巫女の継承者

平床梨

第1話 出会い

「エイ、これで私たちずっと一緒だね」

 彼女は嬉しそうに、俺の胸に顔を寄せ、腰に腕を回した。白くて柔らかい彼女の非力な腕は、一人で生きていくには余りにも弱く、脆かった。抱きしめるというには、優しすぎた。

 けれども、俺はその腕を振りほどくことが、どうしてもできなかった。

 もしも俺か彼女があの場にいなかったら、もしも俺が彼女と真剣に向き合っていなかったら、もしも一度でも彼女を拒絶してしまっていたら、今俺と彼女はここにはいなくて、お互いに別の人と一緒にいたかもしれない。

 でもその人は八十億分の一の確率で出会っただけで、特別とは言い難い。

 周りを批判したいわけじゃない。でも多分彼女も同じことを言うと思う。

 今、俺たちが一緒にいる幸せは、好敵手ライバルが、仲間が、家族が、そして二人がつないだ奇跡だ。

 そんな奇跡を胸に感じて、俺は彼女の甘いクリーム色をした尻尾を優しく撫でた。

「えっち」

 むっとした表情でこちらを見上げる彼女は夕焼けのせいか、恍惚として、この世の者とは思えぬほどに美しく見える。

 振り返れば俺の高校生活は、なんだかんだで色々なことがあった。些細なことから、大層なことまで。多くの問題に直面して、その度に解決して。

 この子を二度と手放したくない。ずっと抱きしめていたい。彼女への愛が、心から込み上げてくる。

 彼女を強く抱きしめると、俺を見上げる彼女の表情が、どうしたの、と言いたげな表情に変わった。

 だから、俺は彼女のその問いに、答えを告げる。

「愛してる、————」

「私も愛してる、エイ」

 俺たちは、静かに愛を確かめ合った。


     1


 入学式————この言葉は満開の桜を彷彿とさせる。これは、日本国民の総意に等しいだろう。

 だが、実際に入学式当日を満開の桜で迎えることはこの地域では不可能に近い。なにしろ地球温暖化の影響で桜の開花時期は三月の中旬にまでもつれ込む現状である。

 我々が跳ねる気持ちと共に新たな学び舎に足を踏み入れる時には、桜の花びらすら残っていない。

 ―———つまり何が言いたいのかというと、一度くらいは満開の桜に迎えられてみたかったということである。そういう、健気な願いくらい叶えてくれてもいいのではないかと各所には問いただしたい。

 桜たちもきっと、満開の花びらを携えて学生たちを迎えたいだろう。しかし彼らは否応なく咲かざるを得ないのだ。産業革命期の学者や政治家だって分かって地球温暖化を推し進めていたわけではないし、現代を生きる人々も地球温暖化の進行を必死で防ごうと努力している。

 俺はそんな当たり前の事実を心の中で反芻し、やるせない気持ちをこらえて、はげた木々が顔をのぞかせる並木道を歩いた。

 

 前方には俺と同じ制服を着た学生が多く見られる。きっと、大半がはるばる電車にでも乗ってやってきたのだろう。学校が家から徒歩数分の距離にある俺は、なんとなく優越感に浸っていた。

 すると、すぐ横を少し驚く程度の速度を出した自転車が通り過ぎた。きっと彼も新入生だ。自転車での危険な運転は甚だ遺憾ではあるが。

 今日は四月七日月曜日、県立みなみ高等学校の入学式が行われる日で、俺はその主役の一人である新高校一年生だ。とは言っても心持ちはわき役の一人である。中には我こそが、なんて言って主役に立候補するやつもいるだろうが、それは自分ではない。

 何も、"世界で一番青春な高校生活"を送りたいわけではない。ただ、三年間を終えた後、総括して楽しかったといえるような三年間にしたいとは、漠然と考える。

 それにしても、新しいクラスっていうのはどうしてこうも、広く、アウェイに感じるのだろうか。アウェイで言えば皆同じはずなのにな。

 出席番号に対応した座席表が黒板に貼り出されていたので、自分の席を確認した。

「十八番、十八番っと」

 幸運にも、席順は一列六席だったので俺の十八番は一番後ろだった。

 自分の席につき、なんとなく周りを見渡す。平均より少し早めについたようで、数人がぽつぽつと席についているだけだ。

 特に何もすることがないので教室の正面の時計を見つめていた。

 その間、続々と新たな生徒が入室、着席を繰り返していたが、クラスには依然緊張した空気が漂っている。

 その中で、また新たに入室してきたある男子生徒を見て俺の心臓はドっと跳ねた。

 中肉中背だが、なにかとスポーツ経験豊富なため筋肉質であり人当たりの良さそうなその男は座席表を確認している。

 机の列の間を堂々と通り、こちらへ向かってくる。その男が俺の声が届く範囲まで近づいてくると、俺は声をかけた。

「玄也、同じクラスだったな」

 すると、その男三谷みたに玄也げんやは驚いた顔をした。

「っわ。おー! お前も五組か永杜えいと! マジか、良かったよ。お前がいてくれて良かったよ。いやマジで」

 大きな声で喋るため、数人がこちらをちらりと見る。この男はどうしてか、いつも声がでかい。

 玄也は緊張していたことや、知り合いがいてほしかったことなどを依然大きめの声でべらべらと話す。

 互いに良かったなと言い合った後、俺はなんとなくさっきから喉の奥の方でつっかえていた言葉を吐き出したくなった。

「そんなこと言って、お前はどうせすぐに友達ができるだろ」

 今のような展開は小学生のときから幾度となく繰り返してきたが、いつもそうだ。

「んなこた分かんねえだろうが。俺だって不安なんだよ」

「いや、お前はそんなことを言っていつも俺より先に友達を作る。てか、そろそろ先生きそうだから席つけよ」

「おう、そうだな。じゃまたな」

 玄也はそう言いながら軽く手を振って自分の席の方に向かっていった。玄也の席は窓際の列の前から三番目らしい。これまた、あいつがうるさくしそうなポジションだ。 

 玄也は席に着いた途端、隣の男子生徒に声をかけて会話を始めた。ほらみろ、俺の言った通りだ。

 どうやら馬が合ったようで、お互い楽しそうに話している。

 その後、担任が入室して簡単な自己紹介がなされた。それから俺たちは体育館に移動し、入学式が始まる。移動中も一部の生徒の間では話が弾んでいたようで、その時周りの人と話をするなんて発想になかった俺は焦燥感を持つが、だからって気軽に話しかけられるわけではない。

 校長の開式の辞に続き、生徒会長の話があって、やっと終わりかと思うと今度は新一年生の総代が登壇して選手宣誓みたいなことをしている。あの人はいつの間に総代になったんだろうか。今の俺みたいな立場を縁がないって言うんだろう。こういう立場を実感することはよくあるが、その度に虚しい気分になる。

 それから、入学式は滞りなく閉式となった。

 入学式の日は授業がなく、HRの時間には今後の予定の連絡とクラス全員の自己紹介が行われるらしい。

 名前、出身中学、趣味を話すことになったので、中学生の時は陸上部に入っていたためランニングをすることが習慣となっていた俺は、趣味はランニング、と当たり障りない自己紹介をした。

 しばらくして、玄也の番が回ってきた。

「三谷玄也です。南中出身です。趣味は女の子とお話しすることです! 一年間よろしく!」

 それほど笑いが起きなかったのは、緊張感がまだ残っていたためだろう。発言がそもそも笑えないと言われては、否めないが。

 どちらにしても玄也の明るいキャラクターはクラス全体に知れ渡ることになっただろう。

 また、他のクラスメイトの発表を聞いていて今後クラスの情勢がどうなっていくのかがなんとなく分かった。個人的にはやりやすいクラスのような気がする。

 こうしてこの日の活動は終了し、俺と玄也は同じ帰路につく。

 帰り道、クラスメイトの彼がどうだとか、あの子が可愛いだとか、他愛もない話をした。

 玄也は今日の時点で既に数人と楽しそうに話をしていたためか、クラスメイトに関する情報量が俺よりも格段に多いように感じる。いくら優秀な頭を持っていようが、社会ではこういうやつが成功するのだろうかと、少し悔しい気持ちになった。


 入学二日目、早々に通常の授業日程となる。

 高校の授業はどんなものだろうかと緊張感を持ちながら臨んだが、最初の授業はほとんどがオリエンテーションで身構えは不発に終わった。

 休み時間に席が近いクラスメイトと話したが、どうにも馬が合いそうにない。これは先が思いやられる。

 四時間目は委員会と係決めの時間で、野球推薦で入学前から練習で顔を合わせていたそうな野球部三人が学級委員の役を押し付け合っていた。

 どうにも、この学校の野球部は学級委員やら代議員やらの役職に就く風潮があるらしい。

 委員会と係のどちらかには所属しないといけないらしく、なんとなく仕事が少なそうな図書委員会を選んだ。

昼食を食べ終えたのでもうじき五時間目が始まる。五、六時間目は部活動見学の時間で、担任から五時間目が始まる前に好きな部活の見学場所へ向かうよう指示が入っていた。

 特に行きたいところもないし、とりあえず陸上行ってみるか。

 陸上部の見学場所に向かっていると、玄也が後を追いかけてきたようだった。

「おーい永杜! 先に行くなよ!」

 小走りしてきたのか、突然真横に現れて少し驚いた。

「びっくりした。てか、別に約束してなかったろ」

「まあそう固えこというな」

「そういや玄也、四時間目のやつ何にした」

「体育祭実行委員。お前は図書委員だよな。そうだ確かもう一人、沢木さわきさんだったよな?」

 何やら含みのある表情でこちらを見てくる。にしても体育祭実行委員って、キャラのまんまだな、本当。

「あー、うん。そんな感じだった気がする。なに、可愛いの」

 会話の流れから考えて、沢木さんは十中八九美人なんだろうが、期待して損したくないので、あくまで平静を保った。

「みてねーの? 今日クラスで話題になってたから知ってるかと思ったわ。ま、沢木さんは可愛いっていうより美人だけどな」

 出た、可愛いっていうより美人。実際ジャンルの違いはあるし、俺も同じように言うことあるけど、人から聞くとすごい上から目線に感じる。

 というかもうそんな話するほど仲良くなってるのか、すごいな。

 俺は玄也の社交力に感心しつつ、沢木さんが美人な事実に歓喜した。

「そりゃ、ドンマイだな玄也」

 玄也はわざとらしく恨めしそうにこちらを睨む。

 そうこうしていると、陸上部の活動場所が見えてきた。そこには先輩と思しきス

ポーツウェアを着た男女と、同級生であろう、制服姿の男女が集まっている。パっと見て、部員の数だけなら部活として成り立っていそうだという印象を抱いた。

「永杜、もう集まってる! 急げ!」

 いや、まだ授業始まってない――――もう遅いか。

「遅れてすみません!」

 玄弥は勢いよく頭を下げる。

 まだ五時間目始まってないんだけどなぁと思いながらも俺は玄也と一緒に頭を下げた。

 すると、隣の方からけたけたと笑う声が聞こえた。

 この場にいる人間の配置から考えて、笑い声の主が同級生であることは、顔を上げるまでもなく分かる。

 たまにいるんだよ、先輩やら教師やらがいる場でも構わずリアクションするやつ。

 俺たちが顔を上げ、笑い声の方に顔を向けると、そこには一人の綺麗な女の子がいた。

 背丈は平均よりやや小さいくらいで、全体的には小柄だが、顔が小さくスラっとした足が際立ってスタイルが良く見える。肩にかからないほどのショートヘアが、目を細めて笑う可愛らしい表情によく合っている。

 なにより、身体の凹凸がはっきりとしていて、女性としての魅力が溢れ出ていた。

 いかん、あまりの衝撃故無意識に分析を始めてしまった。いやしかし、これは分析せざるを得ないというものではなかろうか。

 単純な話、俺はこれほど綺麗な女性をこれまでの人生で目にしたことがない。

「まだ授業はじまってないよ」

 彼女はけたけたとした笑いを少し残しながらそう言った。

「うわ、マジじゃん。ありがとな」

 玄也は持ち前のコミュ力を発揮してその女の子に対応した。

 けれども、玄也の心の動きは見て取れる。目がいつもの何倍も輝いているじゃないか。

 女の子はいえいえ、と言って玄也に笑いかけて、ついでにこちらにもちらりと笑顔を見せた。

 この子はモテるだろうなと、その場で俺は確信をする。

「はい。えっと、井部いべさん、が言ってくれた通り、まだ授業始まってないんだけど、もうすぐ始まると思うので、部活動見学今から始めます!」

 部長と思われる男の人が軽く笑いながらそう言って、その場を取り仕切った。

 どうやら、俺と玄也が来る前に簡単な自己紹介が済んでいたようで、先の可愛い女の子は井部さんと呼ばれているようだ。

 玄也を含めて何人かの新入生が、はい、と元気よく返事をする。一方で、井部さんは、意外にも声を出さず口元だけで呟く程度だった。さっき受けた印象からすると不思議である。

 かくして部活動見学が幕を開けたわけだが、その内容はそれぞれの簡単な自己紹介、普段の活動内容の説明、またその実演であった。

 新入生一同は互いにこの場で仲良くしようとする動きはなく、皆がそれぞれの連れと一緒になっている。

 よく見ると井部さんは連れがいないらしく、終始一人で見学をしていた。まあ、珍しいことでもないだろう。

「はい。陸上部の見学はこれで以上となります。興味を持ってくれたらぜひ体験入部にきてください」

 部長が言って、見学の時間は終わった。

 新入生は皆それぞれ散らばっていくので井部さんはどこへ行くのだろうと視線で追うが、すぐに見えなくなってしまった。

 六時間目がすぐに始まるので急いで土間に移動し、どこへ見学にいこうかと掲示板に貼られた部活動見学のチラシを眺めていると、興奮気味の玄也に声をかけられる。

「あの子めっちゃ可愛くなかった?」

 名前も出さずに、まるで共通認識であるかのようだ。ちなみに共通認識ではないとは言っていない。

「井部さん、だっけ。可愛かった」

「てか永杜お前、ずっとあの子見てたな。そんなに気に入ったのか」

 思わぬ指摘で、反射的に玄也の方を振り向いてしまった。

「え、そうかな」

 変に動揺したみたいになった。

「お、おう。つーか何動揺してんだよ。あの子は特別可愛かったからおかしくねーよ」

 こいつ、妙なところで鋭い。

「そうだ俺、六時間目行きたいとこあるんだけど、永杜も来る?」

 行きたいとこってどこ、と聞くのも面倒だったので、適当に返事をする。

「先行ってて。もしかしたら同じとこ行くかも」

「おっけー、じゃあな!」

 やっぱりこいつって、何かと深く考えてないんだな。

 玄也が先に移動したので、一人になった俺はもう一度掲示板を見つめる。

 土間は、部活の見学場所を追い求めた新入生でごった返しているので、耳や目から入る情報量が多く、掲示板からの情報をなかなか頭が捉えない。

 埒が明かないので、パっと面白そうだと思った登山部に行くことにした。意外と玄也がいるかもしれないとふと思った。

 結果からいうと、玄也はいなかった。

 しかし、棚から牡丹餅とはこのことか、そこには井部さんがいた。

 向こうもこちらに気付いたらしく、こちらを見て、小声で、あ、と反応したのが分かる。

 別に、特別にこの子とお近づきになりたいわけでもないので軽く会釈だけした。

 見学場所が第一会議室というので来てみたが、これはまた登山部らしからぬ場所だな。いや、きっとここまで追いやられてしまったんだろう、泣けてくる。

 その場にいる生徒は皆制服を着ていたので先輩がどれなのか判別が難しかったが、全員合わせて五人しかおらず、そういう部活なのだと理解した。

 登山部も限界状態というのか、実際にほとんど部員もいないためなかなか部活動自体の活動は少ないらしい。

 それ故話すことが少ないのか、小ぢんまりとしたテントがぽつんと設置してあった。小規模な部活内で知恵を振り絞った結果と思うと、これまた泣けてくる。

 その場にいた生徒は交代でテントの中に入っては、各々わーなりおーなり中身のないリアクションをしていた。俺も入ってみたが、入る前は割と楽しみな分、中が狭いというか、味気ないのでドっとテンションが下がって、確かに結局中身のある感想は湧かなかった。

 というかあの感じ見てると全員新入生に見えるが、だとしたらこの部活何のためにあるんだろう。

 一通りテント遊びが終わると、顧問の先生から活動内容についての説明が始まった。

 この部活に、いや順番逆やろ、とかツッコめる逸材が現れたのならば、それは南校登山部黄金期の始まりに他ならないんだけどなぁ。

 説明といっても、この場にいる人数は限られているので半ば質問大会みたいになっていた。

 それにしても、さっきから井部さんは静かだ。 

 陸上部の見学の時もそうだったが、最初の明るい印象が上書きされてしまいそうなほどに発言をしない。

 知り合いがいない場での振る舞いがその人の本質に直結するとは考えていないが、彼女の場合、初めの言動が矛盾点となる。高身長イケメンがいないと確信したらこうなるんだろうか。

 皆一通り質問は出し切ったらしく、顧問の先生もこれ以上話すことはないと言って、俺たちは授業が終わるまでこの場で自由にしていていい権利を得た。

 時間もまだあるので皆とりとめのない世間話をしている。しばらく、そんな時間が続いたが、突然、井部さんがごく自然に声をかけてきた。

「陸上と登山、どっち入るんですか?」

 これは、どちらかというと初めの井部さんだ。なんとなく、控えめのようにも感じるが。

「元々陸上のつもりだったけど、登山面白そうだったから来たって感じです。でも見た感じ、ね」

 あまり登山部関係者に聞かれて嬉しい話でもないので、少し小声にして言った。

「あー、ですよねー。私も同じです」

 井部さんは楽しそうに笑いながら、俺の小声に合わせてくれている。キュン。

 これは、なんだろう、初めの井部さんとも違う。自然な感じだ。こっちの方が個人的には好みだ。

 登山部に対する批判的な意見に共感した彼女からも、また違う一面を感じられた。

 それにしても、可愛い子相手でも意外と話せるんだな、自分。

 中学の後半は女子と会話をした記憶があまりないので、自分に感心する。

 自然と井部さんのクラスを聞きたくなったが、同時に陸上部の見学を思い出した。あの時は井部さんも含め全体的に見学会を社交場として捉えていないみたいだったし、ここでクラスなんて聞いたら見境ないやつだと思われてしまうかもしれない。

 そんな思索にふけていると、井部さんの方から声がかかった。

住田すみだ君って何組?」

 思わぬ問いに少し動揺した。なんせ、さっきまでそれをあなたに訊くかどうかについて俺の脳内では決議が行われている真っ最中だったんですよ。

 あいにく、俺は動揺を表情に出してしまったようで、さらに井部さんはそれを感じ取ったようだ。

「あれ、住田君であってます、よね」

 笑い交じりで、やはり少し焦っているみたいだ。俺が不甲斐ないばかりに、申し訳ない。

「ああ、はい、合ってます、合ってます。ただ、クラス訊かれて驚いて。僕が訊こうと思ってやめたんで」

 なんだろう、自分で言っておいて、少々甘酸っぱい。

「あー、そうなんですね。いや、なんでやめた。別にいいっしょ」

 向こうも同じ味を感じて軌道修正したのか、へらへらしながらラフに言った。もしかしたらアプローチしてると思われて、一歩引かれたのかもしれない。だったら嫌だな。

「陸上部のとき皆連れとくっついてたじゃないすか。あの感じに倣おうかなと思って」

「あー、そうですね。私もそれ気付いて、動きづらくなった」 

 早口気味で井部さんは言った。にしても、動きづらくなったとか、正直に言うんだ。俺の解釈がずれてるだろうか。

「てかさ――――」

 井部さんの声をかき消すように、チャイムが鳴った。不思議と陸上部のときよりも速く時間がたったように感じる。

「あ、終わった」

 反射的に反応を見せる彼女はやはり自然だ。このタイミングでのチャイムに自分の気持ちが少し沈んだことから、自分の本心が、彼女を知りたがっているのが分かる。井部さんの本質はつかめずじまいになるが、多くのピースを得ることができた。

「じゃあー、ばいばい」

 俺に背を向ける井部さんは、どこか寂しげに見えたが、気のせいだろうか。まさか俺ともっと話したかったなんてことあるのだろうか。ただ、気のせいじゃなくても、女子は寂しげでなんぼなところはあるから深入りはしない方がいいと、俺の理性が諭す。

 俺の教室は井部さんが歩いていく方向にあるが、曲がり角で井部さんの視界に入ったり、井部さんに追いついたりするのがなんとなく嫌だったので、あえてゆっくり歩き出す。 

 俺が角を曲がるときには、井部さんの背中は見えなくなっていた。

 

 教室へ向かっていると、見慣れた背中が階段の方から現れた。

「玄也」

 俺が呼ぶと、玄也は首だけをこちらに向けてよお、と言った。

「玄也、お前はどこ見に行ったの」

「俺はマジック研究会よ。ってお前来なかったな結局!」

 いや、どこ行くか聞いてなかったし。てかマジックって。

「もしかしたらって言ったろ。それでどんな感じだったの、マジック研究会とやらは」

「んー、いや、思ってたのとは違ったな。マジック同好会というか。マジック好きの集まりって感じだったなぁ」

 玄也は辟易したように首を横に振っていった。逆にお前はどんなマジック研究会を想像してたんだ。

「お前はどこいったのよ」

「俺は登山部」

「なんだそりゃ。——いや、意外と面白そう。てか登山部なんてあったのか! だったら俺も行ってたわー」

「ちなみに井部さんがいたぞ」

「うひゃー、ストーキングってやつですか。やめとけよー、気付かれる前に。いやもう気づかれてるかもな」

 非常に心外だ。こいつの無神経な発言は昔から変わらない。普段は腹が立っても我慢するが、良い機会だ。井部さんと仲良くお話をしたことを自慢してやろう。

 ―———いや、やっぱりやめておこう。こういうのはあえて伏せておくのがいい。変に勘違いされても困る。

「はいはい。てか今日帰りは?」

「一緒に帰ろうぜー」

 腹が立っても、なんだかんだ憎めないことに余計に腹が立つ。


「ごはんできたよー」

 リビングから母の呼び出しがかかると、俺は迅速にリビングへと向かい、食卓に着く。

 一度、勉強に集中していてなかなか机から離れられず、食卓に着くのが遅れたために母の雷が落ちたことがある。あの二の舞は食らいたくない。

 妹のれいは既に夕食に手をつけ始めていた。

 呼ばれて遅れるのはだめなのに食べ始めはバラバラでいいんだ、などと言う必要がないことはこれまでの経験で十二分に理解している。

「永杜、あんた友達できた?」

 俺が食卓に着いてから、台所で洗い物をしている母が尋ねる。

「授業は普通。友達はまだそんなに」

「エイくん友達できてないの。かわいそー」

 おそらく、これは現役十二歳の純粋なる悪意だ。

 高校生の友達と中学生の友達は違うんだよ、と言いたいところだが、これは世間的には言い訳にしか聞こえないのでやめだ。

「玲ちゃん、自分が言われて嫌なことは人に言っちゃだめよ」

 母はこういうときにありがたい。逆も然りだが。

「でも、席近い子と喋ったりはしたんでしょ?」

「うん。でも馬が合わなそうだから困ってる」

「エイくん友達いないのに学校楽しいの?」

「あら、でも玄也くんが一緒なんでしょ? 一人はいるじゃない」

「まあ、でもあいつすぐ友達作るから」

「たしかに、玄也くん人当たり良いもんねー」

 その後、しばらく母に今後の高校生活について色々質問されたが、そのほとんどにまともな回答はできなかった。彼女を作る気があるのかとか、クラスの皆は良い子なのかとか。まだ入学して二日だってのに、何が分かると思ってるんだか。

 その間、妹の玲は黙々と夕飯を食べ進めていた。さっき母に叱られてふて腐れているんだろう、間違いない。眉間にうっすらとしわが寄っているのがわかる。

「でも可愛い子がいた」

 母はこれを聞いて無性にニヤニヤと嬉しそうにしていたが、一方で玲は何やら不服そうな顔をしている。きっと、俺だけがちやほやされているようで気に入らないんだろう。

「エイくんきも!」

 玲の本日二度目の過ちを目にしてなんとなく察した俺は、その発言に不快感を覚える間もなく、ふっと顔を伏せる。

「玲ちゃん! 自分がされて嫌なことをしちゃいけませんって、さっきもいったでしょ。もう中学生なんだから、しっかりしなさい!」

 母が身を乗り出して正面に座る玲を睨みつけた。

「だって――――」

 案の定、玲はしくしくと泣き出した。にぎやかなことで何よりだ。

 しかし、父親がいたらこういう時どんな立ち回りをするんだろうと、ふと気になった。


 入学三日目、今日は初めての七時間授業だったが、残念なことに誰かしらの陰謀による記憶の干渉を受けたようで、七時間目の記憶はほとんどない。まだ授業が終わってから十分も経たないが、なんの授業だったか覚えてない。

 今は七時間目終わり、帰りのHRの前で、各々が帰りの準備にいそしんでいる。

 ところで、玄也に用があった俺はいち早く帰りの支度を済ませたわけだが、当の玄也はというと新しい友達の堀越ほりこしと談笑中で話しかけづらい。

 玄也は着実に、当然のように友達を増やして自分の陣営を広げていった。本人はそういう人生を送ってきたから当たり前なのかもしれないが、そうでない側の人間からすれば狂気の沙汰だ。

 ああいうやつの心持ちを知りたいものだ。今度訊いてみようか。まあ、俺も隣の席の新田にったくらいとは普通に話せるようにはなったけども。

「新田、明日って体育あるっけ」

「ないんじゃない?」

「おっけ。ありがとう」

 新田は、~じゃない? というような曖昧な表現をする癖がある。俺がこういう表現が苦手なのは、断定表現フェチの玄也とつるんでいるからなのだろうか。

 実際、自分自身がそういう表現をしていないと断言できるかと訊かれると、この時点で断言できない。

 そうこうしていると、玄也と堀越の談笑が一時中断したようだった。

 一時中断というのも、彼らは本当に気が合うようでTPOを弁えずよく話しており、中断はしても終了はしないからだ。

 じきにクラスの真面目っ子に告発されても弁護人は現れないだろう。

「玄也、俺今日委員会あるから先帰っといて」

 玄也の席の後ろから、玄也の肩に手をかけて言った。

「りょーかい。がんばれー」

 玄也は俺を軽く応援して、帰りの準備を始めた。


 帰りのHRで各委員会の集合場所が知らされた。今日活動があるのは図書委員と美化委員だけらしい。今から体育祭や文化祭の実行委員が話し合いを重ねるのも悪くはないと思うが。

 図書委員の集合場所は図書館だった。二人いるのに一人で行くのは野暮なので、沢木さんに声をかけることにした。

 そういえば、昨日玄也が美人らしいと言ってたな。なんでこれまで沢木さんをまともに見たことがないのか自分が不思議だ。席順同じ列なのに。

 要するに、その時が初めての対面だったわけだ。そのことに声をかける直前で気づいて若干緊張したが、失礼な話、前日に井部さんと知り合った俺は、沢木さんとのファーストコンタクトでもあまり衝撃を受けなかった。そのため、案外スムーズに声をかけられた。

 そう考えると井部さんって、クラスだとかなり騒がれているんだろうな。そう考えるとなぜかやり場のない悔しさを感じる。

 しかし、井部さんと話していなかったら沢木さんとのやりとりも大変だっただろう。それに昨日井部さんと楽に話せたのはあの少人数の状況下だからであって、今みたいなクラスの中では人の視線が気になって井部さんともまともに話せまい。

 沢木さんは一瞬戸惑ったが、図書委員の、と言うとすぐに分かってくれた。図書館に向かう途中は、図書委員の活動内容のことや、適当な世間話をした。

 図書館に着くと、まだ他の委員は集まっていないらしく、人も見当たらない。司書さんも見えないので、多分司書室にいるんだろう。

「ちょっと俺、司書室見てくる」

「あ、うん。ありがとう」

 美人の沢木さんは、一挙手一投足が上品なタイプの人で、お礼をするときもわざわざ頭を下げていた。

 司書さんに声をかけると、ロビーのベンチで待機するよう指示されたので沢木さんにも伝達してロビーに向かう。

 するとガラス張りの両開き扉が開き、女子生徒が入ってきた。これまた、かわいらしい子だ。背丈は女子にしては高めで、ボブヘアに黒のカチューシャを付けている。クラスに一人だけ熱烈なファンがいそうな感じだ。ただ、井部さんのような衝撃はなかった。

 そうだな、中の上から上の下といったところ————我に帰れ、俺。

 言っていることが失礼だし、高校入ってから女子の分析ばかりしている気がする。

 その女子は何やら辺りを見回して、何かを探しているのか、探し物が見つからないのか、あたふたしていた。おそらく、この子も図書委員なんだろう。

「すみません、もしかして図書委員?」

 訊くと、彼女は細い声で、あ、はい、と返事をする。

 その子にもロビーで待機する指示を伝えて、それから三人で、というより三人が各自で委員会の開始を待った。沢木さんと場つなぎの会話をしたものの、もう一人の女子との会話はなかった。

 次第に、委員会の面々が集まり、ようやく今日の活動が始まるようだ。

 とはいっても今日はオリエンテーションで、図書委員会の活動内容の説明だった。

 聞くと、委員会は三学年合わせて三十九クラス、各クラス二人ずつの計七十八人で構成される。活動内容は図書館の掃除と、放課後の貸出・返却の受付で、三クラスが合同で日替わりの当番となる。週替わりではなく日替わりなのは、部活に所属する生徒を考えてのことらしい。

 図書委員会の活動内容が思いの外しっかりしていて驚いた。本当に何もしなくてもいい想定だっただけに、少し面倒だが楽しみだ。

 説明が終わると委員会は解散となったので、沢木さんに簡単な挨拶だけして、土間へ向かった。

 土間で靴を履き替えていると、隣から足音とともに良い香りがしてきた。これは女子が接近してきたということで間違いないだろう。思春期の女子は数人のグループで活動することが多いため、ソロパーティーの女子と相見えることは珍しい。そのため、たった今俺のすぐ隣に現れた女子と接点を持てるようなイベントが起きないかと、上履きを靴箱に戻す数秒の間に他力本願をするが、当然そのようなイベントは起こるはずもなく、しぶしぶ帰路につく決意を固めていた。

「あ」

 背後から聞こえるきわめて基本的な一言は俺の拍動を促進するには十分だった。これは思いもよらぬイベント発生の可能性が浮上した。しかし、背後から声がしただけで振り向くほど愚かではないので、聞こえなかった、もしくは聞こえていても自分にかけられた声だと思わなかった感を演出し、その場を去ろうとした。

 これで一番残念なパターンは、その女子は俺に声をかけていたものの第一声が届かずに諦めてしまうことである。

 どうやら、答えは出ないらしい。土間を去ってから門を抜けるまで、再度声が上がることはなかった。

 まあ、これが正しい日常だ。イベントが起こらないのが当たり前で、ひとたび起こってしまえば日常が侵されてしまう。宝くじと一緒だ。

 起こりえない幻想と決別し、家に帰って何をしようかと考えていると、前方に自転車を止め信号待ちをしている女子生徒が見えた。押しボタン式の信号であることを忘れているようで、ただただぼーっと信号が青になるのを待ち続けているようだった。

 近づくと、その女子生徒は雰囲気がどことなく井部さんに似ているうような気がした。しかし、後ろ姿だけなので確信が持てない。小心者の俺は声をかけるでもなく、しれっとボタンを押した。ここで、決別したはずだったがわずかに残留していたらしい、起こりえない幻想の因子が俺の心に入り込んだのだろうか、愚かにも俺はその女子生徒の方をちらっと見てしまった。すると、ちょうど向こうもこちらを見ていたため、目が合った。

 どうやら俺の目は節穴ではなかったらしい。そこには井部さんがいた。

「あ」

「あ」

 俺と井部さんほとんど同時に同じ反応をした。

「どうも」

「あ、どうも」

 信号が青になったのでとりあえず並んで歩きだす。ここを左に曲がった方が俺の家には近いが、井部さんが俺に合わせてわざわざ自転車を降りてくれたので、俺ここ左だから、とも言い出せず、とりあえず井部さんと同じ方向へ進む。公園の中を歩いていくようだ。

「さっき土間にいました?」

「うん、多分」

「やっぱそうだったんだ。見たことある人がいた気がして」

 さっきの声の正体は井部さんだったらしい。流石にまだ声だけで判断はできなかった。

 ちなみに、昨日登山部の見学で最後に何かを言いそびれませんでしたか、と訊くことはできないよ。向こうが覚えてなかった場合のリスクが大きいからな。

「てか、押しボタン式なの忘れてたわー。恥ず」

 井部さんは柔和な笑顔を浮かべる。

「何してんだろうと思ったよ。スマホ見てるとかならまだしも」

「ほんとね。マジで何も考えてなかった」

 井部さんは前の方を向いて、前髪を分ける仕草をする。

「そういや井部さん、結局何組なの」

「私は六組だよ。住田君は?」

 流れで井部さんと呼んでしまったが、向こうも名前を覚えてくれていたようで、助かった。

「えー、隣じゃん。俺五組」 

「マジかよ。隣の教室にいたんだ」

 けたけたと笑う。初めて井部さんを見た時と同じ笑顔のようで、少し違うようでもあった。

「えー、じゃあ暇なら喋りに行こうかな」

「暇なことあんの、井部さん」

「え、全然あるよ。暇だなーって思うとき、休み時間で。てか逆になんでないと思った」

 井部さんが俺がこれまで見た女子の中で一番綺麗で、クラスでは引っ張りだこだろうと思ったから、というのが本音だが、言えない。しかし確かに、可愛いからといって必ずしも友達が多いとも限らないのか。

「んー、なんとなく。友達多そうだと思った」

「なんで? あ、わかった。可愛いからでしょ」

 あははと笑って、冗談冗談、と茶化す。冗談なのか、本当に。というか、井部さんがどんな人とつるんでいるのか知らないまま話してしまっているが、ヤンキー集団の一員とかじゃないだろうな。

