一日目(2)
ペドロの話は、僕には理解できなかった。
いや、話の内容そのものは理解できた。だが、実感できるものではなかった。まるで、映画やドラマのストーリーを聞かされているかのように、現実味が感じられなかったのだ。
もし、彼の話が本当ならば……今、僕の目の前にいるのは本物の連続殺人犯であり、アメリカの刑務所を脱獄した凶悪犯でもある。ホラーやサスペンス映画などでしか見たことのない存在だ。僕は驚きつつも、どこか納得している部分もあった。目の前にいる男は、その程度のことはやりかねない。
そう、ペドロは本物の怪物なのだ。身長は百六十センチ強で、日本人である僕の目から見ても、大柄とは言えない体格だ。にもかかわらず、その存在感とスケールはあまりにも大きかった。
もし、ペドロがどこかの国の大統領になったと聞かされたとしても、さほど驚かないだろう。ペドロはまさに超人なのだ。そう、並みの人間を遥かに凌駕した存在だ。僕は未だに、彼が自分と同じ生物であるとは思えない。
ペドロの話は続く。
「まあ、そんな訳で脱獄犯である俺は、安心して寝られたり、寛いだり出来る場所が欲しいんだよ。そこでだ、友だちになった君に助けてもらいたいんだ。君の部屋に、しばらく泊めてもらいたい」
「えっ? それは……ちょっと……」
僕には、それしか言えなかった。あまりにも図々しい申し出ではないだろうか。今日、会ったばかりの人間に対して頼めることではないはずだ。
しかしペドロは、そういった一般常識を、欠片ほども持ち合わせていないらしかった。平然とした表情で言葉を続ける。
「哲也くん、君はあれだろ……最近、日本の若者たちの間で流行しているニートなんだろう? 学校にも仕事にも行かなくていいとは、実に羨ましい話だ。それならば、俺を泊めてくれてもいいんじゃないかな。俺と君とは、友だちなんだしね。泊まるとは言っても、君のプライベートにまで干渉したりはしない。困った時には助け合う、それが友だちだろう? それとも、君は困っている友だちを見捨てるような、薄情な人間なのかい?」
なんと勝手な言い分なのだろう。しかも、非常に恐ろしい提案でもある。だが、ペドロは本気で僕の家に泊まるつもりだ。これは絶対に断らなくてはならない。僕はおずおずと口を開いた。
「い、いや……そんなの無理ですよ。両親も、いきなり部屋に入ってきたりしますし……うちの両親、凄くうるさいんです」
僕はどうにか断ろうと、その場で思いついた嘘を言った。こんな怪物を部屋に泊まらせるなど、絶対に嫌だ。何とかして立ち去らせなくてはならない。
今にして思うに、その頃になって、やっと僕の頭は働き始めたのだ。先ほど食べた朝食の栄養が、脳と体に回ったからかもしれない。
理由はどうあれ、僕は今おかれた奇妙で不可解な状況を、現実のものとして理解できるようになった。どうやってこの危機を脱するか、つまりは目の前にいる脱獄囚を立ち去らせるか、について考えを巡らせ始めていた。
とにかく、今はまず怒らせないようにする。穏便に立ち去ってもらうことに意識を集中し、そのあとで警察に連絡する。それ以外に方法はない。
だが、その時の僕は何もわかっていなかった。自分がどれだけ愚かな選択をしていたのかを。そもそも、自分が何もわかっていない……ということすら、当時は理解できていなかったのだが。
「ほう、うるさい両親がいきなり入って来るのかい。それは確かにマズいな。そうすると、俺はここには泊まれないということだね。実に残念だ。君となら、仲良くやれそうな気がしていたんだが」
ペドロは、いかにも残念そうな様子でかぶりを振っている。僕は神妙な顔で頷きながらも、内心ではホッとしていた。
どうやら、上手くいきそうだ……と思った時、ペドロはいきなり立ち上がった。部屋の隅に放り出されていたゲームのコントローラーを拾い上げる。
次の瞬間、僕は目を見張った。頑丈なはずのコントローラーが、一瞬のうちに握り潰されたのだ。ペドロの手のひらの中で、いとも容易く粉々に砕け散ってしまった。
「な、何を……するんです?」
「哲也くん……さっき、俺は君を二秒で殺せると言った。その言葉に嘘はない。そう、俺は君に一言も嘘は吐いていない。やろうと思えば、君の脛椎を捻り潰して二度と歩けないようにも出来る。それを実証して見せたんだよ。これで、俺の腕力の強さを君に理解してもらえたわけだね」
ペドロの言葉を聞き、僕の顔から血の気が引いた……嘘? 嘘とはどういう意味だ?
