五日目(3)

 ペドロは、何のためらいもなかった。火のついたタバコを、松橋の眼球へと押しつける──

 その時、松橋は野獣の咆哮のような悲鳴を上げ、体を激しくバタつかせる。関節を外されている手足を無理やり動かし、ペドロの手から逃れようとしていた。

 しかし、逃れることは出来なかった。ペドロの手は、しっかりと彼の顔面を掴んでいる。冷たい表情のまま、なおも眼球の中に吸い殻を押し込んでいった。

 悲鳴と、肉の焦げる匂い。見ている僕はその場に倒れそうになりながらも、かろうじて耐えていた。


「君との会話は全く面白くない。本当に愚かな人間なのだね。賢い人間とは、少し話すだけでも面白い。しかし君と話していると、不快指数が増していくような気さえするよ。申し訳ないが、君の生き延びるチャンスは、完全に潰えてしまった。生かしておく値打ちの無い男であることが、はっきりしたよ」


 淡々とした口調で言った後、ペドロは僕の方を向いた。


「出番だよ。さあ、この男を殺したまえ──」


「許じでぐれえ! 俺が悪がっだあ! 許じでぐれえ! ごろざないでえ!」


 ペドロの言葉の途中、松橋が半狂乱でわめき始める。奴は、狂いかけているように見えた。タバコの火によって片目を潰されたのと同時に、僅かに残っていたはずの正気までもが崩壊し始めたのかもしれない。


「本当に見苦しい男だな。せめて死ぬ時くらい、静かに出来ないのかね」


 そう言った次の瞬間、ペドロの手が動く。稲妻のようなスピードで、喉に触れた……ように見えたが、何をしたのかはわからなかった。

 僕にわかったのは、ペドロの手が動いた直後、松橋が奇妙な声を出しながら倒れたことだけだ。ヒューヒューと喘鳴のような声を出しながら、床に崩れ落ちている。


「哲也くん、今言ったように、俺はもう飽きてしまったよ。さっさと、そこにいる愚か者を始末してくれ。俺は久しぶりに、カレーライスが食べたくなってきた。それも、家庭的な雰囲気が漂う……そんな定食屋のカレーライスがね。だから、さっさと松橋くんに引導を渡してくれないか」


 その異様な言葉に対し、僕が返したのは……途方もなく間抜けなセリフだった。


「え……どう……やればいいんですか?」


 この問いに、ペドロは表情の消えた顔でこちらを見つめる。


「今の松橋くんなら、子供でも殺せるよ。実に簡単な話だ。手っ取り早い手段は、首を絞めることかな。まあ何でもいいから、早くしてくれないか。俺は、これ以上の時間を無駄にしたくない」


 ペドロの表情は、先ほどと何ら変化がない。氷のように冷たい目で、じっと僕を見ている。

 僕は、床で倒れている松橋に視線を移した。松橋はヒューヒューという声を上げながら、憐れみを乞うような目で僕を見ている。手足はおかしな方向に曲がっており、動かすことが出来ない。あまりにも惨めな姿だった。確かに、今の松橋なら子供が相手でも勝てない。抵抗すら出来ず、簡単に殺されてしまうだろう。

 なんて無様な姿なんだろうか、と思った。昔、散々な目に遭わせてきた相手……だが、その相手に頼らなければ、この男は生き延びることが出来ないのだ。ここまで異常な状況でなければ、僕に助けを求めたりはしないかもしれない。

 だが、今は命の危険が迫っているのだ。松橋は恥も外聞もなく、何でもするだろう。現に、僕はいじめから逃れるために何でもした。サンドバッグ代わり、羞恥プレーのような行為、挙げ句に、万引きを初めとする犯罪。松橋らの要求には全て応じてきたのだ。その結果、僕の心は壊れ、中学校を不登校のまま卒業したのだ。

 そう、人は苦痛から逃れるためなら、大抵のことはする。まして死を逃れるためならば、どんなことでもするだろう。

 そんなことを考えながら、僕は松橋を見下ろした。あまりにも憐れな姿だ。体のあちこちの関節を外され、丸一日放置されていた。仮に今から病院に担ぎ込んだとしても、この体は元通りにならないかもしれない。障害が残る可能性が高い。ひょっとすると、松橋は車椅子生活を余儀なくされるかもしれない。

