二日目(1)
その日、僕はほとんど寝ていなかった。
眠りについたかと思うと、一時間ほどで目が覚めてしまう。しばらくして一時間ほど眠っては、目を覚ます……そんな状態だったのだ。いや、そもそも眠りとも呼べないものかもしれない。
考えてみれば、引きこもるようになって、かれこれ四年近く経つ。それは全く変化のない生活だった。昼にむっくり起きて、何ら生産性のない行為で時間を潰し、母親が廊下に置いていく食事をとり、明け方に眠る。それが、僕の生活の全てだった。そこには、痛みも苦しみもない。代わりに、喜びもない。バターの塊を、ひたすら薄く引き伸ばしているような……そんな生活だった。
しかし、今日は違う。午後二時、ペドロが公園に現れて僕を待っているのだ。会いに行かなければ、あの男は僕の前から姿を消す、と言っていた。
では、もし僕が会いに行ったら、いったい何が起きるのだろう?
そして、僕はどうなるのだろう?
様々な考えが、頭の中を駆け巡る。何をしていても、ペドロの存在が離れることはなかったし、意識を逸らせることも出来なかった。
そして……ただただ、時間が経過していくに任せていた。
午後二時になったのを確認し、そっと窓に近づいた。双眼鏡を手に取り、窓から公園の方を覗く。
内田という男が死体となって座っていたベンチ。昨日はその周囲に警察の人間が大勢いて、黄色いテープに囲われていた。しかし、今はテープが剥がされている。警察やその関係者もいない。事件性が無しと判断されたのだろう。今、ベンチにいる者はたったのひとり。
ペドロが、リラックスしきった様子で笑みを浮かべ、こっちを見ながら座っているのが見えた。
昨日は、まるでホームレスのような服装だったペドロ。しかし今は、地味な灰色のスーツを着ている。僕はスーツに関する知識はないが、高級な物とは思えない。
もっとも、ペドロにとって服の値段など、どうでもいいことなのだろう。あの男は必要とあれば、ボロボロの作業服で高級フランス料理店に行けてしまう男なのだ。
そんなことを思いつつ双眼鏡を覗く僕に、ペドロは笑みを浮かべながら会釈して見せる。
僕は、慌てて窓から離れた。カーテンを閉め、ベッドの上に座り込む。昨日の宣言通り、ペドロは公園に居た。自らの手で殺した男を座らせていたベンチに、今度は自分が座っているのだ。
殺人犯が、僕を待っている。
(君は……こんな素晴らしいチャンスを、自ら捨て去ってしまうほどの愚か者なのかい?)
ペドロの言葉が脳裏に甦る。僕はじっと部屋の扉を見つめる。
立ち上がり、歩き出した。
玄関の前に立つと、さすがに緊張した。鼓動が早くなっている。足も、かすかに震え出した。それはペドロへの恐怖ではない。外の世界への恐怖だ。
だが僕は、震えながらも扉を開く。
三年ぶりに外に出た──
歩きづらい……。
真っ先に感じたのが、それだ。家の中でも、少しは歩いていたはずなのだが……外を歩くのは、まるで勝手が違う。頭の中がふわふわしているような、そんな感じだ。文字通り地に足が付かないまま歩いていた。
その時、誰かに見られているような気がした。周囲には誰もいない。にもかかわらず視線を感じた。侮蔑のような視線を……さらに、大勢の人が僕を見て笑っているような気もした。
それでも、僕は歩き続けた。
ペドロに会うために。
公園に入り、ペドロに近づいて行く。しかし、彼は座ったままだ。僕のことを見ようともしない。ベンチの背もたれによりかかり、じっと前を向いていた。
歩き続け、ペドロのすぐそばで立ち止まる。しかし、彼は黙ったままだ。僕も黙ったまま、その場に突っ立っていた。何を言えばいいのだろう? それ以前に、僕はここに何をしに来たのだろう?