「なんでかは分からん。でも俺も暇なこと多いから来てもいいよ」

「来てもいいって、上から」

 井部さんはけたけたと笑う。確かに、言われてみればそうだ。

「というか、井部さんは部活決めたの」

「陸上やってみようかなーって思ってる。体力つけたいし」

「そっか。まー陸上やってりゃ体力つくよ」

「住田君は陸上やってたの?」

「うん。中学のとき」

 井部さんはこちらが気持ち良くなるくらい興味ありげな表情をする。

「へえー。じゃあー、住田君今日から私の師匠ね」

 嬉しそうにこちらの顔を見上げる仕草が愛らしく、危うく惚れそうになる。

「なにそれ。じゃ、俺ここ左だから。またね」

「はーい。また部活でねー」

 部活体験は来週の月曜日からなので、少なくともそれまでにうちのクラスに遊びに来ることはないってことになるんだろうか。ちょっと本気にした自分を殴りたい。個人的に良い感じの空気感で話せたような気がしたからほんの少し間に受けてしまったのだろうけど、俺がそうだからって向こうも同じなわけではない。

 しかし、今日は敬語を使わなかったがこれは親密度が上がったってことなんだろうか。

 ようやく俺の高校生活楽しくなってきたかもな。一人の女子と喋っただけだが、俺の心は躍っていた。改めて、家に帰って何をしようかと、さっきよりも弾んだ気分で考えた。

 

 今日は四月十四日。高校に入ってから初めての土日はなかなか休まった気がしなかった。

 今後の高校生活が特段不安というわけでもないし、隣の席の新田とは結構楽に話せるようになって、悪くない日々を過ごしている気はする。ただ、今後自分の身に起こるかもしれない事象に関する思索活動(妄想)をしていると、学校にいるよりも体力を使った。

 今日から二週間、部活動の体験入部期間となる。この二週間のうちは入部届なしに好きな部活に参加できるという、結構なイベントだ。

 俺は見学にも行った陸上部に体験入部することを決めていた。うちの陸上部は弱小なので、軽い運動に丁度いいだろう。

 

 今日で入学して一週間になるわけだが、ようやく午後の授業の長閑さを心から楽しめるようになってきた。初めは緊張感を持って授業を受けていたが、それほど内容が難解なわけでもないので段々緊張感が薄れて、今現在少し気を緩めれば眠りに落ちそうだ。

 玄也を陸上部の体験に行かないかと誘ったが、意外にも乗り気ではなかった。放課後はバイトでお小遣いをためたいらしい。

 帰りのHRが終わり、生徒が続々と教室を出ていく。俺も行こうと思ったが、そういえば着替え場所を知らされていなかったので行く当てがない。そのためとりあえず活動場所に行くことにした。

 この学校の体育館は外から階段を登って出入りできるようになっているが、その階段下に空いたスペースがが陸上部の主な活動場所だ。かなり狭いが、部員数も大して多くないので特に不都合はないらしい。健気だと思う。

 体育館下の駐車場を抜けて活動場所へと向かうと見覚えのある女子生徒がそこにいた。

 井部さんだ。どうやら彼女も今日、陸上部に体験入部をするらしい。

 俺が声をかけるより先に井部さんがこちらに気付いて、小走りで寄ってきた。

「あ、住田君。数日ぶり。住田君も今日から体験?」

「うん。井部さんも?」

「そう。でもどこで着替えるのか分かんなくて、とりあえずここで待ってたんだけど、住田君分かる?」

「分からん。俺も同じ境遇」

 井部さんは控えめな声量でそっか、といって先輩を探すようにグラウンドの方に視線をやった。

 先週、なし崩し的とはいえども途中まで一緒に帰った事実が嘘かのように、あの帰り道の空気と今の空気は、まるで別物だった。

 井部さんは、どちらかといえば不安そうな表情だ。今この場にいて彼女に安心感を持たせるのは俺ではなく先輩であるという、至極当然な事実がやけに切なく感じた。

 それにしても、井部さんが陸上部に入ろうとしていることが少し不思議に感じる。膝よりやや高めのスカートの裾から下に見える、色が薄く、綺麗なふくらはぎは確かに筋肉質だった。しかし、彼女の印象と陸上競技がどうにも合致しない。体力をつけるだけなら、他にもいろんな部活がある。

 俺はあくまで自然に、たった今思い立ったかのように質問を投げかけることにした。

「そういえば井部さんは陸上やってたの」

「え、全然やってない。言わなかった?」

「そうだっけ」

 井部さんとまともに話したのはほとんどあの帰り道だけだから、井部さんの記憶にもあの時のことがしっかり残っていることがわかって、少し嬉しかった。

 その反面、井部さんが陸上をやってなかった事実を俺は直接聞いていないから、誰かと間違えてるのかと気持ちがぐらつく。

 でも確かに、そんな感じのことは言っていたような。

 じゃあどうして、と尋ねるより先に、俺の視界に見覚えのある、スポーツウェアを身に着けた人の姿がうつる。

「あ、先輩だ」

 井部さんも気が付いたようで、例のように小走りでそちらに向かっていった。暗い階段下に残された俺は、また同じ切なさを感じる。

 先輩と話す井部さんは、部活動見学で初めて見た時の井部さんだった。一言でいえば、あざとい。接する側の人間には、明るく積極的で、典型的なヒロインのような少女に見えるだろう。実際俺もそうだった。しかし、俺と話すときの井部さんは落ち着いた雰囲気で、ほどよく笑顔を節約しているような印象があった。俺は、そんな井部さんに少し惹かれていた。

 だからこそ、先輩にあざとく話しかける井部さんの姿を見て、わずかな切なさを持った。

 話が終わったようで、井部さんはまたも小走りでこちらへ向かってくる。

そら先輩が部室案内してくれるって! 男子はあの部室らしいよ!」

 空先輩ってのは、確かあの部長さんだったか。

 井部さんは明るく必要事項を伝達してくれた。その時の井部さんは、先輩と話した勢いを保った井部さんだった。

 俺は井部さんと付き合ってるわけでもないし、親しいわけでもない。増して、まともに話をしたのはたったの一回だ。

 それなのにまるで、付き合ってる彼女から、自分でも彼女本人でもない誰かの匂いがしたかのような、複雑な気持ちになった。

 とはいっても、俺と井部さんの親密度はニアリーイコールゼロ。俺自身もそれを理解しているため、そんな気持ちはほんの一時で消え去る。

 井部さんに軽くお礼を言って、先輩に挨拶をして、部室へ案内してもらった。

 その後、新たに男子二名、女子一名が体験入部に参加しに来たが、見学で見かけた人でもなければクラスメイトでもなかったため、見覚えはない。

 そのためお互い自己紹介をすることになった。新たに来た三人のうち、唯一の女子である多良たらさんは陸上経験はないが陸上の試合を見るのが好きらしい珍しいタイプの人で、好きな陸上選手の話題で少し盛り上がった。

 普段の練習は各競技ブロックに分けて行われるが、俺以外の体験部員は陸上の経験がなかったため、今回に限って部長と一緒に基本動作の練習と、軽いジョグをするそうだ。それが決まったとき井部さんが、住田君は他の先輩たちの方行きなよ、と言ってきたが、流石に初回くらいは他の部員と仲良くしておきたいので丁重にお断りした。

 こうして高校で初めての部活動が始まった。


 まず初めに体幹補強トレーニングを行った。部活は去年の夏に引退したので久々の筋トレで緊張したが、中学の時にやってた補強よりも強度が低かったので楽にできた。

 井部さんを含めて他の一年生たちは皆運動経験はあるそうだが、本格的な補強トレーニングは初めてだったそうで苦しそうにしている。

 俺は一足先にメニューを終えたが、部長やほかの一年生はそれに驚いたようで、各々がリアクションをとっている。一方で井部さんは一人、見向きせずトレーニングを続けているみたいだ。ルックスが良いからか、とても様になっている。

 ドリルでも、初心者には難しい動きを悠々とこなす俺を見て皆感嘆していた。井部さんはというと、すごいねー、とは言いつつも、まあ練習すれば誰でもできるんでしょ、と微妙な反応。今日の井部さんはなんだか癪に障る。これも新たな一面か。

 続いて、ジョグに移った。本練習は学校近くの公園にある球技場の周りを使っているそうで、今日もそこへ行く。部長は三十分間ジョグを提案したが、一年たちがごねたため、二十分間となった。部長、井部さん、一年男子二人、俺と多良さんの順で並んでいる。

「皆、専門何にしたいか決めた?」

 部長は爽やかな短髪を揺らして走りながら一年生たちに聞いた。一年生のことを考えて、かなりスローペースで走ってくれている。

 一年たちは各々、中距離だの、短距離だの、好き好きに自分が興味をひかれた種目とその理由を言い合っていた。

「空先輩の専門はなんですか?」

 さっきから部長の後ろをくっついて走っていた井部さんが部長の横に出て尋ねる。今日の井部さんは所々を除いてあざとい井部さんだ。

「僕の専門は一〇〇メートル」

「えー、じゃあ空先輩足速いんですねー。私、足速い人ってほんとにすごいと思うんですよ」

「そうかな。どの辺が?」

 部長は満更でもなさそうな笑みを浮かべる。可愛い後輩に都合の良い褒められ方をして、今部長はさぞかし楽しかろう。

「え、だってすごくないですか? 本当に足速い人見ると、ここまで人の能力って違うんだって思うというか」

 やっぱり、あざとい。人はそれぞれ違った感性を持つことは重々理解しているが、そのうえで、足が速いことをこれほどに持ち上げる感性は俺にはいささか理解しがたいのだ。だから、部長と話す井部さんは、はりきって媚びを売っているように見える。

「なるほどね。井部さんは短距離専門にするの?」

「まだ考え中です。でも短距離だと空先輩と一緒ですもんねー」

「なにそれ、嫌なの」

 部長は相変わらず爽やかな笑顔を浮かべて、分かり切ったことを聞く。今の言い方は明らかに嫌じゃない方の言い方だろう。そもそもまともに話したのが今日で初めてで人間性も深く知らないのに、あんたみたいな爽やかイケメンを誰が嫌がるってんだ。

 井部さんは、どっちだと思いますか、とあざとく返す。

 まあ、よろしくやってるようで良かったよ。

 井部さんがペースを乱しているのか、部長と井部さんは後ろの俺たちよりもスピードが速いようで、少しずつ距離が空いて、次第に二人の話し声も聞こえなくなった。

「住田君は専門何? 陸上経験あるんでしょ?」

 多良さんの俺に対する問いかけを合図に、俺の前を走っていた二人の一年男子が同時にこちらを向いた。

「俺は八〇〇メートル。皆は?」

「うちら住田君の意見訊こうと思ってさ」

「あー、そゆこと。何が訊きたいの」

「短距離と中距離どっちがキツいとかあるんスか」

 確か彼は渡辺わたなべ君だ。

 一緒に来た西野にしの君は彼のクラスメイトだそう。さっきからその二人と多良さんを含めた三人は専門種目の話で盛り上がっていた。

「まあ、普通にどっちも練習は大変だよ。でも距離が長い種目ほど一個の練習メニューにかける時間は長くなるし、距離が短いほど時間は短いけどスピードが上がるって感じ。やっぱり身体に合う種目が良かったりする」

 三人は分かりやすく相槌を打ちながら話を聞いてくれた。他にも経験者からすると易しい質問をしてきたので、それぞれ丁寧に回答してあげた。これまで陸上のことを人に教える機会がなかったので、少し楽しかった。

 すると、さっきまで部長と楽しそうに話していた井部さんが疲れたのかスピードを落として後ろに落ちてきた。一年が固まっている辺りにきたところで減速を止めたので、おそらく仲間に入りたいのだろう。渡辺君と西野君もいいやつで、さっきまで一年そっちのけで部長にうつつを抜かしていたことなど気にも留めず、井部さんにも同じ話題を振っていた。

 渡辺君たちとの会話が落ち着いたのか、今度は最後尾に走る俺と多良さんのところまで落ちてきて、多良さんに声をかけていた。ガールズトークを盗み聞くのも悪いので、前に走る男子二人に追いつくことにした。

 その後、二十分が経過したのでジョグは終了となった。部長は他の先輩方と合流して練習をするとのことで、一年は先に帰ることになった。

 公園から帰る途中で学校の外周を野球部やらテニス部やらが走っていて、目標は甲子園なのか、インターハイなのかは知らないが志が高いようで何よりだ。

 時刻はわからないが、空が少し赤みがかっているので十八時前頃だろうか。まだ慣れないメンバーと歩く中で、他の三人より二日分くらい付き合いが長い井部さんに、少し安心感を抱く。

 学校に着いて顧問の先生がいなければそのまま帰っていいとのことだったので、男女別れて部室に向かうことになった。

 女子がいなくなったら、井部さんが可愛いとか、多良さんの愛想が良いとか批評の時間に入ることを想定していたが、意外にも渡辺君と西野君は真面目らしく、そういう話題は上がらなかった。

 聞くと二人は中学校の同級生で、二人とも野球をやめたので陸上を始めることにしたそうだ。何かと俺にも話を振ってくれるので自然と楽に過ごすことができた。

 着替えが終わって門の方に向かう途中、二人は自転車で登下校してるそうなので自転車置き場を経由した。入学してから初めて来るが、高校生感あっていいな。中学は自転車登校できなかったからな。

 門に着いたところで渡辺君がラインを交換したがったので、二人のQRコードを読み取って、友達追加をして、渡辺君と西野君がラインの友達に加わった。

 二人とも本名を漢字で登録していて、日本男児らしい。ローマ字のフルネームで登録しているのがなぜが少し恥ずかしく感じる。武士道の名残だろうか。

 二人とは帰る方向が真逆なので解散して、俺は公園の方へ向かった。


 前、井部さんと遭遇したところの信号を待っていると後ろから声がかかる。

「住田っちお疲れ」

 後ろを向くと、そこには既に自転車を降りて立っている井部さんがいた。

「あ、井部さん。お疲れ。多良さんは?」

「香澄ちゃん教室に忘れ物したって」

「へー。てかついていかないんだね」

「まあ。てか今日疲れた」

「結構ゆっくりだったけど」

「私は疲れた。てか専門種目どうしよっかな。住田君は専門なんなんだっけ」

「俺は八〇〇メートル」

「それって長距離? えー、でも部長短距離って言ってたもんなー」

「じゃあ短距離にすれば」

「んー。てか空先輩さ――――」

 この後、井部さんは延々と部長トークを続けた。今日初めて会ったばかりだってのによくもまあそうすらすらと感想が出てくるもんだ。

 俺の場合、出会ってから時間置かないと初対面の人の印象ってわかないんだよな。人によって違うのかなあ。

 しかし、これほどまでに相槌を繰り返す経験は初めてだ。新たな世界に片足を踏み入れていることを実感する。

「ほんじゃ、またな」

 例の通りここを左に曲がったところが家なので、ここで解散となる。

「あ、待って」

 左に曲がろうとすると井部さんの呼びかけによって遮られた。

「ラインやってるよね」

「うん」

「じゃあ、これ」

 そういうと井部さんはQRコードが映った画面を示してきたので、意図を理解する。そして、”璃衣りい”が友達に追加された。

「おっけー。じゃ、また明日ね」

 さっき、俺がじゃあねと言って別れようとしたとき、井部さんは微妙な表情をしていた気がした。それから、たった今の満足げな表情を見て、この子は俺にラインのことで声をかけるタイミングを伺っていたのだろうかと、気持ち悪い勘繰りをしてしまう。しかし、これは井部さんが可愛いからであって仕方ない。

 部活中のかすかな切なさや、部長トークに義務相槌をしていた時の虚無感が嘘かのように、すぐそこに見える我が家に向かって歩く気分は高揚していた。

 家に着いて一息ついてから妙な違和感があったが、家に帰ってから何をするかの計画を立て損ねたことが原因らしい。中学の頃から、家で何をするかの計画立てはその日の昼下がりから入念に行ってきたもんだからな。

 夕飯を食べ終え自分の部屋でスマホを見ていると、俺の拍動を急速に促進させることが起こった。

『おつ』

 たった一通で、大した意味もないメッセージだが、”璃衣”からのラインは俺の全身に緊張感を持たせることにおいて非常に優秀であることが発覚する。

『おつ』

 会話を断ち切るというか、続けたくないわけではなかったが、なんとなく俺が話題を振らなくても向こうから何かしら来そうだと思ったので井部さんのオウム返しをした。

 俺の勘は的中したらしく、俺がトーク画面を閉じる間もなく既読がついて新しいメッセージが送信された。

『明日って部活あるよね?』

 なんだその、なにかしら話したいだけみたいなライン。俺のこと好きなじゃないかって一パーセントでも本気で思ってしまうのが本当に悔しい。思わせぶりなやつなんていくらでもいるし、そもそも俺が勝手に偏った解釈してるだけかもしれないのにだ。しかもまあ、誰とでもずっとライン上で会話し続けるやつとかいるしな。井部さんがそっちの類の人だったら少し残念だけど。

『聞いてないけどあるんじゃないの。多良さんとかに聞いた?』

『聞いてない。聞いてみよーーー』

 しかも多良さんより先に俺かよ。本当なんなんだこの人。本当変なムーブしないでほしい。心臓に悪いから、本当に。

 これに対して特に返信することもないだろうから、これでひとまずは落ち着けるな。とはいってもなかなか興奮が抜けない。渡辺君辺りに調子乗ってメッセージ送ってしまいそうだ。いかんな、落ち着こう。

 実際、井部さんじゃなくとも相手がどんな振る舞いをしてこようが、一喜一憂するのは俺の主義じゃない。とはいっても口先だけ冷静では格好がつかないから、今後些細なことを気に留めたりしないように気を付けよう。

 まだ少し鼓動は速いが、早いうちに平常に戻りたい。たった一週間前までは井部さんの存在も知らず、それが日常だったんだ。簡単な話、いつも通りにすれば良い。

『明日あるってーー』

 拍動、異常なし。今度はこらえた。しかし、これはきっと恋心とかじゃなくて、普通に女子と話せて嬉しいんだろうな。そもそも、オスの本能が備わっていればメスに惹かれるのは至極当然のことだ。そのうえ井部さんは愛らしい。

 そうだよ。こうやってドギマギするのは何も俺だからってわけじゃない。どんなにイケメンな野郎だろうと、井部さんみたいに可愛い女の子からラインが来て、積極的に話題を振ってくれたら跳んで喜ぶくらいのことはするはずだ。いや、しなきゃ失礼だ。

『了解。ありがとう』

 いい加減浮足立つのもやめにしようと思い、”ありがとう”のスタンプを送って会話を強制シャットダウンさせようと試みた。

『私、さんづけで呼ばれるの嫌なんですよ』

 一方で、井部さんは会話を止める気がないようだ。今日の振る舞いを見ていると積極的に俺一人に構う時間があるほど友達が少ないようには見えないが。でも女子の世渡りって男子よりも難しそうだし、井部さんみたいなぶりっ子は避けられがちだったりするんだろうか。

『じゃあ今後はさん付けやめます』

『でも井部ってなんかダサくないですか?』

『どうだろう。下の名前が良いってこと?』

『うん』

『あんまり名字で呼ばれてこなかったし』

『善処する』

 かくして、俺は井部さん、もとい璃衣——いや、心の中でくらいさんをつけようか。というわけで璃衣さんを下の名前で呼ぶことになった。それにしても、話がトントン拍子に進むな。ラブコメだと名前呼び捨てイベントってどの時期だろう。

『住田っちって良くない?』

 今度は俺の呼び方フェーズに入るみたいだ。とりあえず住田っちは却下して、向こうの出方を伺おう。

『いやー、ないな』

『えー』

『えいとっちは?』

『普通に名前は?』

『あー』

『じゃあそれで』

 かくして、俺は璃衣さんに下の名前で呼ばれることになった。こういう友達になりたての会話をまともにするのが久しぶりというか、実質初めてなので照れくさい。

 というか、俺は全然友達としてやっていくつもりではあるんだけど、向こうはどうなんだろう。ただの友達に名前呼びするように仕向けるのか、普通。

 その後、俺は平常運転を心掛けたが、璃衣さんの方はどうしても俺と仲良くなりたいのか、なかなか会話を終わらせようとせず、俺もなんだかんだ向こうのノリに流されてしまい、気付けばもう就寝時間になっていた。

『おもしろwwwww』

 この数時間のラインのやりとりで発覚したことがある。まず、璃衣さんは意外にもオタク寄りの人種であること。そして、中学時代はあまり友達がおらず、唯一仲の良い友達が休んだ日はぼっちで寂しかったほどであること。その一方で男子にはモテていて、告白されて短期間だけ適当に付き合った元カレが何人かいること。そしてどうやら俺は璃衣に気に入られたということだ。

 そして、まだ本人から直接聞いたわけではないので確証はないが、初めて会った時や、部活中での彼女の振る舞いは、割と頑張ってやっているのであろうということだ。これについては、向こうからの回答が楽しみではある。

 ラインでの会話を経て、俺も璃衣さんという存在を平穏な日常の一員として受け入れ、女性としてというよりも気の合う友達として認識できるような気がした。

『じゃ寝る。おやすみ』

 寝るということだけ伝えてスマホを閉じた。寝る前に眼が冴えているという状況に嬉しさのような、わくわくのような気持ちが湧き上げた。

 その夜はなかなか寝付けない中で、気分よく寝ることができた。


 翌朝、携帯を見ると璃衣さんからラインが届いていた。

『このアニメ面白いよ』 

『明日学校だるい』

『寝るかー』 

 昨日、俺が寝た後しばらくは活動を続けていたらしく、午前の二時過ぎまで何通かラインが届いていた。その間俺が寝ていたことを知っているはずなのにラインを何通も送ってくる理由がわからないが、悪い気はしないというは当然の本音だ。

『ちゃんと寝ろ』

 と、気遣いのラインを一通送って俺は布団から起き上がった。

 リビングに行くと、テーブルの上で玲がappleやらcakeやらの英単語を必死になってノートに書き写していた。

 多分今日までの宿題なんだろうなあ。我が妹ながら偉いもんだ。

「永杜おはよー」

「うんー」

 寝起きには弱いのでどうしても適当な返事になってしまうが、これについて母に叱られることは滅多にない。機嫌次第であるが、基本はノータッチだ。母も同じく朝に強いタイプではないため、理解してくれているのだろう。え? 頭の中は冴えてるって? それは言わない約束だ。

 いつも通りシャワーを浴びた後バナナを食べながらテレビのニュースを見る。俺、この時間結構好きなんだよな。少しずつ頭が覚醒していっているのがどうにも癖になる。

 二本目のバナナに手を出すより先に玲が家を出ていった。お中学生さんは大変朝がお早いようで。

 朝食を食べ終え、歯磨きをして学校へ行く支度をする。さてと、今日も一日頑張るぞ――――

「永杜さ、ちょっとお願いがあるんだけど」

 振り返ると、部屋の入口に母が立っていた。妹の弁当袋を片手に持って。

 すべて察した。面倒ではあるが、母も女手一つで子供二人を養ってくれているわけで、たまに手を貸すくらいのことをしなきゃ、死んだ父親に面目ない。

「はいはい。じゃあ、もう行くわ。いってきまーす」 

 時間割を見て、学校に置いてある教科書で今日の授業は事足りることを確認したのち玄関に向かう。

 安堵の表情を浮かべ、感謝の念を述べる母を背に家を出た。

 普段から時間に多少余裕を持っておいて良かった。中学校も家のすぐそばなのでなんとか遅刻はせずに間に合いそうだ。

 そういえばこの時間って先生方も忙しくしてるよなー。悪役を買って出るようですこし憂鬱である。

 妹の中学校に着いて、正門のインターフォンを鳴らした。事務員さんに要件を伝えてしばらく待っていると来客用玄関から見覚えのある中年の男性教師が出てきた。

「ごめんねえ、住田くん」

 三年間、音楽の担当だった佐藤さとう先生だ。

「いえ、こちらこそすみません。これお願いします」

「はい、確かに。玲さんに届けておきます」

 もう既に新一年生の下の名前をあらかた覚えているのか、俺の妹だからなのか、それとも事務員さんづてに聞いたのを覚えていたのか。いや、もはやどうでもいい。

「高校はどうですか?」

 俺が話を切り上げるより先に佐藤先生が調子を尋ねてきた。この人、喋るの好きなんだよな。

「いい感じです」

「ああ、そうですか。君は中学校の頃やんちゃだったでしょう。なんで、少し心配をしていたんですけれどもねえ。ええ、それなら良かった」

 やんちゃって言っても、ほとんどが玄也に仕方なくついていった結果だ。というか非常勤の先生にもそういうのって伝わってるんだな。いや、この先生のことだ、自分から話をふっかけて聞き出したんだろう。

「健康は問題ないですか? 若いうちに夜更かしをしていると、後が大変ですから」

「はい、早寝早起きしてます」

「そうですか。それじゃあ、急いで行きなさい。もう授業が始まるでしょう」

「はい、それじゃ、ありがとうございました」

 あんたが長引かせたんだろうよと一瞬思ったが、実際喋っていた時間はそんなには長くないので恨み言はやめにした。あの人は話し方がマイペースだから、すこし長く感じたんだ。

 一つ会釈をして高校の方に向かって走り出す。しかしスマホの時間を見るとすでに八時三十分を過ぎており、その時点で高校初めて遅刻が確定したため、担任に遅刻する旨のメールを送って歩いて行くことにした。まあ、遅刻するってのもたまには悪くないだろう。


 遅刻者は担任か、登校後最初に受ける授業の担当に遅刻届を提出しなければいけないので職員質に寄ってから教室へ向かうことになる。そのため、俺は今掃除用具入れに必ずあるほうき用のくしと同じくらいの頻度でしか使わない廊下を歩いている。七組から十三組はコースの違いや、組み分けの関係で接点が少ないので、それらのクラスの廊下は入学したてのようなアウェイさを感じる。

 朝のHRはすでにほとんどのクラスで終わっているようで、各教室から生徒の活発な話し声が聞こえる。

 六組の前を通るところで、ドアのすぐそばの席に璃衣さんがいるのが分かった。あー、でも、確かに割と皆各々喋ってるけど璃衣さんは一人だな。友達が多くはないってのはあながち謙遜でもないのかもしれない。

 ちょうど璃衣さんが俺の視界に入ったタイミングで向こうも顔を上げたため目が合った。すると、璃衣さんがこちらへ向けて手招をしてくるので俺は六組の教室に忍び入り璃衣さんの机の前を陣取る。

「遅刻?」

「うん」

「なんで?」

「妹の弁当を届けた」

「ふーん。優しいじゃん。——てかさー、私さっきあんたの教室行ったのにいなくてマジ腹立ったんだけど。この時間いるって言うから行ったのに」

「行くって言ってくれたら遅刻すること言ったのに」

「はあ、そうですか。まあなんでもいいけど。てか今日部活一緒に行こうよ」

「おー、いーよ」

「じゃあここで待ってるから来い」

「はい。じゃあ、行くわ」

「ばーいばーーい」


 なんだろう、妙な感覚だ。ちょっと前までは知り合ったばかりで多少の気まずさがあったのに、昨日のラインから一気に距離が近づいたことでその気まずさがなくなっている。それが返ってもどかしいというか、なんというか。

 まあ、どっかの誰かも異性との洗練された関係は若いうち必要だとか言っていたし、璃衣さんだけでもいいから仲良くさせてもらえればありがたい。

 女子との関係を半意図的に維持するのは少し緊張感があるが、その分璃衣さんには気に入ってもらえているらしいことは助かるな。

 教室に着いて、一時間目の担当教師に遅刻届を提出して自分の席に着いた。それにしてもこの席はいいな。席が一番後ろってことが学校に行く楽しみの一つになるのは俺だけだろうか。

 一時間目は国語だ。上手いこと覚醒状態を保つことが肝の科目である。さてと、やりますか――――。

 四時間目が終わって、昼休みになった。一時間目は結局快眠に終わったが、注意をしてこない教師もどうかと思う。ガツンと言ってくれるのであれば、こっちだって真面目に授業を受けるとも。

 すると、ポケットから携帯の通知音が聞こえた。今朝は急いで家を出たから携帯をマナーモードにするのを忘れたみたいだ。次からは学校に入る前にマナーモードにするようにしよう。授業中に通知音が鳴って叱られるのだけは避けたい。

 通知を見ると、母からのラインが一件届いていた。

『玲ちゃん鍵忘れてっちゃったみたい。朝時間なくて、連絡できなくてごめんなさい。早めに帰って玲ちゃん家に入れてあげて』

 これはまた面倒な依頼だ。しかし、玲を外にのさぼらせておくわけにもいかないし、強制イベントってやつだな。それにしても、今朝のことも含め、これじゃあまるで面倒見の良い親孝行な息子じゃあないか。まだ俺はそんなものになったつもりはない。

 早く帰るということは今日の体験入部は行けないな。なんとなく今日の部活は行きたい理由があったような気がしたんだが、行けないことには仕方ない。とりあえず、家帰ってやることでも考えるかな。

 よし、これで五、六時間目にやることが決まった。


 ――――これはまた、なんと間抜けだろう。ちなみに、今喋り始めたのはこの日の十五時頃の俺、住田永杜だが、この時俺は些細なのか大事なのか自分では判別しがたい案件を、見事なまでに忘れ切ってしまっている。今の今まで数時間、やきもきと対策案を考え続けた俺だが、ついに、今すべきことが分かった。この一時間ちょっとの戦いに終止符を打ちに行く。

 さあ、始めよう――――。




 うわーびっくりした。遅刻とか聞いてないし。てか今日部活一緒に行こうとか言っちゃったわ流れで。え、別に普通だよね? 中学の時もそういうのあったし、仲良い男子とはそういう感じのざらにあったし。なんか勘違いとかされてないよね。勘違いというか、過大解釈。

 まあなんでもいっか。

 私は無駄な詮索をやめて授業の準備を始めた。

 帰りのHRが終わったので、皆散り散りに教室から出て行く。昨日は私もあの中に混ざってたけど、今日は住田永杜との待ち合わせがあるので、ここで待機する。昨日とはHR後の気分が全然違う気がする。昨日は普通に楽しみでちょっと緊張してたけど、今日は少し緊張が優勢な感じだ。

 緊張の種類も違うというか、昨日のは不安の緊張で今日は楽しみの緊張。あ、それなら楽しみが優勢か。あと、今日は少し安心感が上乗せされている。昨日、沢山話せたからかな。

 高校入って知り合った子には気遣ってばっかだったけど、ようやく楽に話せる友達ができた。

 てか向こうに惚れられちゃったらどうしよう。全然そんな気感じないけど、あり得なくはないもんなー。

 というか、どこで待とう。廊下が分かりやすいかな。でもそれだと待ち合わせ目撃されるっていうか、カップルみたいでちょっと嫌だな。

 うーん。ま、とりあえずゆっくり帰りの準備しよう。

 時間の経過も早く、帰りの準備に夢中になっていると気付けばHRの終わりから十分ほど経っている。夢中だったとはいっても、途中で来られてもいいような心づもりではいたけど。

 いや、遅いな。なにしてんだあいつ。連絡とか全然来ないし。

 私はとりあえずラインを送ることにした。

『なにしてんの? 掃除?』

 その後三分ほど待ったが返信は来ず、教室にいる人数は減ってきてるし、部活はもう始まるしで焦りばかりが募る。

 まじでなにしてんのかわかんなくて、ちょっと泣きそうになってきた。ちょっと楽しみにしてたのがバカみたいだな。向こうはラインの一つもよこさずに平気なんだろうか。

 とりあえず今日は来ないだろうから、もう行っちゃおう。

 私は沈んだ気持ちをどうにか持ちこたえて部室へ向かった。

 着替えを終えて階段下に集まるが、永杜の姿は見当たらない。

香澄かすみちゃん、やっほー」

「あー、璃衣ちゃんだ」

「えー今日これだけー? なんか少なくない?」

「そうかなぁ。誰がいないんだろ」

「あいつは? 住田だっけ、あいつ」

 二人だけ抜け駆けして仲良くなっているのを知られるのが少し嫌なので、あえて名前を覚えてない感を出す。

「あー住田君いないね。男子に聞いてみよっか」

香澄ちゃんは男子二人の間にずかずかと割って入る。この人、男女とかまったく気にしてなさそうだけどなんでなんだろう。どういう環境で育つとそうなるのか気になる。

「住田君って今日休みなの?」

「えー、わからん。来てないの?」

「っぽいね。じゃあ今日は一年このメンツだねー」

 えっ? 何してんのあの人。今朝普通に部活の話したよね。あれ今朝だよね。なんか休まないと行けない理由でもできたのかな。だとしたら彼女か? いや、なんでそうなる。落ち着け私。

 突然来られなくなる理由なんていくらでもあるし、そもそも私達は特別仲良いわけでもないんだから、行けなくなったからってわざわざ報告するとも限らない。

 でも今は考えても仕方ない気がするな。今頃向こうも今朝のことを思い出してラインを送ってきているかもしれない。

 それに、別にあいつが特別なわけじゃない。これからクラスの人とか部活の人と仲良くなれればあいつも友達のうちの一人になる。今は友達あんまいないから、特別みたいになってるけど。 

 私は、永杜のことを考えないように努めた。しかし、代わりの喋り相手が仲の良い友達だったならまだしも、なんせ相手はほぼ初対面の人達だ。嫌でも気を遣ってしまうのでふとした時に、彼が脳裏にちらつく。悔しいけど、話してて楽だもんなー。

 そろそろアップが終わるというころ、西野君が皆に話題を振った。

「てか皆専門どうする? ちなみに俺とこいつは短距離のつもり」

 そういえばこの二人ってずっと一緒にいるよなー。中学同じなのかな。中学同じで仲良くても、高校で知り合って既に仲良くても、どっちもすごいと思う。

 私は中学の友達と既にあんま連絡とってないし、高校ではクラスで数人休み時間に話せる人がいるだけだ。

「私は中距離かな。元々八〇〇とか千五〇〇とかの試合見るの好きだったし」

 香澄ちゃん、中距離なんだ。あれ、永杜ってたしか八〇〇だったような。え、じゃあ香澄ちゃんあいつと同じじゃん。もしかして狙ってる? なくはないよね。男子三人から選ぶならあいつだろうし。