 いずれにしても……これから一生、松橋は癒えることのない痛みと共に生きていくことになるだろう。

 それに、ただ殺してしまうのも勿体ない。生き続けさせて苦しませる……その方が、復讐としてはふさわしいのではないだろうか。

 今の松橋は、殺す値打ちもない人間だ。


「ペドロさん……僕はこいつを生かしておくことにしますよ。生かしておいて、じっくり苦しめます」


 そう言った。松橋をここで死なせたとしても、何も面白くない。このまま苦しみ続けさせる方が、復讐としては遥かにスマートなやり方だ。

 しかし、想定外の言葉が飛んできた。


「君は何を言っているのかな? 俺は、松橋くんを殺せと言ったんだよ。その言葉が聞こえなかったのかい?」


 ペドロは、じっと僕を見つめる。その顔からは、表情が消え失せていた。未開の地の呪術師の仮面……その時のペドロの顔をあえて何かに例えるならば、そんな感じだった。


「いや、僕はもういいです──」


「もういいです、か。君はそれでいいかもしれないよ。しかし、俺の精神状態はどうなるんだい? 俺は松橋くんのせいで、不快な思いをした。彼には死んでもらわないと、この気分を晴らすことは出来ない。さあ哲也くん、この男を殺したまえ。彼の哀れなる魂を、肉体という名の牢獄から解放させてあげるんだ」


 静かな口調で、そんなことを言い出すペドロ。

 僕は呆気に取られていた。もう、松橋を殺す必要はないはずだ。彼に恨みがあるのは僕である。ペドロは、松橋と何の関係もない。

 その時、ようやく僕は思い出した。ペドロが、僕とはまるで違う世界に棲む殺人鬼であることを。


「哲也くん……この際、君の気持ちはどうでもいい。俺は松橋くんとの会話のせいで、心底から不快な気分になっている。この場で、君らふたりの首をへし折りたいくらいにね」


「え……」


 それ以上、何も言えなかった。だが、ペドロの顔には相変わらず表情がない。僕は一体どうすればいいのかわからず、ただ黙り込んでいた。

 ペドロも何も言わず、じっと僕を見つめている。室内は、松橋のうめき声と、藤岡の屍肉を貪る蛆虫の立てるカサカサという音だけが聞こえていた。

 ややあって、ペドロが口を開く。


「君は本当に何もわかっていないのだね。今の松橋くんを逃がしたら、君に待っているのは厄介事だけだよ。まあ、それはいいだろう。君の問題だからね。しかし、俺の気分は晴れない。今、非常に不愉快だ。こんな愚か者との会話で、貴重な時間を無駄にしてしまった。だから俺は、そんな不快な気分の原因を作り出した者を消し去りたいんだ」


 そこで言葉を止め、松橋を指差す。


「そこでだ、君には出来るだけ早くこの愚か者の始末をしてもらいたい。元はといえば、そのために彼を連れて来たんだよ。君は目的を果たせるし、俺は清々しい気分で帰ることが出来る。丁度いいじゃないか。さあ、松橋くんを始末してくれ。さっさと終わらせて引き上げようじゃないか」


 そう言うと、ペドロは楽しそうに笑みを浮かべる。

 僕は忘れていた。目の前にいる男は友だちでも何でもない。本物の殺人鬼なのだ。常識など通用しない。


「ぼ、僕は……も、もういいです……殺す必要は……ありません」


 気が付くと、そんな言葉が出ていた。だが、ペドロは首を振る。


「それは駄目だ。今さら、そんなことは許されないよ。俺の手を煩わせた以上、君には最後までやり遂げる義務がある。どうしても出来ないというなら……君らふたりには、ここで死んでもらおう」


 そう言うと、ペドロは顔を近づけて来た。


「よく聞くんだ。君が、今さら殺す必要はないと思ったところで遅いんだよ。事前に、ちゃんと話し合ったはずだ。君は、自らの意志で決めたはずだよ。松橋を初めとする三人を殺すことを、ね。だから、俺は手伝った。もはや、この計画は動き出してしまったんだよ。今さら止めることは出来ない」