その質問に答えられるのは僕ではない。ペドロだ。
「哲也くん、君は何しに来たんだい?」
不意に、ペドロが口を開いた。だが、何も答えられなかった。
すると、ペドロの目が細くなる。
「君は自分の欲求が何なのか、それすら分かっていないようだね。俺が仮に神様だったとしても、自分の望む物を理解していない者の願いは叶えられないよ。もう一度、聞くよ。君は何をしに来たんだい?」
「それがわかっていたら、こんな所に来てませんよ……」
声を震わせながら答えた。そう、僕には何も分かっていない。今の自分が、何をすべきなのか……そして、明日の自分がどこに行けばいいのか……僕には答えが出ないのだ。もし答えが出ていれば、家に引きこもってなどいない。
ペドロは黙ったまま、じっと僕を見つめた。その瞳は黒い。そういえば、彼が自分の父親は日本人だ、と言っていたのを思い出した。一体どんな育ち方をしたら、こんな怪物が誕生するのだろう。
「おやおや。まさか、そんな言葉が飛び出すとは。少しは頭を使うことを覚えたようだね。そう、確かに君は迷路にいる。迷路で迷った時、どうすればいいか分かるかい?」
尋ねるペドロに、僕は首を横に振った。今度は何なのだろう。なぞなぞだろうか?
だが、ペドロの答えはなぞなぞですらなかった。
「簡単さ。壁を破壊して進めばいい。そう、今の君は思考の迷路にハマっているのさ。出口はおろか、自分が何処を歩いているかもわからない状態だ。そういう時は、目の前の壁を破壊する……少なくとも、破壊できるかどうか試してみる。これは重要だよ」
「破壊……ですか?」
僕が言うと、ペドロは頷いた。
「そう、破壊だ。いいかい、破壊という概念はある意味、万物の創造神でもある。新しい物を生み出すには、古い物を破壊しなくてはならないだろう?」
「え、ええ……」
「それと同じだ。君は古い自分を、完全に破壊しなくてはならないんだよ。でないと、自分を変えることは出来ない……そして、破壊には常に痛みが伴う」
淡々とした口調で語る。こうした話をする人間に付き物の熱気や強引さが、彼からは全く感じられなかった。ペドロが何を考えているかなど、当時の僕にわかるはずもない。それでも、はっきりと理解できたことがひとつだけあった。
この男は、真実を言っている。
ペドロは凶悪犯らしからぬ穏やかな表情で、静かに語り続けた。
「哲也くん……正直言うなら、君をどこかに導くつもりはない。俺に教師としての才能は、無いに等しいからね。俺はただ、自分のしたいように行動する。君にああしろこうしろ、と言うつもりはない。俺に付き合うも付き合わないも自由だ。そう、俺は君の友だちだからね……君に無理強いはしない」
「は、はい……」
僕が返事をすると、ペドロはニヤリと笑った。これほど、爽やかさとかけ離れた笑顔を作れるのも珍しいだろう。よく作り笑顔などと言うが、ペドロの笑顔は真逆だ。むしろ、こちらに不安感さえ与える。
「ところで……ここで死体となっていた内田と称する男だが、奴は、どうやって死んだと思う?」
不意に、そんなことを尋ねてきた。僕は首を横に振る。
「わ、わかりません……」
その返答を聞いたとたん、ペドロの表情が僅かに変化した。
「君はもう少し、死というものに興味を持つべきだな。どんな人間であろうとも、必ず死が訪れる。人生における、究極のイベントとも言うべきものなんだよ。人間はもっと、死に対し興味と関心を持つべきだ」
ペドロの言葉には、かすかな苛立ちがあった。彼の感情の起伏……非常に小さな波ではあるが、僕は初めて感じ取れたのだ。
「内田と名乗った男だが、奴はCIAの工作員だった。まあ、工作員の中でも下っ端なのは間違いないがね。それでもCIAは、非常に厳しい訓練を受けると聞いたことがある。君も、それらしい話は聞いたことがあるだろう?」
ペドロの問いに、僕は頷いた。とはいえ、そもそもCIAが何なのか全くわからないのだが。アメリカの映画に登場し、やたらピストルを撃ちまくる人たち、というイメージしかない。
「そこでだ、俺は彼を絞め落とした。そして、ひとけの無い場所に運んだ。こういう時、絞め技というのは実に便利だ。相手を殺すことなく無力化できる。君も覚えておくといい。ただ、絞め落とした後の処置を間違うと、死んでしまう可能性もあるがね」
