二日目(4)
「娯楽?」
僕は困惑し、思わず聞き返していた。この男は、何を言い出すのだろうか。
しかし、ペドロは同じ言葉を繰り返した。
「そう、娯楽だよ。これは当然の話だ。俺は、子供たちを殺したいと思った。子供たちを殺すことで、母親たちに生じる変化を見たいとも思った。ところが君は、子供たちを殺すなと言っている。つまりは、俺から楽しみを奪おうとしているんだよ。ならば、それに伴う代償を支払う必要があるのではないかな」
笑みを浮かべながら、楽しそうな口調で語る。先ほどまでと比べると、醸し出している雰囲気が違っていた。ペドロの内部で、何か変化が起きたのだ。
一方、僕の方は……どう答えればいいのかわからず戸惑っていた。代償、とペドロは言っている。だが僕には何もないのだ。僕のような持たざる者が、どんな代償を支払えるというのだろう。
「どうなんだい? 君は今、俺の腕を掴んで殺しを止めさせようとしたね。実に勇敢な行動だよ。正直、君を見直したくらいだ。しかし相手に何かを頼むなら、見返りが必要だ。それは当然のことだよ。物を手に入れる前に、金を支払うようにね」
楽しそうに語るペドロ。それに対し、僕は黙ったまま彼の言葉を聞くだけだった。この男の言っていることは、間違っていない。僕のような弱い人間が、ペドロに人殺しをやめさせようとするなら、当然なんらかの見返りが必要なのだ。
しかし、僕には何も出来ない。そもそも、彼に何をあげれば納得してくれるのか、それがわからなかった。子供たちの命の代償……僕のような人間には、まったく見当もつかない。
すると、ペドロはこんな言葉を吐いた。
「じゃあ、君の命はどうだろうね」
「ぼ、僕の命……」
意表を突く言葉だった。命、どういう意味なのだろう? 僕に子供たちの身代わりになって死ね、ということなのだろうか?
「はっきり言うが、君には俺を止めることは出来ない。君は何も持っていないんだよ。金も力も地位も名誉も、何もないんだ。そんな人間が差し出せるものは、命くらいしかないんだよ。どうだい? 君は命を差し出して、あの子供たちを救う気があるのかな?」
「そ、そんな……僕にそんなこと……」
自分の命を差し出して、子供たちを救う。ペドロの言っていることは、まさに悪魔の選択だった。もし、僕が命を差し出さなければ……あの子供たちは殺される。目の前で、無惨な屍と化すことになってしまうのだ。
だからといって、あの子供たちのために死ぬなんてこと、出来るはずがない。
「そう、見ず知らずの子供たちのために死ぬ……そんなことは、君には無理だろう。いや、君でなくても、ほとんどの人間に不可能な話だ。でも君が死ななければ、あの子供たちが死ぬ。そして君の中には、今日の出来事……特に公園での惨劇は、忘れ得ぬ記憶として永遠に刻み込まれることになるだろうね」
「僕は……そんなつもりじゃ──」
「そんなつもりじゃない、と言いたいのかな? では、どんなつもりだったんだい? 君はどんなつもりで、この俺を止めようとしたんだい?」
そう言いながら、ペドロは僕を見つめる。その顔からは、表情が消え失せていた。
「はっきり言っておく。物事には全て、代償が必要だ。何かを得れば、代わりに何かを失う。これは当然のことだよ。願望だって同じことだ。何かを願うのなら、それに伴う何かを支払わなくてはならない。君には、代償を支払うだけの覚悟があったのかい? まさか、何の覚悟も無しで俺を止めようとしたのかい? だとしたら、そんなものは勇気とは言わない。ただの愚行だよ。車で暴走する愚かな若者の行動と同じだ」
「すみません……僕に……覚悟は……無かったです……」
そうとしか言えなかった。ペドロの言うことは正しい。僕は何も考えず、感情の赴くままにこの怪物を止めようとした。だが、相手は僕のような人間の常識の外に生きている殺人鬼なのだ。
仮に、ライオンがシマウマを襲う場面に出くわしたとしよう。シマウマが可哀想だからといって、ライオンの狩りをを素手で止めようとした人間がいたとしたら、その人間はどうなる? 恐らく……いや、確実にライオンに食い殺されることになるだろう。
僕は、それと同じくらい愚かなことをしようとしたのだ。
「哲也くん、俺の住む世界では……すみません、という言葉は何の意味も持たないんだよ。さあ、どうするんだい? 君がこのまま何もしなければ、子供たちは皆殺しだ。かといって、見ず知らずの子供たちのために、命を投げ出すことが出来るかい?」
なおも尋ねるペドロを、僕はどうすることも出来なかった。
その時、ひとつの考えが浮かぶ。
いや、選択肢はそれだけじゃない。
ライオンがシマウマを襲おうとしている時、どうすれば助けられる?