 てか、だったとしても私には関係ない。香澄ちゃんスタイル良くて可愛いし、お似合いで良いと思う。

 なんか、今になって腹が立ってきた。なんで連絡しないで約束ぶっちするの? 仲良い悪い関係ないよね、これに関しては。

 くよくよしてた自分がアホらしく感じた。私、可愛いし、あの男一人に振り回されてちゃ箔が落ちるって話だ。

「えー、私短距離にしよっかなー。でも香澄ちゃん中距離なんでしょ?」

「私はいいよ全然! アップと違ってメニューパっとやって終わりだろうし」

 んー。なんでかわからんけどそこは中距離に引き込んで欲しかった。永杜がいるからではなく、一人は同級生の女子がそばにいてくれたらありがたい。でもそれこそ、香澄ちゃんはそういう感覚ないんだろうなー。

「ありがとー! そっかぁ、じゃあ短距離にしよっかな」

「井部さんよろしくー」

 このまま事が進めば私は渡辺君と西野君の二人と二年近く、同じ種目の仲間として、近い距離で部活動を行うことになる。

 もしも永杜と中学が同じで、もう三年間付き合いが長かったら、そんなことは気にもならなかっただろう。それか、彼の種目に合わせることをためらわなかっただろう。

 しかし私と彼は出会ったばかりで、今後の選択によって関係は大きく変化していくはず。そして今、私はその選択の場に立っていることを深く理解している。

 一人の出会ったばかりの男子にこんなに振り回されるとか、私ちょろいのかな。いや、好きとかじゃないけど。でも、渡辺君に言葉を返すのを躊躇っている自分がいることを確かに感じる。ここで返事をすれば、私は短距離のメンバーになって、永杜と香澄ちゃんは中距離で、二人はすぐに仲良くなって、会うたびに仲は深まっていって。そして、私は彼にとってなんでもないただの部活仲間になる。きっとその時には、私にとっての彼もありふれた友達の一人で。

 はあ、なんでこんなに苦しいんだろう。だって、私と彼は出会って間もなくて、ちゃんと話したのはたったの数回で――――

 返事をしないで、少し俯く私を三人ともが不思議そうに見ているような気がする。

「えっ? なんか言った?」

「いや、よろしくってだけ」

「あー! うん、よろしくね」

 ああ、落ち込む。せっかく昨日ラインで距離縮まって、今朝は一緒に部活行く約束して、これからもっと仲良くなるはずだったのに。

 というかやっぱり、約束破られたのがなにより悲しい。私だけが仲良くなったつもりで、気が合うからと思って、他の人には出さない一面出したりして。

 こんなに彼のことを気にしてしまっているのは、自分を出してしまったからだと思う。結局、私にとっては特別だったんだ。なんとなくこの人とはやっていけそうだと思っちゃったんだ。

 アップに使う用具は男子部室で保管するので、西野君と渡辺君がそれを片づけている間に先輩方は先に公園へ向かって行った。

 落ち込むけど、実際付き合いが長いわけではないから蓄積するようなダメージではなさそうだ。数日間は、テンションが上がらなそうだけど。

 私達一年は片づけを終えると、先輩の背中を追った。

 門を出てひらけた道に出ると、公園の方に先に歩いていた先輩方が立ち止まって誰かと話しているのが見える。同級生だろうか。でも二、三年どっちも集まってるしな。じゃあ他の部員————

「あ!」

 咄嗟に反応してしまった。その人を視界で捉えた瞬間から、拍動が急ピッチを刻んでいるのが分かる。

 その人はこちらに走って向かって来ている。でもばつが悪いので声をかけようにもかけられない。

「あ、住田君じゃん」

「ほんとだ。おーい」

 渡辺君と西野君が永杜に手を振る。それに対して、永杜は手を振って返した。

 やばい、謎に緊張しすぎて、今話しかけられたら変な対応しちゃいそう。

 永杜はそばまで来ると片手を挙げて、ういっす、と皆に挨拶をした。

「住田君どしたのー?」

「ちょっと野暮用があってさ。軽くアップして混ざるわ」

 香澄ちゃんの問いに簡潔に答えて、永杜は部室の方に走っていった。

「野暮用ってなんだよ」

 私が鼻で笑うと、渡辺君が私の方を見て、

「井部さんって、住田君と同中なの? なんか仲良さげだよね」

 と聞いてきた。仲良く見えちゃってたんだ、私ら。昨日の段階ではそんなに距離近くなかったと思うんだけどな。それでも、か。

「あー、部活始まる前に何回か話す機会あって。それくらい、かな」

 うん、それだけだ。私たちは親友でもなければ付き合ってるわけでもない。最近知り合ったただの友達候補。分かり切ってることなのに、ついさっきまで辛かったその事実がたった今すんなりと自分の中に入ってきた。ああ、テンション上がってるんだな、私。

 ――――中距離にすればよかった。

この時私は、自分の気持ちに素直になって得することがあるらしいということを知った。




 散々ラインの文章を考えて、直してを繰り返し最終案を送りつけた後、やっぱり直接部活行って謝るのが一番手っ取り早そうだなという結論に至ったので、現在俺は学校へ向かって走っている。体験入部なのに一時間ちょっと遅刻してまで参加するのは少し気が引けたが、せっかくできた友人を失わないためなので甘んじる。

 いつもの信号が見えてきた辺りで、先輩方が公園の方に向かって歩いているのに気が付いた。

 先輩の集団に自ら向かって挨拶をしに行く俺の姿はさながら飛んで火にいる夏の虫のようであろう。誤用? そんなことは知らない。

 煩雑ではあったが先輩方に、用事があり暇になったため来たという旨をざっくり伝えた。もう本練習始まるから急げ、ってそんなに急かさなくても良いじゃないですか先輩。

 先輩方との対話を終え、学校の方へ向かって走り始めると、たちどころに同級生四人の姿が視界に入る。昨日初対面だった仲ではあるが、部活の間は一緒にいる時間が多かったので俺の脳は彼らを先輩よりいくばくか穏やかに認識した。

 もういい時間になってきているということで焦っていたため本来の目的を忘れていたが――――度々、反省するべきだと思う――――俺は璃衣に謝罪というか、挨拶をしに部活に来たのであった。

 しかし、門の方に見えるのは四人の同級生であり、この場で彼女に何かアクションをとることが誰にとっても最善ではないということくらい、残念だったらしい頭の俺でも分かる。

 あそこで暇そうにつっ立っている男子生徒にとっては暇つぶしになるという意味でそれが最善になるかもしれないが。

 ところで当の璃衣さんはというと、ちょっと気まずそうな表情をして明後日の方を向いている。いやあ、こうやって遠目で見るとというか、多良さんも十分綺麗な部類ではあると思うが、横に並ぶと璃衣さんの可憐さは圧倒的である。なんというか、非の打ち所がない。顔の濃淡、スタイル、髪の長さ、つや、etc! どれも完璧かと言わんばかりである。

 と、璃衣さんの造形の一人鑑賞会を開催しているうちに彼らとすれ違ったので、ういっす、と言っておいた。何も思いつかない時はこれを言っておけば高校生はなんとかなることを、なぜだか知っている。多分、ういっす、が使えない人間から自然淘汰されていったんだと思う。

 多良さんが食い下がって事情を聞いてきたので当たり障りのないことを答えた。

 とりあえずとっとと着替えて練習に向かわねば。

 俺はすぐさま着替えを終えて、準備体操など軽いアップを済ませた。公園に着いて皆の様子を見ると中距離のメンバーは俺の到着を待ってくれているようで、短距離だけがせっせと足に磨きをかけていた。

 中距離メンバーに合流すると、多良さんが声をかけてきた。

「間に合ってよかったね。私達もう始めようかって話してたんだよ」

 そうでしたか。それはそれはお待たせをして申し訳ございません。以後このような無礼ががないよう善処いたしますので、どうか今後ともよろしくお願い致します。

 物怖じしない雰囲気で話すので恐縮してしまうんだよな、この人。

「先輩、お待たせしてすみません」

「いーよいーよ。短距離と比べて少ないしな」

 そう、短距離の方は見たところ男女含めて十人前後はいるが、大して中距離は俺と多良さん、そして今この場にいる日比野先輩と小島先輩、あとは今日休んでる女子の先輩が一人と、計五人の少数精鋭で成り立っている。この部活は長距離とフィールド種目の選手がいないので合計で十五人くらいになる。

「すみません、ありがとうございます」

「おう。それじゃー今日は二〇〇メートルインターバルだけど、二人は目標タイムとかある? つなぎは一〇〇ジョグで、五本三セットね」

 アップを念入りにできてない日に限ってインターバル走か。しかも結構きつそうだぞこれ。なんだ、毎日ジョグやってるだけかと思ったら意外と意識高いな。

「私はわかんないです。中学の時一〇〇メートルの大会に出たことがあるんですけど、その時は――十三秒中盤? くらいだった気がします」

 おー、なにかしらのスポーツやってると陸上大会出されるパターンな。にしても流石だな多良さん、速い。

「おー、結構速いね。多良さんは水泳やってたんだっけ」

「はい」

「そうだなー。まあ、初めてだから慣らしってことで四十二、三秒くらいで良いかな。ね、住田君」

 と、小島先輩は俺の方に意見を委ねてきた。なんで俺なんだ。自信ないのかこの人。

「僕は良いと思います」

「わかりました。頑張ります」

「住田君は?」

「僕は三十八秒くらいが良いです。ここ、多分走りづらいですよね」

「イエス。わからんけどそんくらいで良いと思う。——っはい。じゃあいきましょう!」

 と、先輩が言って俺たちは順番に並んだ。

「いきまーす」

 先に小島先輩がスタートした。次に日比野先輩、俺、多良さんだ。うわー、この感じ久々で非常に緊張する。

 てか先輩方フォームが綺麗だし結構速いな。とか分析してると、あ、もう来る。——とりあえずやろう。てか、璃衣さんのこと忘れてたけど、あの人短距離にしたんだ。




「おつかれー」

 本練習が終わり軽いジョグでダウンをしていると、ちょうど今終わったらしい多良さんがこちらへ向かって来る。

「しんどかったわー。目標タイム切れた?」

「おつかれっす。ギリ切れたましたわ。そっちは?」

「心拍は足りてたっぽいけど足がしんどかった。なんか私全然速く走れないんだけど」

 多良さんは運動終わりだからか雰囲気がこれまでより少し開放的な気がする。この人って何かは分からないが何かをどうにかしたら天下無双できそうな感じがするんだよなぁ。

「走れば走るほど速くなると、俺の師匠は言っていました」

「へー、そうなんだ。師匠って、中学の時の顧問?」

「いや、師匠は俺の心です」

 俺は今いろんな意味で恥ずかしいようなことを言っているが、この後どっちみち忸怩たる思いをすることになるんだ、なんだっていい。

 多良さんは本当によく分からなそうな顔をしている。この人の弱点が一つ分かった、シャレが通じづらい。

 多良さんが何の音も発さなくなってしまったので決まりが悪くなった俺はなんとなく辺りを見回した。

 短距離は割かし早めに終わっていたらしく、石造りの腰かけで先輩後輩仲良く談笑をしていた。遠くから眺めているのに璃衣さんと目が合った気がするとか思ってしまったが、なんかもう思考が恋してる人のそれになっている気がする。違うんだよ、俺は璃衣さんのように絶対的なヒロインと入学直後からお互いにドギマギした関係を経たのちにドラマチックなエンディングを迎えたいんじゃなく、クラスで何番目かに可愛いくらいの女子と着実に愛を育みたいタイプなんだよ。なにより、目が合ったのは多分事実だ。

 ――――というか、俺は心中快然たる心地でいてしまっているが、向こうは最悪の場合過呼吸になって部活全体を巻き込む大騒動を起こしかねない状況かもしれないのか。早いとこ決め打ちたいが、あの盛り上がりようにつけこむのはまず無理だ。なんせ、あの場の中心にいるのは璃衣さんで、男子の先輩が死に物狂いで璃衣さんを楽しませよう、笑わせようと取り組んでいる。

 端から見れば、璃衣さんはなんにでも心から笑っているように見える。けれども、これは多分璃衣さんが幼いころから磨き上げてきたスキルの一つであると、先輩よりも少しばかり彼女との付き合いが長い俺は思う。

 あ、今部長にさりげなく助け求めてそうな身体の動きしてる。そういや璃衣さんこの前の部長トーク、六〇メートル走の終わりくらい止まってなかったもんな。

 うわー、なんか急に謝りたくなくなってきたよ俺。

「住田くんって下の名前なんだっけ」

 と、俺の意味不明な発言から沈黙を貫いていた多良さんが言う。というか、さっきの結局無視なんだな。

 そして多良さんや、やはりあなた攻撃力が高いですね。下の名前忘れてるって傷つきますよ。

「永杜です」

「あーそうそう、そんな感じだった。そっかー、かっこいい名前だよね」

 ありがとうございます。この人はその気がないのが何と無しにわかるから素直にお褒めの言葉として受け取れる。

「ありがとうございます。多良さんは香澄さんでしたよね。香澄っていうのもなんというか、可愛らしい名前じゃないですか」

「えーありがとう。でも私も気に入ってるんだー、自分の名前。ってことで香澄って呼んでくれても良いんだよ?」

 なんかあざといんだけど急に。下から俺の顔覗き込んできてるよこの人。どこでそんなスキルを習得したのか教えてほしい、参考までに。

「なんかいつもと違くない? 感じ。俺は良いけどさ」

 と、俺の頭が自動的にラブコメの開始と認識してしまいそうな話題は適当にいなす。

「そうかも。——お疲れ様でーす」

 意外にも普段との違いについて自覚ありだった多良さんは、集まって談笑をする短距離組に向かって挨拶をした。

「あ、中距離お疲れー。ダウンやったよね? おけ、じゃあ学校戻ろう」

 多分二年生の先輩がその場を取り仕切ってるけども、部長やその他三年に現場の指揮権は与えられていないのか、それかもう世代交代をしたのか、非常にどうでもいい。

 ぞろぞろと学校の方へ向かっていくが璃衣さんは未だに先輩方に絡まれ続けており、あそこまで可愛いともはや女子でも気分が良いのか女の先輩にも可愛がられている。

 渡辺君と西野君はというと、ノーマルタイプというか、大人びているというか、二人と系統が似た感じの男先輩二人と意気投合したようで盛り上がっていた。

「璃衣ちゃん人気だよねー。まああんだけ可愛いとああなるよね」

 多良さんも十分可愛いと思いますよ、とは流石に言わない。本当にラブコメ開始のゴングがなりかねないからな。

「まあ、大変そうですよねー」

「ねー。——はー、疲れた。早く家帰って寝たい」

 多良さんの家って広そうですよねー、と心の中で呟く。

「二人は同じクラスなの?」

 練習終わりから後ろの方を歩いていた小島先輩と日比野先輩が集団に追いついたようで、小島先輩が尋ねてきた。

「いえ、違います」

 と、多良さんが答えた。

「なんでですか?」

「え、なんか仲良さげだと思って」

 小島先輩がへらへらしながら言う。自分と小島先輩は今日初めて話したと思うんですけど、小島先輩もしかして冷やかしてます? なかなかに軽率な感じの人ですね。

「小島お前、それはデリカシーないで。一年生はこれから仲良くなっていくんやぞコラ」

 日比野先輩がアホそうな態度で小島先輩を諫める。

「は、どこが? まじでわからんのだけど。え、俺デリカシーないこと言った? 言ってたらごめんけど」

 小島先輩が俺たちに同意を求めてくるが、声音とか表情からして本当に分かってなさそう――――あるいは、か。

 いやしかし、この二人、集団では全くと言っていいほど目立ってなかった点で俺好みだし、この先輩方がいれば部活もなかなか退屈しなそうだな。

「あー、大丈夫です」

「だよね。やっぱデリカシーなくないって。てか二人付き合わないの?」  

 と、ひゃっはっはと爆笑しながら言う小島先輩を日比野先輩がごめんねー、と言いながらどつく。小島先輩の方はちょっとばかり面倒かもしれない。

 それ以降、後ろの先輩二人は無用意に絡んでくることはなく、小島先輩もさっきの変な印象がさも嘘かのようにあくまで普通に喋っていた。この、第一印象とそのあとの印象がどうにも矛盾する感じ、璃衣さんもそうだったな。小島先輩と璃衣さんのそれを同じ分類にカテゴライズするのは間違いだとは思うが。

 学校の門に着いて男女が各部室へと解散をしていくタイミングで、ふとデジャブを感じる。

部活二日目にしてデジャブってことは俺は前世でもこの学校で陸上部をやっていたのか? 前世に何か求めるなんざお門違いなんだろうが、せめて少しでも異なる境遇の前世の方が来世側の人間はテンションが上がるぞ。

 小学生の頃からこの辺は遊びできていたりもしていたので、そのせいだろうとデジャブの考察を完結させる。

 そしでちょうど俺がこの後すべきことについて心の中で意気込んだ時、計ったようなタイミングで多良さんが一声上げた。

「璃衣ちゃんとなんかあった? ちゃんと仲直りしてね」 

 ひえっ、なに、なんなのこの人怖い。

 俺はホラー映画を好んで観るし、やったことはないが肝試しをしてみたいと心から思っていて、要するにそういう類に関しては怖いもの知らずなのである。そんな俺が最初に抱いた感想が、ひえっ、なわけで、多良さんの恐ろしさは十分に伝わってくれていると思う。

 言い方からして多良さんが璃衣さんから直接何かを聞いたわけではないと思うし、だからこそ突き詰めてもあてずっぽうなわけで、予想が外れていたらそれは夜寝付く前に定期的に思い出すくらいの赤っ恥なのである。

 その中で多良さんは、出会って二日の俺と璃衣の仲を見抜いて、あまつさえ俺たちが今気まずい感じになっていることさえ言い当てやがったのだ。

 多分、驚いた表情をしていたんであろう俺の顔を見て、ふふふ、と口元に丸めた手を当てて上品に笑う多良さんは、

「私、人のことよく見てるから」

 と、楽しそうに言った。

「ぜん、善処します」


 にこりと俺を見送る多良さんの顔が頭から離れたのは、またもや忘れていた、俺が今日部活に来た目的を思い出した時だった。

 ってかもうすぐじゃん。あれ、そういえば昨日と違って沢山部員がいるけども、どうして彼らを回避して、かつ璃衣さんにさりげなく声をかけるという片手でマリオ、もう片手でギャルゲーをやるみたいな所業俺にできようか? やるしかないよね。

 運動後だとか、人と話しているからとか要因が重なって思考が散漫しているので、高ぶるテンションに沈静をもたらすために、渡辺君らと今日の部活での話をした。彼らは地味に俺を永杜と呼んできたが、個人的に意図して下の名前を呼び捨てに切り替えるのはなんだか気に障るので、俺は彼らの名字を呼び捨てで呼ぶことにした。

 着替えは前よりも長引いたが女子も恐らく同じように長引いていると思うので運が良ければ昨日と同じようにどこかで落ち合えるかもしれない。

というか昨日、俺たちは着替え終えて少し駄弁ってから部室を出たものの、相当早く着替え終えないとあのタイミングに信号で合流できないと思うのだけども、璃衣さんと多良さんは早着替え対決でもしたんだろうか。いや待て、今考えるべきはそれじゃない。

 とりあえず作戦の整理をしよう。まず門周辺の様子を伺う。目標の姿が見えないようであれば、渡辺と西野と門前で雑談でもして時間を稼ぐ。その間も確実に周囲の索敵をしつつ、目標を捉え次第臨戦態勢を取る(解散の準備をするってことだ)。目標を捉えるより前に解散の流れになったら、俺はその場に残り親に電話でもして、時間を稼ぐ。今現在俺と目標は険悪ってほどではないから、俺が電話して立ってれば何かしら向こうからアクションを起こしてくれると思う。そうでないのならば、俺が行動を取る必要があるが。第一索敵段階で目標の視認に成功した場合はこれらの過程をすっとばせるわけだ。

 ひとまずはラインの確認だ、既読は――――ついてる! ついてるわ。返信は――ない、が、これはさして不思議なことではない。目標は部室で多良さんや先輩とお喋りをしながら着替えをしないといけないわけで、返信をするには腕が四本くらい要るはず。——女子高生ってそれくらいできるんだっけか。情報不足だ。ともかく今は持てる情報だけで勝負をしよう。

 よし、まず第一索敵開始————っていますねー、璃衣さん、こんばんは。

 思いもよらない展開、ベストとも言えるその状況を確認した俺は心の中で一人歓喜した。

 多良さんと何か話してますねー。ん、多良さん? あれ? さっき多良さん事情を分かってるっぽい感じでいらしたのに、邪魔なさるんですか?

 門が近づいてきたのでまずは、

「んーっと、疲れたわー。はよ家帰ってシャワー浴びよっと」

 と、今日はこの後駄弁る暇がないという事を渡辺と西野に示唆する。

「永杜家近いんだっけ。いいなー」

「まじでそれな。俺ら今から自転車で三十分だよ」

「俺より体力つくやん。じゃ、またなー」

 と、渡辺と西野とは上手いこと解散できた。あとは多良さんだが――――

「あ、璃衣ちゃんごめーん。親が迎えに来るってー。来なくていいって言ってんのにねー」

 と、多良さんは言って、さりげなくこちらにウインクを送ってきた。その姿は、頼れる姉のようであり、いたずら好きな妹のようでもある。多良さん、そういうことだったんすか。マジ半端ない多良の姉御。

 璃衣さんは気まずさを感じているのか、ベンチの方に歩き去っていく多良さんを見送る声は心なしか例より小胆に感じた。

「帰る?」

 と、その居心地の悪い空間に佇む二人の男女のうちの男の方、つまり俺が先に口を開いた。

 ここで真っ先に謝るのは、なんというか、向こうが求めてなさそうだ。

「うん」

「じゃ、行きますか」

 そして、俺たちは公園の方に進み始める。ちらっと多良さんの方を見ると、こちらに向けて小さくガッツポーズをしていた。うーん、流石にそこまで分かり切っている感じは少々違和感がありますけどね。

 お互いに話題を挙げず会話がないまま、未だに部活中のテニス部の掛け声だけが俺の鼓膜を揺らしている中で、赤信号によって俺たちの歩みは止められた。

 信号待ちの間何も話さないのは、歩いてる時と違って気まずさのレベルが数段上がるし、このままではまともに話すことができずに解散になってしまいそうだ。よし、今だな。とりあえず謝罪をして、事情を説明して、今後同じようなことを起こさないと釈明をして――――

「あー、ライン見たよ」

 ――――っさいですかあ。いや、まさか璃衣さんの方から声をかけてくれるとは思わなかったが、俺としては非常にやりやすい状況に仕上がったので本当にありがとう。

「あ、見た? いやそのことなんだけどマジでごめん。言い訳のつもりじゃないんだけど、その用事で頭いっぱいになっちゃって約束が飛んでしまいました。マジでもうしません。すみません」

 俺なりに全身全霊を込めて誠心誠意に謝罪をした。

 すると璃衣さんは突然わざとらしく腹をかかえて笑い出した。

「ねえ、ねえ、ちょっと、ふざげてんの本当にやめてお腹痛い」

 なんで笑っているんだろう、思い出し笑いだろうか、俺がなにかしただろうか、それとも————そんな疑問は浮かんだだけに過ぎず、俺の頭は璃衣さんが今現在傷心からの消沈をしていないという事実を知った安堵で満たされていた。そう、璃衣さんは楽しそうなのだ。

 璃衣さんは目に涙を浮かべてまで込み上げているんであろう笑いをどうにか収めようと、ひーひー、やら、くくく、やらと声を殺そうともがいている。俺は未だに璃衣さんの爆笑についての考察を行えるまでの思考回路の整備ができておらず、俺は爆笑すると顎が痛くなるなぁ、などと考えることしかできない。

 そのうちに同じ高校の生徒が俺の隣に現れ、通り越して信号の押しボタンを

押し――――

「あ、」

 なるほど、そういうことか。確かに謝罪とか弁明とかで頭いっぱいになってたから信号の押しボタンなんて気付きもしなかった。どれくらい信号待ちしてたろうか。かなり長いこと待ったような気もするし、案外一瞬だったような気もする。

「完全に忘れてたわ」

 と、俺が言うと璃衣さんは未だに声が出ないほど笑っていて、手を上げて俺の発言に対応する意思を示す。

「そんなおもろい?」

 璃衣さんはしばらくの間その場で、手を上げてこちらへ返答の意思を示そうとしては自分の太ももを叩いて、きゃっきゃ、ふーふー、などと笑い続けたが、ようやく笑いが収まってきたのか、ふー、と大きく一息吐いて、あーおもしろ、と呟いた。

「だってさ、私もうライン見てたから大体事情知ってたのにそっちはまだ気まずそうにしてて真顔で赤信号————ぶふっ」

 最後まで言い切ろうとしたのか、途中まで早口でまくしたてるが耐え切れずに噴き出した。

 うわー、俺爆笑長いの苦手なんだよなぁ。お互い爆笑してんならいいけども、今みたいに片方(俺)は微塵も笑いどころがわかっていないとき、会話すらできないのがしんどいんだよな。

 ただ、俺は先ほど分泌された安心感がまだ残存していたため、不快であり許しがたい状況にある一方で、変なことを言って事の運びを悪化させたくないというジレンマにあった。

 璃衣さんは、いや、だから、と言って説明を再開しようとするものの、何がそんなに面白いのかずっと笑いが込み上げるようで、結局いつもの解散地点に着くまでまともな返答は得られないままであった。

 俺はとりあえず立ち止まって璃衣さんの笑いが収まるのを待つ。ところで俺は、学校終わりに会話を切り上げるタイミングが見つからず、話し込んでしまっているという状況が嫌いじゃない。逆に、その状況を嫌いな人がいるのかも分からんが、俺と同じ側の人間がいればその理由をお教え願いたい。自分でもなぜかはわからないが、他のどんな時に話すより、学校終わりとか、別れ際の雑談を楽しく感じる。

 ————要するに今の状況も、璃衣さんが笑いを止められずにいる中でも悪い気はしていないのだ。

 今度こそ冷静さを取り戻したかのように見える表情の璃衣さんは、

「いやー面白かった。————ごめんごめん。で、今日のことね」

「本当悪かった。待ったでしょ」

「うん待った。けど理由もラインで送ってくれたし謝罪もしてくれたからとりあえずそれはもういい」

「あー、そう」

 そして、一瞬の静寂が訪れた。




 初めて住田永杜から特別な何かを感じたのは昨日の部活中だった。

 私達一年の部員は練習前の準備体操をしながら、先輩に迷惑にならないくらいの声量でぼそぼそと話をしていた。この時は、私にとっての住田永杜はたまたま何度か喋る機会があって、雰囲気も落ち着いていたのでほんの少し好感を持っている程度の、同じクラスにも何人かいるような不特定多数のうちの一人に過ぎなかった。当然、特別なんてものを感じるはずがない。

 ただ、クラスにもまともな仲の友達がごくわずかな私は、部活を通して少しずつ仲良くなれたら良いなと、漠然と考えていたので、モチベーションがあるという意味ではそこでの会話は充実していた。

 すると、グラウンドで練習をしていたサッカー部員の出来損ないの蹴りによってサッカーボールが私たち目掛けて鋭く飛んできた、らしい。私はその瞬間には気付かなかった。

 私がその事実に気付いたのは、永杜が私の肩を軽く押して、私をボールの軌道の外に追いやりボールを自分の脚で受け止めた、そのときだ。そんな、男子のちょっとかっこいい瞬間を目の前にして心が動いた、その程度の心の動きだったならば私は今日という日をもう少し生産的に過ごせていたと思う。

 それは、電流だった。彼に触れられると、たちどころに私の頭は電流のような衝撃を受けた。

例えるならば、ふとしたときにデジャブを感じた時のような、デジャブとは違うけど、これまで見えていなかったものが突然見えたというか、アハ体験ってやつ? まあとにかく、その瞬間から永杜は私の頭に特別な存在として認識されるようになった。

 初めは自分ではない誰かが私に乗り移ったかのような感覚で、頭は彼を特別視していても、なんとなく他人事のような感覚だった。それが次第に私の中に浸透していって、気付けば紛れもなく私自身が彼を特別だと思っている。その感情が私に浸透していくのと同時に、彼との接触によって生じた衝撃は私の中で疑問を感じるものではなくなり、単なる情動として受け入れられるようになった。彼も何か力を? そんな疑問は潮が満ちていく砂浜のように消えていった。

 しかしあの瞬間あの場で間違いなく理屈では説明できない何かが起こったと、その時は確信していた。


はーあ、面白かった。こっちは事情知ってるってのにあの顔で、ボタン押し忘れるとか――――ふう。流石に笑い疲れて、メンタルが返って落ち込んでしまった。

 ————とりあえず、こっちから何かしら声かけて向こうの緊張をほぐしてあげて、あとは、伝えたいことをちゃんと伝える。

 本当に伝えたいことを伝えるには、間違いなくそれ相応の勇気が必要だということは理解している。多くの場合、伝えたいということに、自分にとって小さくはない理由が存在するからだ。

「いやー面白かった。————ごめんごめん。今日のことね」

 それを理解した上で、伝えたい。

「本当悪かった。待ったでしょ」

「うん待った。けど理由もラインで送ってくれたし謝罪もしてくれたしでそれはもういい」

「あー、そう」

 そう、私が今話したいのはそんなことじゃなくて、もっとこれからの私達が、私達の彩はこうだって、自分の中で踏ん切りをつけられるようなことを話したい。永杜が、妹のことに気を取られて私との約束を忘れるなんて否が応でもできなくなるような、いつか私を忘れることがなくなるような、そのための一歩を踏み出したい。だって、きっと彼は特別な人だから。私は自分に人を見る目があるなんていう自負はないけど、彼の目は綺麗で、心が澄んでいて、目に見えて分かる特別な何かを持っていなくても、まるで小説の平凡な主人公みたいな何かの特別を、本能なのか、第六感なのか、なにでそれを知覚しているのかは知らないけど、これまでの人生で一度も、誰にも感じたことがない何かを感じる。私はそんな特別に惹かれて、彼なら私を受け入れてくれるのかもしれないと思った。

 ――――だから、今私が伝えようと思っていること、言いたいことをそのまま告げる、それをするだけの簡単な話、なはずなんだけどな————普通なら。

 私が普通の女の子だったら、きっと今の私は友達が人より多くて、もしかしたら既に彼氏もいて、いなければ例えば永杜とかと恋愛をしたいようにして、告白をして、されて、そんな人生を送ることを躊躇わなかった、躊躇うわけがなかった。

 とはいっても、実際の私だって尻込みしてばかりというわけではない。軽い気持ちで試みて、結局単純な理由で投げ出したことだってある。辛い人生を歩んできたかと聞かれれば、私はいいえと答える。それなりの人生を送ってきたから。

 でも、今辛いかと聞かれたら、私は、はい、と答える。大切になるかもしれない人というのが初めてだった。この人は特別かもって初めて思った。そんな人を前にして私は躊躇している。

 私には、彼を、私の人生に巻き込んでしまう勇気がない。特別な力を手に入れた漫画の主人公は、それが子供でも大人でもその力を人のため、自分のために正義として存分に振るっている。私には、それがわからない。だって、私の力は人の人生を歪めかねないから。

 彼を、大切にできないのならば――――


「そう。ってことでまた明日ね。ほんとに全然気にしなくていいから」

「お、おう。じゃ、行くよ」

「うん、じゃあね」

「じゃ」

私は、彼を大切にすると今ここで決める勇気がない。私は、自分が思うような、理想の関係を彼と築くことを躊躇ってしまう。

 永杜は去っていく。私も動かないと。きっと彼は振り向くから。この場に立ちすくんでいる私を見て、異変に気付いて、そのまま放ってはおかないだろう。

 ああ、そうか。昨日、昨日だ。私は昨日ここで永杜を呼び止めた。彼とのつながりが欲しかったから。それで、ラインを送って、会話を続けて、そしたら彼の方からも話題を振ってくれるようになって、嬉しかった。私の願いは、叶った。

 あれがちょうど一日前のことであるというのは不思議な感覚だ。もちろんあれは昨日の出来事で、その記憶も鮮明にあるけど、なぜだろう、何年も、何十年も何百年も、もっとずっと前の、ずっと昔の事のようにも感じる。きっとこれは私の情動があまりにも大きく、関係の進展が急激だったからだと思う。今の私の感情は、私が今思春期にある故のまやかしに過ぎないんだろう。

 行こう。家に帰れば父と母と妹がいて、きっともう晩ご飯ができている頃合いで、リビングから母の急かす声が聞こえて、ご飯を食べて宿題をしてお風呂に入って歯を磨いて寝て、起きて。そんな毎日を、自分の気持ちを殺しながら————

————どうして、私の心はこんなにも動く。どうして俯いた顔が上がらない。どうしてこんなに辛くて悲しくて涙が止まらない。————おかしいよ、これはだって、だって彼はたかが一人の男の子で、お互いのことなんてほとんど何も知らない数日前に出会っただけの友達候補。今別れたって絶縁するわけじゃないし、むしろ向こうが私を気遣ってラインをくれたこと、部活に来てくれたことに喜ぶべき時間なんだ。ただ、少し言いたいことが言えなかっただけ。どうして? 分からない。自分が分からない。

 ————”伝えたい”、今のこの気持ちは本当に私のもの?

そうでないのであれば、きっとそれは。

「ねえぇ!」

 感情のままに、人生で一回も出したことがない声量で叫んだ。今この瞬間も涙がこぼれ続けていて、しゃくりも上がるから顔も声もきっと不細工だ。周りに人がいるかどうかはわからない。私の頭は今この時感情を発散することだけにエネルギーを振るっているみたい。この乱れた感情が私自身に由来するものであるにしろ、ないにしろ、とにかくこの辛い感情から免れたかった。

涙が溜まった視界の奥にぼんやりと永杜の影があるのが分かる。あれ、なんでこんなに近くにいるんだろう。もしかして最後に喋ってから全然時間経ってない? え、本当に近いんだけど、てか目の前にいない?

