三日目(3)

「哲也くん、人生には損得勘定も必要だ。今、この瞬間において……藤岡くんを助けることで何を得て、何を失うのか? そこを、よく考えたまえ。警察の取り調べを甘く見てはいけないよ。彼らは、取り調べの際に暴力を使わない。代わりに、心をじわじわと責め立てる。君には耐えられないよ。確実に、知っていることを洗いざらい話してしまうだろう」


「そ、それは……」


「しかも、君が知っていることを洗いざらい話したとしたら、どのような展開が待っていると思う? 君は妄想癖のある少年として、強制入院させられる可能性もあるよ。確実ではないが、その可能性は決して低くはないと思う。誰が信じるのかな……アメリカの重警備刑務所を脱獄した殺人鬼と、君のような少年が、一時とはいえ行動を共にしていたという話をね」


 ペドロの言うことは正しい。

 誰が信じるだろうか? 僕のような引きこもりが、ペドロのような殺人鬼と偶然に出会い、行動を共にしていたなどという話を……。

 しかも、ペドロは脱獄犯でありながら日本に渡って来たような怪物なのだ。そんな男と僕が、友人になる……それは、宝くじに当たるより確率の低い話だろう。どこかの三文ドラマのような、引きこもりとアイドルが出会い恋に落ちる式のストーリーの方が、まだリアリティーはある。

 もし、藤岡を助けるという選択肢を選んだとしたら、僕の人生は非常に面倒なものとなる。


「さあ、どうするんだい? あと、言い忘れていたが……彼は、この部屋で糞尿を垂れ流しだったからね。俺はたまにここに来て、強力な消臭剤を撒いておいた。だから今は大丈夫だが、外に連れ出したら、かなり臭いと思うよ。その点も覚悟しておくんだね」


 ペドロは淡々とした口調で語った。

 では、室内に充満している薬品の匂いは、消臭剤のものだったのか。

 次の瞬間、新たな事実に気づいた。ペドロは、ここに定期的に顔を出していたのだ。この男は、藤岡の朽ち果てていく様をじっと見ていた。まるで、生き物の生態を観察する研究者のように──


 迷っている僕に、ペドロは容赦ない言葉を浴びせてきた。


「前にも言ったが、君は結論を出すまでが遅すぎる。さすがに今回だけは、第三の選択肢はない。ふたつにひとつだ。藤岡くんを助けるか、死ぬに任せるか? 昔、日本のとある絵本作家がこんなことを言っていたよ。正義を行うには自分も傷つく覚悟が必要だ、と。君にその覚悟があるのかな? もっとも、藤岡くんを助けることが正義といえるかどうかは不明だがね」


 彼の言葉は、チクチクと僕の心を突いてきた。

 僕は藤岡に視線を移す。しかし、床の廃人はピクリとも動かない。もう死んでしまったのだろうか。

 僕は改めて、藤岡の顔をまじまじと見た。うつ伏せの体勢で、顔を横に向けている藤岡は棒のように痩せこけている。左腕は肘のあたりから切断されており、残る右腕は鎖に繋がれていた。

 この男を助けたところで、僕に何のメリットがある? むしろ、デメリットしか想像できない。しかも、この男は僕の友だちでも何でもないのだ。

 さらに言うなら、藤岡は覚醒剤の依存症である。いや、そんな上品な言い方はよそう。どうしようもないヤク中だ。こんな男が生きていて、喜ぶ人間がいるのだろうか?

 そして……藤岡が死んで、悲しむ人間がいるのだろうか?

 このヤク中は、世の中にとって害毒でしかない気がする。少なくとも、この男は善人でないのは間違いない。


「僕は……この人を助けないことにします」


 そう、僕はこの件に関する限り、何も悪くないのだ。何の関係もないし、何の責任もない。ただ、どこの何者かも知らないヤク中が死ぬだけだ。

 藤岡を誘拐し、ここに繋いだのはペドロだ。僕ではない。しかも、この男はどうしようもないヤク中である。そんな人間を助けなければならない義理はない。

 自業自得なのだ。藤岡は、己の生きてきた日々のツケを支払わされるだけ。彼は結局、己が人生に裁かれた。


「なるほど。君は助けない方を選択したか。実に賢明だ。このようなヤク中は、人々の善意を平気で踏みにじる。かつて、自分の家から銀の食器を盗んだ男を許した挙げ句、銀の燭台まで与えてしまう司教の登場する物語があった。もし仮に、その司教が出会ったのがヤク中だったとしたら、司教は何もかも奪われた挙げ句、自らの信仰を捨て去っていただろうね。では、帰るとしようか」


