三日目(2)
「やはり予想通りだ。君の運は尽きてしまったよ。三日あれば、助かる可能性は少なからずあったはずなのだがね」
ペドロは床に倒れている男に向かい、そう言い放った。
直後、僕の方を向く。
「哲也くん……君の目の前には、あと三時間ほどで死ぬ男がいる。俺は、彼に生きるためのチャンスを与えた。ところが彼は、そのチャンスを活かせなかった。実に嘆かわしい話だよ」
言いながら、ペドロはタバコの箱を取り出した。一本抜き取り、火をつける。
その途端、床の男がわずかに動いた。弱々しい動きで顔を上げようとする。しかし、上げきることは出来なかった。すぐに動きが止まる。まるで、機械じかけのおもちゃが停止するようだった。
「こ、この人は……何なんですか?」
僕には、それしか言えなかった。充満している薬品の匂いとタバコの煙、さらに目の前の光景とが相まって、今にも吐いてしまいそうだった。
「この男は、日本に来た直後に通りで見つけた。名前は
言いながら、ペドロはタバコを吸う。
僕は、藤岡という男を見つめた。もはや、動くことも出来ないらしい。床に伏せたまま、人形のように同じ姿勢で固まっている。
「この男は、殺されるようなことをしたんですか……」
かろうじて、言葉を絞り出した。しかし、ペドロの返答は意外なものだった。
「日本の法律で死刑になるようなことはしていないはずだ。しかし、生きていたとしても誰も喜ばないような人間だよ。この藤岡くんの左腕は切断されているが、その理由は何だと思う?」
「え……わ、わかりません」
「覚醒剤の打ち過ぎだよ。たまにいるんだ、こういう愚か者がね」
僕は言葉を失った。覚醒剤の打ち過ぎで腕を切断? そんなの、聞いたことがない。
「君も、予防注射をやったことがあるだろう。その時、注射する前に消毒用のアルコールで腕をよく拭いたはずだ。注射が終わった後にも、やはり消毒用のアルコールで針を突き刺した部分を拭いたはず。なぜ、こんなことをするかというとだ、注射には雑菌を体内に入れてしまう可能性がある。だから医者は注射の時、丁寧に消毒する。まあ最近では、注射前後の消毒は無意味だという説が有力ではあるがね。それでも、資格のない者が注射を打つ場合には注意が必要だろう」
ペドロは淡々と語る。そこには、物知りな人に有りがちな、知識をひけらかす雰囲気は微塵も感じられない。ただ、必要なことを簡潔に説明しているだけだった。
「ところが、ヤク中という人種は衛生状態が良くない環境で生活している。しかも、医学知識など皆無に等しい者ばかりだ。そんな者が、自らの腕に注射針を突き刺す。消毒など、するはずもない。必然的に、薬と共に大量の雑菌をも注入している可能性がある。しかも、ヤク中の中には一日に何度も注射する者もいる始末だ。汚い部屋で、腕の血管に一日何十回も針を突き刺すと、腕の血管や神経はズタズタに傷ついてしまう。汚い針を絶え間なく突き刺され、修復される暇なくボロボロになる腕の組織。その結果、組織の一部が壊死してしまったとしても不思議ではない」
ペドロはそこで言葉を止めた。そして、藤岡を指差す。
「彼は覚醒剤の打ち過ぎで、左腕を切断する羽目になった。ところが、だ……彼はそれでも覚醒剤をやめていない。それどころか、これ幸いとばかりに打ち続けている。この男はね、生活保護を受けているんだ。その金で、覚醒剤を買っていた。日本国民の税金の一部は、このようなヤク中を養うために使われていたわけだね」
僕には、何も言えなかった。腕を切断したにもかかわらず、未だに覚醒剤を打ち続けている男……想像もつかない話だ。
世間一般の人が藤岡をみたら、果たして何と言うのだろうか。恐らくは、キチガイの一言で終わりであろう。
だが、藤岡をキチガイの一言で片付けてしまうというのは……あまりにも安直な考え方だ。僕は覚醒剤を打ったことはない。だが、覚醒剤を初めとする違法ドラッグは、世の中に存在している。それらの依存症患者を全て、キチガイの一言で切り捨ててしまっていいのだろうか? 自分たちには関係ない事だと決めつけていいのか?