「はい? え、ど、どうした」

 どうやら、彼の背中を見送ってからほんの数秒、彼が進んだ距離にして三メートルほどしか時間は経っていなかったらしい。

「涙で前が見えない!」

「おいおいどうした急に! やっぱ傷ついた? だったら本当に悪かった! 悪かったからとりあえず向こう行こう」

 永杜は私の腕を引いて、公園の内側へと急ぎ足で入り込んでいき、噴水の前のベンチまで来たところで腰を下ろした。急いだといってもここまで数分は歩いたので、その間に私の心は粉雪が降った次の朝の雪解けのように、迅速に、そして滑らかに落ち着いた。永杜に腕を掴まれて少し安心を感じたのは————私の情緒の変化に関係あるだろうか。

「——ふう。焦った焦った。とりあえず璃衣さん座って」

「————”璃衣さん”?」

「あ、つい。心の中では璃衣さんって呼んでだから。慣れなくて」

「————なにそれ。私は心の中でも永杜って呼んでだのにずるい」

「すまない。さんは外します」

「——いいよ、そのままで。璃衣さん呼び案外ありだ」 

「————んで。どしたの」

 どうしたもこうしたも私自身ですら自分の感情の高ぶりが不思議でならない。なんとなく、わかることはあるけれど。言えることと言えないことがある、と思う。少なくとも、今は。

 永杜のことを特別だと思っていること自体間違いかもしれない。間違いならば、今ここで彼に私の秘密を明かすことは彼、そして私自身の人生を必要なく歪めることになる。

 ただ、今なら言える、さっき言いたかったこと。どうしてさっき言えなかったんだろうって、笑えてくるくらいすんなり言える気がする。やっぱおかしいよ、さっきの私。あんだけ汚らしく叫んで感情を吐き出さないとどうにかなっちゃいそうだったのほんと笑える。

「——ふふ、あー、ごめんね。私女の子だからって言ったらわかる? 姉か妹いる?」

「いる。——ってあー、なるほど。なんとなくわかったかも」

「そ。なら良し。それでさ、」

 さっきこの言葉が口から出なかったのは、この時間を作るために神様が仕向けたものなのかもしれない。今後の関係とか、私の気持ちとか曖昧なものではなく、彼に私のすべてを、私の事実を知ってもらうための、第一歩を踏み出すためなのかもしれない。

「待たせた罰で、今日から私を家まで送れ」

「え、はあ。てか家まで? 璃衣さん家どこにあんの」

「こっから歩いて三十分かかんないくらい。家に使ってない自転車あるから、それで帰ればそんなにタイムロスにはならないと思うよ」

「はあ。まあ、俺が待たせたのが悪いわ。てかなに、俺のこと好きなんすか」

 自分で言っておいて照れているのか、やや口角を上げて永杜は言う。好き、ねえ。まあ好きなんだろうけど、私自身自分の感情についてまだ整理ついてないから断言はできないなぁ。

「今はまだ好きじゃないかなー」

 あ、今一瞬ぴくって動揺したのに冷静装ってる。可愛いなこいつ。

「まあ今後お互いどうなるかわかんないしね。てか私達出会って一週間で昨日初めてラインしたのに凄くない? やってること何ヶ月分か通り越してるよね」

「あなたがね」

「間違いない」

 この後、さっきの約束は明日からかと思ったら今日から家まで送ってくれて、その間私達は過去の話とか、最近の友達事情とか、いろんな話をしたけど、常にお互いがお互いを知りたがっていることが分かる、そんな時間だったと私は勝手に思っている。

 これから彼をもっと知って、知ってもらって、いつかは私のできることについても話すことができて、受け入れてもらえたら良いなと、都合の良いことを考える。


     2


 四月二十八日月曜日、入学して三週間が経ち、高校生活にも随分と慣れてきた。自分が授業を受けるなり部活に行くなりして実感する部分もあるが、特に大きいのは窓際の前から三番目に座る、入学して二週間を待たずして髪色が明るい茶髪へと変わっていた男、三谷玄也が授業中であるにも関わらず机に突っ伏して睡眠をしていること。これは俺にとって入学後やクラス替え後になんとなく皆の雰囲気が落ち着いてきた頃の風物詩であるのだ。

 四月の下旬に差しかかると気温が高く暖かい日も増えてくる一方で、低気圧やら北風やらで過ごし辛い日もまああるもんだ。個人的には秋頃の天候が過ごしやすくて好みなんだよな。過ごしやすいだけじゃなく日照時間の長く一日中熱苦しい夏と打って変わって、昼間は暖かく夜は涼しい、茜色の夕焼けの奥に広がる青黒い夜空は俺に哀愁を感じさせるには十分、というのは軽率な————

「住田、どこを見とる」

 びっ、くりしたあ。先生の突然の指摘に、心臓がバーシムかってくらい跳ね上がった。

「すんません」

 健気に目をかっ開いて授業を受けている僕よりも先に注意すべき輩が窓際前方三列目にいるでしょうに。諦めたらそこで教育終了ですよ、先生。

 先生はそんな俺の目線による訴えを理解したのか、玄也の方を一瞥するがやれやれの顔を一瞬作ってそのまま授業を進めた。

 と、玄也にばかり悪役を押し付けている俺だが、なんだかんだ校則の一つは日常的に破ってしまっている。というのも、授業中に璃衣さんから届く思春期の高校生男子と少子化くらい授業内容に関係のないラインを無下にするわけにもいかず、たまに授業中にラインのやりとりを繰り広げている。

 こんな風に。

『昨日のアイスほんと美味しかったなー』

『なんか言ってたね』

『じゃあ今日永杜があれ食べなよ』

『今日図書委員あるわ』

『何時まで?』

『分からんけど閉館までじゃない』

『えーじゃあ今日一人かよ』

 まずい、授業内容全然聞いてなかった。いつもこうなるんだよな、授業中に携帯を触らないってルールがある意味を実感するよ。にしても璃衣さんは席が一番前でどうやってスマホを触っているのだろう。うちのクラスの最前列は一見苦しそうにしながらもしっかり授業を聞いているように見えるが。

 よし、とりあえずあと一時間頑張りましょう。


 帰りのHRが終わり沢木さんに声をかけて教室を出ようと考えていると、教室後方のドアから璃衣さんが入ってくるのが横目に見えた。

「閉館って何時」

「ああ、はいはい。ちょいと待ちを。生徒手帳に書いてあるはず。————あった、十八時だって」

「そうなんだ。じゃあ部活の方が早く終わるかもね」

「あー、そうかもな」

「じゃーあ、十八時前に終わったら図書館行く」

「あ、そう。なんか借りる本あんの? だったら今借りればええやん」

「一人で帰るのつまんないの」

「俺のこと待つってこと? いいけど彼女みたいだね」

「はあ? 別に彼女じゃなくても一緒に帰るの待つくらいするでしょ」

「そうかな。てか香澄さんいるんじゃないの? だし、今日図書委員一年の五組から七組だから付き合ってると思わ————」

「じゃあもういい」

 と、食い気味で言って璃衣さんは教室から出て行ってしまった。あちゃーまたやってしまった。あの一件から早二週間になるが、その間に璃衣さんを一方的に不機嫌にしてしまったことが既に何回かある。まあ、毎回勝手に機嫌悪くして勝手に元に戻ってるんだけども。

 今から璃衣さんを追いかけるわけにもいかないのでとりあえず沢木さんに声をかける。

「沢木さん、先行っとくわ」

「あ、うん。よろしくね」

 沢木さんは今日も相変わらず美人で、所作が美しい。入学後三週間にして、うちのクラスの男子の何人かは彼女に特攻をして、完膚なき敗北を喫している。入学早々これだけモテてなおこれだけ清楚を貫くことができる女子高生は所謂国宝級に匹敵するのではないだろうか。

 沢木さんに声をかけた後、図書委員が始まる十五時三十分までまだ時間があるので部活の方に顔を出すことにした。教室を出て土間へ向かうまでの道中、璃衣さんがいるかもしれないと思って少し期待をしたが、結局土間に着いても彼女の背中に追いつくことはなかった。しかしなにか、図書館の前に璃衣さんに似た女子がいたような気がするんだけど気のせいかなぁ。図書館と女子部室は同じ方向にあるのでありえない話ではないが、俺があの可愛い璃衣さんと他人を見分けられないはずがないので、多分あれは無関係な人だ。紛らわしいことをしないでほしい。

 階段下に着くと、相変わらず仲の良い西野と渡辺が談笑をしていた。

「ういーっす」

「あれ、永杜今日休みなんじゃねーの」

「まだ時間あるから。今日お前らメニュー何だっけ」

「あれ、なんだっけ。西野ー」

「スタブロって言ってなかったっけ」

「あー、そうだそうだ。で、中距離はジョグの日か」

「そうだったわ」

「で、今日井部さんは来るの?」

「だからなんで俺に聞くんだよ。多分来るけど」

「お前いないから井部さんと沢山おしゃべりしたろー」

 西野は最近俺と璃衣さんの関係をこんな感じでいじイジってくるようになった。というのも、璃衣さんのことが大好きなんであろう加藤先輩がよく璃衣さんに話しかけているので、前に先輩と璃衣さんが話しているときそれについて言及したことがどうにも誤解を招いたらしい。まあ、こいつも分かってやってるんだろうが。 

「でもたしかに、お前のこと好きだったら中距離の練習参加するよなー。先輩とかたまにしてるし」

「はあ」

 なんだかその言い方は、それにまつわる事実を知っている身からするとむっとする。

 璃衣さんによると元々彼女は俺と同じ中距離が良かったが、約束を裏切られて精神が病んでしまい、短距離の方を選んでしまった、らしい。加藤先輩を始め他の先輩方にも気に入られてしまったので、中距離の方に参加するわけにもいかないそうだ。いや、だったらなんだ。別に璃衣さんが俺と同じ種目を望もうと望まいと、どちらでも構わないのだ。

「てか、お前本当羨ましいよ。部活中は多良さんと、部活後は井部さんとイチャイチャしてんだろ? 末恐ろしいな」

「本当こっちのセリフだわ。始めは真面目なフリして、結局正体出しやがって。末恐ろしいよ」

「末恐ろしいの使い方違いますー。あ、噂をすれば」

 と、渡辺が向く方からこちらへ歩いてくる二つの影のうちの一つは、女子にしては高い身長の頂部から暴力的と言えるまでに豪快に束ね下ろされた、さながら枝垂れ桜といった長いポニーテールを携えた全体的にガタイの大きい女、多良香澄。一年生の中距離は俺と彼女だけということで、部活が始まって約二週間、男女の割に仲良くさせてもらっている。とは言っても、彼女の気丈というか堂々とした振る舞いは俺に畏敬の念を抱かせるばかりで、なかなか彼女に対する遠慮に伴う敬語抜けないのだが。

 香澄さんの隣に並ぶとその小柄が際立つものの、宝玉と見間違わんばかりに繊細な身なりを持ち、香澄さんに勝るとも劣らないオーラを放っている彼女は井部璃衣。

 俺と彼女は偶然にも入学超初期に喋る機会が多くあり、他の部員より一足先に気の置けない仲にまで発展した。

 そんな俺と璃衣さんだが、今は面と向かって話すのが気まずい状況にあり、俺は一刻も早くこの場から立ち去り図書館に向かうのが賢明だと思っている。

 というか、またやってしまったよ。駐車場の暗がりから段々と鮮明になっていく二人の姿は何某のアニメやドラマのワンシーンのようでついプロローグを始めてしまうんだよなぁ。

「お前らが面倒だから俺はもう行くよ。仲間との大切な談笑の時間を奪ったことを存分に悔いてくれ」

「はいはい、悪かったよ。ほんじゃ明日なー」

「じゃーなー」

と、渡辺と西野に見送られた俺は暗がりを歩く彼女らに視認されないうちに図書館へと向かった。

 図書館に着くと時刻は十五時二十分を回った頃で、中を見渡すと単に読書をしに来た健全な利用者が一名と、図書委員会の一員なのか、司書室をチラッと覗いてはすぐに頭を引っ込めその度に手鏡で前髪を整えて、辺りをくるりと一周してはまた司書室を覗いている挙動不審な女子生徒が一人いた。

 あの子は確か、初めて図書委員会が開かれた日も同じように挙動不審にしていて、俺が声をかけた子だったか。

 つまりこの子は六組か七組なんだな。六組だったら璃衣さんと友達かもしれない。

 璃衣さんはあの一件以来よくうちのクラスに来るようになったが俺はあまり向こうのクラスには行かないし、友達事情は聞いても実際見ているわけではないので彼女がクラスでどんな様子なのかは個人的に気になる。

 作業がはじまって暇な時間ができたらさりげなく探りを入れてみよう。

 そして、沢木さんを含め今回の図書委員の面々が勢揃いしたところで司書さんから本日の活動について、前回の委員会を踏まえたおおまかな説明が行われた。

 司書さんは、見かけによらずロシアンルーレットとか好きなタイプで今日まではクラス別で役割分担してたんだけどなんかつまんなかった(本人談)らしく、今回の各委員の役割はくじ引きによって決められた。また、この間にさっきの挙動不審ガールが六組であることが発覚した。

 タイムリーなことに俺は摛衣さんと同じ六組の二人のうち、挙動不審な方と同じ図書の貸し借り受付担当となった。

「五組の住田と言います。よろしくどうぞ」

「あ、はい。よろしくお願いします。六組の内宮うちみやしずかです」

 初めましての女子と間隣にまで接近するのはなかなかに緊張するが、それでパフォーマンスを落としてはあの司書の思う壺な気がするのであくまで平静を保つ。

 しかし、この距離まで接近して思うが、普通に目も合うし特段変な子には見えないんだが、なんだってあんなに不思議な挙動をしていたんだろうか。

 それはさておき、璃衣さんのことを聞き出すとは言っても内宮さんがこちらと交流をしたがっているような気もしないし、むしろ放っておいて欲しそうな表情を感じるんだが。そもそも高校に入るまでまともに女子と話せていなかったのにも関わらずたまたま部活で世界一の美少女と仲良くなれたからって内宮さんみたいな隠れファンがいかねないくらいの女子に自ら話しかけようなんて身の程知らずも良く言ったものだぞ、俺。

 当たり前ながら残念な事実を痛感してしまい、一人勝手に寂しい気持ちで受付の席に座っていた。

 しかしまあ図書館の受付ってのは退屈で、たまに来る客(生徒)に適当な雑談でもふっかけて暇をつぶしてやろうかと思えるほどだが、なかなか雑談相手をしてくれそうな見てくれの客に当たらず、たまに少し事務的な会話を内宮さんと交わしては、それ以上会話が進展しそうにない事実に、また一人寂しさを見出しているのである。

 その一方で、他の委員が各個人せっせと図書の整理やら掃除やらをしている姿を見ると、男女二人で受付に座って事務的とはいえ会話が成立できているというのはなんとも優越感のあるものだなぁと思ったりもしている。もっとも、掃除係と図書整理係は司書さんの徹底した見回り後、了解が得られればその場で帰ってもいい完全成果主義なので、開始一時間も経たずして全員が解散をしていた。

 沢木さんは几帳面なのか、はたまた受付の俺や内宮さんに気を遣ってくれたのか、できる限り丁寧に見える様子で作業をして、最後には労いの言葉をかけてくれた。


 十七時頃、この学校の連中は決まった門限でもあるのかと思わせるように続々と貸出、返却を求める生徒が受付を訪れ、それはもう一目だけ見れば大型スーパーマーケットのレジかと見間違うほどであり、そんなゲリラ的ピーク帯を額に汗かき乗り越えた俺と内宮さんは、なんとなくほんの小さな信頼のような何かをお互いに抱けるようになったのではないかと、今現在俺は思う。

 これには理由がある。十五時三十分頃、委員会活動が始まったタイミングではこちらに目線すらよこさず本当にうっすら不満そうな表情をしていた内宮さんから、視線を感じるというか、表情も幾分か柔和になったような気がするのだ。

 よもやこれは、好機ってやつなんだろうか。

「内宮さん、大変でしたね。お疲れ様です」

「え、何がですか?」

 内宮さんはキョトンとした表情をしている。あれ、もしかしてうちの語り癖がまた状況を誇張して表現してました?

「いや、今結構沢山人来たなって」

「どこがだよ」

 と、内宮さんは薄ら笑いながら俺に“ツッコミ”をしてくる。

 どこがだよ? なにが?

 俺は内宮さんの“ツッコミ”を受けてから数秒経ったところで、ようやくそれが“ツッコミ”であることを理解した。

 おいおい、もしかして内宮さん、変な人なんじゃないか。だとすれば、変人対処が上手いでお馴染みの俺には好都合だぞ。

「急にツッコむやん。お笑い好き?」

「いや、違うわ。住田君が変なこと言うからじゃん」

 と、内宮さんはこれまたうっすら笑みを浮かべ、さっきよりわずかに声調強めでツッコむけれども、語尾の“だろ”の呂律が回ってなくて、声自体も幼なげと言うか、背丈はそれなりにはあるが、総じて小学生みたいで可愛い。

 てか、えー、何この人。お笑い好きでもないならなんでそんなに強気でツッコめるんですか。

 ちなみに内宮さんは肩甲骨の下端に届くほどの長さの綺麗な黒髪のストレートに黒のカチューシャを頭につけ、雪のように白い肌に縁がベージュの丸眼鏡をした可愛い系の人、というのがぱっと見の印象で、その身なりからこんな大胆なツッコミが飛び出すとは想像にもつかない。

「あ、うん。そうやな」

 俺の返答が期待外れだったのか、内宮さんは特に反応を見せず、そっぽを向いてしまった。

「そういえば俺、陸部で六組の知り合いいるんだよね」

「あ、はい。知ってます」

 今度は声音が弱腰だ。敬語になってるし、俺が怪訝そうなのが表情から伝わってしまっただろうか。

「あれ、どっかで見かけた?」

「璃衣ちゃんから聞きました」

「あ、璃衣さんから」

なるほど、通りで初めて話すってのにツッコミから入ってきたのか。だとすると、途中そわそわしてこっちをチラチラ見てたのってあのピーク帯(大誇張)を共に超えたからじゃなくて、璃衣さんが共通の知人であることについて話そうとしていたからだったりするんだろうか。

確かに、それでようやく話せたと思って、思い切ってツッコんでみた結果相手の反応が悪けりゃ中々キツいわな。

あれ、でもよく璃衣さんから聞く友達事情に内宮さんの名前も特徴も現れたことがない。もしかしてこの子、ちょっと変わってるから友達として認識してもらえてないのだろうか。いや、璃衣さんも大概変な人だけど。

いやしかし、璃衣さんが誰彼構わず俺の話をふっかけているのであればそれは考えものだし、実際彼女はそういう人ではないと思う。わざわざ部活と俺の名前を出して話すってことは相当仲が良いはずなんだが。

「璃衣さんとは仲良いの?」

「えー、わかんない、です」

「というと」

「えー、なんだろう」

内宮さんは、俺の問いに即座に対応できる答えを持ち合わせていないようで、頭の中で答えを探る仕草を見せる。

「住田君なら分かると思うんですけど、璃衣さんってたまに強気なことあります、よね? 普段は向こうから話しかけてくれるんですけど、たまに強気で何か言われると嫌われてるのかな私って思っちゃうんです」

ほうほう、この子はやはり見た目通り繊細な心を持ち合わせているようで、璃衣さんの強気な一面に翻弄されてしまっているらしい。

「いやー、気にしなくてもいいと思うよ。あの人気に入ってる人じゃないとそういう一面見せないだろうし」

「でも、璃衣ちゃんは私のこと話してないんですよね?」

この子は声音や表情が豊らしく、今度はわずかな笑みと共に悲しみがこもった声音を震わせてきた。というか、もしかして俺が内宮さんを璃衣さんの友達だと認知していなかったから璃衣さんが俺に内宮さんの話をしていないんじゃないかってことか? 内宮さん、中々に繊細レベル高めだ。

「いや、分からん。名前出してないだけで実は内宮さんだったとかあるかもしれないし。なんなら今度図書委員同じだったって話題振ってみようかな」

「あー、はは、ちょっと怖いですけど」

「怖い?」

「あ、えっと、本当に嫌われてたら——あ、————はい、貸出ですね。生徒手帳の提示お願いします。はい、ありがとうございます。貸出期間が二週間になっているので、えっと——五月、十二日の月曜日までにこの紙と一緒に返却をお願いします。延長の場合はその際にまた貸出手続きをお願いします」

内宮さんはカレンダーを横目で見ながら、貸出記録と利用者用の貸出届の両方に慣れた手つきで日付を記入する。この人、不思議というか、変わった一面がある反面、仕事は上手くこなす人らしい。

「嫌われてるかもしれんのが怖いと」

「あ、はい。まあそれが普通ですけど」

「普通?」

「あ、いや、なんとなくです」

「あー、はい。あるね」

この時、俺は内宮さんからあの一件の璃衣さんに近いもの(違ったら失礼ですね。すみません)を感じたので、それ以上深掘りはしないことにした。

俺は内宮さんは喋りやすいし面白いと思ったけど、なんてフォローをすることは、お節介な言動を恐れる俺にはできることではなかった。

この後、俺から内宮さんに何か声をかけることも、当然向こうから声をかけられることもなく、黙々と時間が過ぎるのを待っていると、気づけば閉館時間を迎えた。

司書さんから簡単な閉館作業について説明を受け、一通り作業を終えたところで今日の働きについて感謝の言葉を受けた。本当に感謝してくれてそうな言い方だったので、途中で抜け出さないで良かったと思った(途中、あまりの気まずさと退屈さで部活を理由に抜け出そうかという考えが一瞬頭をよぎった)。

二時間半隣り合って過ごした後で、たちまち解散して個々で帰るのは人間関係まで仕事の範疇であると言わんばかりであり、そういった思想の持ち主であると内宮さんに認識されるのは個人的に不本意であるので、世間話でもしながら途中まで一緒に帰ろうか、と考えていた矢先、見知った顔の女子が背筋を伸ばし、リュックの肩紐に手をかけて姿勢よく立っていた。

「おっすー、静ちゃん」

 あ、璃衣さんだ、という言葉はなぜか口から出ず、その感覚が妙に気持ち悪かったので頭の中で咀嚼をする。

「あ、璃衣ちゃん。部活終わり?」

「そー、一緒にかーえろ」

 璃衣さんは、内宮さんの隣にいる俺を他人としてでもなく、存在しないものとして、もはや扱いすらせず内宮さんの手を引いて自転車置き場のある土間方向の方へと向かっていった。

 うわー、最初もう機嫌が直ったから俺が委員会終わるのを待っててくれたと思ったわ、恥ずい。というかまだその感じなのか璃衣さん。これまで俺が何かアクションを取らずとも自然と向こうが調子を戻してくれていたが、とうとう行動の必要性を問われているのか俺。

 しかしまあ、たまには一人で帰るのも悪くはないし、あの中に俺が加わって三人で帰るよりも女子二人で仲良くお帰りになられる方が、特に内宮さんにとっては好都合だろう。

 さて、そもそも俺から向こうに謝罪をする義理なんてないし、家に帰ってやることでも考えますか。

 とは言いつつも、もうほとんど日が落ちているもののまだ街灯が点く時間でもないので、中々に視界が悪い歩道を歩きながら、若干の哀愁を感じる俺なのである。

 自転車置き場までの所要時間を考えると、俺が信号を渡る頃にはもう女子二人が学校を出ているかなと思ったので、信号を渡り切って左折をしたタイミングで学校の方を横目で確認してみたが、その時点ではまだ二人の影は学校の外になかった。

 そんなに時間かかるか? じゃれ合いでもしてんのかなお二人さん。まあ、璃衣さんとの関係に自信がなさげにみえた内宮さんが楽しくできるんであれば、俺は大満足ですよ。

 あの件以来、毎日欠かさず璃衣さんを家に送っていたので最短ルートで帰るのも約二週間ぶりになるのか。なんというか、ここ最近は井部家の一戸建てを見てから我が家に帰っていたので、直接自分の家を拝んで得る気持ちを改めて感じているのが不思議だ。

 と、環境と自分自身の感性の変化を身をもって体感しながら自宅に到着した。

「ただいまー」

「おかえりー。早かったね。もうすぐご飯できるよ」

「ういー」

 最近、家に帰る度にこの会話をする。正確には、普段は既に夕飯ができているわけだが、たまに急用ができたとかで書き置きだけが残された日の悲壮感から飯が用意されることのありがたみを俺は知っているので、一応毎度感謝の念をテレパシーで送ってはいる。

 あれ、でも今思えば普段は璃衣さんを家まで送って帰ってくるのに往復三、四十分とかかかるけど、それで今日と同じくらいの時間に帰っているのか。ということは璃衣さん、内宮さんと帰りたいがために三十分以上待ってたの? いや、そこまで仲良ければ内宮さんの気後れした感じは違和感あるしなぁ。え、じゃあ本当は俺と帰るつもりだったのか? だとしたら、勝手に女子二人が良いもんだと判断しちゃって声もかけずに帰ったの、璃衣さんよりも内宮さんに悪いな。内宮さんは自分のために待ってくれたと思ってるわけだもんな。

 いや、考えすぎだ。何にしても二人で帰ったんだからこれ以上俺が何か思索を続ける必要はない。そしたら、さっとシャワー浴びて飯食って、だな。

 シャワーを浴びて風呂場から出ると、洗濯機の上に置いてあるスマホにラインの通知が届いていることに気がついた。




 私って本当間抜けだなぁ。自分から待たないって啖呵切っておいて結局待って、そのくせ喧嘩ふっかけた手前開き直ることもできず、結局別の友達と帰ることになるとは。

 いやでも、もし私と彼が実際に付き合っていたならば、あの言い方はない————いや、まあ付き合ってないからね。仰る通りですけど、付き合ってなくてもあんな言い方されたら嫌でしょ、普通。

 付き合ってると思われるって発想があるならそれを嫌がるのはデリカシーがないし、そもそもそういう風に思われたくない相手を毎日家まで送るな! ————これは私が言って始まったことだけど。

 いや、あれは理屈じゃないから。人の気持ちが分かる人なら————そう、あいつなら考えれば分かるはずなことだからムカつくんだ。ちょっと仲良くなったからって、もう少し気を遣え!

 でも、一緒にいたのが静ちゃんで良かったな。あの状況で静ちゃん以外のクラスメイトがいても一緒に帰るの免れようなかっただろうし、あの子とか、あの子とかだったらほんと地獄になりかねなかった。

 静ちゃんは、どこか私と似た雰囲気を感じる。私は静ちゃんほどおどおどしないし、静ちゃんよりは自分に自信あるような気がするし、シンプルに言えば私の方が可愛いだろうし。

 でもどこか、私と同じように、本当に大事な時に限ってずっしりと重くのしかかる、何か特別なもモノを背負っているような気がある。かなーり先入観と偏見が強い事言ってるけど。ま、別にそれが理由で仲良くしているわけではないからね。

「いやほんと静ちゃんお疲れ」

「璃衣ちゃんも部活お疲れ様ー」

「いやいや、図書委員長くない?」

「うん。私は受付だったから」

「てことは他の係の人は帰ったの?」

「あー、うん」

「あ、じゃああいつと静ちゃんが受付だったんだ」

「そう、だね」

「ふーん」

 二人で受付ってことは、ずっと隣だったのだろうか。————どれくらいの距離感だっんだろう。でも、そういえば二人が図書館から出てきた時、永杜に視線を送らないことばっか意識してたけど、距離がすごい近かった気がする。

 てか、私自身が永杜のことばかりに意識を向けていたけど、この二人って二時間ちょっと隣で受付をしてたんだよね。内気な静ちゃんとは言え、初対面ではなんだかんだ愛想の良い永杜相手なら比較的楽に話せそうっていうか、相性良さそうだし、そもそも静ちゃん普通に可愛いから、永杜も鼻の下伸ばしてそう。

 なんか、イライラする。

「あ、そういえば璃衣ちゃん、私のこと待っててくれたの? 私、てっきり住田君と帰るんだと思って」

 うん、そうだよ静ちゃん。私は十七時半前に部活終わって、三十分近くあなた達が中で仲良く受付してる図書館の前で待ってたんだよ。

「うん。三十分以上待った。——まだお礼されてないけど」

 普通、どれだけ待ったか分かんないわけだから気づいたらすぐお礼するべきでしょ。謝罪しろって言ってるわけじゃないし、当たり前のことだよね? 大方、高校で初めてまともに男子と話せてテンション上がってたんだろうけどさ、そもそも私と永杜が仲良いから話せたってのもあるじゃん。

 てか静ちゃん、私が永杜と帰りたいの分かってるのになんで声かけてくれなかったの? なんか言ってくれたら私も素直に永杜と帰りたいって言えたのに。

「あ、そうだよね。ごめんね、ありがとう。でも、今から急いだら追いつけると思うし、私のことは気にしなくていいからね」

 なんであなたにそんなこと言われなくちゃいけないの。私だってあなたがさっき永杜の隣にいなければ今頃一緒に帰っていたし、永杜を前にして素直になれなかったから今ここにいるのに。あなたにそんなこと言われたらもっと会いに行きづらくなるんだけど。

「てか、静ちゃんは永杜と仲良くなれたの?」

「え、いやぁ、全然かな」

「へー、そうなんだ。仲良くなれて良かったじゃん」

「ん、璃衣ちゃん? ごめん、私今仲良くなれなかったって意味だったの」

「いやいや、良かったじゃんって」

「——璃衣ちゃん?」

 あーもうイライラする。コイツ、なんで正直に言わないの? 正直に沢山喋って仲良くなれて嬉しいって言えばいいのに。私には秘密ってこと? ほんっとなんなのコイツ。さっきから喋り方とか声とか表情とかいろんなトコがいちいち癪に触る! 私だって二時間以上永杜と対面で、しかも隣で話せたことなんてないのに、なんでこんなヤツがそれをできるわけ? こんなヤツの隣で二時間以上離れられなかった永杜がほんと可哀想。今後もまた図書委員があるときはコイツと接点を持たないといけないし、次も受付になるのかは分からないけどもしなったらきっと永杜疲れちゃう。そんなのだめ。永杜は毎日部活を頑張って、そのあとは私を家まで送ってくれて、毎日大変なんだからこんなヤツ如きに振り回されちゃいけない。

 ——————そうだ。永杜が図書委員にならなければ良いんだ。

 私の力の適応範囲がいつまでなのかは分からないけど、もしそれが可能なら永杜は委員会に行くこともなく、毎日部活に行ける。それで、コイツと出会うこともなく、ずっと私のそばにいてくれるはず。

 そうだ、それがいい。コイツはきっと今後私と永杜が一緒になるのに絶対的に邪魔だ。こんなことなら端から話しかけたりしなかったのに。

 てか、どうせ私の名前出して距離詰めたんだろうし、ほんといやらしい、汚い女。なんなの、あの距離感。まさかコイツがこんな腐れビッチだとは思いもしなかったわ。

 いや、そもそもコイツは普段からいちいち気に障るところが————————普段?

