら、メキシコに帰るつもりさ」
ペドロは、そこで言葉を止めた。黙ったまま、僕をじっと見つめる。
ややあって、彼は口を開いた。
「君はもう、今までの君とは違う。この先、どう生きるかは自由だ。俺はもう、君の人生に介入するつもりはない。今まで通り、狭い部屋に引きこもって過ごすも良し。あるいは、部屋を出て広い世界に飛び出して行くも良し。もう、君は自由だ」
「じゃあ……最後にひとつだけ教えてください。あなたは、僕をどうしたかったんです? 何が目的だったんですか?」
震える声で僕は尋ねた。そう、ペドロが何を考えていたのか、最後の最後まで理解出来なかった。なぜ、僕のような人間と共に時間を過ごしていたのだろう。偶然なのか、それとも何か理由があったのか。
「それは、君が好きなように考えればいい。俺は君をどうする気もない。強いて言うなら、君自身の持っている可能性を示してあげたかっただけさ。君の人生は君だけのものだ。信じるものは、神でも仏でもない。もちろん、俺でもない。君が信じるべきものは、君自身さ。それだけは覚えておきたまえ」
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