「さっきも言ったが、俺は今までレイカーズ刑務所という場所に居た。どんな人間が居たかというと……マフィアの幹部、ギャングの大物、そして連続殺人鬼だ。俺は、中で何度も命を狙われた。だが、全員返り討ちにしたよ。返り討ちって、どういうことかわかるかい……俺は、向かってきた者を全て殺したんだよ。レイカーズ刑務所のお偉方は、事故で処理してくれたけどね」
懐かしい思い出に浸るかのように、目を細めながら語るペドロ。僕は恐怖を感じ、同時に困惑しながら話を聞いていた。
「あと、囚人たちと看守の見守る中で、一対一のベアナックル・ファイトをしたこともある。ベアナックル・ファイト……つまりは素手の喧嘩だ。俺は百戦近くやったが、全戦全勝だったよ。中には三百六十ポンド……いや、君にはポンドじゃわからないか。百六十キロの大男も居たし、プロボクサーだった男や武術の達人と称する男もいた」
ペドロは言葉を止めた。自らの手に残るコントローラーの残骸を投げ捨てる。
「俺はそいつら全員、素手で倒した。誰も俺には勝てなかったんだよ」
僕は完全に呑まれていた。黙ったまま頷くことしか出来なかったのだ。ペドロが何のためにこんな話をしているのか、さっぱり理解できぬまま……。
だが、その理由はすぐに明かされることとなる。
「俺が何のために、こんな武勇伝めいた話をしたかわかるかい?」
「わ。わかりません……」
「君が、俺を甘く見ているからだよ。少なくとも、俺にはそう思える。君はどうやら、何もわかっていないらしい。俺のことも、君の置かれている今の状況についても、だ」
僕の心の中で、冷たいものが広がっていくのを感じていた……その時になって、ようやく僕は理解したのだ。
自分がヘマをしてしまったことに。
「君は、自分の目で見たものしか信じない……などという思想に取り憑かれた愚か者なのかい? だったら、君のその体で確かめてみるかい? 俺が君を二秒で殺す様をね」
「ち、違います……ぼ、僕はあなたの言うことを疑ってないし……あなたのことを甘く見てなんかいません……」
僕の口から、ようやく言葉が出た。しかし、それは言い訳にさえならなかったのだ。
「そうかな? 君は俺を甘く見ている。だから、俺を泊めさせまいとした。少なくとも、俺の立場ではそう判断するのが当然だと思うがね」
そう言いながら、ペドロは同意を求めるように僕を見る。
僕は怯えながら頷いた。頷く以外になかったのだ。
すると、ペドロは目をつぶった。そして、大きな溜息を吐く。
「君は嘘を言っているね。この部屋には、両親は入って来ないはずだ。この部屋を一目見れば、俺にはわかるんだよ。でなければ、泊めてくれなんて頼みゃしない」
ペドロの声は、ひどく冷たった。その顔には笑顔が浮かんでいる。爽やかさの欠片もない、不気味な笑顔だった。
笑顔を見せるという行為は、敵意がないことを相手に示す効果的な方法だ……と、何かの本で読んだことがある。しかし、ペドロの笑顔はまるで違う。純粋に、おかしいから笑う……あるいは、楽しいから笑う。それだけだ。そもそも、彼にとって僕は敵となり得ないのだから。
僕の方はというと、ペドロの笑顔を見た途端に体が震え出した。小さな震えが全身に伝染していき、やがて痙攣となっていた。まるで、何かに取り憑かれたかのようだ。
その時、僕はもうひとつのことに気づく。
ペドロは、僕を殺すための理由を得てしまったのた。これまでは、曲がりなりにも友だちという間柄だった。友好的な関係を結んでいたのだ。しかし今、嘘を吐いてしまったことにより……ペドロにとって僕は、自分を騙そうとした裏切り者へと変わってしまった。裏切り者はペドロにとって、殺すべき対象でしかない。
「俺はね、つまらない嘘を吐かれるのは嫌いだ。ねえ、なぜ俺に嘘を吐くんだい? 俺に嘘を吐かなくてはならない理由とは何だい? さあ、言ってみるんだ」
