悪魔と過ごした一週間

一日目（３）

「ま、まだ数え終わってないじゃないですか！」

　あの時に発したセリフは、我ながら間抜けで情けないものだったと思う。

　僕は死にたくなかった。死の恐怖を間近に感じ、心底から怯え、命惜しさゆえに苦し紛れの言葉を吐いたのだ。実にみっともない話である。

　だが、死ぬ間際の人間がどれだけ惨めな存在であるか……今の僕は、骨身に染みて理解している。人間は、人間らしく死ねない。ほとんどの人間は、死ぬ間際に獣へと変わってしまう。

　いや、獣よりもさらに下の何かになるのだ。

「やれやれ。君という人間は……本当に、どうしようもないな」

　ペドロは笑みを浮かべながら、そう言った。同時に、こちらに伸ばした手を引っ込める。

　その時になって、ようやく僕の心臓は活発に活動し始めた。これまで経験したことのない、強烈な高鳴りを感じた。胸が壊れてしまいそうなほどの、強い鼓動だ。

　息が苦しい！　

　胸が苦しい！

　思わず胸を押さえていた時、ペドロの静かな声が聞こえてきた。

「まずは、深呼吸するんだ。俺は、君を殺さない。少なくとも、いま殺す気はない。だから落ち着くんだ。落ち着いて、呼吸をするんだ。いいね？」

　不思議なことだが、その声を聞いたとたんに僕の緊張は収まった。心臓は、再び静かなリズムを刻み始める。ペドロの声には、奇妙な鎮静効果があったのだ。それもまた、あの男の持つ特技のひとつだったのかもしれない。

　僕が落ち着きを取り戻したのを見て、ペドロは口を開いた。

「哲也くん、君はいったい何を聞いていたんだい？　俺はさっき、十秒後に君を殺すかもしれないと言ったんだよ。つまり、十秒間の余裕があるということだ。その間、君にはいろんな選択肢があったんだよ。にもかかわらず、君は何もしなかった。挙げ句、十秒という時間を空費してしまったね。人生において、もっとも貴重な時間をね。これはもう、最高に愚かな選択だよ。十秒あれば、何が出来たと思う？　少なくとも、外に逃げることは出来たはずだ。俺の息子が十歳の時、同じようなテストをしたが……息子はちゃんと動けた。君は十歳の子供にも劣る。もっとも、息子は特別だがね」

　そう言って、ペドロは笑った。しかし、僕は言葉を返せなかった。そもそも、彼が何を言っているのか……それすら、よくわかっていなかった。その時に理解できたのは……自分の命が助かるかもしれない、ということだけだった。

　何も答えない僕を尻目に、ペドロは話を続ける。

「君はどうやら、俺のことを泊めたくないらしいね。だからこそ、嘘を吐いたって訳だ。まあ、それはいい。しかし、君を見ていると不安になるな。ここまで救い難い少年だとは思わなかったよ」

　何の感情も表に出さず、淡々とした口調で語っていく。彼の特徴のひとつに、表情の乏しさがある。笑うか、あるいは無表情か、そのどちらかしかないのだ。

　僕は、ペドロの怒った顔を見たことがない。怒りのあまり、誰かを殴り殺すというのは粗暴犯がおこしがちな犯罪である。だが、ペドロはそんなことは絶対にしないだろう。ひょっとしたら、あの男は自身が死ぬ時ですら、笑っているのかもしれない。

「君は、自分がどれだけ愚かなのかわかっていない。君は俺と会ってから、ことごとく間違った選択をしている。哲也くんの先行きを考えると、他人事ながら不安だね。はっきり言っておくよ。君の人生はもう終わっている。今後の人生がどうなるか、わかるかい？」

「えっ……」

　僕は口ごもった。

　今後の人生とは……これまで考えるのを避け、目を背けてきたものだ。どうなるか、などわかるはずもなかった。どうすればいいか、もわからなかった。

　僕は、ただ世間から遠ざかっていたかった。自室の片隅で膝を抱え、じっとしていたかったのだ。

　だがペドロは、遠慮や容赦といった概念を欠片ほども持ち合わせていなかった。

「君が、このまま生きたとしよう。ほぼ間違いなく、ただの社会不適合者として人生を終えるだろうね。君は、悪人にすらなれない人間だ。どうせ、いずれは何とかなるとでも思っているのだろう？　自分の人生には、いつか幸せが訪れる。全ての問題が解決し、ハッピーエンドが訪れる……そう思っているんじゃないのかい？」

