六日目(1)
不思議な気持ちだった。
昨日、松橋修一郎を殺した。この手で、首を絞めて命を奪ったのだ。にもかかわらず、僕自身は普段と変わりなかった。今日もまた、いつも通りに目を覚まし、遅い朝食を食べた。
そう、普段と何ら変わらない生活である。ただ、覚めない夢の中にいるような、おかしな気分ではあった。
昨日、松橋を殺した後、ペドロの運転する車で帰宅した。
帰り道、僕と彼は一言も話さなかった。しかし家の近所で車を停めた時、ペドロはこう言ったのだ。
「今日はよくやったよ。明日、また迎えに行くから」
明日、つまり今日だ。ペドロは今日、僕を迎えに来る。残りの二人を片付けるために。あるいは、二人のうちのどちらかを片付けるために。
僕は、やり遂げるしかないのだ。これは僕の意思ではなく、ペドロの意思だった。ペドロという怪物と接触し、彼は動き出してしまった。もはや、全てを終わらせる以外に方法はないのだ。
そうでなければ、僕が死ぬ。彼に殺されるのだ。
ふと思った。あの死体はどうなるのだろう。ヤク中の藤岡と松橋の死体は、誰にも知られぬまま、あの部屋に放置されているのだろうか。
いや、いつかは見つかるだろう。あの建物は、いずれ取り壊しになるのだ。その時、二人の死体は工事を行なう業者によって発見される。
そうしたら、警察は確実に殺人事件として捜査することだろう。あの死体を見て、自殺と判断するような人間はいない。
警察は徹底的に調べるだろう。その結果、僕が犯人として逮捕されるかも知れない──
愕然となった。
人が殺されれば、犯人は警察に逮捕され刑務所に行く。当たり前の事実を、すっかり忘れていたのだ。いや、忘れていたというより、頭から抜け落ちていた。
その当たり前の事実の重さが、今になって心にのしかかって来ている。ようやく、自分のしでかしてしまったことの重大さに気がついたのだ。
松橋を殺したことに対する罪悪感は、正直なかった。松橋はクズだったし、奴を殺さなければ、僕が殺されていただろう。
しかし、その罪に対する罰は話が別だ。松橋を殺したために、逮捕されて刑務所行き……そんなのは御免だ。あんなクズを殺したために刑務所に行くなど、絶対に納得いかない。
ならば、一刻も早くあの場所に行き、死体を始末しなければならない。そうしなければ、僕の人生は本当に終わってしまう。
おそらく、大半の殺人犯は同じ思いをするのだろう。人を殺してしまった罪悪感よりも、己の身に受ける罰の重さに震え
僕は待っていたが、ペドロは姿を現さなかった。昼間を過ぎても、一向に現れる気配がない。
不安は、さらに増大していった。あの怪物は、どこで何をしているのだろう? 彼は確かに言った。明日、迎えに行くと。残る二人……赤羽健司と児玉智也のことなど、今はどうでもいい。まず、あの死体を何とかしなくては──
その時、かすかな物音が聞こえた。僕はハッと顔を上げ、窓を見る。
ペドロが、ベランダに立っていた。今日は、作業服のような上下に身を包んでいる。彼の着る服は、どのような基準で選ばれていたのだろう。未だにわからない。
「おやおや、今日は反応がいいねえ。今まで堕落しきっていた君の神経系統は、ようやく活発に働くようになったというわけか」
言いながら、ペドロは部屋に入って来た。その態度はいつも通りだ。彼にとって、昨日、松橋が死んだことなど、気に留めるほどのことではないらしい。
しかし、僕は弾かれたように立ち上がる。
「い、今すぐ行きましょう! 行って、奴らの死体を始末しないと──」
「静かに。声が大きい。誰かに聞かれるよ」
声と同時に、ペドロの手のひらが伸びてきて僕の口を覆った。
「哲也くん、死体だの始末だの……そんな物騒な言葉を、道行く人に聞かれたらどうするつもりだい? まずは落ち着いて。死体は俺が始末しておくから、何の心配もいらない。ただし、君があと二人をきちんと片付けてからだ」
「え……ええ!」
ギョッとなり、思わず呻いていた。ペドロは、あの死体を放っておくつもりなのか。いつ何時、誰が立ち寄るかもわからないような場所に……。
動揺している僕とは対照的に、ペドロは平然としていた。