そう言うと、ペドロは顔を近づけてきた……僕は血も凍るような恐怖を感じつつも、彼から目を逸らすことが出来ない。まばたきさえ忘れ、ペドロと目を合わせていた。
「す、すみません。許してください……」
僕は恐怖のあまり、謝罪の言葉を口にしていた。だが、それは何の意味もなかったのだ。いや、むしろ逆効果だった。
ペドロの表情が、僅かに変化する。
「君には、失望させられっぱなしだな。まず第一に、君は俺の質問に答えていない。俺は謝罪しろ、などとは言っていないよ。次に、許してください……という言葉だが、俺にはどうにも理解し難いね。謝罪の言葉であるにもかかわらず、自分を許すことを相手に懇願している。許してくれ、とは実にふざけた言葉だと思わないかい?」
そう言いながら、呆れたような表情でかぶりを振る。いかにもコミカルな仕草だ。
僕はその時、恐怖のあまりガタガタ震えていた。にもかかわらず……言われてみればその通りだ、などと思っていた。
「哲也くん、君は非常に愚かな選択をした。君が今、この場で心がけねばならないことは何か? まず生き延びることを考えなくてはならない。目の前にいるのは、脱獄した連続殺人犯だ。しかも、君よりも遥かに人生経験が豊富な男だよ。ならば、下手な嘘を吐くことは……自らの首を絞めることになるだけだ。もっとも、今の君はあまりにも経験が足りない。俺を騙せるような嘘を吐くのは、どのみち不可能だがね」
一切の感情を交えず、淡々と語るペドロ。何を言わんとしているのか、訳がわからない。その訳のわからなさが、さらなる恐怖を生む……僕は気が狂いそうだった。
だが、ペドロの話は終わらない。
「君は今、凶悪な殺人犯と同じ部屋にいるんだよ。相手を怒らせること、それだけは避けなきゃならない。そして、俺は……いや俺に限らず、脱獄囚は嘘を吐かれるのを極端に嫌う」
ペドロはまるで講義をする教授のように、僕の目の前をゆっくり歩きながら、噛んで含めるような口調で話した。
だが、不意にその足が止まる。
「こういった場合、まずは相手を安心させることだ。そして油断を誘う。それが、こういった状況での定石というものだよ。覚えておくんだね……もっとも、君は十秒後に死ぬかもしれないから、覚えても意味ないか」
そこで突然、ペドロは言葉を止めた。次に、彼の口から出たのは──
「十」
僕は混乱した。いきなり十って何だよ意味わからねえ何なのこの人──
「九」
とりとめの無い思考だけが頭を流れる……だが、僕は唐突に悟った。ペドロは今さっき、何と言った?
「八」
十秒後に死んでいるから意味がないとか何とか言わなかったか? いや言ったよ確実に言った──
「七」
じゃあ、これはカウントダウンなのか? 僕を殺すまでのカウントダウンなのか?
「六」
これがゼロになったら、ペドロは僕を殺すのか?
「五」
どうすればいいんだ? こいつ本気か冗談かどっちなんだよ一度嘘を吐いただけで殺すのか──
「四」
わからない僕には全然わからない大体こいつは何なんだよ友だちだとか何だとか一方的に──
「三」
どうすればいい逃げるかいやでもペドロは二秒で殺せると言ってた刑務所でも一度も負けてないとも言ってた何人も殺したと──
「二」
駄目だこいつ笑ってる嬉しそうに笑ってる完璧に僕を殺す気だ何で僕がいやそんなこと言っても意味ない──
「一」
死ぬのか僕は死ぬのかこんな家で何を成すことも出来ず大した理由もないままに──
僅か十秒ほどの間に、色んな考えが頭の中を駆け巡った。だが、体の方は硬直し動けなかった。ゆっくりと数を数えるペドロを前に、何も出来ずにいたのだ。ただただ、数が減っていくのをじっと聞いているだけだった……。
すると、ペドロは口元を歪め、カウントダウンを止めた。
そして、彼の手が僕の方へと伸びてきた……。
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