他の食べ物を差し出すしかないだろう。
その食べ物に気を取られている間に、シマウマを逃がす……それしかないだろうが。
「ペドロさん、もっと面白い相手を知ってますよ。あなたが殺すのに、ふさわしい相手を知ってます」
僕は声を震わせながら、そう言った。すると、ペドロの顔つきに変化が生じたのだ。不気味なくらいに、優しそうな表情へと。
「ほう、それはそれは。まさか、そんなセリフが君の口から飛び出すとはね。俺は、君という人間を過小評価していたようだ。まさか、一日でここまで変わるとは。君という人間は面白い。想像以上だ」
「え?」
聞き返しながら、ペドロの表情を観察した。明らかに、先ほどまでとは変わっている。今にも、この場にいる全員を皆殺しにしてしまいそうな雰囲気だった。息苦しくなりそうなくらい、濃厚な殺気を身の周りにまとわりつかせていたペドロ。だが今は、その殺気が消え失せている。
これなら、何とかなるかもしれない。
「昨日までの君ならば、ふたつにひとつ……子供たちを見殺しにするか、あるいは自分の命を差し出すか、どちらかしか選べなかっただろう。そして、どちらも選べないまま時間を空費し、挙げ句に子供たちを見殺しにしていたはずだ。ところが、今日の君は第三の選択肢を見つけた。これは素晴らしい進歩だよ。たった一日で、ここまで進歩するとはね。これは若さゆえか? それとも君に才能があるのか? 一体どちらだろうね」
言いながら、ペドロは僕を見つめる。だが、不意にその表情が変化した。
「さて、そうと決まれば、こんな場所に用はない。行くとしよう。もう少し、歩こうじゃないか」
言うと同時に、ペドロは歩き始めた。僕は慌てて付いて行こうとした。
だが、そこで立ち止まり振り返る。
子供たちは、楽しそうに思い思いの遊びに興じていた。ついさっきまで、命の危険が迫っていたというのに。
そんな子供たちの姿を見ながら、僕は思った。子供たちも母親も、ペドロという怪物のほんの僅かな気まぐれにより、生きていられるのだ。ペドロがもし、別の気まぐれを起こしていたなら……彼らは全員死んでいた。
僕は何のために、ペドロの殺戮を止めたのだろうか?
(人を殺す場面なんて、断じて貴重じゃありません。僕はそんなの観たくない。僕が観たくないから、やめて欲しいんですよ)
僕は、ペドロにそう言った。しかし、本当に観たくなかったから止めたのか?
他に、理由があったから止めたのでは?