 この時、ようやく私は、自分が異常な憎しみと怒りを静ちゃんに向けているという事実を理解した。

 コイツは普段からどこか気後れしていて、自主性がなくて、私がどれだけ近寄ってもその分遠ざかるような、友達として仲良くするには割の悪い、やつ。

 初めて話した時も名前を聞いたら、私のことはいいよ、って、自己紹介を遠慮するなんて前代未聞だし、体育のペア作る時も、私の方来れば良いのに、自分じゃなくていいって示すかのように私の方をあえて見なかったり。

 そっか、静ちゃんってそういう子だ。

 そして私は、自分が一瞬でも現実的に考えてしまった発想が、酷く恐ろしいモノだったことに気づく。いや、いつもは分かっていたはずなのに、突然の感情の高まりで、私は完全に自我を失っていた。この前の一件の時と同じだ。今になって、私じゃない誰かに私の感情が乗っ取られていたかのような感覚がした。

 昂っている間は感情と自分が一体化していて気づけなかったけど、これは明らかに異常、前と————いや、前と違う点がある、

 前は、彼を大切にできないと思って、でも関係を変えたくて、そのジレンマに耐えられなくて、感情が暴発した、そんな感じだった気がする。だから、特定の誰かに感情が向いていたわけではない、今回のように。

 今回、私は静ちゃんに対する憎しみの感情が、ほんとに気付かないうちに増えていって、最後には私、あんなこと————。

 私は、自分が恐ろしくなった。どこからともなく湧き出した、自分のものかも知らない怒りと憎しみに完全に覆い尽くされて自分を見失っていたさっきまでの私に私は戦慄をする。足の震えが止まらず、その場に立ち竦む。静ちゃんが何か声をかけてくれているけど、私の頭は彼女の声をただの音として認識しているようで、内容が理解できない。

 頭蓋骨にヒビが入るような感覚とも、頭の血管が切れて血液が溢れ出している感覚とも取れるが、とにかく、これまで、周りの環境のおかげか、基本健康、平和に生き続けた私のような人間は到底知らない痛みに、今直面している。

 息がしづらい。呼吸がどんどん速くなっている。呼吸は速くなるのに肺に入ってくる空気はどんどん薄くなっていく。

え? 私死んじゃうの? このままじゃ息が続かなくなっていつか死んじゃう。ねえ、やだ、ねえやだ、ママ、パパ、愛梨、私やだ、死なない。

 考えることができなくなって、そこにいもしない誰かに助けを乞うか、死への恐怖を募らせることしかできない。

 そして私は、死、存在の消失、そして自分自身のどうしようもない恐ろしさを、理不尽さを、身をもって知る。


 ————この時のことは、今でも鮮明に思い出せる。本当に死ぬかと思って、でも走馬灯なんてものは見えなくて、私、こんなにあっさり死んじゃうんだって。こんな最後絶対嫌だって、死にたくないって、それだけがただひたすらに頭の中をぐるぐる回っていて、すぐそばに人が、私にとって、ほんとに大切で、そして心の綺麗な友達がいることに気づいたのは、彼女の肌の温もりを感じた時だった————。

 

「璃衣ちゃん!」

 その時突然、私の身体は温もりを感じて、失っていた自我が漲るように戻っていく感覚と共に、これまで頭に入って来なかった静ちゃんの声が鮮明に響く。冷えていた身体が、段々と温まっていくようであり、熱のこもる身体が冷却されていくようでもある。

 彼女が二言目を発する間も無く、私の意識は平時の状態を取り戻し、頭痛は治まり、呼吸は落ち着き、たった数秒前の自分の状態を疑った。私は今、至って落ち着いた精神状態にある。

 一般に、人が急激な情動を体験し、それを超過した直後にどのような精神状態を催すのかは、私には分からない。

 しかし、やっぱり自分の今の落ち着きは明らかに不自然だ。これまでの十五年間で、自分が“制御”できないと感じたことは一度もなかったし、“制御”できる上では私自身に恐ろしさを感じたことはない。

 けれど、この一ヶ月で、私はあまりにも激しい情動を既に二回経験した。

 いずれも、特定の個人と対峙している状況だったし、相手が人の良い二人だから私に実害はほとんどなかった。ただ、仮にこれが何らかの疾患——特別な場合も含めて——なのであれば、それは今後の私にとって大きな障がいになるだろうし、他の人にも迷惑をかけかねない。

 今回は、たまたま未遂に終わったに過ぎない。

 情緒を取り戻したものの、私は今後の自分の行く末を案じずにはいられなかった。けれども、そんな私が正気を保てているのに理由がある。

 背中の温かく、柔らかい感触が先ほどから絶えず残っていた。————柔らかい? これってもしかして、静ちゃん、私の事を後ろから抱きしめてくれている? だとしたら、この柔らかい感触はつまりそういうことで、静ちゃんは見かけによらずなんとも豊満なものを持っているということになる。

 いや、そんなことはどうでも良くて、————彼女の優しさは、私を救った。

 静ちゃんの抱擁は完全に自我を失っていた私に影響を及ぼしたけど、私はそれを偶然と思うことはできなかった。そんな私は、彼女になにか神秘的、超常的な要素をがあるか確かめようと意識が働きかけるまでもなく、気付けば彼女の目を見つめていた。

 彼女の目は、やはり私と同じだった。

 私は、自分で言うのも恥ずかしいが、自分の目は他の人とは違うような気が、数年前からしている。人種とか遺伝子の発現とか、そういう理屈しかないへったくれとは明らかに違う何か。

 他の人に指摘されたことはない。でも、私自身は、自分の目が煙のような、暗闇のような、何か良くないもので塗れているように感じると同時に、そんな影の奥に明らかなる光が差している事を、視覚ではない、何かで感じている。

 それと同じものを、彼女の、主張は弱いけどもよく見れば綺麗な茶色をした眼から感じ取ることができるのである。

 確信はできなかった。視覚で捉えているのとは違って、直接頭にイメージが入ってくるだけだから。

 しかし、彼女の瞳から感じ取った何かは、私に、自分で傷つけ、悲しませた静ちゃんともう一度、逃げ出すことなくこの場所で、何の変哲もない自転車置き場で向き合う勇気を与えてくれた。

「璃衣ちゃん! 聞こえる?」

 静ちゃんが私を抱きしめる腕に力が加わっていって私のお腹が内側にえぐれていく苦しさを感じると同時に、背中に当たる彼女の贅沢なモノの力感ない感触から、疑いは確信に変わった。

「————うん。ごめんね」

 空気を和ませるためにチョピっと舌を出してウインクまでしたけど、静ちゃんには通じないらしい。

「良かった! 良かった璃衣ちゃん。私、本当にここで璃衣ちゃんが死んじゃうんじゃないかって思って————」

 静ちゃんは抱きしめる力を一層強くして、私の背中に顔の半分を預けてぐすんぐすんと鼻をすすって泣きながら必死に自分の気持ちを伝えようとしている。

「私、璃衣ちゃんの事だけ考えなくちゃなのに————自分の心配しちゃってぇ」

 ————そっか。うん、そうだよね。静ちゃんが、保身を考えた自分を後悔するくらい心から優しい子で、私があなたを傷つけていい理由なんてありえないって、いつもは分かってる。

 私は、そんな彼女に余計な心配をかけて、心の中では陥れようとさえした。

 そもそも、今回怒りと憎しみが暴発したのは、自分自身とは違う何かの作用だって言うこと自体、責任逃れも甚だしい。

 だって、私からしたら私じゃなくても、静ちゃんからしたら私は私だ。

 自分じゃないと思う何かがあったとして、それを制御できずに人を傷つけるのであれば当然それは私の責任になる。

 でも私は、私が怖いし、責任が降りかかるかもしれないことも、当然怖い。

 それにこれ以上静ちゃんに危害を加えたくもないから、今すぐにこの場を立ち去って、今後彼女とは極力接さないように努める————というのは結局自分本位なんだと思う。

 静ちゃんのことを第一に考えたならば、私がすべきことは決まっている。

「静ちゃん、私がピンチになったら、また助けてね」

 彼女を拒絶せず、信頼して向き合うべきだと思う。

「――――うん、うん。ごめんねぇ、璃衣ちゃん」

 静ちゃんは少しずつ落ち着きを取り戻して、嗚咽も収まりつつある。

 彼女は多分、自尊心が著しく低いんだと思う。

 私は、静ちゃんがこれまで具体的にどんな人生を歩んできたのかは全く知らない。

 でも、今みたいに私が勝手に不機嫌になって、勝手に憎しみを抱いて、勝手にそんな自分を恐れて、勝手に崩れ落ちる。そんな、彼女が介入したはずのない状況でも自分を責めているのは、過去の環境とか、人生とかじゃなく、もっと今現在が密接に関わっているような理由があるんじゃないかと、私は思う。静ちゃんと私は似ているから。

「――――とりあえず、一緒に駅まで行こっか。静ちゃん電車だよね」

「うん。でも私は一人で大丈夫だから、璃衣ちゃんは住田君と帰って」

「でも————」

 私が二の句を継ぐより先に静ちゃんが普段より少し強めの声量で、

「話したいことあるから」

 という、普段の声がそもそも小さいので彼女なりに頑張って出したんであろう叫びは、言葉の終わりにかけて弱まっていき、最後にはほとんど吐息になっていた。

「え、話したいって――いいよ、今聞くよ」

「今じゃダメだから」

 もう声を張る気力もないらしく、今度は言葉全体が吐息に装飾を施したかのようになった。

「今じゃダメ――なんだ。そっか」

「うん――――それに」

 静ちゃんが次に発した言葉は、私が静ちゃんに対して若干の遠慮をしていたために、踏み出すことが憚られていた一歩で、私が永杜との関係を変えたくて、踏み出そうとしたけどできなくて、でも結局は彼の優しさで、踏み出すことができた一歩に似たような、大きいようで小さく、小さいようで大きい勇気を要するものだった。

「また嫉妬されたら困るから」

 少し引きつった笑みと、目じりの涙を浮かべて、静ちゃんは言う。

 私、たった今まで、静ちゃんを傷つけることは、他の人の場合よりも自分の中で大きい罪になると思っていたし、彼女はどちらかといえば守られるべき存在だと思っていた。それは、もしかすると心のどこかで静ちゃんのことを下に見ていたからかもしれないし、特別な人生をここまで生き抜いてきた自分におごっていたからかもしれない。なんにせよ、私は彼女の外面を見てのみで誤った判断をしていた。

 静ちゃんは、もしかしたら人よりも心が弱いのかもしれない。人との距離の取り方がわからないのかもしれない。けれども、それを私が確かめる術はないし、確かめる必要もない。

 なぜなら、彼女はただ人よりも純粋で、心が綺麗なだけで、私よりもはるかに勇敢だから。

 私は、込み上げる笑いを抑えることなく、

「そうだね。じゃあ、急ぐから。また明日」

 そう言って、自転車に跨った。

「ちょっと、早すぎるよ。もうちょっと名残惜しい感じ出すかと思った」

 静ちゃんも笑う。この子がこんな感じで、込み上げるように笑うのは初めて見るな。

 お互い数秒笑って、私の方から別れの意思を示し、彼の家へ向かって自転車を漕ぐ。

 それにしても不思議だ。この数分間で私は、静ちゃんを憎んで、守るべきだと判断して、そして彼女は自分より勇敢であることを知った。

 明日から、もっといろんな静ちゃんを見るようにしよう。そう、決心をした。


 自転車を漕いでる短い間、私は彼女が言う”話したいこと”について考えた。

 ここまでの急展開となると、この際だから言うけどパターン、も考えられるが、それをわざわざ今日でない別日に話す理由は分からない。

 さらに、私は彼女にどこか共通点を見出していて、彼女の瞳は私に知覚の外からイメージを持たせた。

 だとすると――――いや、そんな確率があるとは思えない。奇跡としか言いようがない事象に自らが関与しているかもしれないことを信じられない心理、っていうのはあると思うけど。

 そもそもそれって起こり得ることなのかな。

 その結論を自分の中で出す前に、目的の場所に着いた。




 ラインが来ている段階で大体の予想はついてはいたが、送り主はやはり”璃衣”だった。その確認をして、ひとまず濡れた身体をバスタオルで拭く。

 いやしかし、学校から帰ってすぐに浴びるシャワーはやはりいつよりも気持ち良いな。今現在はほとんど義務化というか、中毒化している朝シャワーも当初は気持ちが良いという理由で始めたわけだが、その比じゃないな。 

 温水で筋肉がほぐれていく感覚と、皮膚表面の血流が増加していく感覚が疲れた体を癒すようで心地良い。これはまさに、聖なる娯楽と言うに及ぶだろう。

 とまあ、帰宅後のシャワーに対した特に上手くもないレビューはさておき、ラインだライン。

 さっき数秒間だけ俺をこの世から抹消した超本人からラインが届いているというのだ。どんな内容か気になるに決まってる。さーて、平然か、謝罪か、はたまた怒りか。

『来れる?』

 というメッセージが七分前。そして一件の不在着信が三分前。

 ラインの内容としては意外性が高いというか、俺が璃衣さんに好意を寄せていて、今日ガン無視されたことにもやきもきしているようであれば、それは萌えに昇華したんだろう。

 当然、璃衣さんには少なからず好意を抱いているし、自分の主義に反することにはなるが仮にそういう関係になるチャンスがあれば、場合によってはそのチャンスを活かすかもしれない。

 だがしかし、今の俺は風呂上がりという超鉄壁バフがかかっており、璃衣さんがどんなに淫乱な姿で誘惑し、俺を外へと導こうとしても、俺は玄関で立ち尽くすばかりだろう。

 風呂、もといシャワー上がり、汗をかきたくないんだ。分かるだろ?

 ただ、もしかしたら璃衣さんはいまだに待ち続けているかもしれない。例の一件でも長いこと待っていたらしいし、とりあえず折り返し電話をしようか。

 ”璃衣”に電話をかけると、携帯にワンコールも歌わせず、電話は取られた。

『もしもし? 遅いんだけど何してんの? さっきからずっと待ってんだけど。約束忘れた? 毎日送るって言ったよね? あれ嘘だったの?』

 えっと――これ大丈夫なやつ? なんか妙に口数が多いし、早口だし、情緒も少し乱れているような感じもするし、質問攻めだし、まさかまた同じやつきたか? というか、毎日送るのも、別に楽しくてやってるけどもとはといえば璃衣さんの命令だしなぁ。

 とにかく、完全に不機嫌なので、どうにかして理由をつけて帰らせるか、俺が夕飯を食べ終えるのを待たせなくてはならない。

『あ、璃衣さん? ごめんシャワー浴びてた。そんで今からご飯なんだけど、どうする?』

『えー、なにそれ』

『ごめんよ。帰ったかとおもったんですよ』

『帰ろうと思ったけどね』

 はて、何をもって気が変わったんだろうか

『てか待った?』

『そんなに。電話した時に家の前着いたから』

『あーそう。で、夕飯食べ終わるまで待つ?』

『あーーー――――いや、一旦切るね』

 ツー。

 突然呼び出されたかと思ったら、突然電話を切られた。で、俺はどうすればいいの?

 まあ、上司からの指示が一切ない場合は自分の独断で意思決定をしていいということが俺の方針として決まっているので、とりあえず急ぎ目で飯を食うことにする。

 飯を食い終わった頃にはシャワー上がりのバフが切れているかもしれないしな。

 洗面所を出て、リビングを経由して自室へと向かい、散乱させていたリュックやらの荷物を整頓していると、インターホンが鳴った。その瞬間に、俺の頭は何を考えたのか心臓がヒュンと跳ね上がった。

 いや、まさかな。そう思いつつ恐る恐るリビングと部屋の間の襖を開けると、戸が半分近く開きかけ、インターホンの前に立つ母と”目が合った”時点で疑いは確信に変わった。

「永杜、女の子来てる。可愛い子。もしかして、前言ってた子?」

「いや分からん。ごめんけど先ご飯食べといて」

「はーい」

 そして、玄関の扉を開けると、当たり前だが璃衣さんがいた。

「なんですか」

「えーっと、部屋入れてくんない? 待つから」

 璃衣さんは少し不貞腐れたような顔をし、身体の後ろで手を組んで足を遊ばせながら言った。

「————んん? 部屋って、俺の部屋ってこと?」

「——そ」

 璃衣さんも、仲が良いとはいえ男子の部屋に上がるということが、場合によっては特定の意味を持つということを理解しているのか、少し恥ずかしそうにどこに目線を向けるともなくしている。

 頬が少し赤らんでいる気もするが、そこまで恥ずかしいなら帰ればいいのでは?

「悪気なく聞くけど、なんで帰らないの?」

「色々あって話したいから」

 話したい、ねえ。そんな都合の良いことを言って俺が女子を部屋に上げるとでも?

「話すって、何を」

「うーん。結構大きいこと。もしかしたらあんたに引かれて、もう会わなくなるかも」

 付き合う直前の男女じゃあるまいし、会わなくなるって。そもそも部活同じだし。

「はあ。それを今日話したいの? 明日じゃダメなの」

「————ダメ?」

 璃衣さん、僕らってあくまで友達としてやらせてもらってますよね。共通認識として、現段階で関係を進展させたいとは思っていないですよね。

 ――――じゃあ胸張って上目遣いするとか、やめてくださいよ。

「とりあえず上がって」

「わーい。家族いるよね?」

 今の俺は、本当に璃衣さんとどうにかなるつもりなんてないし、仮に今告白されてもすんなり付き合うとも思わない。長いこと信頼を積み上げてやっとそういう展開になることを望んでいるからだ。

 ああそうだ、家族いるよね、を耳元で小声で囁かれた場合の話をしてなかったな。

 想像に任せるよ。

「い、いる」

 璃衣さんが若干怪訝そうな顔をするが、あなたが悪いんですよ。

 しかし、つい家に上げてしまったが、そういえば俺の部屋へ移動するにはリビングを通過する必要があるから、璃衣さんとうちの家族は確実にご対面ということになる。

 ――——こういうのって付き合ってる男女がやるもんだよなぁ。

 ガラガラ、とリビングの引き戸を開けると、いつもの食卓の配置につき、テレビニュースを見ながら夕飯を食べる母と妹、在り。

「こんばんはぁ。井部といいます。すみません突然お邪魔して」

 あ、そういえば友達、引いては女友達が家に来ることを事前に伝えそびれた。これで母と妹が驚いたような反応をしたら璃衣さんに悪いが――——。

「あ、井部さんって言うのね。こんばんはー。いいえ、気にしないで」

 良かった。母はなんとなく察してくれていたみたいだ。玲がノーリアクションなのも母に事前に刷り込まれてのことだろう。至れり尽くせりとはこれのことだ。

「えーっと、じゃあ璃衣さんは部屋で――」

 俺が璃衣さんを部屋へ連れ行こうとすると、母が俺の言葉を遮断して、

「ちょっと永杜、井部さんだけ部屋に残すつもり?」

 と、当たり前のことをなぜか眉間にしわを寄せ、訊いてくる。

「そうだけど」

「そんなの酷いじゃない。——ねえ井部さん、ご一緒に晩御飯、どうですか」

 母よ、よくもまあ易々と言ってくれるもんだよ。あんたは適当に面白がってりゃいいかもしれないけどな、今を生きる俺たちにとって、同級生の男女がどちらかの食卓で夕ご飯を頂くというのは、若いうちでも海抜高度が最も高いハードルもとい山の一つなんだよ。

 井部さんだって、何も既に俺との将来を考えているなんてことはないだろうし、俺とはただの友達で、他に本命ができましたなんてなったらここでの晩御飯は黒歴史になるんだぞ。

 あんただってそのまんま赤子としてこの世に生まれ落ちたわけじゃあるまいし、初心に帰って――――

「えーいいんですか? 是非! あ、でも妹さん大丈夫ですか?」

 両手を顔の前で合わせて、声を高くして言う璃衣さん。あれ、この人ってこんな女性らしかったっけ。そして、璃衣さん余裕で喜んでますね。別に嫌だったらやんわり断ってくれてもいいんですけどね。

 断りづらいのか、はたまた本心から食事を共にしたいのか、真意は定かではない。

 母が玲に同意を求めると、玲は何を言うでもなくコクリとうなずいた。

「ありがとうね。――えっと、名前はなんていうの?」

「玲だよ」

 璃衣さんは、代わりに名前を教える俺の方をちらりと見て、すぐに玲の方を向き直す。

「可愛い名前ー。よろしくね、玲ちゃん。私璃衣っていうの。名前ちょっと似てるね」

 椅子に座る玲の目線に合わせてかがんだ璃衣さん。それにしても、こういう狭い空間で女子がかがんだ後ろ姿を見るっていうのはなんだ、背徳感みたいなものがあるな。

 玲は嬉しそうにうなずいて、璃衣ちゃんも可愛い、と呟く。玲って、つい最近まで初対面の人に対してはもうちょっとそっけないイメージだったけどな。中学生になって愛嬌ってもんを覚えたのか。それとも、もしかして玲、ビビっと来てたりするのか。ませた中学生女子が自分より大人っぽい高校生女子にお姉さんを求めて憧れちゃったりするあれなのか。

「とりあえず、璃衣さんは手洗って。ご飯準備できるまで部屋で待とう」

 玲とのちょっとした会話を終えた璃衣さんは、俺に引かれて洗面所、そして部屋へ移動する。

 そうしてようやく、一瞬でも地獄の空間から逃れることができた俺であった。


 璃衣さんが、ママに電話しなきゃ、と言って電話をかけた。意外にもというのか、璃衣さんは可愛いからもっと過保護なもんかと思ったが、そんなに厳しくはないらしく、二つ返事で了解を得た。

「無理しなくても良かったのに」

「無理? してないよ。妹ちゃんと仲良くなりたーい」

 璃衣さんは膝を三角に曲げ、重心を身体の後ろ側に回し、畳についた腕二本で支えているが、無防備にも脚が少し開きすぎだ。意識をすると短く感じるくらいの丈のスカートの中が見えそうで目のやり場に困る。貞操観念が低い人って行動に現れるって言うよなぁ。璃衣さん元カレ何人かいるとか言ってたし、もしかしてそのうちの一人と――――いや、場合によってはもはや彼氏かどうかすら関係ないのかもしれん。別に璃衣さんを生涯の伴侶にしようとなんざ考えてもいないが――――ああいう性格の璃衣さんだからこそ、潔白でいてほしいな、なんとなく。

「ならいいんだけど。――――てか結局なんで気が変わったの? しょうもないことで怒ってるって気付いた?」

「は? しょうもなくねーわ。あなたが悪いのには変わりないから」

 おっと、てっきりその件は不問になったと思ってあえてラフに言ったが、いまだ根に持っているらしい。

「じゃあなんだっていうんすか」

「んまあ、ここじゃ話しにくいから。帰るときに話す」

「今日も家まで送るのか」

「当たり前じゃん。家出る頃には外真っ暗だよ? 私一人じゃ危なくない?」

 いつまで居座る気なんだ、とは言わない。十九時頃にはすでに外は真っ暗になっているから、璃衣さんがその時間を指して言っていたのであれば恥をかく。

「はあ。――――そういやテスト週間は?」

「あー、」

「できたよー」

 璃衣さんが回答を出す前に母からの呼び出しがかかる。これに関しては母も責められるいわれはないだろうが、中々に間が悪かったな、今のは。

「はいよー」

 そして、俺はまたあの気まずい空間(襖一枚隣)に向かうことになる。

 それにしても、こういった状況の攻略法を俺が知っているわけがないのでどう立ち回ればいいのかわからないが、一歩間違えたら本当に地獄になりそうだ。

 ————どうやら、俺がその心配をする必要はないらしい。

 なぜか俺よりも先に璃衣さんが襖を開けてリビングへと若干頭を下げながら入っていく。こりゃたまげた。中々に勇敢ではないか。

 しかし、結局璃衣さんが実のところどういう人なのかまだ分かっていない気がする。初めて見た時の印象は、今でも部長やら他の部員やらへの対応から同じものが感じられるし、俺と初めて話した時の印象は部活の時とも違い、今の俺との接し方とも若干違う。

 比較的短期間で距離が縮んだので璃衣さんについて詳しいことをあまり知らず、あくまで即席の仲であるということを自覚させられる。

「すみませーん、わざわざ」

「いいえ、私から誘ったし」

 二人は、ウフフ、と笑う。璃衣さん、若いのにその笑い方完全に習得してるんだな。普通、もうちょっとぎこちないもんだと思うが。

 普段と座る配置が違うのが少し気になる。長方形のダイニングテーブルの一辺に玲と母、ここまでは普段通りだが、普段はその隣の辺に俺が一人で座るのだが、今は俺と璃衣さんが隣り合って座っている。リビング自体が十一畳とさほど広くないので距離は非常に近いと言っていい部類だと思う。

 璃衣さんは気まずい様子を見せることなくパクパクと白米とひきわり納豆を食べる。ちなみに、ひきわりと白米を別々に口に運ぶタイプだ。

 てか、人の家でひきわり食べる経験ってしない人の方が多いよな。突発的なイベントとはいえ、一般的にはもうちょいましなものが出てくるんじゃなかろうか。

 別に、ひきわり納豆を客人に出す家庭とか、ひきわり納豆自体を批判しているわけではないが、一般論としてそういうものじゃなかろうか。

 しかし璃衣さん、よく食べるなぁ。先週の土曜日の練習終わりに激安の定食屋に寄って昼飯を食ったときには食べっぷりは特に気にならなかったが。

 璃衣さんは、母と妹と楽しそうに話しながら、ひきわり、白米、焼き鮭、白米、サラダ、白米、そして味噌汁、白米と、白米がそれぞれジャンルの異なるおかずと四股をする様子を見事に描いて食を進めている。

 初めて話すというのにあまりにも自然に溶け込んでいて、もはや俺に会話の負担がないことで楽すら感じた。

 夕食を食べ終えると璃衣さんが率先して洗い物をやると言い出した。俺は貸しを作りたくなかったので自分の分の食器だけ洗い、手持ち無沙汰になるのも嫌なので璃衣さんの隣で洗い物が終わるのを見守っていた。

 なぜかお互いに話しかけようとしなかったのでただ淡々と洗い物をする璃衣さんを、ただ淡々と俺が見つめるという妙な状況になった。

 そして今、時刻は二十時三十分を回ろうとしているが、俺と璃衣さんと玲は三人仲良くWiiのスーパーマリオブラザーズで遊んでいた。

 さっきまでは長いこと母と玲と璃衣さんの三人で女子トークを繰り広げていて、俺は女子会に混ざろうと思えなかったので静かにテレビを見ていたが、少し前に母が風呂に入ると言って一時離脱し、ゲーム大会が始まった。

 てっきり、そのタイミングで璃衣さんは引き上げるもんかと思ったが、璃衣さんはゲームがしたいと言い出すし、玲もノリノリだしで、いつになったら璃衣さんをお家へ返せるのかが分からず、心配になっている。

 璃衣さんがご両親に今日の出来事を正直に話した場合、不審がられるのは璃衣さんより住田一家だろう。

 まあ事実として、帰り道は一応俺というボディーガードがいて、家の中でもやましいことなんて一ナノメートルもなく女子会やらゲームやらを楽しんでいるだけなんだが。

 また、璃衣さんを家に返すことも念頭にはあるものの、今何よりも気掛かりなのは、璃衣さんの距離感がこの短時間で急激に近づいているということだ。

 これまでは、近距離とはいっても触れることはまずない程度の距離感をお互いに維持してきたが、さっきから璃衣さんが操作するキノピオの動きに合わせてゆらゆらと揺れるため、頻繁に肩と肩が触れ合っている。

 璃衣さんはパっと見ゲームに夢中になっているようで俺との距離感なんて全く考えてもいないように見えるが、裏を返せばそういう風に装って俺に接近しようとしているとも――――いや、愚かなのは分かっている。分かっているとも。璃衣さんのようなマリオでいうピーチ(個人的にはデイジー)級の女子とたまたま仲良くなっただけでそんな発想をするのはもはやセクハラに等しい愚行だということは理解している。

 しかしだな、当事者になれば分かるが、そう思ってしまうんだよ。

 やけに紅潮して見える璃衣さんの楽しげに笑う表情は、俺に必要のない期待を増幅させると同時に、俺がこれまで目視してきた数々の女性の瞬間の可愛さランキングにおいて、彼女自身が持つ最高記録を優に追い抜き、トップに躍り出たのであった。

 母が風呂から上がると、そろそろご両親が心配するだろうと言って璃衣さんを家に返そうとする。

 玲は完全に璃衣さんに懐いたので、泊って行けと璃衣さんに、泊ってもいいでしょと母に懇願するが、結果は分かり切って、双方苦い表情だ。とはいっても二人とも、井部家のご両親を鑑みてのことだろう。しかしまあ、もう少し粘っても罰は当たらないと思うぞ、妹。

結局、玲は泣く泣く(本当に)璃衣さんを見送ることとなり、その流れで璃衣さんがまた住田家に遊びに来ることが確定した。明日から毎日璃衣ちゃんは来ないのかって聞かれそうだなぁ。

 俺と璃衣さん、まあ実質璃衣さん単体は母と玲に盛大に見送られて、帰路についた。

 この時期の夜中は涼しくて、人通りも少ないし心地良いなと呑気なことを考える。

「いやー、玲ちゃん可愛いね。そういうとこはあんたに似てるかも」

「俺可愛いの?」

「どちらかといえばね」

 確かに俺のみてくれはいかにもダンディーな側には位置しないだろうが、その逆は可愛いになるのか。自分の見た目を分かりやすく指摘されたのが初めてだったので、少し頭の中で受け入れるのに時間がかかる。

「そうんなんすねー。――――にしても夜中は過ごしやすいね」

「夜中好きみたいな言い方じゃん。私はあんまり夜中うろつくことないけど」

「たまにランニングしたりするからなー」

「あー、ね」

 とはいっても、夜中の人気が少ない道を男女で歩くのは初めてなので少し浮足立っているような感覚はあるが。

「でさー、聞いてよ今日のこと」

「いつの話?」

「さっき、っていうか、あんたが図書委員終わって、私と静ちゃんが二人で自転車置き場行ったとき。でさ、私ほんと最低なんだよね」

 そう言って自分を卑下する璃衣さんの瞳はわずかに潤んでいた。見れば分かるが、今の彼女の情緒は落ち着いていて、ただ辛くて、自分自身としての感情を発散しようとしているんだと思う。前みたいな、何かに取り付かれたような璃衣さんではないことは確かだ。

「――――というと」

 璃衣さんは今にも泣きそうな表情をしているが、顔にかかった前髪を両手でさっと払ってしっかりと自分を保とうとしている。

 そして、璃衣さんが、込み上げてくるものを堪え切ったのか、口を開いて第一声を発そうと軽く息を吸うと―――――。

 前方に、見知った顔が見えた。ちょうど、本通りに差し掛かった辺りで、前方から制服姿の玄也がこちらへ向かってくるのが俺の視界に入る。

 これはついてない。今の璃衣さんに気を遣わせたくないのもあるし、シンプルに状況が気まずい。多分、あの距離とこの暗さじゃ玄也は璃衣さんの表情や、今の雰囲気を読み取れないだろうから、あいつは何も考えず気さくに話しかけてくるだろう。

 今からでも俺が神妙そうげに俯けば――――いや、バレたくないものだと感づかれて、余計に面倒な接触になりかねないな。迂回するのも少し璃衣さんに悪い。

 だとすると適当にいなすのが最善か。

 普段俺は玄也を道端で見つけてもわざわざ大きな反応をしたりはしないし、向こうが気付かなければそのまま素通りする。つまり今は向こうからの接触を待つしかないわけで、となるとその旨を璃衣さんにも伝えた方が良いだろう。

「ちょっと待って璃衣さん。前方に知り合いがいるので、あいつとすれ違ってからにしましょう」

「え? ――――うん」

 なにやら不服そうな顔をしてますけど、貴方のためでもあるんですよ。

 ある程度近づくと、やはり玄也は遠くから俺を発見し、おおげさに手を振ってこちらへ走ってきた。

「いやー奇遇だな永杜、何してんの? デート?」

「飯食ってた。お前はバイト?」

「おう。早く帰って寝たいわ。———あ、――――ほんじゃな。井部さんも、じゃあね」

 そう言って玄也は早々にその場から退散していった。やはり、微妙な空気を感じ取ったんだろうか。あいつ、そういうことには鼻が利くからなぁ。

 璃衣さんは、未だに涙なのか嗚咽なのかが込み上げてきているのか、笑顔で手を振るのが精一杯なようだった。もしくは俺と玄也が長い仲であることを知っているので、余計な対応をする必要もないと判断をしたのかもしれない。

「意外にもそそくさと去っていった」

「――――泣いてると思われたかな」

 璃衣さんの涙腺はもはや決壊寸前で、声音は明らかな涙声だ。

「あいつ深いこと考えてないから。なんにしても問題ない」

 俺はあくまでフォローのつもりで言ったが、璃衣さんは先ほどと同じように不服そうな顔をして、

「――――てか、別に話すの止めなくても良かったじゃん。結構思い切って言おうとしたのに」

 と、ついに不満を吐露する。

 確かに、息を吸って声を上げようとしていた璃衣さんは無理をしているというか、頑張っているんだなというのは分かっていた。そうか、そういう時は不都合な事情よりも、その時の璃衣さんの気持ちを優先した方がいいということなのか。

 ――――あのまま、静止せずに璃衣さんが話を続けていても、気付いてたなら言ってくれれば、とか言われそうだけどなぁ、という推測は心の中にしまっておこうと思う。

「それはごめん。気付いてたけど、泣いてるとこ見られたくないかなと思って」

「気付いてたならなんで止めたの?」

「いやだから、泣いてるとこ見られたくないだろうと思って」

「なんでそうなるのかわからない」

 璃衣さんはとうとう、しくしく泣き始めた。もはや始め涙ぐんでいたのとは関係のないことで泣いている気がするけど。いや、というよりは初期状態の守備力が低かったからほんの少しの打撃で決壊したというところか。

「――ごめん。で、今日何があったの?」

 泣いていることに注意を取られて気付かなったが、璃衣さんは怒ってもいるようで、眉間に少ししわが寄っている。

「――はぁ。今日静ちゃんと話してて、あんたと静ちゃんが図書委員の受付? で同じだったって聞いたの」

 璃衣さんはこちらには視線もやらず、ただ少し俯いて、涙を手の甲で拭きながら話しているが、なんでそんな調子なんだ? そんなに悪いことしたかな、俺。

 璃衣さんの機嫌が悪いとこちらの調子も狂うので、上手く相槌ができそうになく、ただ話だけ聞いていようとしていると、

「ねえ、聞いてんの?」

 と、気付けば不機嫌オーラ全開の璃衣さんに睨まれる。

「ああ、うん、悪い。それで?」

「――――はぁ。んで、なんかむかついたの」

「ほう」

 むかついた、ねえ。具体的に誰の何がむかついたのかが分からないが。

「なに、ほうって」

「あー、いや、誰の何がむかついたんか聞いてなくて」

「――んじゃあそうやって言えば良くない?」

「ああ、うん」

 ――――面倒くせえ。何がどうしたらこんなに不機嫌になってしまうわけ? ついさっきまで玲が可愛いとか言ってたし、前向きに今日の話をしようとしてた感じだったのに、玄也の件がそんなに気に障ったか?

