三日目(1)
翌日、僕は目覚めると同時にペドロの姿を探した。ひょっとしたら、もう部屋に来ているのではないかと思ったのだ。
当たり前だが、彼はいなかった。窓から双眼鏡であちこち探してみたが、公園にも見当たらなかった。
その時、安堵と落胆というふたつの感情が混じり合った、奇妙な感覚を覚えていた。
昨日、恐怖のあまり硬直していた母親たちを尻目に、ペドロと僕は公園を歩いた。
ペドロは歩きながら、僕に話しかけてきた。
「哲也くん、君はなかなか面白いな。明日、もし気が向いたら……また、君の家に行くかもしれない。もっとも、断言は出来ないがね。さて、俺はそろそろ行くよ。これから、片付けなくてはならない用事がある」
「用事、ですか?」
僕が聞き返すと、ペドロは頷いた。
「そう、用事があるんだ。俺は君と違って、やらなきゃならないことがあるんだよ。脱獄犯というのはね、意外と忙しいんだ。君が羨ましいね。俺も日本に生まれていたら、間違いなく引きこもりになっていただろうな」
ペドロのその言葉は、意外なものだった。僕は怪訝な表情を浮かべていたらしい。ペドロは不意に言葉を止め、笑みをうかべる。
「ああ、今のは皮肉じゃないよ。俺は、心の底からそう思っているんだ。自分の時間を、自分のためだけに使える……これは、最高の贅沢なんだよ。惜しむらくは、今の君は自分のために時間を使えていないことだが……まあ、それはいい。では、また会おう」
ペドロはそう言うと、振り返りもせずに立ち去って行った。
僕は、夢うつつのような状態で昨日の出来事を思い出していた。
昨日、ペドロは出会った人々に対し、何もしていなかった。直接的な暴力はもちろん、脅迫的な言葉も威圧するような言葉も発していない。にもかかわらず、ペドロと触れ合った者は皆、紛れもない恐怖を感じた。少なくとも、僕にはそう見えたのだ。
戦わずして勝つ、それこそが最上の戦略……何かの本で、そんな言葉を見た記憶がある。
繁華街をうろついているようなチンピラ三人組や、口うるさい奥さん連中。ペドロは彼らを、戦うことなく実にあっさりと退散させた。彼らの心に恐怖を呼び起こし、自らの意思で立ち去ることを選ばせたのだ。
そんなものを見たのは、生まれて初めてだった。
僕の心の中に、形容の出来ない何かが拡がっていく。殺人鬼のはずなのに、ペドロは誰も殺すことなくトラブルを回避した。しかし一方で、ペドロは子供たちを殺そうともしていた。全く理解できない行動だ。
特に、あの三人組のうちのひとりには殴られたのだ。自身よりも、遥かに弱い男にである。にもかかわらず、彼は殴り返そうとしなかった。ペドロにとって、彼ら三人を殺すことには何の興味もなかったのだ。
しかし、子供たちのことは殺そうとした。公園で遊んでいただけの、いたいけな子供たちを……。
そこにあるものは、純粋に自分の興味があるかないかの違いなのだ。彼がそうしたいから、そうする。ペドロにとって大切なのは、まさにその一点だけなのだ。子供が可愛いとか可哀想だとか、そんな気持ちに惑わされることがないのだ。
だからこそ、僕のような人間は余計に惹き付けられるのかもしれない。
(空気だよ、空気)
ペドロの言葉を思い出す。空気……僕は、その言葉が嫌いだった。
なぜなら、僕は幼い頃ほ空気の読めない子供だった。周りの顔色に気づかずに余計なことをべらべら喋り、余計なことをしていた。それが周囲の反感を買うという事実には、全く気づかなかったのだ。