 ペドロはそう言った後、藤岡の方に視線を移した。


「哀れなる藤岡くん、我々は帰らせてもらうよ。もし、死後の世界なるものがあるのなら、地獄でまた会おうじゃないか」


 そう言うと、ペドロはドアに向かい歩いていく。

 僕も、彼の後に続こうとした。その時だった。


「た……」


 微かに聞こえてきた声。僕は振り向いた。

 あの光景は、今も忘れられない。あまりにも恐ろしいものだった。土気色の顔をした得体の知れない者が、顔を上げていたのだ。

 肘までしかない腕を上げ、口を開く。


「た……す……け……て……」


「おやおや、そこまで動けるとはね。人間の生命力とは、大したものだ。見たまえ、藤岡くんは三日間飲まず食わずだった。俺の計算では、あと二時間と少しで死ぬはずだった。もはや意識もほとんど無いはずなんだがね。しかし、彼は最期の力を振り絞り、君に助けを求めている。これは完全に想定外だ。まあ、だからこそ人の死は面白いのだがね」


 ペドロは、本当に楽しそうな口調だった。

 だが、僕は全く楽しくなかった。逆に怯えきっていた。肘までしかない左腕を懸命に上げながら、こちらににじり寄って来ようとする藤岡の姿は、これまでに見た何者よりも恐ろしかった。肌はゾンビのような土気色。肉が削げ落ち、骸骨のようになった顔。覚醒剤の影響なのか、髪はかなり薄くなっている。虚ろな目で僕を見つめ、こちらに進もうとしているのだが、ほとんど近づけていない。

 それだけでも恐ろしいのに、藤岡は前歯の欠損が目立つ口を開けた。そこから言葉を絞り出す。


「おね……が……い……たす……け……て……」


 蚊の鳴くような声。僕は、思わず後ずさっていた。その姿は、人間だとは思えない。異形の者に変わる寸前の何か……僕の目には、そう見えた。そこにいたのは、死者に変わる寸前の生者だったのだ。生と死の境界線にいながらも、残された力を振り絞り、生にしがみつこうとしている。

 耐えきれなかった。これ以上、この部屋には居られない。

 僕は扉を開け、その部屋から逃げ出した。




「哲也くん、君は賢い選択をしたと思うよ。藤岡くんを助けるのは、君には難しかった。仮に命を助けたとしても、厄介な立場に身を置くこととなっていただろう。しかも、藤岡くんは長生きできない人間だ。それ以前に、生きているだけで害毒の種を撒き散らすタイプさ。死んでくれた方が、世のため人のためだよ」


 車のハンドルを握り、ペドロは楽しそうに話し続ける。だが、僕は何も言えなかった。先ほど見たものが、心から離れてくれない……。

 僕に向かい、肘までしかない左腕を上げながら懸命に命乞いをしていた藤岡の姿が、脳裏に焼きついてしまっているのだ。

 あの声──


(た……す……け……て……)