 いやでも、璃衣さん不機嫌な時ってこれまでだと、俺が何か話しかけようが何も喋らなくなっていたんだよな。今日の委員会終わり然り。

 なのに今普通に会話できてるってことは、実際不機嫌ってわけじゃないのか? それとも璃衣さんなりに頑張って喋ろうと試みてくれているんだろうか。

 真相は分からないが、そういえば逆のパターンが今日あったな。

 明らかに不機嫌になる場面ではないのにやけに静かだったときが――――洗い物してた時だ。あの時の璃衣さん、やけに静かだったけどなんだったんだろう。俺も俺で話しかけなかったわけだけど、それは特に話すことがなかったからで、普段の璃衣さんはなんでもかんでも口にする人だからなぁ。

 そして、璃衣さんは真実を語り出そうと、静かに口を開く。




 いや、確かに三谷君のことはちょっとイラっとしたっていうか、私が勝手に腹くくってたからその温度差でむっとしたけど、別にそんな問題じゃないのよ。

 普通に、あんたと静ちゃんが二時間隣で過ごしたことに嫉妬した、って言えるわけなくない? とりあえず一旦詳細はぼかして内容を伝えたけど、無理無理。

 言うの恥ずかしすぎて自然と不機嫌な感じになっちゃったのももったいない。普通に今日永杜の家にお邪魔して夜ご飯を一緒に頂いて、ご家族と親睦を深められて――――あと、今の私達新婚さんみたいだなって、あの時思った。私が洗い物をして、なんでかは知らないけど永杜が隣で見てて、新婚の夫婦ってこんな感じなのかなって思えて、幸せだったな。緊張しちゃって全然言葉出てこなかったけど、そんな雰囲気も心地良かった。

 そう、せっかくなら私の嫉妬心だって、この人に聞かせてやろう。もう、この人を私の人生に巻き込むのは自分の中で決心したはずだ。

「――――私、それで静ちゃんが憎くなって。私だって永杜と二時間隣で過ごせたことないのに――――あ、でもちょうど今日あんたの家で二時間くらい隣だったかも。でも、その時までは静ちゃんが羨ましくて、憎くて、言い方分かんないけど――報復、みたいなことまで考えちゃって。私、もっと永杜に近づきたいし、仲良くなりたいし、もっと知りたいし、知ってほしくて。――――でもそれに、静ちゃんが邪魔だなと思って」

 永杜は少し驚いたような表情をしている。どうしてだろう、私にとって、こんなこと永杜本人に伝えるの恥ずいし、なんなら屈辱的だし、向こうからしたら重すぎて、嫌われるかもしれない心配だってしなきゃいけないはずなのに、本心を吐露するほど、永杜への気持ちが強まっていくのを感じて、彼への愛おしさが増していく。

「私、永杜に辛い思いしてほしくなくて。――――その時は本当に、静ちゃんは、私にとって最悪の女で、そんなやつと図書委員で関わらないといけない永杜が可哀想で――――部活もあるのに。だから、私、――――」

 文脈で考えれば、この後、私は自分の力についてを彼に話すことになる。しかし、そんな文面の理屈は、私の盛る想いの下では気にすることではなかった。話はいつでも、いくらでもできる。

 今はとにかく、もっと彼に近づきたい、触れたいと思った。こんな感情を人に抱くのは初めてだった。でも、なぜだか自分が何をしたくて、どうすれば良いのか身体は理解していた。

 だから私はそこで足を止めて――――彼の左手の指に、私の右手の指を絡ませて――――一歩踏み出して、彼と私の胸と胸との距離を狭めて――――私の胸部が彼の身体に当たる感触と主に、彼の体温と、急ピッチの胸の鼓動を感じて――――――

 彼の顔を見上げるが、その顔は私を受け入れてくれているのか、そうでないのかが読み取れない。もし今、私の行為が彼の望むものではなかったとしても、その後に彼が私を拒絶することはないと、私は言い切れる。

 だから、自分のやりたいことをやる。

 絡め取った彼の右手を彼の胸あたりまで身体に沿い上らせるのと同時に、視線を彼の目線に合わせて、顔を近づける。

 そして私は彼と口づけを――――――交わせたら楽だろうね。

「ちょいちょい」

 彼は私の頭を二度ポンポンと手で叩く。

「嬉しいよ。こんだけ近づいてもらえるのは。――――でも、まだ俺は責任持てないわ。――――いや、そういう責任じゃなくて、ちゃんと付き合っていける責任というか、付き合うって人付き合いのことな。――うん、まあとにかく」

 彼は、私が握る彼の手を優しく、慎重に解いて、両手をそれぞれ私の肩に乗せ、私を軽く後ろに押した。

 まだ身体が火照っているのは分かるけれど、頭は冴えている。

 まあ、そうか、そうだよね。

 当然私はここで決め打つつもりだったので期待外れはその通りだし、残念であるのは言うまでもない。けれでも、ショックではないというのも、また本音だ。

 ある意味予想通りであると共に、彼の誠実さを身をもって知ることができた。

「悪いね」

 私は、へへ、と笑って、彼に詫びる。

「――――いや、謝ることじゃないよ、璃衣さん」

「なんで?」

 彼は、私の手を取りながら、笑顔で私の目を見て語りかける。

「だってあなた、超絶魅力的でしたよ。あんなの誰でも惚れます」

「————そんなこと言われても、拒絶されたフォローにはならないよ」

 そう、拒絶されるというのは多分誰もが恐れることで、拒絶してきた張本人の慰めなんて聞きたくもないことだ、普通は。

 ――――でも、私は嬉しい。

「――――で、話の続きは?」

「あー、それ? また今度話す。とりあえず静ちゃんに申し訳なーいってこと」

「そうですか」

 三谷君と永杜の付き合いは小学生からだから――――十年目か。小さいころを付き合いにカウントするかどうかは置いといて、十年間知り合ってるってすごいな。私は高校に同じ中学の人いないから、同じコミュニティーにいた連続年数は最長で九年ということになる。

 私と永杜は出会って一か月。

 ――――もう何か月か、いや、何週間、んー、何日か。うん、まあ、あとちょっと仲良くなってから、私のことを話そう。

 今度は、静ちゃん悲しませちゃったエピソードトークの流れとか後ろ向きな理由じゃなくて、前向きな理由――――彼と向き合うために、私のことを話したい。

 そんで、今度こそあいつをオとす。

「何してんの? 早く帰るよ」

 永杜は、ったくよ、と言いながらも私についてくる。

 そんな彼を見て自分の顔がほころんでいるのを感じて、私は今の私が幸せだってことを再認識した。


     3


 五月二十一日水曜日、県立南高等学校は今日も平和である。

 個人的には約二週間、長い人では三週間、定期テストさんが黙々と我々生徒を見つめる真剣なまなざしがようやく昨日逸れ、今日はとうとう真っ向からご対面する日。 要するに、今日はテスト返しが行われる日だ。

 陸上部は五月の頭に大会があったこともあり、五月第一週の土日までは活動が続けられたため、いわゆるテスト期間(原則として、部活動などの課外活動は活動を休止し、生徒が勉学に励むことを目的とした期間。部活動での鍛錬を楽しみにする生徒は多いので、一部には忌み嫌われる期間である一方で、部活がないことで普段遊びたい欲を発散できていない生徒からすれば、勉強そっちのけで遊び呆ける期間でもある)は約一週間、テスト本番が約一週間で計二週間、俺はテストという沈黙の圧にさらされながら生活をしなければならなかった。

 そんな圧迫感から解き放たれた開放感が身に染みるさなかに、テスト返しより先に行われる一大イベントが、席替えだ。

 テスト最終日の昨日、うちのクラスでは帰りのHRでくじ引きが済まされたため(担任の好感度は上がったことだろう)、今朝黒板に新たな座席表が貼り出される手筈になっている。

 たった今、始業のチャイムが鳴る少し前に俺は入室したが、その段階で未だに黒板の前で男子が集まって、誰の席がどうだとかを大声で喚いたかと思えば、小声で誰々さんの席はどこであるとかを言い合って楽しそうにしている。

 また、座席の最前列辺りには女子も集まっており、各女子グループの代表が男子の雑踏をかき分けては座席表を確認し、グループに報告しに行くなんてことをしている。

 俺も自分の座席を確認しなくてはと思い、男子の中に溶け込んで――――女子とは違い男の俺はこの集団に同化することが可能――――座席表の目の前まで来た。

 すると、先ほどからの喚き散らかしランキングダントツの一位を記録していた玄也が俺の姿を見た途端に、

「おい、来やがったぞこいつ!」

 と喚く。

 隣から声がするので横を向くと、玄也がこちらを鬼の形相をして見つめていた。

「なに、朝から」

「おはよう永杜。お前を罪を冒した」

「は?」

 玄也の周りを見ると、悔しそうな顔をして天を仰ぐ者や、楽しそうに笑顔を浮かべてこちらの様子を伺っている者など、普通ではない何かがありそうな雰囲気だった。

「いいから住田、座席表見てみ」

 玄也の隣で落ち着きがなくニヤニヤしていた堀越が俺に座席表を見るように催促する。

 言われた通り見てみると、俺の席は窓側後方、いわゆる主人公ポジってやつだった。はあ、こんなんで恨まれないといけないのか。だとするとこの席を二回連続で引き当てる強運者が現われようものなら、殺人事件でも起きてしまいそうだ。

「おー。神引ききたー」

 実際、あの席は確かに一級、いや特級レベルの立地なので中々に興奮で身体が熱くなる。

「お前、ちゃんと見た?」

 騒ぎ果てたのか、玄也が今度は呆れたような顔をして、首だけを動かして俺に再確認を促す。

「はあ? 見たって。なに、周りの人? えーっと――――あー、沢木さん?」

「そうだよ!」

 玄也は、女子に沢木さんのことで騒いでることを知られたくないのか、小声ながらも最大限に力を込めて食い気味に言う。堀越は小声で怒鳴る玄也がツボに入ったようで、小声、玄也小声、と繰り返し呟きながら腹を抱えている。

 しかし、沢木さんが隣かぁ。図書委員の当番の日にわざわざ沢木さんの席まで赴く必要がなくなったが、それで二週間に一回程度の利得だ。そんなことよりも、前璃衣さんが話してくれたことを踏まえると、また璃衣さんが嫉妬とかしてしまう可能性があるので迂闊に沢木さんとの談笑に花を咲かせるわけにもいかない。

 ま、素直に喜べるのは席の立地くらいだな。

 午前の授業はテスト返却に特化した変則的な時間割で、一時間に二科目分のテスト、四時間で計八科目が返却され、テスト返しは無事終わった。

 無事というのも、俺はどうにも出来が良い方だったらしく、全科目の合計点が学年で十四位というこれまでに見たこともない好成績の成績表を俺は手にした。

 県内何番手かの公立高校なので、特別学習意欲が高い生徒が少ないのかもしれないが、だとしてもできすぎではないだろうか。南校は普通科のみなので、学年全体約三百人中の十四番は、明らかにやりすぎだと思うがな、神様よ。

 成績表は一限の前に配布されたので、休み時間にうちのクラスに遊びに来た璃衣さんに自慢しようと先に璃衣さんの成績を聞くと、俺よりも格段に高い四位という成績を収めており、しかもなぜだかは分からないが大してその結果に思うことはないようで、結局それ以降テストの話はしなかった。

 また、想定していたよりも成績が良い現象は各所で観測されているそうで、まともにやれば上位を狙うのも難しくはないらしい。

 で、今が昼飯の時間ってわけだ。

 前の席では隣の新田と昼飯中に軽く話したりはしていたが、積極的に他の誰かと机をつなげて集まったりはしていなかったので、この席でも同様に一人虚しく弁当の包みを開いていると、

「よ」

 真横に璃衣さんがいた。

「びっ――くりしたあ」

「ははは、なに驚いてんの」

 璃衣さんは当たり前かのようにどこからともなく持ってきた椅子を俺の机の横に配置して、手提げから取り出した弁当を俺の机の上に置く。

「なに、ここで食うの」

「うん。――――ダメ?」

 わざとらしく眉を下げて上目遣いをする。

「はいはい」

「だよねー」

 ははは、と笑って弁当の包みを開け、いただきます、と言って俺よりも先に食べ始める。実に動きがスムーズだ。

「――――んで、今日はどうして」

「んー、――この席だから? 前は両隣に人いたし、あんたも隣の子と喋ってたりしたじゃん」

「あー、なるほど。てか喋ってたのなんで知ってんの」

「お弁当ない日に食堂行こって誘おうと思ったら喋ってた」

「ほー。で、一人で行ったの」

「うん。静ちゃん速攻で食べ始めちゃうから」

 どうやら、二人は先の一件を経て仲が深まったようで、なんととある日は璃衣さんが俺を差し置いて静ちゃんと帰ると言ったりしたくらいだ。

 しかし、この前のうちでの晩餐会で璃衣さんの食べっぷりの良さに気付いて以来、相変わらず食の進みが速いと感じる。

 一口は小さいので何度も頻繁に白米とおかずを交互に口に運んではパクパクと食べ、口にものを含んだ顔を見られたくないとかそういう心持ちが皆無だと分かるように、こちらに目線の合わせてくる。

 しかしまあ、――――綺麗な子だ。

「で、今日は静ちゃんと一緒じゃないのか」

「――――”静ちゃん”? ――あれから図書委員なかったんじゃないの」

「あなたが言ってるのを真似ただけじゃないですか」

「そゆこと。てかその顔やめて、笑える」

 確かに顔に少し力が入っているので眉間にしわでも寄っていたかもしれない。

「普通に永杜のとこ行ってくるって言ったよ。あの子ぼっち飯がデフォだし」

「それでいいんかね」

「いいの」

「――—―というか、俺も一応一人で食べるの悪くないと思っていたんだよちょうど」

「は? なんで?」

 腹立たしそうながらも訝しげな顔をして、低トーンの声で璃衣さんは言う。

「今いないけど、隣の席女の子だったじゃん」

 璃衣さんは声に出して相槌をするでもなく、唇をへの字に曲げて、ほんの少し頷く。

「その子もそうなんだけど、その子と仲良い子がいてさ、放課とかに二人の会話聞いててもすげー可愛らしい話してて」

「――――で?」

 腹が立っていたたまれなくなったのが目に見えて分かるほど顔に苛立ちが現れている。

「普段そういうの聞けないから、良い経験になるな、と」

「あっそ!」

 ちょ、結構な声量出しますねー。あ、ほら今一人、あ、二人、何人かこっち振り向いてるじゃないですか。あそこの方なんて納得したような顔して前に向き直していますよ。

 沢木さんの隣になってただでさえ疎まれてるっていうのに、あなたみたいな美少女に、なんかヤキモチみたいなことされてる描写伝わってしまったら僕の立場がないんですがね。

 その後、不機嫌モードに突入した璃衣さんは弁当を食べ終えるまで一言も発することなく、さらには弁当を食べ終えたというのにも関わらずなぜか席を離れず、頬杖をついて机の木目をなぞっていた。


 ――――————そんな不機嫌ガールが隣に居座る閉塞的な状況でも、窓の外の青空や、喧騒が飛び交うクラスを遠目から眺めたり、隣で仏頂面をする美少女を気取られないよう見つめてみたりして、この場所での平和を、多分必要以上に感じていた。

 普段からのどかな雰囲気には惹かれているし、平和ってのは俺が一番大事にしたいものなんだけども、多分この時俺が感じていた平和ってのは、いうなれば相対的なもので、その後に起こることになる不穏な出来事の前兆だったんだと、後から振り返って思う。

 学校に通うのが当たり前で、毎日何の疑問も持たずに学校に行って、授業を受けて、休み時間を過ごして、飯を食って、部活へ行くなり、遊ぶなりして、もしくは何もせずに家に帰る、そんな風に生きてきた人間なら誰もが体験したことがあるであろう、静寂。

 確率論の学者にでも聞けば答えが返ってくるのかどうかは分からんし、それはどうでもいいことだが、多分意外にも高い確率で喧騒の中に訪れる、束の間の静寂。

 そんな静寂に、不穏な何かを感じたことはないだろうか。

 人為的な、もしくは自然科学的な、はたまた超常的な、何かしらの強い力が人々の頭に作用して、この静寂が引き起こされたんじゃないかという、漠然な不安。

 それだけ聞けば、大体の人がその話者を健全な中学二年の男子と推定すると思う。その場合、漠然とした不安ってのは話者が実際に感じているものではなく、そうあってほしい————何か非日常的な現象を現実で体験したいという願いを不安って文字に表しているだけなんだろう。

 その上で、俺の場合は違うっていうのはどこか横暴のような気もするが、そうなんだ。

 俺は確かに、その漠然とした不安ってやつを五感なのか、第六感なのか、受容器がどこかわからないってのも都合の良い話に聞こえるが、感じた。

 そして、その不安は、残念なことに的中することになる――――————。


 教室の喧騒が突然静まったかと思うと、何人かの携帯の通知音が同時に鳴った。

 今同時に、何個鳴った? 二、三個くらいは、なんならそれ以上が同時に鳴っていたような、本来軽やかな通知音が重低音になりかけている感じだった。てか通知音消せよお前ら。昼飯の時間だからってわざわざ通知が鳴るようにしているのか?

 周りをよく見ると、通知音が鳴った人の携帯だけではなく、他のクラスメイトの多くも同じタイミングで通知を受け取っているようで、新鮮で斬新な話題に皆が嬉々としている様子だ。

 それにしても、こんだけの人数の携帯に同時に通知が行くって、学校からの連絡か? いや、でもさっきの音ってラインの音だよな。学校にラインの公式アカウントなんてなかったしなあ。

 あれか、グループラインに誰かがふざけて何かしらを載せたのか。

 自分の携帯にも通知が来ているかもしれないが、それよりも璃衣さんの携帯からも通知音が鳴っていたのでそちらに頼ることにした。

「璃衣さん、何の通知?」

「は?」

「いや、はじゃなくて。今璃衣さんの携帯通知鳴ったでしょ」

「何言ってんの?」

「いや、――――鳴ってたやん」

「いや私マナーモードだし」

 どうやら机の木目をなぞるのに夢中で通知音に気が付かなかったらしい。

「勘違いじゃないの。現に鳴ってたよ通知」

「はあ? ――マジで知らないんだけど」

 璃衣さんは頑なに俺の言うことに耳を傾けず、頬杖をして一点を見つめたまま動かないので、自分の携帯で通知の正体を確かめようとした矢先に、教室中にドっとしたどよめきが立ちこんだ。

 周りをよく見ると、隣にはわけが分からない様子で不安そうに、なんだろうね、とか言い合う沢木さんと飯久保いいくぼさんがいて、もっと全体を見渡すと、多くの人が携帯を指さしたり操作したりしながら不安そう、というかどちらかというと不審そう、訝し気な表情を浮かべて友人と何かを言い合っている。

 あれ、そういえば完全に風景に溶け込んでいたから忘れてたけど、璃衣さんってうちのクラスじゃないよな。ということはさっきの通知はクラスラインでもないということになるのか。

 いい加減、身の保全って意味でも通知の正体を知りたくなったので自分の携帯をポケットから取り出すも、どうやら電源が切れているらしい。充電し忘れたかな。

 璃衣さんに問いかけても埒が明かないことは実験から証明済みなので、隣の沢木さんらに聞いてみることにした。

「なあ、二人も通知来た?」 

 俺が尋ねるや、二人は分かりやすく不安そうな顔をして首を横に振った。この二人も中々可愛らしい。

「私達も一応携帯開いてみたんだけど、何も来てなくて、何も分からないの」

 と、携帯を開く動作や、通知が何もきていないこと、そして現在当惑状態なことを身振り手振りを使って表す沢木さん。

「そうかぁ。でもなんだろうな、すごいざわついてるけど」

「ねー。住田君は来てなかった?」

「分からん。電池切れて」

 はは、と女子二人は軽く笑う。すると、沢木さんの机の右側を陣取っていた飯久保さんが机に身を乗り出して、

「なんのラインだったのか、予想しようよ」

 と、俺の左隣で勝手に仏頂面選手権を開催して勝手にグランプリを狙っているそうな璃衣さんを含めているのかいないのか、俺と沢木さんをそれぞれ一目して飯久保さんが言った。

「ねえ咲、変なこと始めようとしないでくれる?」

 沢木さんが呆れたように笑いながら言う。なるほど、この二人は意外にもこういう発展的なやりとりをするんだな。二人の可愛らしさを表す形容詞を思い付きあぐねていたが、この二人の雰囲気が醸し出すのは、子供の可愛らしさというよりも、清楚なレディの魅力みたいなものに近い気がする、

「でもさー気になるじゃん? えーじゃあ私はぁ、校長の不倫現場の写真だと思いまーす」

 ここで安易にウケをとろうとして、殺害予告だとか言わない辺りがそのピュア・レディたる所以だと思う。

「えー、不倫? だったら最悪」

 飯久保さんに呆れながらも話の流れに乗ってあげる沢木さんはさながら面倒見の良い姉のようだ。

 しかしまあ、俺がこれほどに微笑ましい展開に立ち会えたのは、常に声がでかい玄也や堀越が食堂に行って飯を食ってくれているために、いまだにネタバレがされていないおかげだろうし、感謝しなくては。

 彼ら、今頃向こうでは騒いでいたりするんだろうか。

 ここで、飯久保さんの提案辺りで仏頂面選手権を棄権したのか、はたまた無事閉会を迎えたのか、だとしたら未だに仏頂面なのはグランプリに至らなかったからなのか、グランプリに至ったが故の威厳としての表情なのかは分からないが、携帯を取り出して恐らく例のラインを確認してくれようとしているんだろう様子だった璃衣さんが、

「ねえ、私ライン見れるけど」

 と、女神のように愛想の良い女子二人が正面にいるというにも関わらず、一点に俺だけを見て携帯を片手に、故意だと思われない程度の小声でそう言う。

 璃衣さん、沢木さんたちと話したくないんだろうか。今でも基本は人当たりの良いはずなんだけどなぁ。ごくたまに不機嫌・トゥー・オールになるんだよな。

「お、璃衣さ――――」

「あ、井部さんちょっと待って!」

 俺が仏頂面選手権を終えた璃衣さんに労いの言葉をかけようとすると、それを飯久保さんの言葉が遮った。

 そんな飯久保さんの介入に、璃衣さんは少し面を食らったようにして、

「へ? あ、はい――待ち、ます」

 と、珍しく心から溢れ出るように敬語を使う。

「もー咲、突然大きい声出さないでよ」

 沢木さんは、今度は割と本心から嫌そうな顔をして、飯久保さんに苦言を呈するが、

「でも私、咲のしたいこと分かったかも」

 と言って、ふふふ、と目を細めて笑う。

「分かる? 流石麗香れいか、違うねー。でも早くしないとうるさい連中が帰ってきちゃうからね。井部さん、ヒント頂戴」

 うるさい連中ってもしかして玄也達のことか? だとするとこれまたとてつもない現場に立ち会った。あの辺とこの二人は、明るい、暗いとかそういう範疇に関わらず全く住む世界が別で、飯久保さん達が玄也連中を頭で認識はしても捉えることはないと思っていたが、なんともしっかり捉えていたらしい。

 その上で印象が良いかどうかは、発言からは分からない、と言ってあげたい。

 璃衣さんは先ほどから、なぜこの人達は私の名前を知っているのか、とでもいいたげな表情をして俺を横目で見てくる。

「ちょ、ちょっと、こっちが待って。まだ見てない」

 珍しく狼狽する璃衣さんを高みの見物するのも悪くないな。というか、気圧されている璃衣さんも可愛い。

「こっちって、そっちやん」

 飯久保さんは飾り気なく笑って璃衣さんを茶化す。それに対してぎこちなく笑う璃衣さんはやはり微笑ましかった。

 例のラインを確認したらしい璃衣さんは一瞬不審な顔をした後に考え込むような仕草を見せ、一向にこちら側へのアクションを見せない。飯久保さんと沢木さんは、井部さんほどうしたんだと言わんばかりか不安げな表情で俺と璃衣さんを交互に見つめるので、仕方なく俺が沈黙を破ることにする。

「あのー」

 俺が二の句を継ぐ間もなく、璃衣さんは我に返ったかのように、

「はいっ、すみません、えっとヒントだっけ、ヒントだよね、んー」

 と慌ててヒントを頭で練るような素振りをする。

 ラインの内容が何か璃衣さんに関わりがあるのか? でも璃衣さんって基本マイペースで衝動的だから、自分になにかしら損害があると思ったらもっと神妙な面持ちになりそうだよな。

 すると、璃衣さんはたちどころにヒントをあみ出して――――とはいかず、少し間ができたのでざわめきながらも特に大きな展開のない教室の様子を一望すると、入口のあたりで他クラスの男子がうちのクラスの男子と携帯を見合って話をしているのが見える。ということは、やはり学級、もしくは学校全体に一斉に送信されたラインで、そしてこの騒ぎを考慮すると恐らく匿名かつ内容が奇抜、といったところか。

 ぶつぶつとああでもないこうでもないとヒントを練り続けていた璃衣さんが、俺が教室の観察に飽きてきタイミングで、

「できた!」

 と、この長考では、回答者が正解時の快感を損なわず、かつ絶妙に解答への誘導が可能であることを期待せざるを得ないヒントの発表を宣言する。

 沢木さんたちが、おー、と言ってぱちぱちと拍手をするのに満更でもなさそうにして、頬の緩みを堪えていそうな璃衣さん。

「じゃあいくよ。えーっと、『唇に心臓の文字』」

 璃衣さんがどうだ良いヒントだろうと誇らしげであるのが、顔を傾け上から俺を見下ろすようにする表情から見て取れる。しかしこれは――――。

「ははははは、井部さん――――面白いね」

 飯久保さんの決壊したような笑いを皮切りに、沢木さんも、伊部さんごめん、と言って肩を震わせ、腹を抱えて笑う。

 笑っている理由は多分俺にも分かるが――――そんなに面白いかね。

 状況を呑み込めていなさそうな璃衣さんは、さっきまでの怪訝な表情に戻って俺の方に、

「なに、どうしたのこの二人」

 と容赦のない困惑を露わにする。

「いやだって、ヒントって言ったのに、それクイズじゃん」

 ひとまず笑い尽きた様子の沢木さんとは裏腹に飯久保さんはいまだツボから抜け出せそうにない様子で、璃衣さんの疑問に答える。

 璃衣さんは初め、クイズとヒントなんて似たようなものでしょ、と言いたげな表情をしていたが、段々とその本質的な違いを理解して、あーはいはい、と納得しました感を出していた。

 飯久保さんがツボっていることが気に入らなそうな顔してんなぁ。ご機嫌斜めなのは勝手だけど、普段よりトゲがあって周りにも牽制をしているように見えるぞ。

「ま、じゃあクイズでいいから、解いて」

 相変わらず不機嫌そうな璃衣さんは俺たちにクイズの解答を促す。

 これ、今だから不機嫌な璃衣さんを心の中で茶化せてるが、二人になるとそうもいかなくなるやつな気がする。

 ――――『唇に心臓の文字』、か。唇に文字、だけなら読唇術がどうとかって話に持っていけそうだけど、心臓の文字、か。しかし、このクイズの解答って単語にならない? 単語が送られてきてるのか?

「ねえ井部さん、そのラインは、単語? 文?」

 と、両手を腿の上で重ね合わせたまま、上半身だけを璃衣さんの方に傾けて尋ねる沢木さん。

「文だよ」

「じゃあ、クイズの解答は?」

「単語。でもそれがほとんど答え」

「おっけー、ありがとう」

 沢木さんの柔らかい笑みは、それを向けられていない俺までもを包み込むようだ。

 ここで、このクイズ大会の主催者であり、長らく声が出せないほどに笑い続けていた飯久保さんが、笑い疲れたからトイレへ行くと言って、特に沢木さんへの声かけもなく、この場を一時離脱してしまった。

 ――――残された沢木さんの心もとなさよ。

「唇を読む、だけなら読唇術だって思うんだけどね」

「それなぁ」

「でも心臓って何だろう」

「俺はそれを考えてたら答えが単語なのか文なのか分からんくなった」

「えー、私と同じだ」

「あそう?」

 この流れになると笑い合いざるを得ないことは百も承知。けれども楽しそうにしすぎては璃衣さんの機嫌が怖いし、ここは抑え目で――――。

「はは」

「ふふ」

 静かに小声で笑い合う俺と沢木さんは、多分第三者目線では信頼関係の築かれた男女のようで、――――つまり、さながらカップルのようだったと思う。

 ――――誤算だった。てっきり沢木さんは俺と璃衣さんを単なる仲の良い友達同士であると認識していると思っていた。しかし今の沢木さんは明らかに一歩引いているというか、遠慮をした笑いだったし、表情もそんな感じだった。

 俺はそもそもさっきの流れに対応した沢木さんの笑いは声量レベル中程度のものだと予測したため、そこであえて俺が小程度で笑うことにより、俺よりも沢木さんの方が楽しんでいる、すなわち俺は相対的に楽しんでいないということを璃衣さんに印象付けることが目的だった。

 しかし、これが間違いだった。

 小さな笑いというのはそもそも親しみのない人に対して表れることが基本的にはないもので、そういう相手には基本分かりやすいリアクションをするのが相場だ。

 なので、さっき俺が分かりやすく大きめに笑っていたのであれば、仮に声量レベルが沢木さんと一致した場合でも、あくまで社会的コミュニケーションの一つとして映っていたはずだ。

 そこで俺は誤った判断により声量レベルを落としてしまい、かつその条件で沢木さんと一致をしてしまった。結果、俺と沢木さんはやけに信頼をし合っているように見えた――――かもしれない。

 その場合、もはや璃衣さんに申し訳ない。

 恐る恐る、さりげなく俺の左隣の様子を横目で確かめると――――――

「なに、分かったの」

 意外にもさっきと何ら変わりない表情の璃衣さんがそこにはいた。

 弘法にも筆の誤り、河童の川流れ、猿も木から落ちる――――俺も璃衣さんの感情を読み取り損なうことはある。

 自分が璃衣さんのことを分かっていると過信してしまっていたようだ。

 そもそもまともな精神状態の時なら璃衣さんだって嫉妬なんかしないのかもしれない。今の不機嫌も何かしら別の理由があるんだろう。

 ま、今日の帰りにでも訊くか。

「私はまだわかんないなー」

 と、沢木さんが沈黙を避けるように俺にかけられた言葉を掬い取る。

 ――――しかし、沢木さんは飯久保さん不在の中でも至って普段と変わらない。

 沢木さんは、俺の知り合いでいうと多良さんに近い一面を持ち合わせているようで、余計な心配は不要だったらしい。

 こうして今頬杖をついて不機嫌そうな顔でムッとしている璃衣さんと比較すると、背筋を伸ばして両手を腿の上で重ね合わせる沢木さんの上品さが際立つ。

 璃衣さんだって普段の仕草が下品なわけではないし、下品だと思わないってことは上品寄りなんだろうけど。

 そんな俺の視線を感じたか、心を読んだのか璃衣さんは俺を見て呆れたように――――――そういうことか。

「ねえ、なんでさっきから黙ってんの? 本当に意味が――――」

「分かったからです」

「なにが」

「答えが」

「住田君わかったの?」

「ああ」

 驚くというより喜んでいる沢木さんと、ふて腐れた顔の璃衣さんを前に、俺は解説を始める。

「まあ、説明するまでもないというか、分かればすぐだけど。まず唇に文字の段階で、さっき話したけど読唇術が浮かぶじゃん」

 沢木さんは、はい、と相槌をして、深々と頷く。それに対して、璃衣さんは頬杖をついたままそっぽを向いている。

「そんで心臓だから、心臓を読む。要するに心を読むってことで、単語にしたら

読”心”術、ってところじゃないかな」

 俺の解説を聞いて、沢木さんはなるほど、と呆然としている。

「はい、せいかーい。――じゃあなんて書いてあるかも当てる?」

「いや、いいわ。――なに、うちの学校に心読める人でもいんの」

「らしーよ。ほら」

 と、璃衣さんは右手に持っていた携帯を俺の方に差し出す。

 そこには、ラインのトーク画面が映し出されており、今日だけでも何通かメッセージのやり取りが行われているが、その大半は問題の一文への返信である。今日送られた最初のメッセージまで遡ると、

『県立南高校一年に、読心術を操りし末裔在り』

 という一文が、アイコン未設定、名前が”匿名”というアカウントから送られていた。

「これがそれ?」

「だろうね」

 沢木さんはあまり興味をひかれる話題ではなかったのか軽い相槌を打つだけである。

 そこで、離脱していた飯久保さんが復帰したかと思うと、

「ねえね、廊下、すごいことになってたよ」

 と言って、若干興奮気味の様子を見せる。

 まあ、廊下の雰囲気はこの位置から見える範囲でも察せる部分はあるが――中央階段の辺りはもっとすごいってことなんだろうな。

「で? 答えは?」

 と、飯久保さん。

 そんな飯久保さんの言葉に見向きもせず、クイズ大会を終えた傍から何か考えていたような様子の璃衣さんが、

「ねえ永杜、ちょっと話したいことあるから来て」

 と俺の耳元で囁いて、既に俺のシャツの裾を掴んでいる。どうやら、今回は本当に沢木さんたちには聞かれてはならず、かつ一刻も早く話さないといけない事情があるらしい。

「了解」

 璃衣さんも冗談半分で余計なことをする人ではないので、なんとなく事態の緊急性を感じ取った俺は、璃衣さんと共にその場を去ることを決める。

「え、二人ともどこ行くの? 答えは?」

 立ち上がる俺たちに、飯久保さんが疑問を投げかける。

「璃衣さんがやんなきゃいけないことあるって。俺は付き添い。答えは自分で考えるか沢木さんに聞こう」

「え、麗香知ってるの? てか急だね。でも事情なら仕方ないね。じゃあ、またね井部さん。一応住田君も」

 なぜ俺だけ一応で、薄ら笑いながら付け足されなきゃいけないんだ。

 沢木さんとも適当に挨拶をして、俺たちは教室を後にした。俺のことはどうでもいいが、璃衣さんが仲良くできそうな人が新たにできて良かったなと思った。

 

 俺が璃衣さんに手を引かれ連れられるは、図書館。一時は、図書館の二階、人目につかなそうなところに移動して、璃衣さんが話を始めようとしたが、意外にも声が通るわ、小声で話すのがストレスになるわで結局二人とも合意の上で人通りの少ない辺りを歩きながら話すことになる。

「璃衣さん、昼放課と予鈴後の五分で十五分しかないよ」

「うん。まあ私が言いたいことを言うのはできる。――――でもあんたが受け入れられるかはわかんない」

「どゆこと?」

「まあ、聞いて」

「おう」

 璃衣さんは、深く深呼吸をしてなにやら大事そうなことを話すつもりらしいが、その表情はどこか強い決心があるように見えた。

「――――何から話そうかな」

「というと」

「――じゃあ、私のことか、私にまつわる今回のことか、どっちからがいい?」

「今回のことを話すなら必然的に璃衣さんの話が必要になるのでは?」

 てか、さっきから今回のことについて訳知り顔だけども、心を読める生徒について知ってるってどういうことなんだ? それの真偽を知っているのか、だとして、真実ならば璃衣さんは一体何者なのか。

「――――そうだね。じゃあ、私の話から」

 何の話が始まるのかは皆目見当がつかない。璃衣さん自身のことって、これまでの経験則で言えば俺に対するものであることも考えられるし、この前なら他の誰かとの何かしら合った話、あとは、――――璃衣さん、一回言おうとしてやめたことがあったような。あれは、いつだったか。あの時璃衣さんができなかった、しなかった告白が、今ここでされるというわけか。 

「正直私のことはいずれ話すって決めてたから私的には些細なことなの。だからできれば簡潔に済ませて、今回の話につなげたい」

 時を越えた告白が、時を越えたのはなぜだろう。なぜその時ではダメで、今では良いのだろう。理由の有無? 俺が何か変わったか? あれから何か新たな信頼が生まれたか? 璃衣さんはなぜそれを俺に話す。

 いまだに疑問点はいくらでもあり、心の準備ができていない俺に、璃衣さんは無慈悲にも言葉を継ぐ。

「――――私は、時間を変えられるというか、つまり、その――――私は――――時間を操作できる」

 ――――自分が情けない。人の本性は生死を分かつ場面で表れるっていうのは、なんとも理解しやすいし、不謹慎だけども一度そんな場面に立ち会って、自分の良心を確証づけたいと思ったこともある。つまり、俺は俺が善人だと思ってた。善人だから、窮地でも善行ができると信じてた。

 しかしなあ。————真剣な面持ちで俺の目をまっすぐ見つめる璃衣さんに、普段とは違う雰囲気を感じて、それに内心ビビってちゃあ、窮地で自分を犠牲にする、とかできないよな。

 ――――とりあえず、今は客観視だ。

 璃衣さんが言う話が本当だとして――――怖いけど。本当だとして、それを話すのって相当な勇気とか、いるよな。――だって、ねえ。それが本当なら、それで俺がそれを知って、璃衣さんを恐れて、とか、考えるもんな。

 でも――――じゃない。もし璃衣さんの話が本当なら、ここで俺が恐れたら、璃衣さんが傷つく、それは明確。だから俺は至って冷静であるべきだ、以上。これが嘘でも、真に受けた俺が恥ずかしいだけ。

 それに、璃衣さんの瞳が真偽を語っていることを、看過するわけにもいかない。

「ほう、ほう。――うん、悪い、一瞬疑ったというか、信じていいのか考えた」

 璃衣さんは、まだ目を逸らさず、口元をきゅっと結んで、硬直したように動かない。

「まあ、実際その一言で信じられるかって聞かれたら、普通は難しいと思う。だから俺でも疑った。でも、璃衣さんが今後ちゃんと話をしてくれたら、それが本当なのは伝わるだろうし。――――じゃ、今回のこと、話そうぜ。至急だろ」

 硬直した身体が動いたかと思うと、すっと力が抜けたように、璃衣さんはその場に座り込んだ。顔を手で覆って刹那の感動を露わにした璃衣さんは、すぐに潤んだ目をした顔を上げた。

「うん。至急だ」

 ふふっ、と笑う璃衣さんは、やはり誰よりも愛おしく美しいことは言うまでもない。

「――――私のことはまた後、今日話す。帰りに。だから今はラインのこと。てかさー、今何時だろう」

 涙声ながらも普段通りのテンポで話す璃衣さん。

「まあ、最悪遅れていけばいいから、チャイム鳴るまでに話すこと話してよ。てか次の授業何?」

「英語。そっちは」

「国語。ねみー」

「じゃあとりあえずね。――――てか、簡単な話、私が普通の人が持ってないものを持ってるから、読心術もあるかなーって。で、もしそうならその人、怖いじゃん。学校中に広まっちゃって」

「そうだけど、なんか対策できんの」

「それが分からないから話したの。私、最悪だけど結局他人事だと思っちゃってる節あるし。でも永杜なら親身に考えれると思って。一応このままじゃ可哀想とは思うから」

「はあ。————おっけー。そんなら、これから作戦会議でも開こうか。――でも部活終わり時間ないか。遅く帰るにしても、頻繁には良くなさそうだし」

「親が面倒かもね。ま、とりあえずまた部活終わりに話そ」

 そして、俺と璃衣さんはそれぞれの教室に戻り、授業が始まる。

 璃衣さんは、自分の、人には言えない秘密を話した立場で、いわば知っていた側だ。反して、俺は何も知らなかった側で、――――明確な差異が存在する。

 璃衣さんの言うことが事実なら、情報ディバイドもへったくれもなくなる。時間を操作? どこまで? どうやって? それを知ることは、今璃衣さんと共通に持つ目的とは関係がないかもしれないから、安易に追求すれば璃衣さんに不審感を――――持たれはしなさそうだが、主旨からは逸れてしまうことになる。どちらを優先すべきかという問題だが、――――難しい。

 というか、俺は知ってしまったのか。この世の、不合理を。

 時間を操作って、――――ごめん璃衣さん、笑っちゃうわ。わけがわからないからなぁ。

 いや、それについては璃衣さんに聞かなきゃ分かんないか、そりゃ。分かるわけないというか、なんで璃衣さんは分かるんだよ――――。

 いや、うん、情報が足りてない。今これについて考えても、不毛。璃衣さんから聞き出すのを待つ――――って考えるとやっぱり璃衣さんが当事者である事実が受け入れがたい。

 ちょっと待て、一旦待て。受け入れま——す。そして、状況を整理だ。理解とか、受け入れるとか、イエスとかノーとかでごった返す脳内を整理する。璃衣さんは当事者。俺達は例の読心術の末裔を救いたい。じゃあどうする。

 まずは大前提に例の匿名アカウントの出所を探る必要があるから学級のグループラインを確認――――って、携帯電源切れてるわ。てかそもそもそんなグループ入った覚えもないしなぁ。

 ――だとすると、出所を把握した前提で話を進めるとして、おそらく、匿名アカウントをグループに招待した人間はこの件に関りはないはずだ。そんなあからさまな証拠を残すような腑抜けがこんなことをするとは思えない。

 なんせ、読心術、異能だ。漫画の世界でしか見ないような能力の存在を知った上でわざわざ悪ふざけじみたやり方で暴露できるということは、それなりに落ち着いたやつなんだろう。

 ――――そいつはどうやってそれを知ったんだ? 俺の場合は本人の告白だったが、まさか心を呼んでいることが他人に悟られるなんてことあるとは思えない。

 読心と時間操作になにかつながりは存在するのか? いや、異能がこの世の中に存在するという事実がある上なら、その中で異能種ネットワークは複雑になってそうだが。

 しかし読心と時間操作――――全く共通点を見出せない。

 いやそもそも、犯人かつ心を読む張本人の特定ができたとして、どうする。そもそもこの一件はそこまで重大なものなのか?