その結果、僕を待っていたものは、人間の剥き出しの悪意だった。
そんなことを考えていた時だった。
「哲也くん、用意はいいかい? そろそろ行くとしようか」
不意に聞こえてきたのほ、ペドロの声である。
僕は、弾かれたように立ち上がった。声の聞こえてきた方向に視線を移す。
ベランダに通じる出窓が開かれ、外からのかすかな音が聞こえている。その出窓の前で、ペドロは立っていた。初めてこの部屋に来た時と、ほとんど同じだ。ただ、違う点もある。靴を脱いでいる所と服装だ。今日はジャージの上下を着ている。どこから調達してきたのだろうか。
それにしても……僕が考えに没頭していた時間がどれほどのものだったかは知らない。しかし、その間に彼は部屋に入り込んでいたのだ。
一体どんな人生を送ったら、こんな怪物が出来上がるのだろう。ペドロの能力は、様々な方向に特化している。少なくとも、僕にはそう見えた。常人には、そのうちのひとつを彼と同じレベルにまで極めることすら困難に思える。
少なくとも、僕には不可能だ。
「どうしようかと思ったんだが、前回と同じ手段でお邪魔させてもらった。その方が合理的なのでね。ところで、外に君の朝食が来ているみたいだが……」
ペドロの言葉を聞き、僕は我に返った。ドアを開け、朝食の乗ったお盆を持って部屋に戻る。一方、ペドロは床に座り込み、部屋の片隅をじっと見つめていた。そこには何もないはずなのだが、彼は僕の目には見えない何かを見ているのかもしれない。
僕が遅い朝食を食べ終わった時、ペドロはようやくこちらに視線を移す。
「さて、君は覚えているかな。昨日、俺に言ったことを」
「え、ええ……」
頷いた。ペドロが殺すのにふさわしい相手……果たして、奴らがそれに当てはまるかどうかは知らない。だが、死んで欲しい相手であるのは確かだ。
奴らが先に死ぬ場面を見られるのなら、僕はどんな目に遭わされても構わない。
すると、ペドロは笑みを浮かべた。僕の考えを見透かしたのだろうか。爽やかさとはかけ離れた笑顔を、こちらに向ける。
僕は、思わず目を逸らしていた。果たして、ペドロは奴らを殺してくれるのだろうか?
「では、そろそろ行くとしようか」
そう言うと、ペドロは立ち上がった。ベランダへと歩いて行く。
この男は、またしてもベランダから出て行こうというのだろうか。もし誰かに見られたりしたら、僕はどうすればいいのだ?
「そこから出て行くんですか? それはちょっと──」
「ここから出ていく方が早いし、合理的だ」
ペドロはそう言うと、ベランダに出る。直後、音もなく消えた。
僕が玄関から外に出ると、ペドロは家の前の道路で待っていた。
「では哲也くん、行くとしようか」
「あ、あの……何処にですか?」
尋ねると、ペドロは右手を上げ、ある場所を指差す。
そこには、車が止まっていた。
「今回は、あれを使う」
「あ、あの、この車はどうしたんですか?」
車を運転するペドロに、ためらいながらも尋ねた。この男は脱獄犯であり、しかもメキシコやアメリカに住んでいたのだ。当然、車など持っているはずがない。では、この車はどうしたのだろう?
だが、ペドロの答えはあまりにも簡単なものだった。
「拝借したんだよ」
「そ、そうですか」
そう答えるしかなかった。いったい、この男は何なのだろう。刑務所を脱獄し、日本を我が物顔で闊歩している。警察など、恐れる素振りもない。
ペドロは、何に恐怖を感じるのだろうか?