いかにも楽しそうに語る。一方、僕は何も言えなかった。ペドロは今から、自らの犯した殺人の模様を語って聞かせようとしていることはわかった。
「意識を取り戻した時の、内田の態度は大したものだった。両手両足を拘束され、身動きできない状態。しかも、目の前にいるのは連続殺人犯なんだよ。これは、君の想像以上の恐怖だよ。体験した者でないと、分からないだろうね。もっとも、俺はそんな体験をしたことはないが……」
一切の感情を交えず、淡々と語っていくペドロ。僕は恐怖を感じていた。だが同時に、彼の話を僅かでも聞き漏らすまいと、じっと耳を傾けていた。
「話を戻すよ。内田は立派だった。取り乱したりせず冷静に、俺との取り引きを試みたんだよ……だが、立派なのはそこまでだった。奴は嘘ばかり言うようになってね。俺は嘘を吐かれるのは好きじゃない。そこで俺は、彼を武術の秘技の実験台にしたんだよ」
「武術の秘技、ですか」
「そう、武術の秘技だ。胸の周辺に浸透性のある打撃を打ち込み、心臓の動きを停止させるというものさ。レイカーズ刑務所の独房で読んだ本に載っていたんでね……いい機会だったし、内田の体で実験してみたんだよ。しかし、あの技は使い勝手がよくないな。動きを封じられた相手でないと、成功させるのは難しい。もっとも、俺の修行が足りないだけかもしれないがね」
そう言って、ペドロは笑った。クックックッ……という不気味な笑い声が、僕の耳に聞こえてくる。今の話のどこにも、笑いの要素はないように僕には思われた。にもかかわらず、ペドロは可笑しそうに笑っている。喜怒哀楽という言葉があるが、彼には怒と哀の感情が極端に乏しいように見えた。
「まあ、内田の心臓を止めることには成功したわけだから、失敗とは言えない。しかし俺なら、そんな秘技を使わずとも人を殺せる……二秒で、だ。武術というものは、何とも効率が悪いものだ。そう思わないかい、哲也くん?」
「は、はあ……」
僕が返事をすると、ペドロは不意に黙りこんだ。こちらを、じっと見つめる。僕は耐え切れず、目を逸らした。
すると、またしても理解不能な言葉が飛び出てきた。
「ところで哲也くん、君は霊を信じるかい?」
「え?」
ペドロの問いは、全く予期できぬものだった。僕が困惑し何も言えずにいると、彼は言葉を続ける。
「もし霊なるものが存在するならば、内田の霊はどうしているのだろうね。俺に取り憑き、殺そうとしても不思議ではない。しかし今のところ、そんな気配はない。それどころか、俺はこれまでの人生で確実に百人以上の人間を殺しているはずなんだ。しかし、幽霊らしきものを見た記憶がないんだよね」
淡々とした口調で話し続けるペドロだったが、僕の方は度肝を抜かれていた。
今、百人て言ったよな──
考えてみれば、ペドロは七人を殺した罪で逮捕されて刑務所に行った……と言っていた。また、刑務所の中で何人も殺した、とも言っていたのだ。
しかし、まさか百人以上の人間を殺しているとは。やはりペドロは、想像を遥かに上回る怪物なのだ。
「俺は、日本で生まれてメキシコで育った。そのどちらの国にも、幽霊を信じる人間は大勢いた。もともとの文化や民族性が、両国は根本的に違う。にもかかわらず、幽霊というものを信じるという共通点がある。面白い話だ。ところで幽霊だが、俺はそれらしきものを今まで見たことがないんだよ。これはどういうことか……君にわかるかい?」
「ええと……幽霊なんか存在しない……ということですか……」
僕がそう言うと、ペドロは首を振った。
「うーん、ちょっと違うな。俺の世界では、幽霊は存在しない。つまり、そういうことさ」
「え……」
意味がわからない。ペドロは何を言っているのだろうか?
その時、僕はよほどおかしな表情を浮かべていたのだろう。ペドロは苦笑し、再び口を開く。
「今の君には、少し難しかったようだね。今からひとつ、実例を見せよう。向こうから、三人の男が歩いて来る。彼らとちょっと遊んでみようか」
そう言うと、ペドロは向きを変えた。僕の斜め後ろの方向を見つめる。つられて、僕もそちらを見た。
三人の若い男が、何やら話しながらこちらに歩いて来ていたのだ。
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