 分からないな、何もわからない。疑問が沸きあがる一方だ。

 とりあえず、部活終わりを待つか。


 七限終わり、帰りのHR前、部活終わりまでとにかく何も考えたくなかったので帰りの支度だけ済ませ、今回の一件があったからなのか、やけに大きい喧騒をBGMにして、ただ呆然と学級の解散を待っていた。

「住田君?」

 すると隣から俺を呼ぶ女子にしてはおそらく低めなのであろう声が聞こえた。

「ん、俺?」

 俺の返事が的外れだったのか、沢木さんは、うん俺、と軽く喉で笑う。

「なんか、まだ話題っぽいね」

「あー。なに、皆読心術の末裔さんがいると思ってんの」

「いや、どっちかっていうとそのライン送った人の友達じゃない?」

 というと、匿名アカウントを招待した、俺の見立てでは一件に無関係の知人か。

「分かったんだ」

「分かんないけど、さっきから皆、渡辺がー、って言ってるよ」

「え、渡辺?」

 一応俺の知り合いにも渡辺なる男がいるんだが。

「多分?」

 ま、渡辺なんて五万といるしな。

「渡辺さんも大変だねー」

「だねー」

 沢木さんと喋り始めた辺りから、どこからともなく嫌な視線を感じるのは多分気のせいだろう。

 帰りのHRが終わったので部室へ足を運ぶ。中に入ると、そこにいは先輩が数名と、渡辺と西野がいる。

「だから、俺じゃないですって」

 何やら渡辺が先輩方に絡まれているようだ。

「おつかれーす」

「なあ住田、例のラインってこいつがやったん?」

「だから違うって、もー」

 例のラインを送った匿名アカウントを招待したのが渡辺というやつ、であるはずが、誤解なのか、一説なのか、そもそもの首謀者が渡辺だという話で先輩に伝わっているみたいだ。

「その話ですか。俺は渡辺ってやつが犯人をグループに招待したって聞きましたよ」

「てことはこいつは犯人の仲間ってこと?」

「分からないですけど」

 加藤先輩は、ほらなーと言って、どうしても渡辺に罪を着せたいらしい。その反面、普段からこういう不毛なイジりをすることもされることもなさそうな渡辺は本気で嫌そうにしている。

「てか、なんでお前ってことになってんの?」

「なんかそのー、学年のラインで、匿名のやつを招待したやつが渡辺っていうのは事実なんだけど、そいつがもうグループ抜けてるから確かめようなくて、今名字が渡辺のやつ皆疑われてる」

「渡辺を招待したやつは?」

「ええ? 俺を招待したやつってこと?」

「お前っていうか、その渡辺を」

「渡辺よりも先にグループに入ったやつが少ない? とか、そもそも招待された通知って文面だけだから実際のアカウントと紐づけされてないとかで、何にも分からん」

 と、さっきから黙って話を聞きながら着替えをしていた西野が言う。

「————はあ。で、渡辺は一年に何人いるの」

「渡辺、分かるっしょ?」

「確か五人とか言ってたわ。犯人探してるやつらが」

 となると、今ここにいる渡辺を除いて候補は四人。

「五人皆グループ抜けてんの?」

「多分。でもそもそも渡辺じゃないやつが一瞬名前偽装して招待したとかも考えられるから、名字が渡辺のやつを当たるくらいしか手がかりがない」

 ――――そうか、ラインのシステム上過去に行われた一瞬の偽装を確かめる術がない、となると五人の渡辺は一切無関係である可能性もある?

 一度渡辺を騙ったアカウントが全く別のアカウント名で退会したという想定もできる。というかそれが有力ではないだろうか。五人渡辺がいるという事実は、それが犯人による攪乱であることを印象付け、招待時のアカウント名を偽装できるという事実を悟らせないための陽動————。

 いや待て、そもそも俺はそんなに優秀じゃないぞ。優秀だと思いたい節はあるからなぞなぞなんかは楽しんで解こうとはするがヒント無しで答えにたどり着いた覚えがない。

 むしろ璃衣さんの方が成績も優秀だし、突発的なひらめきも俺に対しては璃衣さんに分がある。

 とは言っても俺も解答を導く助力くらいはできるので、一人であれこれ考える時間があったら璃衣さんと二人で協力をするが吉か。

 しかしなあ、人目があるからなのか、璃衣さんのテンションが普段と違うからなのか、部活中って璃衣さんと喋りづらいんだよな。

「マジでさっさと犯人つかまってくれぇ」

 渡辺は泣き顔を作って架空の誰かに犯人の逮捕を懇願する。

 渡辺よ、今に俺と璃衣さんと犯人探し団(仮)が真相を暴いてお前の無実を証明してやるよ。

――――一週間後には皆忘れてそうだけどな。

 準備体操が終わり、学校の外周を四周の約三キロジョグが始まる前に、忘れ物をしたと言ってあえて遅れる戦法を取った。これは、一年女子は列の最後尾なので自然に璃衣さんと合流をするためだ。練習前ジョグは談笑できるくらいのペースでいいので璃衣さんとのミーティングにもってこいというわけだ。

 校門が視界に入ったところでそこにいる陸上部の集団が走り始めた。完璧なタイミング。

 急いで走って合流を試みると、並んで走る璃衣さんと香澄さんが早くも集団より少し遅れた位置にいた。

 この二人っていつもこんな遅かったか? いや、なんなら普段は俺が走り終えた後すぐに二人も走り終えるよな。ということは璃衣さん、分かってくれてるじゃないですか。

「女子二人遅くないっすか」

 俺は後ろから声をかける。

「あれ、永杜じゃん。何してんの?」

 と、璃衣さんは事知らぬ顔をする。その表情は俺がそこにいることに興味がないことを示すかのように感じるが、璃衣さんは部活中基本このスタンスで、俺目線、俺と他の人の対応は意図的なのか、無意識なのかは知らないが違いがあり、俺は不遇な側の対応をされる。

 ――今日もこの感じか。事情が分かっているならてっきり俺の方に合わせてくれるもんかと思ったが。

「部室に忘れ物取り行ってた。でなんで遅いの」

「分かんない。普通に走ってたら置いてかれた。ね、香澄」

「えー、璃衣が遅いよ、今日は」

 香澄さんは璃衣さんの肩を担ぐでもなく、むしろ璃衣さんの落ち度を指摘する。

 普通、出会って間もない頃は、こういう時に内心思っていなくても角が立たぬよう賛同するなり適当にあしらうなりするもので、一定期間の付き合いを経て、いわゆる信頼関係を築いて初めて相手の意見に反旗を翻すことができるものだと思う。

 けれどもこの二人は割と早い段階でその信頼関係を獲得したのか、お互いに気を遣っていると思わせる場面があまりない。なんなら香澄さんより俺の方が璃衣さんに気を遣っていそうなくらいだ。

 なので、こんな風に意見が対立することもしばしばあるように見受けられ、その度にしょうもない言い争いをしている(主に璃衣さんが香澄さんの異論や譲歩を認めずに食い下がっている)。

「あ、そう? じゃあ香澄先行っていいよ」

 しかし、やはり今日は別のようで、璃衣さんはさりげなく香澄さんのこの場からの離脱を促す。

 香澄さんは男女隔たりなくコミュニケーションが取れるし、中距離で璃衣さんより体力のある香澄さんがリードして走ることもあるので、この場に残りはしないだろうと思ったが――――。

「いいよ。私も今日疲れた」

 意外にも香澄さんはその場に残る意思を示した。

 そう、このことは俺からしたら意外なことだった。けれどもその瞬間、どこかでこの光景を見たことがあるかのような感覚、いわゆるデジャブが俺を襲った。

なんかこの場面見覚えあるけど、外周の時三人で話したことないよな。というか、デジャブのデジャブみたいなところはあるというか、前もどこか変なタイミングでデジャブを感じた気がする。

 デジャブに理由を求めるつもりもないので深くは考えず、現在直面している問題の解決に頭のリソースを費やす。

 香澄さん、普段は空気が読めるというかむしろ香澄さんが空気と同化しているまである(褒め言葉)のに、今日に限ってどうしたのだろうか。何か嫌なことがあって話を聞いてほしいのか? 確かにそれなら璃衣さんが一番適任だけども。

「あ、そう? いつもなら私のこと気にせず行っちゃうのにねー」

「疲れてるんだってば」

 疲れていると主張する香澄さんの声は確かにいつもより気力がないようで、心なしか走りも身体が重そうだ。

 俺と香澄さんが二人きりなら話の流れを汲んで、疲れている理由について尋ねるのが自然だと思うが、そこに璃衣さんが加わって距離感が計りづらくなっているので、俺の疑問は喉まで出かかって収められた。

 璃衣さんも基本他人の深いところに興味がなさそうな気はあるので、こういう時に深堀はしなさそうだ。

「そっかー。――――てか、永杜なんでさっきからついてきてんの」

 璃衣さんは部活モードに切り替えた、のか、俺の方に顔を向けて無下な対応をする。

「ええ? なんだろう。あれかも、香澄さんとはジョグで一緒に走ることあるからそんな違和感なかったかも」

「あ、そっか」

 璃衣さんは納得したように正面を向きなおす。

「――――てか、香澄さん今日の話知ってる?」

 このままでは時間の浪費になると踏んだ俺は、異能の存在を知っていなくても話題として上げるのに違和感のない渡辺の特定だけ香澄さんにも頼ることにした。

 香澄さんについて、璃衣さんのことのように知っているわけではないが、一応同じ種目で話す機会も多いので、彼女の頭の回転が人より速いことは理解している。

「あー、なんか昼に話題になってた」

 香澄さんはうちのクラスでいう沢木さんに似たポジションにいるのか、一件の詳細を知らなそうにして、昼の騒ぎを思い返す素振りを見せる。

「え、じゃあまだ香澄知らないの?」

「んー、なんか、渡辺がどうとか言ってたのは聞こえた」

「それだけ? あ、香澄放課に話す子いないんだっけ」

 ちょ、璃衣さんそれって女子高生に言っちゃいけない言葉ランキング七位とかに食い込んできそうなやつじゃないですか? 璃衣さんやっぱり無神経だよなー。こういう流れで言われた側の人間が面食らった様子を見せないのが俺は想像できない。

「うん、いまだに」

 俺の想定に反して香澄さんは平然とした様子で受け答える。

 璃衣さんは自分で吹っ掛けといて相槌すらしないし、香澄さんも口をつぐんでいて変な沈黙が流れたので、

「じゃあ、適当に説明するから聞いてみて」

 と言って、俺は部室で渡辺や西野から聞いたことや、自分で見たことなど事件の詳細を話した。

 今日の昼食の時間に、匿名というユーザーネームのラインアカウントから、『県立南校一年に読心術の末裔在り』という中二くさいメッセージが入学時に作られた学年のライングループ送られてきたこと。その匿名というアカウントを今日の昼にグループへ招待したのが渡辺という名前のアカウントであること。しかし招待時の名前は偽装ができるので、本人の特定が困難であること。

 説明が終わったところでちょうど一周目が終わり、前との差が開いてきたので少しペースを上げるよう二人に促すと、璃衣さんは不服そうな顔をしながら、香澄さんは疲れているのにも関わらず、後ろを走る俺との距離が一瞬空くほどにペースアップをする。

「で、話は分かったけど、なんでその話したの?」

 文脈を踏まえた上での自然な質問を香澄さんにされ、本題を切り出していないことに俺はようやく気付いた。

 俺の進行の不出来が気に障るのか、璃衣さんは明らかに俺への不快を表情で示している。どうしてこうも時々で性格が変わるのだろうか。

「あー、そうそう。それなんだけど、普通に謎解きみたいな感じで面白そうだから真相暴きたいと思って」

「どこまで?」

 一部の人には面倒だと一蹴されてしまうんだろう俺の誘いに香澄さんは動じることなく事の詳細について訊く。

「まあ、とりあえずは匿名を招待した渡辺かっこ仮かな」

「匿名と、読心術の子は良いの?」

「まあ、匿名と渡辺かっこ仮が同一人物かもしれないとか、読心術の子は存在しないとか考えられるから」

「なるほどねー」

「てかさ、渡辺かっこ仮、とか、読心術の子とか長いからなんか匿名みたいなあだ名付けない?」

 と、璃衣さんが余計なようで必要がありそうな横槍を入れる。俺も名前を出すときに長いなと思っていたし、香澄さんも、いいね、と乗り気なので、

「じゃあ言い出しっぺの法則で、璃衣さんから時計回りに案を出そう」

 と合理的な方法でのあだ名決定を提案する。

「なにそれ。まあいいけど」

 俺の提案を気に入ったのか、璃衣さんは少し上機嫌に笑みを浮かべて提案に乗る。

 璃衣さんはああでもないと結構な長考をして、俺もその間にアイディアを練っていたので気付けば二周目が終わり、残り二周となった。

 かなり長いこと考えてらっしゃるけども、さぞかし画期的で斬新な良案を出してくれることを期待して待ってもいいんだろうか。

「決まった」

 なぜか俺の方を見て嬉しそうに笑う璃衣さんはいつもの璃衣さんだ。

「じゃ、発表しましょう」

「おーけい。――ずばり、渡辺かっこ仮が、仮部かりべ君で、読心術が新藤しんどう君」

「――――へー。なにそれ、どういう意味」

 多分、俺と同じ感想を抱いているであろう香澄さんが、それを悟られまいとしているのか、間抜けな顔をして尋ねる。

「かりべは、仮、のわたな、べ、で仮辺。仮に辺で仮辺ね。しんどうは、なんか、そういう術とか極意みたいなのって、何とか道っていうじゃん。それで、心の道でしんどう。漢字は新しい藤で新藤ね」

「なるほどねー」

なるほどね、って便利な言葉だよな。相手の言ってることに共感できない時や、理解できない時でも全般的に会話の脈絡を崩すことなく第一声として使えるのはありがたい。きっと香澄さんもその性質をした上での、長考に見合わないクオリティーへの対応といったところだろう。

「いいでしょー。じゃ、次香澄ね」

「うん、織姫とベガ」

「――うん。って、今言った?」

 目を真ん丸くして素で驚いている璃衣さんを見て俺の頭は何を思ったのか若干心拍を速め始めた。

「うん、渡辺かっこ仮が織姫で、読心術がベガ」

「香澄さん、織姫と彦星でもベガとアルタイルでもなく?」

「え、永杜もしかしてバカにしてる?」

「いいえ」

 香澄さんはこちらに振り向いて俺の横腹を軽く小突く。

「ねえ香澄、とりあえず由来教えて?」

「由来はね、警察って犯人のこと星って言うじゃん」

「うん」

「それ」

 つまり、警察に倣って犯人を星としようと考えた時に頭に浮かんだのが織姫とベガということか。それならなおさら織姫と彦星とか、ベガとアルタイルの方がしっくりくるんだけどなぁ。

「で、なんで織姫とベガなんすか」

「織姫と彦星とかだとそのまんまじゃん。パって聞いてペアだなーって分かるけど、織姫とベガなら一瞬思考止まるでしょ?」

「確かにー。さすがはうちの香澄」

 俺はいまだに納得できていないが璃衣さんが喜んでいるので何でも良しということにしよう。

「私はちゃんと意味を持たせたいからね。だから璃衣のはナシかな」

「は? どこが?」

 どこが、って脈絡に沿ってなくないか? それに香澄さんのやつもよく分からんしな。

「俺は璃衣さんの良いと思ったよ」

「なに? 機嫌取ろうとしてる? なめてんの?」

 璃衣さんは今日の昼放課に起きたことが今日の昼放課だと思えないほどにマジっぽい怒りを俺にぶつける。

「いやまあ、うん。――じゃ次俺な。渡辺かっこ仮がこいつで、読心術があいつ」

「いやわけわからんから。ま、私のもクオリティー低いし香澄のにしよっかー」

 こうして渡辺かっこ仮の呼び名が織姫、読心術のやつの呼び名がベガに決まった。

結局この後俺の案が話題に上がることはなかったが、特に気にはしていない。それよりもジョグが終わってから今まで、渡辺(仮)というか、織姫の特定に関する議論が全く進まなかったことの方が問題だ。帰りには璃衣さんも普段通りなんだろうが、部活中あの調子でいられると気が狂うな。ま、いつも通りにしろってのも向こうにしてみれば酷なのかもしれないが。

 ところで、たった今、本当にたった今かすかに、ふと、さりげなく、何と無しにだが、俺の案の由来くらい聞いてくれても良かったんじゃないかな、と思った俺はおかしいだろうか。

 部活が終わり、部室で着替えている今も、いまだに加藤先輩は渡辺を犯人に仕立てたい気持ちは収まらないようで、渡辺はもはや疲労困憊な表情でまともな返しができていない。この様子じゃ練習中もずっとこの調子だったんだろうな。

 昼放課に話した後、『部活終わったらすぐ門前ね』というラインが璃衣さんから入っていたので、渡辺には悪いが先に退散をさせてもらう。

 うちの学年にどんな渡辺がいるのかを俺は知らないが、場合によっては心を病んで学校を休みだす渡辺も現れるかもしれないな。五人の渡辺の立場や、例の犯人捜し団のことも考えて一刻も速く事態の収拾を計る必要がある。

 門につくと、そこには既に璃衣さんがいた。

 春先はショートだった髪も、部活で結びたいから、と本人が言っていたことが思い出される長さになっており、後頭部にちょこんと結えられたお団子は璃衣さんの均整のとれたスタイルを以てして向かうところ敵なしと言ったように可愛らしい。

「あんたどこ見てんの? てか遅いんだけど、五分くらい待ったよ」

 いや、貴方が速すぎますよ。だって俺まっすぐ部室行って着替え終えたらすぐに部室を出たし、その間ですら五分もなかったと思うくらいなのにどうやったら五分も待てるんだ。

 璃衣さんがどれだけ早着替えをしようがここから女子部室までも男子部室までとほぼ所要時間は変わらないし、女子連中とのおしゃべりを考えたら単純計算で俺の方が早く着く、それを見越したはずだった―――――。なのにどうして。

「五分はおかしい」

「走って部室行って着替えて走ってここまできたからね。すぐってそういうことでしょ?」

 璃衣さんが走って部室へ向かって速攻で出てきてまた走り出す光景は若干面白いが、自分で面白いことしてるって気が付かないもんなのか。それに、すぐのニュアンスがあまりにも過激だ。

「そうかもな、悪い」

 ところで、正直に言うと俺は今から何を話せばいいのか分かっていない。そもそも昼放課に例の一件があって、それにまつわるということで璃衣さんに呼び出され、聞くと璃衣さんは時間を操作できるとか言う笑い話で、しかしそれが真実なのであれば個人的に訊きたいこともあって、その一方で俺たちは一刻も早く渡辺たちの誤解を解きたい――――あれ、目的は読心術の、もといベガの保護だっけ? そうか、璃衣さんは近い境遇の者としてベガを窮地から救いたい、それに加えて俺は渡辺の誤解を解きたい、うん、そうだったな。

 にしても時間を操作とか、心を読むとか理屈はどうなってるんだ? 理屈なんて考えるなとか横暴なことを言うのであればこっちも言わせてもらうけどな、時間やら読心とか、ちょっと地味じゃないか。

 しかしそんなことはどうでもいいので、とりあえずふと思い浮かんだことを訊くことにする。

「てか、璃衣さんはそのベガさんとお近づきになりたいとか思わないの」

「お、おー、急だね。もしかしてずっと考えてた? まあなんでもいいけど。あ、待って、何て訊かれたか忘れた」

「璃衣さんや、人にものを訊かれて自分の感想を優先しちゃいかんよ」

「で、なに」

「ベガが実在するなら親しくなりたくない? 近しい境遇だし」

「あー、なりたくないかな」

 想定よりも早く回答が返ってきたことに俺の頭は動揺してしまったのか、拍動が速くなる。

 いや、それに加えて璃衣さんがこちらを見つめる瞳になぜか吸い込まれるような魅力、というか、やけにこちらを見つめてくるというか、こんなに綺麗な目をしていたっけ、璃衣さん。

「そ、そうですか」

「うん」

「というか、そんなことより先に訊きたいことがたくさんあるんだけども」

 璃衣さんはやけにわざとらしく考える素振りをしてから、何かを思いついたような顔をする。

「あ、そうだ」

 思考が丸ごと外見に現れているからその情報を元に次のセリフがなんとなく予想できて面白い。いやでも次のセリフを考えてから身振り手振りを取ってつけているというパターンも考えられるか。というかこの人時間を操作できるんだっけ? 何でもありじゃん。

「――いや、なんでもない」

 不自然な躊躇。こんなこと言っては璃衣さんに悪いが、俺はまだそういう不自然な言動を璃衣さんの時間操作と結びつけてしまうよ。一度発した言葉とか取った行動を撤回するために時間を戻したんじゃないかってさ。

「はあ。―――で、今色々訊いちゃっていいの。璃衣さん的に」

「あー、うん。今日話すって言ったしね。――――でもうちに着いてからでいい? 家の前で、さ」

「むしろ家の前で大丈夫なの」

「うん。問題なし」

 それならば適当な雑談でも振ろうかと考えた矢先、璃衣さんは二人でいるときにしては珍しくスマホを取り出してなにやら文字を打ち始める。

 そういえば、璃衣さんがこんな風にしっかり携帯に食いついているのを見るのは意外と初めてかもな。

「止まる?」

「あ、うん。助かる」

 ちょうど信号を渡り切ったところで、公園の外縁に腰掛があるのでそこで小休止することになった。

 しばらくしても璃衣さんは携帯から目を離さず、しかし画面を操作するでもなくただジっと画面とにらめっこをしているかと思うと、突然母と電話をすると言って離れたところまで歩いて行った。制服を着た璃衣さんの後ろ姿を見ることは普段あまりなかったが、こうして見るともはや芸術に近い何かすら感じる。

 ――――しかし、本当に時間操作の本質を掴みかねる。言動の撤回が可能なのであれば時間を戻した上で記憶が残るということになるし、それが可能なら例えばテストのカンニングなんかは簡単にできる。

 璃衣さんがそれをやるとは思えないが、使い方に関わらず時間を操作するということは間違いなく不当性を孕んでいる。

 一方で時間操作後に記憶が残らないのであれば時間を戻すことはランダムな確率による現象を改変するためのものでしかなく、実害はない。実害なんて、あっても気づけないだろうがな。

 そもそも過去という世界線に移動をするのか、この世界を自分以外そっくり巻き戻すのかすら分からない。どちらにせよ、時間を戻すという行為が持つであろう天文学的な情報量を俺の頭で処理しようとすると、幼少期の夜盲症の感覚に陥って不快だ。

 そもそも、それについて今から璃衣さんと話をするつもりなんだからな。

 璃衣さんはようやく電話が終わったらしく、なにやら楽しげにニヤつきながらこちらへ小走りをしてくる。

「お待たせー。さ、帰ろうや。――――てか土日記録会じゃん、だる」

「だるいなら出なきゃいいじゃん」

「そうはイカのなんとやらがなんとやらってやつよ」

「忘れちゃったか」

「いや、センシティブだから」

「いいよ、言ってみ」

「言わねーよ。てかさ――――」

 こんな感じで中身のない内容の割に尺が長めの話をテンポ良くしていると、妙な快楽というのか、神経間のシナプスにて不法なのか合法なのかは分からないがドーパミンの取引が行われているのを感じるというのか、せーので喋るのをやめようといっても五秒後にはついつい口が開いてしまうというのか、悪い気分ではない。

 そんなこんなで気付けば璃衣さん家のすぐ近くまで来ている。空は赤みがかっていて、もうじき完全に日が落ちそうだ。

「そうそう、結局わたしの話だけどさ、うちでしない?」

 璃衣さん家の前で軽く話をし、解散をした後の、焼き魚やら、カレーやらの匂いがしたりしなかったりする薄暗い住宅地を、街灯の乏しい明かりを頼りに人の気配に気を付けながら自転車を漕いでいる情景をかすかに思い浮かべながら哀愁に浸っていると藪から棒に璃衣さんが話を持ち掛けてきた。

「井部家のご住宅に失礼させていただくという認識でよろしい?」

「よろしい」

「今から?」

「うん」

 薄暗い中でぼんやりと視界に映る璃衣さんを見て、差し出された提案と照らし合わせると、なんとなく良くない感情を抱いてしまいそうになる。ならないけどな。

「てか、もう夕飯用意されてるから」

 夕飯って、まさかそういうことじゃないだろうな。

「だったら今日じゃない方がいいのでは?」

「あんたの夕飯ね」

 予想的中。やはり俺の夕飯を用意するように取り計っていたみたいだ。となると、いいえいりませんと言って帰るわけにもいかないし、当然ながら俺はこのあと井部家で夕食を共にさせていただくことになるだろうが――――。璃衣さん、一つ失念していませんか。

「なるほど。――ちょっと待って母に連絡しないと」

 そう、我が家では普段通り夕飯が用意されているということを忘れてしまっているんじゃないですか、璃衣さんや。

「あ、待って! もう私から言ってある」

 というと?