 僕には無理だ。

 あんたを助けることなんか、出来やしなかった。

 僕は悪くない。

 悪くないんだ。

 絶対に悪くない。


「僕は絶対に悪くない……君は今、そう思っているんだろう?」


 不意に、そんな声が聞こえた。僕は心臓が口から飛び出そうになるくらい驚き、彼の顔を見る。だが、ペドロは笑みを浮かべて前を見ている。


「確かに、君の選択は間違いではない。損得勘定という観点からすれば正解だ。あんなヤク中のせいで厄介事に巻き込まれるなど、実に愚かな話だよ」


 そう言った直後……ペドロは不意に車を道路脇に寄せ、停車させる。

 僕の顔を、じっと見つめた。


「だが、君が藤岡くんを見殺しにした事実に変わりはない。君は、彼の死に間接的にせよ手を貸した。道義的に見れば、君は紛れもない悪人だよ」


「そ、そんな……僕は悪くない……」


「いいや。君は、彼が死ぬことを知っていながら見捨てたんだ。これは、誰がどう見ても悪だよ」


 そう言うと、ペドロは満面の笑みを浮かべた。


「さて、哲也くん……初めて人を殺した感想はいかがかな?」


 その言葉を聞いた瞬間、僕は心臓が止まりそうになった。

 違う。僕は殺していないのだ。僕はただ、藤岡が繋がれているのを見ただけじゃないか。

 僕は悪くない。悪いのは……。


「違う……僕は……僕は殺してません……殺したのは……あなただ……」


「ほう、君はそうやって責任転嫁をするのかい。まあ、殺したという言い方は適切ではないが……藤岡くんの死に対し、君にも責任の一端はあるんだよ。言ったはずだ……君が彼を助けたいのなら、俺は止めないと。だが君は、藤岡くんを助けようとしなかった。君が全身全霊をもって藤岡くんを助けようとしたならば、君に彼の死に対する道義的責任はない……と言えるだろう。しかし、君は藤岡くんのために何をしたんだい?」


 ペドロの言葉には遠慮がない。僕の心に容赦なく突き刺さってきた。そうなのだ。どんな言葉を並べ立てたとしても、藤岡を助けないという選択をした……という事実の前には、何の意味もない。

 だが、ペドロはお構い無しに言葉を続ける。


「ショックを受けているのかね? だが俺は、藤岡くんの死に意味を与えることが出来て嬉しいんだよ。君を、人間の死に関わらせることが出来た。死を理解した瞬間……人は大人になる。君は藤岡くんの死に介入したことで、色んなことを学べたはずだ。君はもう、ただの引きこもりじゃない。少なくとも、自分探しの旅に出る学生などより、ずっと多くのものを学べたはずだ」


「そ、そんな……僕はこんな経験……したくなかった……なのに……」


 震えながらも、かろうじて言葉を返す。しかし、ペドロにとっては何の意味もなかった。


「なるほど。だがね、人生というものは実に短い。その間に体験できることなど、本当に限られたものだよ。しかし君は、またとない体験ができた。生と死の狭間にいる者を見られたのだから」


 僕は、何も言えずにうつむいた。そんなものは見たくない。断じて見たくない……なのに、見てしまった。藤岡の顔を見て、声を聞いてしまったのだ。この世に、あんな恐ろしい光景があるなど……。

 だが、ペドロの言葉は終わっていなかった。続く言葉は、さらに僕の心をえぐったのだ。


「しかしね……もし、あの部屋に繋がれていたのが藤岡くんでなく、アイドルのような君好みの美少女だったら、どうしていたろうね? まあ間違いなく、君は己の身の危険を無視して、美少女を助けるために奮闘していただろう」


「ち、違いますよ……」


 そう言ったが、次の瞬間、ペドロが前に言ったことを思い出した。


(俺は嘘を吐かれるのは嫌いだ)


「す、すみません……助けるかもしれません……」


 その返答を聞き、ペドロは頷く。


「そうだ。もし繋がれていたのが美少女だったとしよう。君は無理を承知で、助けようとしていたはずだ。それは悪いことではない。むしろ善だ。人命救助のために力を尽くす、それは素晴らしいことじゃないか。しかし、面白い話だね。差別される側の人間だったはずの君も、やはり差別をするとは。まあ、君に限った話ではないがね」


「な、何を言ってるんです……僕は差別なんかしてませんよ……」


 思わず、そう言っていた。差別なんかしていない。悪いのは藤岡だ。藤岡はどうしようもないヤク中で、助ける価値がなかったから助けなかった。

 しかしペドロは、僕の言葉など聞いていないかのようだった。


「君はいじめに遭い、そして引きこもりになった。世間の人から見れば、差別される側の人間だろう? にもかかわらず、君はヤク中の藤岡を差別した。ヤク中だから助けなくても罪は無い、と。差別される側の人間は、さらに下の差別する対象を見つけ、そして差別する。まさに連鎖反応だね」


 僕は耐えきれず、下を向いた。

 その通りなのだ。ヤク中だからという理由で、藤岡を差別した。これまで差別され続けてきた僕が。


「哲也くん、君は何ら恥じる必要はない。犯罪者に対する差別……これはね、一般社会を円滑に動かす上で必要なものだ。さらに言うなら、叩くべき存在はガス抜きとして必要だ。誰もが弱者を差別し、強者に差別される。世の中は、そうやって成立しているのさ。差別のない世の中なんか、ありはしない」




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