(ペドロさん、もっと面白い相手を知ってますよ。あなたが殺すのにふさわしい相手を、僕は知ってます)
さっき、僕がペドロに言った言葉だ。しかし、ペドロが殺すのにふさわしい相手など、僕が知るはずがない。そう、僕は子供たちを助けるために、口から出まかせを言ったのだ。少なくとも、さっきの時点では出まかせだった。
しかし今……僕は頭の中で、ある男たちの姿を思い浮かべていた。
僕を学校から追い出した、あいつらを──
「どうしたんだい? もしかして、気が変わったのかい?」
ペドロの言葉を聞き、僕は我に返った。
「あ、いえ、そういう訳じゃないんです」
僕は曖昧な笑顔を見せ、その場を立ち去ろうとした。しかし、今度はペドロの方が動かなかった。
「いや、君の考えていたことはわかるよ。彼女たちと子供たちは、九死に一生を得た。にもかかわらず、その事実にまるで気づいていない。彼女たちと子供たちにとって、今日という日は……いつもと変わらない平穏な一日だ。しかし、俺と君はそうでないことを知っている」
言いながら、ペドロはタバコの箱を取り出した。一本抜き取り、口にくわえて火をつける。
その時、母親たちの顔色が変わった。こちらをジロリと睨む。睨みながら、ヒソヒソ話し始めた。どうやら、ペドロが子供たちの遊んでいる横でタバコを吸っているのが気に入らないらしい。
だが、ペドロはそれを無視して吸い続けている。
やがて、たまりかねたのだろうか。母親たちは、こちらに歩いて来た。中でも、リーダー格らしい気の強そうな女が僕に言う。
「ちょっとあなた、この方にここでタバコを吸うのはやめるように言ってちょうだい。ここは日本なのよ。いい加減にしないと、警察を呼ぶって言って──」
女は言葉を止めた。唖然とした様子で僕を見ている。だが、それも当然だろう。
その時、僕は笑い出していたのだ。
僕は、おかしくて仕方なかった。この母親たちは、本当に何もわかっていない。
ついさっきまで、母親と子供たちには死の危険が迫っていた。しかし母親たちは、ペドロという怪物を全く警戒していなかった。警戒どころか、母親たちにとってペドロと僕は風景の一部でしかなかった。
しかし、ペドロがタバコを吸い始めたことにより……母親たちはようやく、ペドロと僕の存在を認識したのだ。
ペドロがついさっき行おうとしていたことに比べれば、タバコなど一体どれほどの害があるというのだろう。
「な、何がおかしいのよ! あなた、タバコがどれだけ周りに害を与えるか、わかってるの!?」
馬鹿にされたと感じたのだろうか。リーダー格の女は、ヒステリックに怒鳴りつける。そして他の女たちも、僕とペドロを交互に睨みつける……ただひとりを除いて。
先ほど、真っ先に僕とペドロを不審な目で見ていた女だけは、違う動きをしていた。彼女はスマホを取り出しながら、子供たちを僕とペドロから遠ざけていたのだ。
彼女の顔は、真っ青だった。近くに来て、ようやく気づいたのだろう。
自分の勘が、間違っていなかったことに。
ペドロが、本物の怪物であることに。
「はっはっはっは……いやあ、申し訳ありません。彼は笑いのツボが少々特殊でしてね。お気に障ったのでしたら謝ります。すみませんでした」
不意に、ペドロが流暢な日本語で女たちに謝罪した。女たちは驚愕の表情を浮かべて、目の前の怪人を見つめる。
ペドロの方は笑みを浮かべながら、もう一度頭を下げた。
「おっと、このタバコも迷惑でしたね。喫煙は緩慢な自殺と言ったのはどなたでしたかね……実に上手い言い回しだと思いますね。それはともかく、消さないといけませんねえ。お子さんたちには、有害なものですから」
ペドロはそう言うと、火のついたタバコをゆっくりと上げていく。
何のためらいもなく、赤く燃えている部分を自らの額に押し付けたのだ。
ペドロはにこやかな表情で、ゆっくりとタバコをもみ消す。自分の額に押し付け、グリグリと潰していく。その間、いっさい表情を崩さない。女たちはといえば、全員が凍りついていた。何かを言いかけたまま、顔が硬直している。
横にいる僕には、母親たちの気持ちが手に取るようにわかった。
母親たちは、その時になってようやく理解したのだ。ペドロが、自分たちには想像もつかない人物であることに。母親たちの心に生じた恐怖は、ペドロがタバコを己の額でもみ消したことだけが原因ではない。
そう、母親たちは今、ペドロという本物の怪物に触れたのだ。理性ではなく本能の部分でペドロに触れ、結果として蛇を前にした蛙と同じ状態になってしまった。
「さあ、行くとしようか。我々の存在は、必要のない緊張感を与えているらしいからね」
すました表情で言うと、ペドロは立ち去って行く。僕はクスクス笑いながら、その後を追って行った。
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