　ペドロの問いに、僕は何も言えなかった。彼が怖かった、という理由だけではない。

　確かに、その通りだった。僕は、問題の解決をひたすら先送りにしていたのだ。いつかは何とかなると思っていた。自分の人生に、不幸な出来事や悲惨な運命が待っているなど、考えもしなかった。

　いや、考えはしたかも知れない。だが、それは現実感を伴うものではなかったのだ。

　そんな思いを見透かしたかのように、ペドロは笑みを浮かべる。

「ところで、ひとつ聞きたいんだが……君の周りで、殺人事件に遭遇したことのある人間はいるかな？」

　ペドロの問いに、僕は困惑しながら首を横に振った。そんな話は、聞いたことがない。

「そうだろうね。日本は実に平和な国だ。犯罪の発生率も低く、警察の検挙率も高い。だが、これは日本の警察が優秀だからではない。はっきり言えば、日本の警察は俺から見れば無能だよ。おっと、これは余計だったね。ともかくだ、この日本という平和で安全な国で殺人事件に遭遇する確率は、かなり低い。ましてや、俺のような殺人犯と出会い、そして友だちになれる確率は……砂漠で一粒の砂を探し当てるのと同じくらい低いものじゃないかな」

「そうですね」

　僕は相づちを打つ。しかし内心では、何が言いたいのかわからなかった。そもそも、ペドロとの出会いは有り得ない確率の不幸としか思えない。

　だが、その後に飛び出たペドロの言葉は、僕の想像の斜め上をいくものだった。

「哲也くん、君はどうやら俺のことが好きになれないらしいね。まあ、人の好き嫌いにとやかく言うつもりはない。君がどうしても嫌だと言うのなら、俺は君との縁を切る。二度と君の前には現れない……だが、それでいいのかい？」

「えっ？」

　僕は混乱した。いったい何を言い出すのだろう。まさか、こんな展開になるとは想像もしていなかった。

　混乱している僕に向かい、ペドロは言葉を続ける。

「君は今、人生を変えられるかもしれない瀬戸際にいるんだよ。もしここで、俺との縁を切ったとしよう。君は一生、俺と再会することは出来なくなる。だが、本当にそれでいいのかい？　俺は、君の人生を変えられる人間なんだよ。それがわからないのかい？」

「はあ……」

「考えてみるんだ。俺のような人間と、この先に出会える可能性を、ね。俺は脱獄した連続殺人犯だ。もし仮に、小説家なりノンフィクション・ライターが俺に取材できるとなったら、多額の金を支払うだろう。それがどういうことか……つまり、俺と話をするためだけに金を払う人間がいるということだよ」

　ペドロは、ゆっくりと噛んで含めるような口調で話している。僕はいつの間にか、彼の話に聞き入っていた。

「これは自惚れでも何でもない。事実だ。君に尋ねるが、俺のような人間と巡り逢う機会があると思うかい？　今後、君の人生にそんな幸運が訪れるのかい？　まあ無理だろうけどね。君は、一生この部屋から出られそうもないし」

「そんな……」

　その言葉を否定したかった。だが否定できなかった。ペドロに怯えていたせいもある。しかし、それ以上に……彼の言葉が真実であることをわかっていたからだ。

　僕の心を見透かしたかのように、ペドロはニヤリと笑った。

「もう一度言う。君が俺と出逢えた事実……これは、神に感謝すべき奇跡だよ。俺と時間を共にすることで、君は様々なことを学べるはずだ。これはチャンスなんだよ。君は……こんな素晴らしいチャンスを、自ら捨て去るほどの愚か者なのかい？」

　何も言えなかった。ペドロの言っていることは無茶苦茶ではある。だが同時に、聞き流すことの出来ないものでもあった。確かに、彼の能力は普通ではない。僕という人間の身長と体重、さらには性格や暮らしぶりまで、ものの数分で見抜いて見せたのだ……今日、会ったばかりのはずなのに。さらに、ペドロの経歴は僕には想像もつかないものだ。