人生には、何が待っているのかわからないのだ。僕だって数年前までは、自分の人生がこうなるとは思っていなかった。
「この人は……左腕を切断したのに……それでも覚醒剤をやめられなかったんですか」
思わず、そう呟いていた。しかし、返ってきたのは意外な言葉だった。
「いや、それはちょっと違うな。左腕を失ったことにより、彼はさらに覚醒剤にのめり込むようになったんだよ。左腕を失ったことによる絶望感……それこそが、彼を覚醒剤へと向かわせた一因でもある。まあ、そんなことは論ずるに値しない問題だ。重要視せねばならぬのは、彼はこのまま生かしておいても、何ら世の中の役に立つようなことはしないだろう事実だ。それゆえ、俺の役に立ってもらうことにした」
「どういう意味です?」
「簡単な話だよ。俺は藤岡くんを絞め落とし、ここに運んで閉じ込めたんだ。で、七十二時間放置してみた。運試しゲーム、みたいなものだ。もし彼に生き延びる値打ちがあると神が判断したなら、誰かが通りかかって助けてくれただろう。だが、誰も助けてくれなかった。結局、人生は運なんだよね。この男の、薬物に彩られた短くも刺激的な人生は、もうじき幕を降ろそうとしている。俺の予想通りだ」
当時の僕には、ペドロが何を言っているのか、よく理解できていなかった。ただ、わかることはひとつだけあった。
「でも……まだ、生きてるんですよね。だったら、助けませんか?」
ためらいがちに言うと、ペドロは口元をかすかに歪めた。
「すると、君は藤岡くんを助けたいのかい?」
「え、ええ」
「なるほど。だが、俺は嫌だな。はっきり言って、面倒くさいよ。こんな男を助けるために、小指一本だろうと動かしたくないね」
「え……」
僕は唖然となった。ひとりの人間をさらい、ここまで運び、鎖で繋いだ。そんな手間のかかることをしておきながら、助けるためには小指一本だろうと動かしたくないとは。
「哲也くん、俺は藤岡くんの死には興味がある。だが、生には何の興味もない。彼にはこれ以上、生き延びる値打ちがなかった。それさえわかれば、この男に用はない」
「もしかしたら、この男は更生するかもしれませんよ。そしたら、あなたの予想は外れたことになります。試してみませんか?」
未だにわからない。僕の口から、何故あんな言葉が出たのだろうか。
ひょっとしたら、自分とヤク中の藤岡を重ね合わせていたのかもしれなかった。
さっき、ペドロは言っていたのだ。
(彼はこのまま生かしておいても、何ら世の中の役に立つようなことはしないだろう)
僕だって、何ら世の中の役に立つようなことはしていなかった。世間から離れて、自室に引きこもっていたのだ。
僕と藤岡は大して変わらない。僕には、藤岡を悪し様に言う権利なんかないのだ。
もし、藤岡が立ち直ることが出来たなら、僕も生活を変えられるかも知れない──
すると、ペドロは笑みを浮かべて頷く。
「ほう、面白いことを言うね。では、君の好きにするといい。ただし、俺はここを立ち去る。君が、自分の力で助けるんだ」
「そ、そんな……」
彼の言葉に対し、それしか言えなかった。僕ひとりで、どうやって助ければいいというのだ。スマホがないから救急車は呼べない。道中に電話ボックスは見あたらなかった。コンビニの類いも、来る途中には見かけなかった。
この状況で、どうやったら藤岡を助け出せるのだろう?