「ペドロさんは凄いです。怖いものなんか、ないんですね。恐怖なんて感情とは、無縁なんでしょうね。僕は怖いものだらけです。僕も恐怖を感じないようになりたいです」
思わず、そんな言葉を口にしていた。
だが、ペドロの反応は意外なものだった。
「本気で、そんなことを思ってるのかい? 俺を羨ましいと、本気で思っているのかい?」
「え、あ、はい」
戸惑いつつも返事をした。しかし、車内の空気が僅かながら変わったのも感じていた。今の言葉は、ペドロの心に何らかの変化を生じさせたらしい。
「君は本当に無知だな。人間が恐怖を感じる、これはごく当然の反応だ。恐怖は生きている
真っ直ぐ前を見ながら、静かに語る。
僕は何も言えなかった。この男が何を言わんとしているのか、おぼろげながらもわかってきたのだ。
「昨日、言ったはずだ。物事には、代償が必要だと。恐怖を感じないようになりたいなら、それに応じた代償を支払わなくてはならない。恐怖への代償に何を支払わなくてはならないか、君にわかるのかな?」
「わ、わかりません」
正直に答えると、ペドロは前を向いたまま口元を歪めた。
「君は本当に面白い。有能さと無能さのブレが、常人よりかなり大きいな。今の質問は簡単なはずだ。少なくとも昨日、第三の選択肢を導き出した君ならば、答えは簡単なはずだ。なのに、わからないと言うのかい?」
「いや、それは……精神を鍛えればいいんでしょうか?」
そう言った僕の耳に、溜息が聞こえた。
「そういうことじゃないんだが……まあいい。俺はさっき言ったよね。恐怖は、生きている証だと。生きている限り、恐怖はつきまとう。これから逃れるということは、死人も同然というわけだ。生きながらに死者と成り果てる覚悟が必要だ」
「死者、ですか」
「そう、死者だよ。恐怖が無い代わりに、喜びも無い。楽しみも無いんだ。実につまらない人生なんだよ。そうなってくると面白いもので、価値観が逆転するんだよ」
そう言うと、ペドロは楽しそうに笑った。
彼は当時、自身を教師には向いていないと言っていた。だが、今の僕にはわかっている。ペドロは教師としても、超一流の男だ。現に今の僕は、ペドロから教わったことが血となり肉となっている。
彼と出会い、僕は大きく変わったのだ。
僅か一週間ほどの期間で──
「君に理解するのは難しいだろうが、俺は大抵のことでは、快楽を得られないんだよ。例えば食事だが、俺は何を食べても似たような味にしか感じられない。酒を飲んでも、女を抱いても……それらは、表面的な快楽でしかない。そう、恐怖を感じない人間は喜びも感じないのさ。楽しむ気持ちも感動する気持ちもない。だがね、俺は面白いことに気づいたんだよ」
そこで、ペドロは言葉を止めた。なぜか、黙ったまま運転を続けている……僕は恐る恐る尋ねた。
「面白いことって何ですか?」
「それはね……これから行く場所で、俺のやることを見ていればわかるよ」
やがて、車は奇妙な場所で停まった。
「ここからは、十分ほど歩くことになる。黙って付いて来たまえ」
そう言うと、ペドロは車から降りた。ゆっくりと歩き出す。僕は、その後を付いて行った。
その時、どこを歩いていたのかはわからない。ただ、周りの風景は僕の住む町とは明らかに異なっていた。人通りはなく、緑も多い。あちこちから、カラスなどの鳥の鳴き声が聴こえる。地面はアスファルトで舗装されてはいるが、所々で隆起したり土が見えたりしていた。
だが、それよりも気になるのは……滅びの雰囲気が漂っていることだった。さびれたという表現が実によく似合う、そんな場所だ。
そんな異様な町を、ペドロはのんびりと歩いて行く。一方、僕は不安を感じた。
ここで、何をするつもりなのだろう?
やがて、ペドロは奇妙な場所で立ち止まった。古いアパートのようだが、建物の周囲を覆うように黄色いロープが張られている。外壁はボロボロで窓ガラスは汚れており、しかも嫌な匂いが漂っていた。周囲の雑草は伸び放題で、立ち入り禁止の札が立てられている。当然、人が住んでいる気配はない。
だが、ペドロはお構い無しだった。ひとつの部屋の扉を開け、ずかずかと入っていく。僕は恐る恐る、後を付いて行った。
部屋の中は汚く、埃が積もっていた。家具や日用品の類いは、一切見当たらない。見た目通り、ここは取り壊しになる前のアパートのようだった。なぜか、化学薬品のような奇妙な匂いが充満している。
床には、ボロボロの大きな布のようなものが落ちていた。だが、よく見ると……その布切れからは、土気色の棒のようなものが伸びている。その棒は、鎖で繋がれて床に打ちつけられていた。
ペドロは、部屋の中央で立ち止まった。ボロ布を見下ろしている。その顔には、何の感情も浮かんでいなかった。
わけがわからない。僕には首を傾げ、布に近づいてみる。
だが、それはボロ布などではなかった。ガリガリに痩せこけた人間だったのだ。肌は土気色で埃まみれ、髪は脂でべっとりとしている。あまりに汚れていたため、床との見分けがつかなかったのだ。
しかも右腕には手枷をはめられ、地面に打ち付けられた巨大な釘のようなものに繋がれている。
そして……左腕は、肘の部分までしかなかった。
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