一日目(1)

「すみません……靴を脱いで欲しいんですが……」




 不意に目の前に現れたペドロと名乗る怪人に対し、僕が発した言葉はあまりにも間抜けなものだった。

 あの時、なぜあんな言葉が飛び出てきたのか、未だにわからない。客観的に見れば、コントのような会話だ。いきなり現れ、自己紹介をしている国籍不明の怪人に対し、靴を脱いでくださいと頼んでいる……さぞかし、シュールな光景だったろう。

 そんな間抜けな言葉を聞いたペドロもまた、普通の神経の持ち主ではなかった。


「ああ、それもそうだな。失礼。ところで、まずはそのお盆を置いてはどうかな。疲れるだろう?」


 どう見ても、日本人ではないはずのペドロ。しかし、その口から流れてくるのは流暢な日本語である。発音もしっかりしているし、滑舌もいい。日本人である僕より、確実に聞き取りやすいものだ。

 僕は、ご飯と味噌汁とハムエッグの乗ったお盆を床に置いた。

 その上で、改めてペドロの姿を見つめる。身長は百六十センチほどで、大柄とは言えない。しかし肩幅は広く、がっちりした体格だ。腕は妙に長く、手は厳つい。

 そのゴツい手に自分の靴を持った状態で、ペドロは口を開いた。


「ねえ小岩コイワくん、ひとつ簡単なゲームをしないか?」


「えっ……ぼ、僕の名前、知ってるんですか?」


 思わず、そう言っていた。何故、ペドロは僕の名前を知っているのだろうか。


「いや、それは簡単過ぎる質問だな。家の表札を見れば書いてあるからねえ、小岩哲也コイワ テツヤくん」


 ペドロの答えは、実に簡単なものだった。少し考えれば、誰にでもわかる話ではないか。僕はなんて馬鹿なんだろう……そんなことを考えていると、ペドロはまたしても不気味な笑みを浮かべた。


「そんなことより小岩くん、いや哲也くん。ひとつゲームをしよう。俺は今から、君という人間の特徴をひとつずつ挙げていく。俺の言うことがひとつでも間違っていたら、俺の負けだ。俺は速やかに、入ってきた窓から立ち去ろう。しかし、俺の言うことが全て正解だったら、俺の言うことを聞いてもらう。どうだい?」


「そ、それ意味がわからないです。僕が勝っても、大して得しないし」


 ペドロの言葉に、僕はそう答えるのがやっとだった。すると、彼の表情が一変する。


「それはどうかな。俺をあっさり帰らせるというのは、君にとって物凄く得なことだよ。俺を帰らせるのは、君には難しいことだしね。ちなみに俺は、二秒あれば君を殺せる。嘘だと思うかい?」


 そう言うと、ペドロは真っ直ぐ僕を見た。その瞳の色は黒く、全てを呑み込んでしまいそうで、慌てて目を逸らした。ペドロは、僕など簡単に殺せる。理屈ではなく、本能が告げているのだ。

 この男は、本物の怪物だと。


「僕には、何の選択肢もないんですね。あなたの言う通りにするしか……」


 そう答える以外なかった。

 確かに、何も出来ないのだ。警察に通報しようとした瞬間、ペドロは僕を殺すだろう。大声を出しても、やはり殺す。

 残る選択肢は僕がペドロを倒す、というものしかない。だが……それこそ、もっとも愚かで馬鹿げた選択だ。僕と彼との間には、生まれたてのチワワと成長したドーベルマンくらいの戦力差があるだろう。


「いや、そうでもない。選択肢はちゃんとあるんだよ。君が気づいていないだけだ。まあ、それはいい」


 そう言うと、ペドロはベッドに腰を下ろす。さらに、隣に座るよう手招きした。

 僕は仕方なく、彼の隣に座る。

 すると、ペドロは語り出した。


「小岩哲也。身長百七十センチ体重五十五キロ。年齢は十七歳。ここ三年は外出していない。極度の運動不足。数回自殺を試みたことがあるが、その度に気持ちがくじけて失敗。女性と喋ろうとすると舌がもつれる。自分に自信が無く、人目を極度に気にする──」


「もういい!」


 思わず怒鳴りつけていた。ペドロの言うことは、全て正解だった。聞き流すことが出来ない、認めたくもない真実。そこをズバズバ言い当ててくるのだ。とても耐えられなかった。