「考えていることはわかるよ。不安なのも理解できる。だがね、今の君にはどうにも出来ないんだ。君には、彼らの死体を処理することは出来ない。そもそも、死体のある場所まで行くことすら出来ないんだからね。出来ないことについて、あれやこれや心配するのは無意味だ。それよりも、今の自分に出来ることをするべきではないかな」
そう言うと、ペドロは笑みを浮かべた。その直後、僕の口から彼の手が離れていく。
不思議な話だが、僕は落ち着きを取り戻していた。さっきまでの警察による逮捕を恐れる気持ちが、嘘のように消えていく。ペドロがそう言うのなら、それに従うしかない。
今の僕に出来るのは……ペドロの言う通りに動くこと、ただそれだけだ。
そう、ペドロは恐ろしい殺人鬼である。だが同時に、超人と言っても過言ではない能力を秘めた男だ。味方になってくれたなら、彼ほど頼りになる者はいないだろう。
「ようやく落ち着いたようだね。では、今日の予定を説明しよう。これから車で児玉くんに会いに行く。児玉くんは君に出会えて、きっと喜ぶよ」
「児玉……ですか」
児玉智也。
三人の中でも体が小さく、一番ケンカの弱い男だった気がする。だが、三人の中で一番凶暴な性格をしていた。何せ、僕の肩を面白半分で外した男なのだ。格闘技好きであり、僕の体で色んな技を試していた。
「そう、児玉智也くんだ。今回は、ちょっと遠い場所に行くことになる。とは言っても、せいぜい一時間ほどしか変わらんがね。では、行くとしようか」
ペドロはこちらの返事も聞かず、一方的に話を進めていく。だが、僕は従うしかなかった。こうなった以上、さっさと終わらせるしかないのだ。
そう、出来るだけ早く終わらせる。そして、元の生活に戻ろう。
いや違う。これが終わったら、今までとは違う生き方をしよう。もっとマシな生き方が出来るはずだ。僕は、外に出られるようになったのだ。もう、ただの引きこもりではない。
「わかりました……」
答えた後、僕はペドロの用意した車に乗り込む。考えてみれば、この車にしても盗難車のはず。ペドロは我が物顔で、この日本を徘徊しているのだ。一体、日本の警察は何をしているのだろう。
もっとも、今ペドロが逮捕されてしまったら、僕も無事ではすまない。僕としてはむしろ、日本の警察が無能であることに感謝すべきなのかもしれない。
いや、日本の警察が無能というのは言い過ぎだ。ペドロは、アメリカの警察の捜査の手から逃れて日本に渡って来たのだから。警察が無能というよりは、ペドロの超人ぶりを評価すべきなのだろう。
車は、閑静な住宅地の中で止まった。ペドロは車を降りて、外で僕を手招きする。
僕が降りると、ペドロはすたすた歩き始める。慌てて、後を追いかけた。
「す、すみません……どこに行くんですか?」
不安になり、思わず尋ねる。漠然とではあるが、今回もどこか人里離れた場所に行くものと思っていたのだ。しかし、今いるのは住宅地である。一体、こんな場所のどこに児玉を閉じ込めたのだろうか。
「まあ、黙って付いて来るといい。これから行く場所では、なかなか愉快な風景が見られるよ。ただ、匂いは……君にとっては、かなりキツいものがあるだろう。覚悟しておくんだね」
そう言うと、ペドロは笑みを浮かべた。
やがて、ペドロは一軒の家の前で立ち止まる。
「ここだよ。ここに児玉くんはいる。お邪魔するとしようじゃないか。ただ改めて言っておくが、匂いはそこそこキツいからね」
確かに、匂いはキツかった。何故なら、そこはゴミ屋敷のような家だったからだ。
僕の目の前にある、古い造りの一軒家。玄関先には、レジ袋に詰め込まれたゴミが散乱していた。ニュースなどで見るゴミ屋敷に比べれば、まだ通り道がある分だけマシだが。当然、そこから発している悪臭はかなりのものだ。これがもし真夏だったら、確実に行政が動くような事態になるだろう。
だが、ペドロはお構い無しだ。そのゴミの中に、ずかずかと入っていく。唖然としている僕を尻目に、扉を開けて邸内に入って行ってしまったのだ。
僕はといえば、途方に暮れてその場に立ち尽くしていた。ペドロは、この家で何をやらかそうとしているのだろう?