「そ、そんな……」


 それだけ言うのがやっとだった。すぐ目の前には、ペドロの顔がある。彼は、僕を冷たく見つめていた。


「いいかい……走り出した電車の前に、誰かが飛び出て来たとしよう。運転手は当然ブレーキをかける。だが、電車を急に止めるのは不可能だ。電車の前に飛び出して来た愚か者は、確実に死ぬことになる。さて、君は……その愚か者を助けるために、電車の前に飛び出すような真似をする気かい? そんなことをすれば、どちらも助からない。実に無駄な行為だ」


 静かな口調で、諭すように語りかけてくるペドロ。僕は彼の声を聞いているうちに、ようやく事態が呑み込めてきた。

 僕は、ペドロという巨大な怪物を動かしてしまったのだ。この怪物は、動き出したら止まらない。相手に情けなどかけないし、始めたことは最後までやり遂げる。

 僕のような凡人とは、根本から違うのだ。


「哲也くん、君なら出来る。さあ、松橋くんを殺すんだ。いいかい、松橋くんはもう死んでいる。君に殺されるか、俺に殺されるか、その違いでしかない。もっとも、君が松橋を殺せば、ひとりの命は助かる。全てが丸く収まるんだ」


 そう言うと、ペドロは僕の背後に廻った。

 後ろから、僕の両手首を掴む。


「歩くんだ、哲也くん」


 ペドロの言葉に、僕は逆らう術を知らなかった。彼が誘導するままに歩いていく。

 そして、松橋を見下ろす形になった。


「しゃがむんだ」


 ペドロの指示のまま、松橋のそばにしゃがみこむ。この先、何を言われるかはわかっていた。だが、僕はペドロの言葉に逆らうことが出来ない。彼は催眠術師のように、僕の心と体を意のままに操っていたのだ。

 一方、松橋はヒューヒューという喘鳴のような声を上げながら、懇願するような目で僕を見ていた。助けてくれ、という思いがこもった目を向けていた。

 その目を、僕もはっきりと見ていた。

 しかし、ペドロは僕の手を誘導していく。

 松橋の首へと──


「あとは絞めるだけだよ、さあ、思い切り絞めるんだ。何も考えなくていい。ただ絞めるだけ。そうすれば、全てが終わるんだ。君は、家に帰れる」


 僕は取り憑かれたかのように、手に力をこめた。

 ペドロの言う通り、何も考えずに。

 思考を停止させ、松橋の首を絞めた。


「絞め続けるんだ。やがて君の手に伝わってくるはずだよ、松橋くんの命の灯火が消える瞬間がね。それまでは絞め続けるんだ」


 ペドロの声は、まるで神からの啓示のようだった。僕は、松橋の首を絞め続ける。

 手から伝わってくる力は強かった。松橋は両手両足の関節を外され、動かせないはずだった。それでもなお、抵抗しているのだ。僕の意思は挫けてしまいそうだった。

 だが、僕は絞め続ける。ペドロが、僕の手首を掴んでいるのだ。彼の手からは、言葉ではない命令が伝わってくる……松橋を殺せ、と。その命令には逆らえない。僕はまるで、彼の操るマリオネットのようだった。ペドロの命ずるまま、僕は絞め続ける。

 不意に、松橋の力が抜けた──

 あの瞬間のことは、今もはっきりと覚えている。紫色になり、膨れ上がる顔。手のひらから伝わってくる抵抗……松橋は残された力を振り絞り、生きるために抵抗していたのだ。それは、生き物の本能なのだろう。

 しかし、その抵抗が止んだ。フッと力が抜け、ガクリと垂れ下がる松橋の首。

 松橋は死んだ。僕の手によって、死んだのだ。


 死の瞬間、僕は確かに感じた。

 首を掴む手から、伝わって来たのだ。松橋修一郎という人間の、魂の存在を。彼の肉体から、魂が離れていく感覚を。

 人間が、死体へと変わる瞬間を。

 その全てを、僕は体で感じた。


「よくやったよ。君は、境界線を越えたんだ。もう、何者も恐れる必要はない。何故なら、君は人を殺せるからさ。大抵の人間には、人を殺すことなど出来ない。無論、弾みや事故で人を殺すことはあるが……明確な殺意を持って人を殺せる者は少ない。君は、その数少ない人間のひとりだ。どんな強い格闘家だろうと、どれほど偉い政治家だろうと……殺してしまえば、ただの屍肉の塊だ」


 ペドロは、淡々とした口調で語る。僕は思考が停止した状態で、その言葉を聞いていた。





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