「なんだい、もう終わりでいいの? あと二百くらいは挙げられたんだがな。まあ、いい。じゃあ、ゲームは俺の勝ちでいいね?」


 ペドロの声が聞こえた。僕は体を震わせ、彼を睨み付ける……だが、頷くことしかできなかった。事実、ペドロの言ったことは全て当たっていたのだから。

 すると、ペドロはまた笑った。爽やかさなど欠片もない、不気味としか表現の仕様がない笑顔。

 だが、その後に発せられた言葉は想像の遥か上をいくものだった。


「じゃあ、そのご飯と味噌汁とハムエッグ、俺が半分貰うから」


「はい?」


 僕は唖然となった。何を言い出すのだろうか、この怪人は……しかも、半分とは?


「いや、今さら駄目とか無しだよ。俺の勝ちだからね。じゃあ貰うよ」


 ペドロはそう言うと、床にあぐらをかいて座った。お盆を自分の方に引き寄せ、冷めきったご飯と味噌汁とハムエッグを食べ始める。器用に箸を使い、綺麗にご飯とハムエッグを二等分しつつ食べている。

 一分も経たぬうちに、僕の朝食の半分を平らげた。そして、お盆を僕の方に戻す。


「久しぶりの、日本の家庭的な食事……悪くないな。さて、君が食べ終わるまで待ってるから、さっさと食べてしまうといい」


 待ってる? 待ってどうするのだろう? そもそも、この男は何のためにここに来た?

 僕の頭に、様々な疑問が浮かんだ。だが尋ねたからといって、おいそれと答えてくれるとは思えない。

 言われるがままに、朝食を食べ始めた。冷めきっていて美味くも何ともない……はずだったが、それ以前に味を感じなかった。何せ、怪物のような男に見張られながらの食事なのだ。この状況で、美味い不味いなどといったことが考えられるはずがない。

 しかも、その後の展開はさらに理解不能なものだった。


「知ってると思うけど、俺はそこの公園のベンチで人を殺し、死体を座らせたところを君に見られた。なのに、君は警察に黙っていてくれた。俺としては、とてもありがたい話だ。そこでだ、感謝の気持ちを込めて、君と友だちになろうと思ったんだよ」


 食べ終えた僕に向かい、ペドロは唐突にこんなことを言い出したのだ。

 僕は呆気に取られていた。いったい何を言っているのだろう。感謝の気持ちがあるのなら、この家から消えて欲しい……それこそが一番の望みだ。

 しかし、そんな気持ちなど知ったことではないらしい。この時の僕は、彼のペースに完全に巻き込まれていた。

 いや、今にして思えば……この時すでに、ペドロに魅せられていたのかもしれない。僕とは真逆の存在である怪物ペドロに、惹き付けられていた気がする。


「というわけで、今日から俺と君とは友だちだ。何か質問はあるかい?」


 優先して尋ねるべきことは、他に幾らでもあったはずだ。にもかかわらず……その時、僕の頭に真っ先に思い浮かんだこと、それは──


「僕のこと、どうやって調べたんですか?」


「調べた? フフフ、俺は君のことなんか調べちゃいない。面と向かって顔を合わせたのは、今日が初めてさ」


 ペドロは、おかしそうに笑う。だが、僕には納得出来なかった。初めて会った人間の身長や体重、さらには性格や日常の暮らしぶりまでピタリと当てる……そんなことは不可能だ。

 すると、ペドロは僕の考えを見抜いたらしい。真剣な表情になった。


「まあ、こうして友だちになったわけだしね。本当のことを言うよ。俺には透視能力があるわけじゃない。単なる統計学だ」


「統計学?」


 僕が聞き返すと、ペドロは頷いた。


「そう、統計学みたいなものだ。君だって、パッと誰かの顔を見て、男か女かぐらいの判断は出来るだろう? 化粧の濃さや髪型にもよるが……大体は当てられるはずだ」


「え、ええ」


「だが、よくよく考えてみれば……それは凄い能力なんだよ。君は顔を見ただけで、犬がオスかメスかを識別出来るかい? 恐らく無理だろう。しかし人間が相手だと、ある程度は識別できる。不思議だとは思わないかい?」


「え……」


 ペドロの問いに対し、僕は答えられなかった。そもそも、何を言っているのかさえ、当時の僕にはわかっていなかった。


「要するに、人の脳には膨大なデータが入っている。君の脳にだって、これまでに会った人間のデータ全てが入っているんだよ。そのデータと照らし合わせて、目の前にいる者が男か女かを無意識のうちに、瞬時に判断しているんだ」


「は、はあ」


「それと同じことを、君と会った瞬間にやった。それだけさ。俺の脳内には、様々なタイプの人間のデータがある。見た目や仕草などのデータがね……それと君とを照らし合わせる。そうすれば、君がどんな人間なのか、統計学によって割り出せるってわけさ。もっとも、観察力と記憶力は必要だけどね」


 殺人犯である可能性が高いペドロだが、その口から出る言葉は、僕の理解を遥かに超えていた。そんな魔法みたいなことが出来るのだろうか。

 しかし、彼の説明は荒唐無稽なようで、納得できる部分もあった。僕はおずおずと口を開く。


「じゃあ、見ただけで人間のタイプを当てる……そんな、超能力みたいなことが出来るんですか?」


「ああ出来るよ。まあ、信じる信じないは君の自由だけどね」


 ペドロの言葉は淡々としていた。だが、僕にはわかる。その言葉に嘘はないのだ。

 あの悪魔のような男と過ごした一週間。彼は、嘘だけは言わなかったように思う。今となっては、それを確かめる手段はない。ただ、ニキビを潰すよりも簡単に人を殺せる怪物ペドロが、嘘をつくことに対しては強い拒否反応を示しているように思えた。

 それが何故なのか……それもまた、僕にはわからない。そもそも、僕のような凡人に彼を理解できるはずがなかった。


「他に何か質問はあるかい? せっかく友だちになれたんだ。何でも聞きなよ」


 ペドロはそう言った。僕はそこで、ようやく頭が働き始める。他にもっと聞くべきことがあったのだ。


「なぜ、あの内田って人を殺したんです?」


「内田? 内田とは、いったい誰のことだい?」


 笑顔で、そんなことを聞いてくるペドロ。僕は混乱しながらも答えた。


「あなたが昨日、殺してベンチに置いた人ですよ」


 そう言うと、ペドロは合点がいったような表情になった。


「ああ、あいつか。あいつは仕方ないんだよ。CIAの手先なんだけど、俺の周りをうろちょろして目障りだったから、ちょっとした実験をした。結果、心臓が停止してね。まあ、不幸な事故だよ」


 不気味な笑顔で、ペドロはとんでもないことを言い出した。僕の頭は、さらに混乱してくる。CIA? 実験? 何を言っているのだろう?


「でも、ニュースではそんなこと言ってなかったですよ」


「当たり前じゃないか。日本のマスコミには何も知らされていないのさ。日本にはCIAやKGBの工作員がうようよしてるし、たびたび事件も起こしている。でも、そんなことはテレビのニュースじゃ報道されないんだよ」


 そう言った後、ペドロは不意に立ち上がった。ベランダに通じる出窓の方に歩いて行く。一瞬、引き上げてくれるのだろうか……と期待したが、ペドロは立ち止まった。


「一般市民に知らされていない事実は無数にある。例えば一月前、アメリカの重警備刑務所を脱獄した殺人犯がいた。そいつは少なくとも七人の人間を殺害し、司法取引により終身刑となった非常に危険な男だ。そんな危険な要注意人物がアメリカを脱出し、日本に渡ったんだよ。にもかかわらず、日本のマスコミはおろか、警察にさえ知らされていない」


「そ、そんなの……本当……ですか……」


「ああ、本当だよ。ちなみに、そいつの名はペドロ・クドウ。日本人の武術家の父とメキシコ人の母との間に生まれ、日本人の女と結婚して、クドウの姓に変えた。その後はメキシコに戻り一児の父となったが、メキシカン・マフィアと揉めることとなった。結果、ひとつの街をまるごと焼け野原に変えた挙げ句にアメリカに逃亡。その後、アメリカで七人を殺害した容疑で逮捕された」


 そこまで話すと、ペドロは言葉を止めた。大げさな表情を作り、呆れたように首を振って見せる。


「なあ、こんな危険な男が日本に逃げ込んでいるんだよ? しかも、そいつは日本でも人を殺した挙げ句、君の目の前にいる。日本国民に危機が迫っているというのに、アメリカのお偉方はだんまりを決め込んでいる。嘆かわしい話だと思わないかい、哲也くん?」




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