　少なくとも、僕の今までの人生において……このような人物は登場しなかった。

　まるで、異世界の人間のようだ。

「哲也くん、今の君の最大の欠点は……結論を出すまでに時間がかかり過ぎることさ。さっきのことを思い出してみたまえ。十秒の余裕があったにもかかわらず、その時間を空費してしまったんだよ。今後、君はこの狭い部屋の中で、ずっと時間を空費し続けることだろう。あれこれ考えながらも、現実には何も出来ぬままにね。そして時が過ぎていき年齢を重ね、ようやく君は気づく。自分が今まで、どれだけ愚かな選択をし続けてきたのかを」

　そう言うと、ペドロは不意に顔を近づけた。

「俺は当分の間、この辺りにいるつもりだ。明日の午後二時、俺はそこの公園にいる。もし、俺との縁を切りたくないなら……外に出て、公園のベンチに来るんだ」

　そう言うと、ペドロは音もなく動き、ベランダに行く。

　一瞬で、姿を消した──

　気がついてみると、外は暗くなっていた。

　ふと、今の出来事は夢だったのではないだろうかと思った。知らない間に眠りこけてしまい、ずっと夢を見ていたのではないだろうか……と。

　しかし、部屋の中にはペドロの存在していた痕跡が残っている。開いたままの窓。土の跡の付いた床。そして、粉々に砕け散ったコントローラー。夢などではない。ペドロは確実に存在していた。

　僕は間違いなく、ペドロと会話をしたのだ。多くの人の命を奪った脱獄犯と──

　その後、僕は何もせずにじっと座ったままだった。恐らく、呆けたような表情を浮かべていたと思う。あまりにも強烈な体験……その衝撃から、未だに醒めることが出来ていなかった。

　気がつくと、ペドロの話を思い返していた。

（君が俺と出会えた事実……これは神に感謝すべき奇跡だよ。俺と時間を共にすることで、君は様々なことを学べるはずだ。これはチャンスなんだよ。君は……こんな素晴らしいチャンスを、自ら捨て去るほどの愚か者なのかい？）

　殺人犯であり、脱獄犯でもあるペドロ。そんな男との出会いのどこが幸運なのだ、と普通の人なら言うだろう。確かに、その部分だけを聞けば幸運とはとても言えない。むしろ不運だろう。凶悪な犯罪者に目を付けられた、哀れな少年でしかない。

　しかし、ペドロは常人とはあまりにも違っていた。

　知能が低く粗暴で下品……それが、僕の想像する凶悪犯の姿だった。ところが、あの男は違う。知的で、物腰も穏やかだった。僕のこれまでの人生において、彼ほど凄い人間は見たことがない。桁外れの腕力と並外れた知性を兼ね備えた超人、それが僕の見たペドロという男だ。

　そんな人間が、僕と友だちになってくれるというのだ。何の力も才能もない、ゴミみたいなニートの僕と。

（今後、君はこの狭い部屋の中で、ずっと時間を空費し続けることだろう。あれこれ考えながらも、現実には何も出来ぬままにね。そして時が過ぎていき年齢を重ね、ようやく君は気づく。自分が今まで、どれだけ愚かな選択をし続けてきたのかを）

　ペドロの言葉は、僕にとって耳が痛いものばかりだ。しかし、それは真実でもあった。自分でも、漠然とした不安をずっと感じていたのだ。僕は何かきっかけがない限り、一生このままなのではないかと。

　今日のペドロとの出会いが、そのきっかけなのではないか？

　僕はそのまま、何をするでもなく、ずっとペドロのことを考えていた。彼は、とても恐ろしい。同時に、魅力的でもある。

　人間には、どこか危険なものに惹き付けられてしまう習性がある。好奇心の為せる業なのか、あるいは破滅に対する憧れなのか、僕にはわからない。それがあるからこそ、太古の昔に人は炎に近づき、炎の扱い方を知ったのかもしれない。

　気がつくと、僕は部屋の中を歩きまわっていた。ペドロの言葉の僅かな断片を思い出しては、頭の中で反芻しながら……さらに、彼が一瞬で破壊してしまったコントローラーの破片を手に取る。その怪力に、改めて恐怖と敬意とを感じていた。

　僕は今も覚えている。あの時、ペドロはこうも言ったのだ。君は自分がどれだけ愚かなのかわかっていない、と。

　そう、当時の僕には何もわかっていなかった。

　この時点で、ペドロは確信していたのだろう。僕は既に囚われてしまっていた。もはや、ペドロという名の炎に吸い寄せられ、自滅する蛾のような存在と化していたのだ。