すると、不意に扉が開いた。ペドロが顔を出す。
「何をやっているんだい? さっさと終わらせようじゃないか。でないと……このゴミの匂いがしみついて、むせるよ」
そう言ったかと思うと、ペドロはクスクス笑い出した。何が面白いのだろう。今の言葉に、本人にしかわからない面白い何かがあったのかも知れない。僕には理解不能だが。
その家の中は、僕の想像を遥かに超えていた。
中は思ったほど汚くはない。スーパーやコンビニのレジ袋に詰め込まれたゴミが散らばってはいる。しかし、人が通れるくらいのスペースは残されていた。
それよりも、気になったのは居間の方だ。テレビらしきものの音と、何者かの声が聞こえている。
誰かと話しているような、しわがれた声だ。ただし、相手の声は聞こえない。
「哲也くん、何をしているんだい? 早く終わらせよう。でないと、困るのは君の方だよ」
ペドロの声が聞こえる。僕はどきどきしながら、家の中を進んで行った。
リビングらしき場所に着くと、ソファーに座っていたペドロがこちらを向く。隣には、ぼさぼさの長く伸びた白髪が特徴的な、異様な風体の老婆が座っていた。老婆は幽鬼のように白い着物を身にまとい、テレビを見ながら何やらひとりでブツブツ呟いている。時おり、くっくっく……と笑うような声が聞こえるのだ。
この人、認知症なのではないのか?
「あの……お知り合い……ですか?」
我ながら、間の抜けた問いだったと思う。ペドロはくすりと笑い、首を横に振った。
「厳密には、知り合いとは言えないな。彼女は俺のことなど知らないからね。しかし、俺は彼女のことを知っている。彼女は黒川由美。我々とは、違う世界の中で生きているのさ」
「違う世界?」
思わず聞き返すと、ペドロは頷いてみせた。
「そう。彼女は今、我々とは全く違うものを見て、違う音を聞いている。実に興味深い話だよ。俺は彼女と意識を共有してみたいものだ。そうは思わないかね?」
笑顔で、理解不能なことを言うペドロ。僕は唖然としながらも、首を横に振った。
「そうかい。君にはまだ、この気持ちが理解できないのか。まあいい。では、俺は彼女を寝室まで連れて行く。ちょっと待っていてくれ」
言いながら、ペドロは老婆の手を取り、立ち上がるよう優しく促す。すると、老婆は彼の指示に従い立ち上がったのだ。その、どろりとした魚のような目は……明らかに正気を失っている。にもかかわらず、ペドロの言うことには従うらしい。正気を失った人間にも、ペドロの恐ろしさは理解できるようだ。
ペドロは恭しい態度で、老婆をエスコートするかのように連れて行く。脱獄した殺人鬼と幽鬼のような外見の老婆が連れ立って、寝室らしき場所へと消えて行く光景は、異様であると同時にコミカルでもあった。
ひとりで取り残された僕には……もはや、何が何だかわからなくなっていた。ペドロは一体、何のために僕をこの家に連れて来たのだろう。まさか、この家に児玉を監禁しているとは思えない。では、ここで何をする気なのだろう?
いや、待てよ。
僕の頭に、恐ろしい考えが浮かぶ。いくら何でもあり得ないとは思うが、児玉をここに閉じ込めているとしたら?
完全に正気を失っている老婆の目から見て、児玉という人間がどのように映るかなど、僕にわかるはずもないのだ。
そんなことを考えていた時、ペドロがいきなり姿を現した。
「待たせたね。では、本題に入るとしようか。そもそも、我々がここにいる目的は……愛すべき友人である児玉くんを、現世の苦痛から解放してあげるためだからね。ところで哲也くん、君にひとつ問題を出そう」
問題? 突然、何を言い出すのだろう? 僕は戸惑い、ペドロの顔を見つめるばかりだった。
「では、問題だ。この部屋のどこかに児玉智也くんが隠れている。正解できたなら、君にいいものをあげよう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます