悪魔と過ごした一週間
板倉恭司
出合い
悪魔というものが実際に存在せず、人間の想像の産物であるならば、悪魔は人間そっくりの姿をしているに違いない。
誰の言ったセリフだったろうか。僕はもう覚えていない。わかるのは、このセリフが真実だということだ。悪魔は本当に存在する。そいつは、人の形をしてはいる。ただし、その思考や行動は凡人には想像もつかないものだ。他人を地獄に突き落とし、振り返りもせずに立ち去って行く。この世に、害毒を撒き散らすためにのみ存在している……そんな人間が、実際にいるのだ。
何故、そんなことが言えるかって?
僕は実際に、悪魔を見たのだ。
そして、悪魔に触れてしまった──
・・・
当時の僕と、外の世界を繋いでいた数少ないアイテムのひとつ……それが双眼鏡だ。
僕は双眼鏡を手に、二階にある自室の窓から外を見る。見知らぬ者たちが蟻のようにあちこち移動するさまを、文字通りの上から目線で眺め、歪んだ優越感に浸る。それが、僕の密かな趣味だったのだ。
いじめが原因で引きこもり、世間と隔絶した生活を送っていた。未来は閉ざされていたし、将来には夢も希望も持てなかった。僕に出来ることは、ただ薄暗く狭い部屋の中にこもり、世の中を呪うことだけだったのだ。
その日も、僕は双眼鏡を手にしていた。窓を少しだけ開けて、外の様子を見る。
いつもと、ほとんど変わらない風景であった。時間は午後二時であり、この時間帯だと人通りもほとんどない。昼間の住宅地というのは、意外と人通りが少ないのだ。歩いている者といえば、主婦か営業マンか僕のような無職のニートくらいのものだろう。もっとも僕は、ここ数年ほど外出したことなどなかった。
やがて、家の近くにある公園に観察の対象を変える。その公園は、家から歩いて五分ほどの距離にあるのだ。とはいえ、公園では大したものが見られるわけではない。たまにベンチでいちゃついているカップルや、悪さをしているチンピラを見かけることがあるくらいだ。
しかし、今日は妙なものが目に入った。
ふたりの男が、並んでベンチに座っていた。ひとりは、眼鏡をかけたサラリーマン風の男だ。年齢は二十代半ばくらいだろうか。これといって特徴はなく、平凡な男に見える。ただ、妙な点があった。全く身動きせず、首だけをうつむかせた姿勢で下を向き、じっと同じ所を見つめているのだ。
サラリーマンの横には、奇妙な中年男が座っていた。ここから双眼鏡で見る限り、身長はさほど大きくないし、肌の色は浅黒い。顔の造りや肌の色から判断するに、明らかに日本人ではないだろう。かといって、欧米人とも違う。見た目からは年齢を推し量れないが、若くないのは確かだ。
何よりの特徴は、全身から野獣のような雰囲気を漂わせていることだ。いや、厳密には野獣とも違う。得体の知れない妖怪、それとも宇宙人か。当時の僕では、その中年男を例える上手い言葉を思い付かなかっただろう。
いや、それは今も変わりない──
好奇心の命ずるまま、ふたりの動向を観察していた時だった。不意に、その中年男が顔を上げた。僕の方を、真っ直ぐ見つめる。
双眼鏡越しに、中年男と目が合った。同時に、向こうはニヤリと笑う。
次の瞬間、背筋に冷たいものが走った。
あいつは、僕を見てるんじゃないのか?
次の瞬間、慌てて窓を閉め部屋の奥に引っ込む。
気がつくと、額に汗が滲んでいた。得体の知れない恐怖を感じ、体はがたがた震えている。僕の人生において初めての体験だ。
自分でも、なぜ怯えているのかわからなかった。ただ、外にいる男と双眼鏡越しに目が合っただけだ。にもかかわらず、理解不能な恐怖に襲われていた。
気のせいだ、と自分に言い聞かせた。たまたま外の男と目が合っただけだ。それも双眼鏡越しに。
何の意味もない。
今になって当時を振り返ると、僕の不可解な反応は極めて自然なものだったと思う。
人間には、理屈では説明できない不思議な能力がある。熟練の刑事は、通りを歩いている大勢の人の中から指名手配犯を見つけ出すことが出来るという話を聞いたことがある。逆にプロの犯罪者は、人混みの中から私服警官を発見できると聞いたこともある。
いずれのケースも、ひとつの仕事にずっと打ち込んだ結果、第六感のようなものが身に付いたのだと思う。刑事の勘、あるいは犯罪者の勘。それらは、決してオカルト的なものではない。科学的に、ちゃんと説明が付けられるものなのだろう。
当時の僕が感じた恐怖だが、今なら説明が出来る。
捕食者を前にした、獣の感じる恐怖。たぶん、それが一番近いだろう。そう、かつて獣だった時代にDNAに刷り込まれた恐怖……それを感じたのだ。
その後、テレビを観たりゲームをしたりして時間を過ごした。先ほど見たものから、意識を逸らそうとしていたのだ。
そして数時間が経過した後、僕はもう一度、双眼鏡を手にした。怖いもの見たさ、という心境だろうか。恐怖を感じながらも、同時に沸き立つような好奇心を押さえられなかったのだ。窓を少し開け、公園を眺めて見る。
途端に、愕然となった──
ベンチには、まだ若い男が座っていた。数時間前に見た時と、まったく同じ姿勢なのだ。背筋を伸ばし、首だけをうつむかせたような格好で、じっと下を向いている。
あの不気味な中年男の姿は消えていた。だが、異様なことに変わりはない。いったい何が起きているのだろう。
その時……妙な考えが頭を掠める。
あいつ、死んでいるんじゃないのか?
しかし、すぐにその考えを打ち消す。考えるのも馬鹿馬鹿しい。自分が何を見たというのだ? あのサラリーマン風の男が殺された場面を見たわけではない。ただ、ずっと同じベンチに座っているだけだ。
いや、何時間も同じベンチに座っているんだぞ。異常だろうが?
ちょっと待て。その前提自体が間違っているのかもしれないじゃないか。初めにあの男を見たのは、午後二時ごろだ。そして今は午後七時を少し過ぎている。約五時間が経過しているのだ。その間、あの男は一歩も動いていないのか? 動いていないのを、僕は見たのか?
いや、見てはいない。
僕は、何も見てはいないのだ。
あのサラリーマン風の男は、ひょっとしたら先ほどまで仕事をしていたのかもしれない。偶然、午後二時と午後七時に公園のベンチに座っていた……ただ、それだけのことだ。今に立ち上がり、歩き出すだろう。そして彼は、普段の生活へと戻っていくのだ。
自問自答の末、そう考えて自分を納得させることにした。
その後、男は移動しなかった。
彼は、ずっとベンチに座っていた。まるで、僕を見張っているかのようだ。その間、僕は何度も双眼鏡を手にして男を見た。しかし、全く動かないのだ。街灯の明かりの下、ずっとベンチに座り続けていた。
僕は、どうすればいいのかわからなかった。気がつくと、双眼鏡を手に男の様子を窺った。それを、何度も繰り返していた。
内心では、男が立ち去っていることに期待していたのだが、男は動かなかった。
そして、彼もまた僕を見つめていた。その視線は、下を向いている。だが、男の存在そのものが、僕の心の奥底にある何かを見つめている。
心の奥底に潜むものを──
気がつくと、机に突っ伏したまま眠っていた。時計を見ると、既に十一時である。最後にあの男を見たのは、確か午前四時だった。
寝起きの頭で、ぼんやりと考えた。最後にあの男の姿を見てから、七時間が経過している。最初に見てからのトータルで考えると……二十時間以上だ。もし、あの男がまだいるとするならば……死体となっている可能性大だ。
その場合、僕はどうしたらいいのだろう?
色んな考えが、頭の中を駆け巡る。僕は双眼鏡を手に、窓のそばに行ってみた。
しかし、双眼鏡は必要なかった。肉眼でもはっきりと見える。制服を着た大勢の人間が公園に集まり、テレビドラマや映画でしか観たことのないような作業をしているのだ。写真を撮ったり、あちこちの草むらを調べたり、通行人から話を聞いたりしている。
間違いない。何かがあったのだ。
その何かとは……考えるまでもなかったし、考えたくもなかった。
僕は慎重に、窓を少しだけ開けた。双眼鏡を手に、公園の様子を覗き見る。
サラリーマン風の男の姿は、ベンチから消えていた。代わりに、スーツ姿の数人の男たちと制服姿の男たちが、ベンチの周辺に集まっている。スーツ姿の男たちは何やら話し合い、制服姿の男たちは妙な作業をしていた。これが、警察の現場検証というやつだろうか。
さらに公園の周辺では、警察官たちが野次馬の整理に当たっている。とは言っても、数人の奥さん連中が集まり、物珍しそうに刑事たちの行動を眺めているだけだ。
テレビのニュースによると、真幌公園のベンチで亡くなっていたのは会社員の内田哲平さん二十九歳、らしい。散歩に来ていた近所の老人たちが、朝からスーツ姿のまま身動きせずに下を向いている男を不審に思った。話しかけてみたところ、何も反応がない。
そのうち、度胸のあるひとりの老人が男に触れた。いや、触れたというよりは……自分たちの言葉を無視されたのだと思い、カッとなって強く押したのではないだろうか。
すると、男は倒れる。その時点で、ようやく老人たちは目の前にあるものが何であるか理解した。
内田の死因は心臓発作、とのことだ。死後、約一日が経過していたと見られている……とアナウンサーは言っていた。警察は病死の可能性が高い、と見ているらしい。
最後に、何故もっと早く気づかなかったのでしょうか、などとコメンテーターが言った。そして都会に生きる人間の冷たさを皮肉るような締めの言葉が司会者から発せられた後、話題は次のニュースへと移っていった。
そんなはず、ないだろうが──
ニュースを見ながら、僕は思わず笑ってしまった。そんな簡単な話であるはずがない。僕は見たのだ。
死体の横にいた中年男は、本当に不気味だった。彼が何者かはわからない。しかし、ひとつだけ断言できることがある。僕たち一般人とは、完全に違う世界に生きている人間なのだ。これは理屈ではないが、自信を持って言える。あいつは本当に、何のためらいもなく人を殺せるだろう。
そんな危険な人間が、何の理由もなく偶然に、心臓発作を起こして死んだ男のそばにいた……有り得ない話だ。
間違いない。あいつが殺したのだ。
気が付くと、中年男の姿を頭の中に思い描いていた。国籍不明の浅黒い顔が、不意にこちらを向く。まるで、こちらの双眼鏡越しの視線に気づいたかのようだった。
しかも、双眼鏡越しに僕の目を見ながら、とても嬉しそうに笑っていた……ニヤリ、と。明らかに僕に気づいていたのだ。
そこまで思い出した時、僕はある事実に思い当たった。
僕は、あいつに顔を見られたんじゃないか?
少なくとも、あいつは僕が見ていることに気づいていた……。
なら、あいつは僕を殺しに来るかもしれない。
そう、僕は目撃者なのだ。あの中年男にとって、目撃者の存在は邪魔なはず。となると、僕を殺して永遠に口を塞ごう、と考えるかもしれない。
いや、かもしれないではない。殺人犯にとっては、ごく当たり前の選択なのではないか?
僕は考えたが、どうすればいいのかわからない。やはり、警察に通報するのが無難な選択だろう。しかし通報したところで、取り合ってもらえないのではないか?
客観的に見れば、心臓発作で死体となっていた内田と同じベンチに誰かが座っていた……その場面を見ただけなのだ。実際、内田が死んでいることに誰も気づかなかったのだし。
あの中年男のことを話したとしても、内田が死体だと気づかなかった大勢の人間の中のひとり、という扱いで終わりだ。
どうすればいいんだろう?
気がつくと、数時間が経過していた。頭の中を、愚にもつかない考えが堂々巡りしている。このままでは、何の結論も出ないだろう。
ふと、空腹を感じた。考えてみれば、起きてから何も食べていない。朝食を乗せたお盆が、扉の横に置かれているはずだ。僕は立ち上がり、部屋の扉の方へと歩いた。
お盆を両手で持ち上げ、向きを変えて部屋に入っていく。
だが、その瞬間……僕の全身は硬直し、そのまま動きを止めた。
部屋の中に、あの中年男が立っているのだ。ベランダに通じる出窓が開かれ、外からのかすかな音が聞こえている。その出窓の前で中年男は立っていた。汚い作業着のような服を着て帽子を被り、靴を履いたままで部屋の中にいた。
彼は居住者のごとき態度で室内に入り、僕を見ている。髪の毛から爪先まで、じっくりと。
僕の方は硬直したままだった。あまりにも異常な事態に、頭も体も反応が出来なかったのだ。
突然、中年男はニヤリと笑う。次の瞬間、流暢な日本語で喋り始めた。
「やあ、はじめまして。俺の名はペドロだ。よろしくね」
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