「というと」

「さっきあんたのお母さんにラインしといた」

 璃衣さんは当然俺よりもスペックの高い頭の持ち主なわけで、それすなわち璃衣さんの謀略の中に俺が見つけられる抜け穴なんてものはないわけで。

「じゃ、璃衣さん行くよ」

「ふふ、それ私のセリフ」

 当然、璃衣さんは子供のように無邪気な笑みを浮かべて俺の後を追ってくるわけで。


 と、これが昨日の夕方の出来事である。このあと家にお邪魔するなり璃衣さんがシャワーを浴びに行ってしまい、俺は璃衣さんのご両親がいらっしゃるリビングに取り残され、人生で経験したことのない気まずさとこれ以上ないほどの逃避欲求を抱えることになるのだが、多分いずれ、いや近いうち、というか毎晩この日のことを思い出しそうだからとりあえず今は忘れようと思う。

 それもそうだが、問題は璃衣さんの時間操作とかいうチート能力がいかなるものなのかということだった。俺はてっきり過去現在を行き来できる程度だと思っていたが、実際はその上位互換で、なんと時間の流れすらも操作できてしまうらしい。自分以外の周りが遅くなるとか、速くなるとか。ああ、でも時間を止めることはできないそうな。どっちみち物理概念はクラスの人気者を池かなんかに落として溺死寸前まで追いやってしまったのかってくら無視されているんだからどうせなら時間を止めれたっていいのになと思うのは時間操作検定五級程度の浅知恵によるものなんだろう。

 ちなみに、時間が戻るとか加速減速するっていうのはいずれも璃衣さんの主観での話であって、周りからすれば時間の流れは変わらないというか、周りは何も気づいてないから――――あれ、でも周りが遅いときに璃衣さんが動いたら高速で移動しているように見えるんだよな。

 でも璃衣さんからしたらそれが普通の速さで、璃衣さんと周りの時空は異なっている、みたいな――――ああだめだ、毎回このあたりで莫大な情報量の勝ち誇ったような笑みだけが頭に浮かぶようになる。

 とにかく、誰もいないところで時間を操作する分には誰かに気付かれることはないってことだ。

 なんとまあ素晴らしい能力だろうか。ズルという名の有効活用をしようと思えばいくらでもできるが、璃衣さんは基本力を使うことはないらしい。というのも、璃衣さんが時間を操作することはこの世界の秩序を乱すことそのもので、全人類の大虐殺に等しい、というのが璃衣さんの意見だというのだ。

 それに対して、使わないのならなぜ自分の能力を自覚しているのか、と聞くと幼い頃に家族が交通事故に合いそうになった時に気付けば時間が戻っていた、と言う。

 本人は、

「マジビビった。家族皆さっきのこと覚えてなくて、私が泣き喚いたおかげで事故はないことになったっぽいけど。普通に漏らしたし」

 と言っていて、それ以来数回強く念力を込めることで時間操作を試みたところ、見事成功したため、自分の持つ能力を自覚したのだそうだ。

 故に、なのか、偶然なのかはわからないが璃衣さんは当時から聡明であり、事の重大さを理解していたので悪用とか乱用とかいう愚行を取ることはなかったとか。

 流石井部璃衣と言ったところだろうか。

 しかし、なんというか世の中は知らないことばかりだと思ったよ。

 結局ベガと織姫の一件については多分お互いに忘れ去っていたので話題に上がることすらなかった。

 そして今、五月二十九日木曜日の部活終わり。

 興味深い話が耳に入った。

 というのも、うちの陸上部の一年であり、今回の一件で最も悩まされている一人である渡辺がとあるスーツ姿の男に何か知っていることはないかとか、君は本当に何も知らないのかとか尋問みたいなことをされたそうなのだ。

 担任を通し、生徒相談室にて話がある人がいるという伝達を受けたのでおかしな人ではないというが、どうにも担任や他の何人かの先生もそのスーツ男の素性をいまいちよく分かっていない風だったらしい。

 それにより渡辺も面を食らっていて今日の部活はいつもより格段と大人しく、加藤先輩が心配の言葉をかけるくらいであった。

 とは言っても渡辺や他の人たちはまさか読心術なんてものが実在するとは思わないだろうし、そのスーツ男についても、教育委員会の人なんじゃないかとか、理事長に似ていたかもしれないとか陰謀論が口々に飛び交っていた。

 一方で世の中の事情についてほんの少しだけ他の人よりも詳しい俺は、スーツ男の出現を明らかな異常事態として認識していた。

 この世界に異能が存在するという事実がある以上、それを璃衣さんが独占しているというのは考えづらいから、それが同時期であるかどうかは置いておいて、少なくとも他の例が存在するというのはほとんど確信をしていた。

 それを踏まえた上で考えると、そのスーツ男は明らかに知っている側の人間であり、最悪の場合異能力者を探し出そうとしているかもしれないわけだ。

 そして今日はそれについて璃衣さんと話し合うつもりだが、今度は俺の方が速く着替え終わったらしく、校門で待っているところだ。

 しばらくして現れた璃衣さんは、瞳に光が宿っていないとも、今にも泣き出しそうだとも言える表情、つまりかなり浮かない顔をしてとぼとぼと歩いていた。

 普段から璃衣さんはしっかりと重力の負荷を感じさせるような足取りで歩いてはいるが、今は普段の数倍重そうで、もし仮に宇宙のどこかで地球の人間のように生活をしている生命体がいれば、そいつらが初めて地球に降り立った時にこれくらいの重さを感じるのだろうな、と呑気に考えてしまうくらいだった。

 そんな極めて浮かなげな璃衣さんを見て、俺に驚くところはない。俺は、スーツ男の襲来をもって冷静に分析をすることができる立場だし、男の存在を知って真っ先に感じたのは異常性だ。なぜなら俺はあくまで璃衣さんの協力者、第三者であり、”そっち側”の人間にはなり得ないからだ。

 一方で、璃衣さんは、当事者は、幼い頃から自分が持つ非普遍的な個性を自覚してかつ恐れ続けていた張本人は、男の襲来をどう感じるだろう。

 人の気持ちなんて理解できると思えないし、ましてやどう感じているか言い当てるなんて普通の人間には、そう、それこそ読心術なんかを持っていない限り無理だと思ってる。

 それを可能だということが傲慢だとすら思う。

 けれども、真剣に、人の表情や足取りなどの外面的なコンディションや、内面についての普段との比較なんかを合わせた上なのであれば、推測をするくらいの権利はあっていいと思うのも事実だ。

 したがって、俺は分かりもしないはずの璃衣さんの気持ちを推測するが、それはおそらく―――――。

「―――」

 ――――かすかな唇の動き。吐息ともとれる音。そんな”言葉”を聞き取った自分のコルチ器やら基底膜やらの受容器官とそれを伝達した神経とその比較的慣れ親しんだ三文字を摘まみ出してきた脳みその言語野に感謝せざるをえない。今度牛丼でも奢ってやろう。

 多分その言葉を聞き取れなくとも俺の人生はなんら、一切変わりないと思う。今この瞬間も、彼女の姿を見て、彼女が今何を感じているのかについての自分の推測は正しかったと九割九分確信できていたと思う。

 しかし、それはあくまでも推測に過ぎない。人の感情は本人の表現を以てして初めて他人に伝わる。

 今この時、彼女の感情を知る機会を逃せば、二度と回帰することはできない。――――璃衣さんならできるのかもしれないが。

 この時、何やらデジャブみたいな感覚を持ったがそれについては何ら違和感を覚えることはない。なぜなら似たようなことが実際に、一ヶ月半前にあったからだ。 あの日の出来事も今日のこの瞬間につながっていると考えると感慨深い。

 とまあ、久々に英語のリスニングテストを受けたら自然と英文の意味が頭に入ってきて成長を実感しているときばりにテンションが上がってしまった俺は、目の前にいる絶世の美少女が地獄行きを宣告されたかのような表情をしている事実がどうにも看過しがたく、ついついその子の両手をそれぞれ握って、励ましの言葉をかけるという身分不相応な発想を今にも実行しようと、いや、もはやしてしまった。

「璃衣は一人じゃない」

 このことは高校を卒業してしばらく経つまでは俺の悩みの種の一つになり続けて、寝つきの悪い夜にはこのことを思い出しては頭を抱えることになるんだろうが、さらにしばらく経って、この日の自分をもっと俯瞰して見られるようになったなら、その時には今の自分を誇らしく思えるような気がする。

 ま、肝心なのは今というよりこの後なんだろうけども。

 俺の愚行を受けて璃衣さんはハっとした表情をしてこちらを見上げる。その表情は地獄を想像して絶望しているような、悲惨なものではなく、――――自分でいうのもなんだが――――どこか差し込む光を見つけたようなものだった。

「――して」

 と、と璃衣さんはきまり悪そうに俯いて言った。

 俺の聴覚はどうやらさっきの瞬間で全盛期を終えたようで、おそらくさっきのよりも重要そうな言葉を聞き逃してしまったようだ。牛丼奢りはなしだな。

 俺が頭をフル回転させて自分が璃衣さんに何をすることを求められているのかについての思考回路を全線展開していると、璃衣さんはじれったそうな様子だ。

「だから、ハ――――」

「ヒューヒューお二人さん。楽しそうだね、私も混ぜてよ」

「うわああ! へっ? 香澄? 何してんだよ驚かすな!」

 突如、というか、瞬間移動なんかをしたわけではないのだろうが、俺たち二人からしたら突如真隣に現れた香澄さんを見て、璃衣さんはしっかりと腹から出たような声を出して驚く。仮に日常生活で意図的に驚かされることがあったとして、それでもこれほどまでには驚きはしないだろう。今みたいな張り詰めた空気感の下、二人だけの世界に入り込んでいる最中に、なぜか真隣にいる知人が声をかけてきたときにのみ生じる驚きは、普段璃衣さんが出さないような声を出させてくれた。しかも、荒れた口調での怒鳴り声というおまけつきだ。

「ええ? そんな驚く?」

「そりゃ――――まあでも一瞬驚いただけ」

 明らかに大きすぎるリアクションを取っていたことに気付いたのか、璃衣さんは何か言い淀んでから冷静に応対する。

 そういえば結局最後まで聞けなかったけど、何をしてほしかったんだろう。

「はあ、よく分かんないけど。――てかさ、二人ってこっち方面だよね」

「そうだけど」

「ついてっていい?」

「え、えー」

 突然の香澄さんの申し入れに璃衣さんは明らかに嫌そうな顔をするが、香澄さんもそれに大してひるむ様子はなく、ただ了解の返事を待つばかりのような表情をしている。 

 この人は色々考えているのか考えていないのかいまいち分からないな。璃衣さんとのいざこざを言い当てられたという第一印象が強烈だっただけに、ただ者ではないということで俺の中では話が通ってはいるのだが。

「んまあ、いいけど。どこまで?」

「やったー。えーっとね、駅までかな。てか、そんなに二人で帰りたいの?」

 香澄さんがそう言うのももっともで、璃衣さんが嫌がるのはなんとなく理解できるもののそれを香澄さんの前で前面に出すのは無粋ではないだろうか。

「――――まあね。じゃ、早く行こかー」

 そうしてそそくさと歩き出した璃衣さんの足取りは先ほどよりも幾分か軽そうだった。

 ところで、今のってデレってことでいいんだよな?

 信号を渡って駅へ向かうにはまっすぐ公園の中を通っていくか、右に曲がって公園の外周を歩くかのどちらかが基本ではあるが、普段俺と璃衣さんは我が住田家が利用する駐輪場に止めてある自転車を回収してから璃衣さん宅へ向かう。

 自転車というのは、井部家が使っていないからという理由で、俺が璃衣さんを家まで送った後に自分の家まで漕ぐ用として授かったものだ。俺しか使っていないのでもはや俺の所有物同然ではあるはずなのだが、いまだに他人の物という感じが抜けきれない。というか、自分の自転車があるから必要ないような気もするし。

 とまあそういう理由で自転車を駐輪場まで取りに行くのだが、いかんせん香澄さんがいるものだから今日はどういうルートを辿るかという問題が目先にあるわけだが、

「おい、自転車取り行くよね」

 と、小声で璃衣さんが聞いてきたので俺は首肯をし、気付けば問題は解消されたというわけだ。

「あれ、駅あっちじゃない?」

「そっちが良ければそっちから行けば?」

「なんか今日冷たいね、璃衣」

 確かに冷たい、というか当たりが強い。てっきり普段からこんな感じなのかと思ったら流石にそんなことはなかったか。

「え、あ、ごめん」

「あ、こっちがごめんだったわ。理由は分かってるからさー」

「はあ? 何言ってんの?」

 遠回しにさっきの現場を目撃されたことを根に持っていると言われたと思ったのか、璃衣さんは隣を歩く香澄さんを睨む。

 それを見てクスクスと笑う香澄さんはどこか小悪魔じみた雰囲気があった。

 家の前まで着いたので璃衣さんと香澄さんには歩道で待ってもらい俺は駐輪場へ自転車を取りに行った。璃衣さんたちのもとへ戻る途中にも香澄さんがまた軽口を言っているのか璃衣さんが香澄さんを敵視している雰囲気になっていた。喧嘩するほどなんとやらってやつかね。

 璃衣さんは、俺が戻って歩き始めてからも、おそらく俺がいない間に話したのであろうことの感想(だるいとかうざいとか)をしばらく言い続けて、なにやらそのことを引きずっているようだった。

 そしてそれは、そんな険悪なムードが続いている中でのことだった。

「それにしても結構早く来たよねー」

 香澄さんが普段と変わらず一定のテンポを保ったような口調で脈絡のないことを言い出した。

何がいつ早く来たのかについて皆目見当がつかなかったが、それは璃衣さんも同じらしく眉間にしわを寄せて嫌味な顔をして香澄さんを睨みつけている。

「え? 分かってない感じ?」

 香澄さんは困惑と呆れが混ざったような表情をして俺と璃衣さんを交互に見る。

「香澄さんなんの話してんの」

 そう尋ねるとほぼ同時に感じる強いデジャブ。あれ、そういえば今日他にもどこかでデジャブを感じたような気がする。

「本当にわかんないんだね」

「だから何が?」

 璃衣さんはなぜだがさっきまでの嫌味な顔と打って変わって、まるでホラー映画で主人公が暗い廊下を頼りない明りを片手に探り歩いているシーンを見ているときのような顔をしている。

 けれどもその視線の先は確実に香澄さんの瞳を捉えていた。

 そんな璃衣さんの表情につられたのか俺も一抹の寒気を感じてしまうも、香澄さんだけは至って平然としている。まあ、今の状況で変なのはどちらかといえば璃衣さんだしな。

「香澄ってもしかして――」

 弱々しく人差し指を香澄さんの方に向け、密閉された容器から冷気が零れ出るかのような声で璃衣さんが何かを言おうとしている。

「なに? ちなみに私が話してたのはオウのことね」

「おう?」

 璃衣さんの方は消え入るような声ではあるものの、俺と璃衣さんは同じタイミングで香澄さんに訊き返した。

「うん、オウ。あなたたち知らないと思うから説明するね」

 そう言って”おう”なるものの説明を始めようとする香澄さんは至って普段通りで、されど普段とは異なる雰囲気みたいなものを感じる。

 おう、ってなんなんだ? 冗談言ってるのか? でも璃衣さんのこの反応を見る感じ、璃衣さんは何か知っているのか? そしてだとしたらすごいおびえたような表情だけども、そんなに怖いものなのか、おうってやつは。いや、何か知っていることがあれば昨日話してくれていたはずだ。ということはたった今何かを五感、あるいは超常的ななにかで感じ取ったか、気付いたか。

 なんにしてもこれほど感情がむき出しになった璃衣さんを公衆の面前に晒すのは俺としても不本意だし、とりあえす場所を変えるか。

「ちょっと、こっちで話そうぜ」

 俺が二人を連れていくは、本通りから少し入り組んだ場所に位置する小ぢんまりとした広場なのか公園なのか定義不詳の場所。

 一息ついたことで気持ちが落ち着いたのか、璃衣さんの表情は怯えるというよりも向き合うというような、真剣な面持ちに変わっていた。

「んで、なんだったか」

「オウね。オブザービングハンターのオーエイチでオウ。他にも昔ながらの言い方で保護者とか狂察者とか色々呼び方あるけど、最近はオウが主流っぽいね」

「呼び方とかどうでもいいんだけど。それが何なのかって聞きたいんだけど。てかあんた私と同じってことでしょ? 見れば分かるから」

「璃衣、見ただけで分かるの? 私は分かんなかったな」

「なんで嘘つくの? 絶対気づいてたじゃん、だから意味わかんないこと言ってきたんでしょ!」

 璃衣さんはヒートアップしているみたいだが、理由がいまいちわからない。しかし、私と同じ、という言葉から察するに香澄さんも――――いや、まさか。――――しかしそうでもなければ説明がつかない状況だよな、今って。

 そもそもオウって結局何なんだ? オブザービングハンター――観察する捕獲者ってところか。でも別名が保護者とか言ってたな。

 ――――とりあえず話を聞くか。

「璃衣さん落ち着こう。段階を踏んで話を聞くべきだと思う」

「だよねー」

「璃衣さん、知ってることって大体俺に話したやつ?」

 俺がそう尋ねると、璃衣さんは口を開くことなくほんの少し首を下に傾けて返事をした。

「じゃあ香澄さん、璃衣さんもよく分かってないみたいだから一から説明してよ。順序は任せるからさ」

「りょーかーい」

「で、俺が聞いていいやつなのそれ」

「いいっていうか、聞いた方が、いいと思うよ。私はね」

「そうですか。じゃ、よろしく」

「てか、璃衣も落ち着いたっぽいしどっかでお茶しながら話そうよ」

 香澄さんの提案に璃衣さんは、じゃあ晩御飯食べちゃお、と小声ながらも快く応対したので俺が有無を言う必要もなく俺たちは駅近のファミレスへと移ることになった。

「私これにしよ。期間限定A5ランク和牛使用肉汁ジュワァステーキアンド名物地鶏使用チキンソテー、くにゃくにゃふんわりとろけるストロベリーパンケーキを添えて、くにゃくにゃ。二九八〇円」

「璃衣さんもしかして――」

「なに」

「死ぬの?」

「死なないわ。面白くないからやめて」

「じゃあなんでまたそんなイカツいの頼むわけ」

「わかんないけど、多分ヤバい話するでしょ、香澄。だからテンション上げとくの」

 どれだけ衝撃的なことを言われてもテンションの下がり幅は変わらない前提じゃないとその理屈は通用しない気がするが、美味しいものを食べて口元をほころばせる璃衣さんを見たいという下心が横槍を入れてはならぬと俺の頭に語り掛ける。

「ま、知らない側からしたらヤバいだろーね。でもそもそも璃衣自体ヤバいじゃん。ねえ?」

 その流れで俺に同意を求めるな。ほれみろ、せっかくテンションを上げようと言っているそばからテンションダダ下がりっぽいぞ、璃衣さん。一つの事象に大して一定のテンションの下がり幅が存在するなら、美味しいものを食べることによる上がり幅にも同じことが言えるだろうからこのタイミングでテンション下げられるのは困るぞ。あ、璃衣さん今小声でなんなのって言った。

「余計なこと言うなよ香澄さん」

「え、私なんか言った?」

 香澄さんがなにか知っているらしいと分かったからなのか、全体的に変なやつに見えてきた。もっとまともな人の印象だったんだけどなあ。

「ねえ、何、こっそこそ話してんの」

 まずい、璃衣さんが怒り始めた。これ以上怒りを増幅させてしまったら中々収拾がつきづらくなってしまう。――――そうだ。

 ピンポーン。

 俺がとっさにスタッフ呼び出しのベルを鳴らすと、璃衣さんは俺を睨み、香澄さんはくふ、と笑う。

「えっと、失礼いたします。ご注文がお決まりでしょうか」

 現れたのは、ネームプレートに研修中のシールが貼ってあるおそらく高校生らしき、一年生だろうか、若い女子だった。現れた時点から不慣れというか弱気な感じが溢れ出ていて、機嫌の悪いオヤジの接客ともなれば泣き出してしまいそうで心配だ。

 ついさっき璃衣さんが頼むものを決めていたので俺と香澄さんは璃衣さんの方を見る。

 流石に璃衣さんも店員の前で横柄な態度をするわけにも行かないと思ったのか、少しのけぞっていた身体を起こし、組んでいた腕を解いた。

「私はー、これ」

「えっとー、どれですか」

「え、これ」

「あー――えっと、なんて書いてありますか?」

 その少女は視力が悪いのか目を細めて璃衣さんが指差すメニューの方を凝視するも、ピントが合わないらしくついにメニューの音読を求めてきた。

「ええー? これだって。機関限定A5牛ステーキ――――まだわかんない? ステーキアンドチキンソテー。――――だからこれ!」

「すみません。最後までお願い、できますか?」

「―――いいですけど」

 翻弄される璃衣さんを見て香澄さんは楽しそうにする反面若干その女子店員に引いているような顔をしている。

「――――で、ふんわりとろけるストロベリーパンケーキ。これでいい?」

「――――っはい。かしこまりました。えっと、お手数おかけしてすみません」

「いいえ」

「じゃあ、俺も同じので」

「私もー」

「かしこまりました。期間限定A5和牛使用肉汁ジュワァステーキアンド名物地鶏使用チキンソテー、ふんわりとろけるストロベリーパンケーキを添えてが三つでよろしかったですか?」

 女子店員はなぜ璃衣さんに最後までメニューを読ませたのか分からないほどすらすらと商品名を暗唱した。それ本当にあんたも最後まで読まないといけないやつなのか。

「はーい」

「ありがとうございます。もうしばらくお待ちください」

 厨房へと去っていく女子店員を目で追いながら尻目に璃衣の方へ視線をやると、心なしか顔が赤らんでいるように見えた。

 注文の品が届いた。

 牛の香ばしさとどっしりとした肉感からは想像もつかない程優しい弾力、そして鶏からにじみ出るそれだけで白米が一膳食べられそうなほど美しい黄金色をしたエキスと焼きたての鶏皮が奏でるぱちぱちというメロディは、璃衣さんのテンションを最高潮まで引き上げるに申し分なかったようだ。

「美味しそー!」

 いつ以上に子供のような顔をしてプレートを眺めてはフォークでステーキの弾力を確かめる璃衣さんを俺、そしておそらく香澄んも微笑ましく見守っていた。

「よかったね、璃衣」

「うん!」

 香澄さんの声に思い切り首を振って口元を緩め返答した璃衣さんは、直後にばつが悪いと感じたのか、真顔に切り替わった。

「よし、じゃあ話すよ」

 香澄さんは璃衣さんを一目して何もつっかかってこないことを承諾として受け取ったように口を開く。

「質問は話終わってからいつでも聞くから、とりあえず話させてね。長いから。――――まず、そうだな、とりあえず時代は約五十万年前に遡ります」

「ねえ、茶化してる?」

「いいえ。いいから聞いて」

 香澄さんは一度水を飲んで喉を潤し、語りを再開した。

「まず、大前提に、私が今から話すことは人類の多地域進化説を前提としています。――――というのも、今から話すことも諸説あるうちの一つなんだけど、私が初めて聞いてからずっと信じてた説は単一起源説では矛盾するからです。――――約五十万年前、日本人のルーツとなる人類、このときはまだ旧人だけど、その人類はとある神様を信仰していたの。起源は分からないんだけどね。ま、言っちゃえば宗教と同じなんだけど、うちのは事実上あるじゃん、ね、それが。で、その神様には代々五人の巫女がお仕えしていたそうで、それがいつまで続いたのかはわからない。ぶっちゃけこの話もほとんどが言伝で、人が文字とか、紀元とか年代とかを使い始める前に神様は亡くなってしまったらしくて。でもその神様を祀っていたと思われる遺跡が残っていたりとか、あとはほら、私たちの力とかで神様がいたっていう説を否定している人はほとんどいないのよね。実際に今では、神様は下界に現れなくなっただけで、どこかで生きているという説が支持されている。――――ふう。でだ。で、言われているのは、神様が亡くなる——下界から姿を消すときに当時使えていた五人の巫女にそれぞれ異なる力を一つずつ授けた、っていうのと、その儀式が行われたのが日本の住狐いぎつね神宮って話」

「――――住狐? 超有名じゃん」

「そうね。有名なのも神様の力だ、とか言われてる。――――んーーっと。これ、初めて人に話すけどすごい疲れるね。私も人から聞いた身だけど、こんなに疲れるんだね」

 確かに上手い飯を食いながら聞いているだけでもかなり体力を使う話だったから話す側の気は知りたくもないが。ともかく香澄さん、あなたがそんな風に背中を逸らせて伸びをすると目のやり場に困るのでやめていただきたい。

 にしても――――ちゃんと起源があったんだな、璃衣さんの力は。まだ話の途中らしいけど少しすっきりした。

「てか、香澄一口も食べてないね」

「私は話終わってからでいいよー。まだ結構熱いし」

 璃衣さんも長年の謎が晴れてきたということで満足げだ。――飯がうまいからかな。

「――で、そーれーで、その場所が住狐神宮になったのは比較的最近で――――神道自体が新しいものだからね。――元々は住狐村って言われていたところが昔の地震かなにかで建物が倒壊しちゃって。私が聞いた話では、考古学の発展が村の倒壊のずっと後だっことと、そもそも木材は堆肥化、岩石は風化してしまったことから遺跡として世には出てないそうなんだけど。ちなみにこれとか一部の人しか知らない話だから他の人に言っちゃだめだよ。言わないとは思うけど」

「で、私と――――香澄も? 変な力が今もあるのはなんでなの」

「そう、それが、住狐神宮もあながちバカにできないなと思ったんだけど、もともと住狐村にあった石か岩かなんか――安っぽいやつじゃないよ、多分どっしりとしたやつ。それが媒介となってこの世に力が顕現していたそうなの。――――あー、力は五つあってね、魅了、時、心、治癒、そして、破壊。この五つの力は、昔は巫女と同じ血を持つ一族が受け継いでいて、巫女の継承者が――あ、力を持つ人のことね。巫女の継承者が産む女児に力が継承されてきたの――――ていうのも神様としてはその方が体力を使わないとかなんとかって言われてるんだけど。でもさ、何世代も継承していくと血が薄くなるわけじゃん。でもだからって内縁の人と子供を作るようなことはしなかったから赤ちゃんが生まれても力が継承されずに一世代前に留まったりした、っていうのは明確に記録として残っているんだけど。――――で、そこで例の岩が村の倒壊と同時に割れちゃって、それから力は残りさえしたんだけど、いくら赤ちゃんが産まれても力が継承されずずっととある世代に残留してた。このことは一族からすると神の喪失そのものだからひどく悲しまれたそうなんだけど、そこで窮地から脱するべく一族は総出で住狐村跡地に住狐神宮を建立することにした。ちょうどその辺りの時期に神道が流行り始めたところでもあったから。それで――――」

「香澄さん、ちょっと」

「なに?」

「やっぱ先、食べよ」

 香澄さんは完全に集中しきって話を進めているのでこのままではせっかくの三千円が冷めきってしまうと思い、声をかけた。

「――――そうね、やっぱ冷めちゃうね」

 そうして話を一時中断し、ステーキやチキンを食べて幸せそうな顔をする香澄さんを璃衣さんはどこか遠く、けれども親し気な目で優しく見つめ、どこか呆れたように笑った。

「美味しかったねー」

「ね! 私の選択マジで神がかってたな」

「ちなみに私もそれにしようと思ってたよ。似たような理由で」

「えーほんとにー?」

 こうして楽しそうに会話をする浮体はさなら姉妹のよう、というか実際姉妹みたいなもんなんだよな。二人とも普通ではない力を持っていて、きっと香澄さんも璃衣さんと同じようにこれまで悩み続けて――――あれ、待てよ。

「そういえば香澄さんってなんかできるんだよね。巫女の力とやらで」

「あー、うん。聞いたら驚くと思う」

「ちょっと待って、何があったっけ。確か七個だよね」

「璃衣さん五個ね」

「おや、永杜くんはなにやら訳知り顔だね」

「気付いたわ。しょうもないヒントを与えられていたことに」

「えっ? 何? いつ?」

「まあまあ落ち着けや璃衣さん」

「早く言え」

「——はいはい。んまあ、あれでしょ。織姫とベガ。同一人物でなんなら女ってことでしょ」

 香澄さんはにこりと笑って満足そうにうなずく。

 にしても、織姫イコールベガだから渡辺かっこ仮イコール読心術の人って、安直というか気付いてもまさかなと思うレベルの話だ。

「ん? で、結局どゆこと?」

「全部香澄さんの自作自演ってこと」

 璃衣さんは驚きのあまりか、声も出さずにただ眉間にしわを寄せてどこかに書いてある答えを探すかのように当たりを見渡す。

「オウに一泡吹かせたくてね」

「一泡――って結局オウは何なの? 話してないよね。あと、香澄は結局何ができるの?」

「オウのことはちゃんとは話してないね。てかちゃんと話聞いてるよね?」

 本気で心配そうな表情で問い詰める香澄さんに対して、適当な返答をする璃衣さん。

 こりゃ黒だ。

「まあ、俺は聞いてるから」

「ありがとね。――璃衣もちゃんと聞いてよ。私のこともついでに話すから」

「はいよー」

「で、どこまで話したっけ。継承されなくなってからしばらくして神宮ができて、これが運命を分かつことになったんだけどね。幸か不幸か、神社ができたおかげで継承は再開されたの。これは神様の力の媒介になるもにが住狐村の跡地にできたからだっていうのが有力な説で、まあそれなら納得もいくわけ。でもやっぱり一族の血が薄まっていたせいで継承が行われなくなったことは確かだったそうで、なんとそれ以来血縁の有無に関わらず力が継承されるようになったの」

「あらまー」

 璃衣さんは一人だけ追加で注文した季節の旬パフェ(季節によって使用されるフルーツが違うらしい)を香澄さんがいることで普段より気が緩んでいるのか、下品にも肩肘をつき位置が固定された口にスプーンを運んでパクパクと食べている。

 璃衣さんがどちらかといえば上品だって情報は上書きする必要がありそうだ。

「そう。でね、継承者は神社を訪れたことのある中から選ばれた女性の娘になるの。つまり私と璃衣のお母さんもいつかに住狐神宮を訪れたことがあるってこと。まあ、国民だったらほとんど行ったことありそうだけどね。――――えーっと、で、なんだ。そう、オウのことだけど、その神宮が建立されてから巫女の力は血縁に関わらず再度継承されるようになったんだけど、継承者が分からないと流石に一族もプライドというか、これまで代々続いてきた神様への信仰がバカらしくなるじゃない? そこで、神様が一族に気を遣ってくれたのか、信仰を続けてほしかったのかどちらかだろうって話なんだけど、継承が再開したのとほとんど同時に、一族――――当時は分家の末端含めると百人くらいだったかな。そもそも一族の男性は子供を授かってはいけなかったし、女性も女児を授かってからは男性と同様に新たな子供を授かれなかったから多くても五十人は越えないはずなんだけどね。まあそんな決まりにの耐えられるわけもなく一族は思いのほか拡大していた。そんな時に一族のうちから一人、。ある能力を持った男児が生まれたの」

「オブザーバーってことか」

「そ。この男児は救世児と言われていてその子のことはれっきとした古記録として残されてるんだよ。私は見せてもらえなかったけど、その子は言葉が話せるようになってから、全く見覚えのない誰かがいる場所を知っている、みたいなことを言っていたそう。要するに今でいう私たちの居場所が分かっちゃうんだろうね。第六感かなにかで」

 香澄さんの衝撃的な発言をしっかりと衝撃的なものとして受け入れることのできたらしい璃衣さんは口にスプーンを運ぶ手を止め、口をぽかんと開いて香澄さんの話に耳を傾けようとしている。

 日常生活で宗教的な雰囲気を感じることの少ない日本という国、かつ高校生という年代の条件がある中で考えると、その力は崇拝の対象というより、犯罪の手段だという発想が先に浮かぶ。

「でも安心して、今はそこまでできる人はいない。というのもその救世児が誕生したのは約五百年前なんだけど、それ以来一族の血は薄まる一方だということと、そもそも初めて観察の力――観察の力っていうのは、まあそれのことね。初めて観察の力を手にした救世児の力が明らかに異質だったというのもあって、今は近くにいるということが分かる程度にまで衰弱しているらしいの。救世児は神が一族に観察の力の存在を知らせるために産まれたともされていて、実際にその男児は八歳にして亡くなってしまったの」

「神様結構惨いことするねー」

「うん。――で、今は弱まったとはいえ一族の血を引く人間の一部はいまだに観察の力を有しているんだけど、その中にも派閥があってね。細かい説明はいずれするけどそのうちの一つで勢力は派閥間でも一、二を争うのがオウってこと。オウは継承者の解体とか、人体実験が目的だっていう話もあるから危険で、過激派。でも普通にしてたら捕まることはないし、なにより力を上手く使えば万が一の状況でも希望はある――――まあ、私の力は役立たずだけどね」

「香澄は――――読心術?」

「うん。ほーんと使えない。打倒オウに微塵も役立たない。――――あれ、私璃衣の力見たことないや。璃衣のは何?」

「時間、かな?」

「一番当たり! 璃衣は何の心配もいらないねー」

 璃衣さんは香澄さんに安全のお墨付きを貰って安堵するかと思いきや、浮かない表情をしている。

「――――でも、香澄はどうするの?」

「どうって?」

「その――オウと戦う? んでしょ」

「戦うってっ言ったって、私にゃ何もできやしないけどね。一回でいいから一泡吹かせたいだけ」

「でも、怖くないの? 香澄はその、時間を戻したりはできないし、私が戻しても変えようがないことだってある。――だし、スーツの人がオウの人だって分かってるんでしょ?」

「怖くないよ。私、やらなきゃいけないの」

「なんで?」

 璃衣さんは香澄さんの手を握ってキスでもしようかというくらい顔を近づけて問い詰めるが、香澄さんは四拍ほど右上を見て考えた後、

「今は、言わないかな。璃衣が乗っかっちゃうかもだし」

 と、璃衣さんの質問へノーを突きつけた。

「でも――――」

「今日は終わりね。また明日ー」

 香澄さんはそれだけ言い残し、一人ファミレスを去っていく。

 暗い道を璃衣さんと二人で歩くなんてよくあることだが、そんな時でも抱かなかった不安という感情が、璃衣さんの方が何倍も不安なんだということに気付くまでの一瞬、俺の心を奪った。

 璃衣さんをこれ以上不安にさせまいと何か声をかけようとして璃衣さんの方を見ると、表面張力をいっぱいに使って瞳に涙をため込んでいた。

「璃衣――」

「隣来て」

 言われるがままに、迅速に璃衣さんの隣へと移動した俺はこの店の防犯カメラにはどんなふうに映っていただろうか。多分生き急いでいて滑稽だったと思う。普段はそういうことを前もって考えた上で行動をするんだが、今それをしろと言われても、ねえ。

「パフェ、一緒に食べよ?」

 人は涙を堪える時と堪えない時があると思うが、その違いはなんだろう。周りに人がいるかどうか? 悲しいか嬉しいか? それとも、その時の気分次第? そんな、今の俺では答えの出せそうにない問いが頭の中の環状線をぐるぐると回るが、俺はそんな意味のない路線に運休を告げ、お花畑にでも連れて行ってくれそうな一本の高級旅客列車の発車を決心する、

「俺が守ってあげますよ」

 乗客は、楽しんでくれるだろうか。


 パフェを食べ終え、俺と璃衣さんは店を出た。

「ねえ、永杜」

「はい」

「今からさん付け禁止」

「は、はあ」

「それと――――」

 璃衣さんは静かにこちらを見上げる。

「私たちも戦おう」

「――――いいけど、ここでエンドロールは流れないよ」

「は? 何言ってんの。どゆこと」

「だから璃衣さんが――」

「はいさん付け。じゃあ罰として手つなげ」

「ご褒美?」

「はあ? なに、何いってんの。きもい」

「なんだ冗談か。てか戦うってどうやって」

「いや冗談じゃ――知らないし。香澄に聞くもん」

「ま、会えないわけじゃないしね」

 俺は璃衣さんが今もなお抱えているであろう不安を抱え込むように気負って、普段よりも周囲を若干警戒しているので緊張していて少し心拍数が高まっているが、そんな状態であるというのになぜだか普段より璃衣さんの、璃衣の隣を歩いていることの幸せを身に染みるように感じていた。

 まさか、明日になって早速香澄さんが姿を消すことなんてないだろうしな。




 ――――アメリカ・ニューヨーク。

「ルイ、今の分かった?」

「何が?」

「わからない。けど、何か力の発散、もしくは吸収を感じたんだ」

「私にはあなたが何を言っているのか分からないわ」

「頼むよ。君だけが理解できるかもしれないのに」

「サトシ、あなたまた浮気をしているのね。前も知らない女の名前を口に出していたじゃない」

「違うよルイ。あれは僕にも分からないんだ。君ならわかってくれるだろう。だって僕は君を見つけ出したんだから」

「他の女も同じように見つけ出したんだわ」

「ルイ」

「もっと私を敬ってよ。だって私は生活の神ザゴッドオブファミリーに力を授かりしものなのよ?」

「そうだけど――でも狐神ザフォックスは死んだんだろう? 君の力は二代目だ」

「違うわサトシ。二代目と初代は二位一体よ。あと、その呼び方やめてほしいわ。神を狐だなんて」

「悪かったよ――――はあ、次はいつ住狐神宮へ行こうかな」

「あれ? 言ってなかったかしら。私、今年の八月に岐阜へ行くわよ。それと東京ディズニーリゾートへ行って、ミラコスタに泊まるの!」

「そんな! どうして僕を誘ってくれなかったんだい」

「あら。あなたも行くわよ。チケットは二人分買っておいたわ」

「ああルイ、巫女の継承者よ。――――でも、お金はどうしたんだい?」

「仕事よ」

「君はまた」

「ふふ、もうやめるわよ。さ、今日は何して遊ぶ?」

「全く。――――チェスはどうだい? 上手い戦法を思いついたんだ」

「いいわね! 今日も負かせてやるわ」




「お久しぶりです。心の継承者様」

「久しぶり。あのこと、もう話してくれる?」

「ははは、それは致しかねます」

「ふん。じゃ、ご飯ちょうだい」

「かしこまりました」

 ――――――はあ。二人には悪いことをしてしまった。璃衣もきっと今頃私のことが心配でならないだろうし、もしかしたら探し出そうとしちゃうかもしれないな。

 でも、あいつらに壊滅的な打撃を与えるには、今の私でも璃衣でもダメなんだ。言伝で事実がどうかもわからないけど、これに縋るくらいでしか私に勝機は生まれない。

 父と母の敵を打つためには。

 


 

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巫女の継承者 平床梨 @tokori

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