「君は、藤岡くんを助けたい。だが、俺は助けたくない。俺は正直、藤岡くんに対する興味はないんだよ。彼がこの先、更生したとしたとしたら、俺の予想は外れたわけだ。だとしても、何とも思わないね。君が藤岡くんを助けるのを止める気はないが、手伝いたくもないな」
ペドロはそう言って、床に倒れている藤岡に目を向ける。その表情からは、何の感情も窺えなかった。
「でも……僕では助けられません」
かろうじて言葉を絞り出す。しかし、返ってきた言葉は残酷なものだった。僕と藤岡、その両方にとって。
「前にも言ったはずだよ。物事には全て、代償が伴うと。藤岡くんの命を助けたいなら、それに伴う代償を支払わなくてはならない。その代償は、今の君には非常に厳しいものだ」
「どういうことです?」
「藤岡くんに残された時間は……あと二時間強といったところだ。その間に、助けを呼ばなくてはならない。医学知識のない君に、衰弱しきった今の藤岡くんを助けることは出来ないからね。君は今、携帯電話を持っていない。そうなると、二時間の間にどこかに辿り着き、電話を借りなくてはならない。それは非常に難しいだろうね。この辺りには、人は住んでいないし」
淡々とした口調で語る。僕は、ペドロが何故この場所を選んだのか……今さらながら理解できた。ここは何処なのかわからない。だが、僕の住んでいた真幌市から車で一時間ほどの距離なのだ。少なくとも、人里離れた山奥の中というわけではないはず。
にもかかわらず、ここには人通りがない。まるで、妖魔の潜む里のようだ。人間の侵入を拒む結界でも張られているかのではないか、と思えるほどに。
「ここはね、取り壊しが決まった社員寮だ。ごくたまに、市の職員などがこの周辺を見回りに来たりするし、物好きな連中が見物に訪れたりもする。もし藤岡くんに生き延びる値打ちがあったのなら、そういった連中に発見され、助けてもらえたはずさ。しかし、彼は助けてもらえなかった。まあ、それはいいよ。問題なのは、君が自力で藤岡くんを助けなくてはならないということだ。はっきり言おう、君には不可能だね」
「そんな……」
「まあ、不可能は言い過ぎかもしれないね。ただ、よほどの運に恵まれない限り、難しいのは間違いない。あと二時間以内に、どうにかしてここまで救急車を呼ばなくてはならない。どうやって呼ぶのかな?」
「それは……」
僕は言い淀み、下を向く。そう、今の僕は無力なのだ。この状況で出来ることといえば、助けを呼ぶことくらいだ。しかし、スマホがないのでは警察も救急車も呼べない。周辺に民家は見当たらないし、電話ボックスは……こういった肝心な時には、あってくれた試しがない。
かといって、ひとりでは何も出来ないのだ。藤岡の腕を手錠から外し、病院まで連れて行く。何処にあるかもわからない病院まで。
だが、僕はまだわかっていなかった。ペドロの言いたいことは、他にあったのだ。
「哲也くん、もし君がどうしても藤岡くんを助けたいのなら……好きにするがいい。ただし、俺はここから立ち去る。君はひとりで、この絶望的な状況を何とかしなくてはならないんだよ。言っておくが、一番近い民家はここから約六キロ離れている。運動不足の君に、そこまで辿り着けるかな? そもそも、ここの周辺の地理を理解していない君には、民家を見つけることが困難だろう。君があちこちをさ迷っている間に、藤岡くんは衰弱して死ぬ可能性が高い」
「そんな……」
「もうひとつ言っておく。運よく、藤岡くんを助けられたとしよう。その場合、君は確実に警察から取り調べを受けるはずだ。その時、どう言い訳をするつもりだい?」
ようやく、ペドロの言わんとしていることを理解した。
そうなのだ。この男の命を助けたとしたら、確実に警察の介入する事態になるだろう。その場合、こんなことをした犯人を逮捕すべく警察は動くはずだ。
もちろん、ペドロは簡単に逃げられるだろう。日本の警察には、この怪物を逮捕することなど出来ない。しかし、僕には逃げることが出来ない。仮に逮捕されないとしても、確実に厄介なことになる。
「君は、あんな廃墟のような場所で何をしていたんだ?」
もし、刑事からそう聞かれたとしたら、何と答えればいいのだろう。今の僕に、刑事が納得する答えを用意するのは難しい。
しかも、奮闘も空しく藤岡が死んでしまったとしたら……下手をすると、僕は殺人事件の容疑者になる可能性がある。少なくとも、重要参考人となってしまうのは確かだ。
どんな義務も負いたくないし、どんな事にも関わりたくない僕が、そこまでしなくてはならないのか?
だが、人の命がかかっているのだ。放っておけば、藤岡は確実に死ぬ。ひとりの人間の命に比べれば、大したことではない……はずだ。
待てよ。
この藤岡はヤク中だ。
生き延びる値打ちはあるのだろうか?
僕が苦労して生き延びさせたとしても、その先は?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます