　ペドロの言葉を聞き、松橋は怯えきった表情でうんうん頷いた。苦痛で顔を歪めながらも、必死で口を閉じ猿ぐつわを噛み締める。

　すると、ペドロは僕の方を向いた。

「ふと思つたんだがね、松橋くんは君に対し罪を犯した。しかしだ、自らを弁護する機会を与えてあげてもいいのではないだろうか。君はどう思う？」

　その問いに、僕は頷くことしか出来なかった。目の前で行なわれた暴力、それは無造作なものだった。ペドロはサンドイッチと缶コーヒーを持った状態で、松橋の肩を軽く蹴っただけだ。にも関わらず、松橋は悲鳴を上げ苦痛に顔をゆがめていた。

　僕にはわかる。かつて肩を外された経験から、それがどれほどの苦痛をもたらすか、経験者にしかわからないだろう。それは、耐えることの出来ない激痛なのだ。

　わかりたくもないことだったが、僕はその痛みを既に経験済みだった。肩を外された後、彼らは無理やり僕の肩を動かしたのだ。触れられただけで、悲鳴を上げた。泣きながら、許しを乞うたりもした。

　だが、彼らはやめなかった。それどころか、僕の反応をリアクションだと言って笑っていた。

「お前さ、リアクション芸人目指せよ！　才能あるぜ！」

　彼らは、そう言ったのだ……その時の楽しそうな顔は、今も忘れられない。

「構わないね、哲也くん」

「は、はい……」

　当時のことを思い出しながらも、僕は頷いた。

　その時、僕は気づいた。ペドロが、他人に暴力を振るう場面を初めて見たことに。いや、暴力と呼べるほどのものではないかもしれない。しかし、ペドロが松橋にもたらしたものは間違いなく苦痛だ。

　もっとも、この怪物にそれを楽しんでいる様子はなかった。映画やドラマなどに登場する殺人鬼は、人に苦痛を与えて喜んでいる様が描かれていたりする。ペドロには、そんな雰囲気が微塵も感じられない。

「では松橋くん。今から、君に自らの行為に対する釈明と弁護の時間を与えよう。哲也くんと俺を納得させられれば、命だけは助けよう。今から猿ぐつわを外すから、存分に語るんだ」

　そう言うと、ペドロは手を伸ばし松橋の猿ぐつわを外す。

　その途端、松橋は喋り出した。

「お願いです……助けてください……何でもしますから……」

　松橋は顔を上げ、怯えきった表情で呟く。記憶の中にある松橋からは、想像もつかない姿だった。僕は何も言えないまま、じっと床で蠢く松橋を見ていた。

　その時、ペドロが大げさなため息をつく。

「松橋くん、俺はさっき君に何と言ったか忘れたのかい？　自らの悪行に対する釈明と弁護の時間を与えよう、と言ったんだよ。助けてだの許してくださいだのといった言葉は、釈明とも弁護とも違うな。ただの命乞いだ」

　そう言った後、ペドロは僕を指差す。

「ところで、ここにいる哲也くんを覚えているかな？」

　ペドロの言葉を聞き、松橋は怯えきった表情で首だけを動かし、僕を見つめる。

　直後、首を横に振った。

「て、哲也さん……ですか……ぼ、僕はこんな人……知りません」

　その時、初めて怒りを感じた。

　松橋の、その言葉は予想していたのだ。大抵の場合、加害者は被害者のことを忘れている。知識として知ってはいた。

　だが、知識として知っているのと、実際にそのような状況に遭遇するのは話が別だった。

「君は忘れたのかい？　小岩哲也くんだよ。中学生の時、同級生だったはずだ。さあ、よく見るんだ」

　そう言うと、ペドロは松橋の髪の毛を掴んだ。片手で軽々と引き上げる。

　髪の毛を掴まれ引き上げられた松橋の顔が、すぐ目の前まで引き寄せられた。

　僕の目の前、鼻と鼻が触れ合わんばかりの位置で見つめ合った。松橋の目が、一瞬ではあるが大きく開かれる。僕が何者であるかを理解したのだ。

　しかし、彼はこう言った──

「し、知りません。俺はこんな人は知りません……人違いです。俺は、こんな人と会ったこともありません」

　怯えながらも、デタラメを言い続ける松橋。僕は怒りよりも、当惑のようなものを感じた。このような状況でありながら、嘘をつき続けられる神経は普通ではない。もともと頭がおかしいのだろうか。

　それとも……自分の身に危険が迫れば、人間は皆こうなるのだろうか？

　目の前の危険に怯えた挙げ句に判断力が低下し、子供も騙せないような下らない嘘で、その場を逃れようとするのだろうか。

「ほう。松橋くん、君は哲也くんには見覚えがないと言うんだね。そうかそうか」

　そう言うと、ペドロはゴミのつまった袋を捨てるかのように、松橋を放り出した。

　バタリと倒れ、うめき声を洩らす松橋。一方、ペドロはタバコを口にくわえ、火をつける。

　僕はというと、目の前にいる松橋を殴りたい気持ちを必死でこらえていた。ひょっとしたら、さっきまでは本当に忘れていたのかもしれない。

　しかし、この男は僕の顔を間近で見て、目の前にいるのが誰かを思い出したはずだ。あの、一瞬ではあるが目を大きく見開いた表情……あれは間違いなく、何かに気づいた時の反応だ。

　松橋はあの時、僕が誰であるかを悟ったはずだ。

「お、俺は何もしてません……これは人違いです。あなたたちは、誰かと俺を間違えてるんですよ」

　その松橋は、またしても哀れな声を出した。彼の顔は、ペドロの方を向いている。僕の方は見ようともしない。この愚か者は、どうにか誤魔化そうとしているのだろう。しらを切り、デタラメを言ってペドロを騙す。ペドロさえ丸めこめば、僕などどうにでもなる。それが、松橋の計算なのだ。

　ただ、奴は何もわかっていない。

　ペドロを丸めこむことが出来る人間など、この世に存在しない。仮にそんな人間がいたとしたら、そいつは地獄の閻魔大王さえ騙せるだろう。松橋のような単なる嘘つきには、絶対に無理だ。しかも、あの怪物はつまらない嘘を吐かれるのを嫌う。

　松橋の命運は、もはや尽きてしまったのだ。

「松橋くん、ひとつ聞きたいんだが……俺は、何を間違えているんだい？」

　不意にペドロが尋ねた。すると、松橋は慌てた様子で口を開く。

「そ……それは……と、とにかく、俺はあなたたちとは会ったこともありません」

　外された関節が痛むのだろうか。松橋は顔をしかめながら、懸命に声を絞り出す。

「いや、俺はそんなことを聞いているんじゃない。君はさっき言ったね、人違いだと。人違いというからには、我々は誰と誰を間違えているのかな？　それを教えて欲しいんだよ」

　なおも言葉を続ける。まるで、鼠をいたぶる猫のように。

「そ、それは──」

「君の持っていた原付の免許証によれば、君が松橋修一郎くんのはずなのだがね。俺が探しているのは、紛れもなく松橋修一郎くんだよ。つまり、俺は何ら間違いをしていない。何をもって、人違いだと言ったのかな？」

　淡々とした口調で、追い込んでいくペドロ。松橋は顔を歪めた。

「ち、違います……そんなつもりじゃ──」

「君がどんなつもりかなど、俺は知らない。君に言ったはずだよ。釈明と弁護の機会を与える、と。つまらない嘘で、俺の貴重な時間を空費する気はないんだよ。君のつまらない嘘に付き合っている間にも、俺の寿命は少しずつ減っている。人生とは、何と不条理なものなのだろうね」

　言いながら、ペドロは首を振る。仕草こそコミカルであったが、顔は無表情だった。仮面のように表情のないペドロの顔は、松橋にさらなる恐怖をもたらしたようだ。

　恐怖は、彼に新たな嘘を思い付かせたらしい。

「お、お願いです……助けてください。嘘をついたのは謝りますから……俺は何もしてないんです」

　言いながら、松橋は卑屈に頭を下げ続ける。彼の体で今、動かせる部分は頭と首くらいしかないのだ。その部分をフル活用し、何とか窮地を逃れようとしているのだ。

　松橋は、なおも言葉を続ける……喋ることで、命を永らえようとしているかのように。

「お願いです……助けてください……俺は何もしてないんです」

　この期に及んで、松橋はまだ嘘を吐くつもりなのだ。嘘を吐き、どうにかこの場を逃れるつもりでいる。

　人は恐怖や苦痛を与えると、そこから逃れるために何でもする。嘘を吐いてでも、苦痛から解放されようとする。それは当然のことだ。

　しかし松橋の場合、そういった一般的な反応とも違っていた気がする。奴はこれまでの人生において、嘘を吐くことで窮地を凌いできたのだろう。困ったことがあったなら、口先でごまかし丸め込む。これまでは、そのやり方で何とかなってきたのだろう。

　だが、今回だけは……そのやり方は通じない。今、松橋の目の前にいるのは、本物の怪物なのだから。

「何もしていない、というのかい。それは面白いな。君は、非常に物忘れが激しいようだな。若年性の痴呆症なのかもしれないね。ちなみに、俺は初めて人を殺した時のことを、今も鮮明に覚えている。あれは、十歳の時だった」

　言った直後、ペドロの表情が変わった。昔を懐かしむかのように、どこか温かみのある目で遠くを見る。この怪物の感情が発露した、数少ない瞬間だ。あるいは演技だったのかもしれないが。

「俺は十歳の時、友だちと一瞬に作った秘密基地の中で、知人のモラレスを殺したんだよ。今も忘れられないな。彼は三十歳で、体重が二百ポンドあったからね。メキシカンとしては大柄だ。しかも体力もあり、なかなか死なないんだ。隙を付いて後ろから飛び付いて、ナイフで喉を切ったんだが、あいつは喉からゴボゴボ血を流しながら暴れたよ。俺も、殺されるかと思ったね。でも結局、死んだのはモラレスの方だった」

　そう言った後、ペドロは隅の方を指差す。そこには藤岡の死体が転がっていた。

「モラレスは死体となり、やがて蟲たちに食われていった。ちょうど、あそこで永遠の眠りについている藤岡くんのようにね。その様を、俺はじっと見ていたよ。我が秘密基地には酷い匂いが充満していたが……その匂いに対する不快さを、遥かに上回るほどの興味深いものだったよ。ひとりの人間が単なる肉塊と化し、蟲たちによって分解されていく光景は、本当に貴重なものだったね」

　そこで、ペドロは言葉を止めた。そして松橋に視線を移す。

「君は、ここにいる哲也くんに酷いことをしたらしいね。たかが数年前の行為が、綺麗さっぱり記憶から抜けているというのは不思議だな。俺は十歳の時に犯した初めての殺人を、今も鮮明に覚えている。なのに君の頭は、たかだか数年前の記憶を、忘却の空へ消し去ってしまったというのかい？　実に奇妙な話だな」

「ち、違うんです。俺は本当に何もしてないんですよ……やったのは俺じゃないんです。やったのは、赤羽と児玉なんですよ……俺は、本当に何もしてないんです」

　哀れみを誘うような、惨めな声を出す松橋。だが、彼の言葉は嘘だった。確かに、赤羽や児玉に比べれば松橋の罪は軽いかもしれない。だが、あくまでも二人に比べれば……の話だ。

　松橋は、僕に暴力を振るった。何度も、何度も。

　そして暴力に飽きると、彼は僕に罰ゲームじゃんけんなる遊びを強要するようになったのだ。じゃんけんで負けると、僕は罰ゲームと称した何かをやらされる。だが、勝ったら勝ったでゲームをやらされる。

　その内容は、思い出したくもないものだった。全裸で表を走らされたり、万引きをさせられたり、当たり屋の真似をさせられたり、訳のわからない薬を大量に飲まされたり……冷静に考えてみれば、生きているのが不思議なくらいだ。

　そう、当時の僕は、彼らの気晴らしのためだけに存在していたのだ。

　だが、僕は怒りを感じることさえ出来なかった。ペドロが口を開いたのだ。

「松橋くん、君は本当に頭が悪いな。ここで君がとれる手段は、他にも色々ある。俺が君の立場なら、己を生かしておくことがいかに相手の利益となるか、そこのところを主張するね。このような状況で、善悪など何の意味も持たない。仮に君が正しく、哲也くんが間違っていたとしても、そこには何の意味もない。何故なら、今の君には自分の正しさを証明できないからだ。しかし、利益となれば話は別だよ。利益は欲望を生み、欲望は心の隙を生み出す。結果、生存の確率も上がる。だが、そんなことは今さらどうでもいい。君は、本当につまらない人間だな。俺は、もう飽きてしまったよ」

　そう言うと、ペドロはしゃがみこむ。

　火のついたままのタバコを、松橋の眼球に押し付けた──