第2話 饒舌少年と刹那の笑顔
沈黙を庭に植え、その果実を齧るべし。
祖父の金科玉条が、扁額に飾られている。
グリセーダはそれを興味深そうに眺めていたけど、やがて視線を僕の父……
目を逸らした理由はいくつかあるだろう。単に剛毅な筆致で書かれた言葉に目を引かれたというのもあるだろうし、それ以上に父の顔が見るに堪えないものだった、それも大きいと思う。
いや、決して不細工とかそういう話じゃない。むしろ、息子が言うことでもないけど、歳の割に若々しくて整ってる方だと思う。
ただ、どれだけ整ってても、下半身にかぼちゃパンツにビッグライトを当てたようなシロモノを履いて、上半身には赤と緑の毒々しいTシャツを着た挙句、瓶底眼鏡につけ髭まで生やしているとなれば、なんというか世紀末だ。僕は慣れているけど、グリセーダはそうもいかないだろう。
「父さん、人間らしい服装になってくれ。初心者にその格好を晒すのは酷ってものだよ」
父さんの奇態を目にするたび、服飾系の犯罪は露出のみに限らないな、と思わされる。
グリセーダは、また父から目を逸らして、僕の顔を見た。僕も彼女の目を見る。やっぱり鮮烈な赤色だ。
「血の繋がりって、濃いものなのね」
「名誉のために言っておくけど僕は巨大かぼちゃパンツで人前に立つような破廉恥じゃないよ」
父さんが口を挟む。
「父さんも名誉のために言っておくが、まさか童貞街道まっしぐらの息子が女の子を連れて帰ってくるなんて予想できなかったのであって、好きで見せびらかしているわけじゃない」
「なら、着替えてきて。待ってるから」
「わかったよ。それにしてもこんな可愛い娘を……信じられんな」
父さんが着替えてるあいだ、お茶を淹れて一息つく。
「ふー。あたたかい」
水飛沫に当たって、実はかなり体が冷えていた。熱い番茶が喉を降りてゆくのがなんとも心地よい。快楽といってもいい。
そういえば、グリセーダもかなり濡れているんだった。元々、寒冷な高山地帯に住んでいたみたいからあまり寒そうには見えないけど。
「おいしい?」
「……ええ」
「死にたくなった?」
「なんでそうなるの。むしろ、生きてるっていいなって思ったくらいよ」
「ええー」
「ええー、ってねあなた……」
呆れ顔は、熱いお茶のせいか少しだけ赤みを増していた。うん、やっぱり綺麗だ。そりゃ出来損ないの息子がこんな美少女を連れ帰ってきたら、びっくりするだろう。
「こんなもんでいいだろ」
戻ってきた父さんは、まあごく一般的なポロシャツと短パンだ。奇天烈でも、見苦しくもない。
僕たちの前に座って、重々しく口を開く。
「さて……靱負、状況を端的に説明してもらおう。正直に言うんだぞ。父さん、卒倒も通報も準備済みだから」
まるで、覚悟を決めた侍のように眼を炯々とさせ、僕の返事を待つ。
僕がグリセーダとわりない仲になったのならば卒倒、僕が片道恋慕を極めて身柄を掠取したというのならば通報も辞さないと、そういうことらしい。
「安心してよ父さん。この人は、空いた201号室の新しい住人だよ」
「なにっ」
卒倒も通報もせず、炯々と皓っていた眼に爛々の色が混じる。
「そうかそうか、そうですか。いやあなるほど、部屋を借りたいと。ナイスだ息子、でかしたぞ息子! ええと、グリセーダさんでしたな。滞在はどれほどの期間なので? 最長で二年ごとの更新になるのですが、二週間からの短期滞在も可でして、必要とあらば……」
「ええと」
グリセーダは困惑している。
着の身着のまま出てきてしまったから、身分証の類は全く持っていない。それでも父さんなら、僕の口添えひとつでこのアパートの住人として認めてくれるはず。
そう、僕の父さんは、二階建てアパートの大家。雇われ大家じゃなくてちゃんとした土地の管理者で、登戸家は101号室に住んでいる。各階三号室まであって、合計六部屋なんだけど、最近201号室の老婦人がサハラ砂漠へ旅立ってしまって、空き部屋になっていた。
僕は早急に後釜を探してくるように頼まれてたんだけど、頼んだ当人がすっかり失念していたみたいだ。僕も別に最初からそうしようと思っていたわけじゃない。
とりあえず、ある程度の事情は僕から話した方がいいだろう。
「父さん、グリセーダは疲れてるらしい。部屋に案内してくるから鍵をちょうだい。その後で僕から事情を話すよ」
「ん、そうか」
父さんはあっさりと鍵を渡してくれた。
グリセーダを連れて二階へ上がる。
階段の途中、怪訝そうに聞いてきた。
「本当にあっさりいったわ。大丈夫なの?」
「父さんは住民の素性に深入りしないからね。家賃もまあ、しばらくは大丈夫」
「それは流石に払うわ。お金なら多少は私の口座に残ってるから……」
「気の済むようにすればいいよ。ちょっとぼろっちいけどいいところだよ。望めば孤独にも人気者にもなれる」
201号室の前に立って、鍵を開ける。電気をつける。
玄関は綺麗に清められている。
母さんがしっかり掃除をしてたから埃くささはまったくない。
「キッチンはコンロ式。残念ながらIHは未搭載。トイレがそこで、お風呂がそこ。浴槽が広いのがうちの自慢なんだ。グリセーダは上背があるけど、それでも手足をうんと伸ばせるはずだよ。ちなみに、何センチ?」
「168よ」
「おおっ。この流れで次に聞くべきは体重……は、流石にベタかな。スリーサイズ……はまあ、うん」
グリセーダは均整のとれた体つきだけど、胴体上部前面の均整はややとれすぎている感が否めない。
「……何を考えているか、当ててあげましょうか」
「いえいえ、なんのなんの」
僕は意味不明な返しで誤魔化しつつ、今度は寝室を案内した。別にいいんだ。おっぱいは生命とか愛の象徴みたいなものだし、グリセーダにそんな輝きがあっては困る。おっぱいよりも大切なものがあるんだ。
「思ったんですけど」
一通り説明を終えたところで、グリセーダが聞いてくる。そういえば、彼女から話を振られるのは初めてかもしれない。そうじゃないかもしれない。
「あなたって、かなり饒舌よね」
「そうかな」
「ほら、下の階のあなたの部屋に、沈黙を庭に植えその果実を齧るべしって書いてあったじゃない。でもあなた、それを意識してるようには見えないわ」
「そりゃ、意識してないからね。多分、祖父さんは孫がこんな多弁二枚舌屑虫野郎になると予期して、あんな金言を残したんじゃないかな。まあ、苦労実らず、沈黙も実らず、ってね。不孝者は君だけじゃない」
実際、喋るのは好きだ。たとえ、放った言葉がどんな結末を生むにしても。我ながらとっても無責任。さっさと死ねばいいのに。でも死にたいなんて思わない。
「……ふふっ」
何がおかしかったのか、グリセーダか少しだけ笑った。それが羞恥しいのか、ぷいっとそっぽを向く。
笑顔はいいものだ。願わくば、その笑顔のまま死んでほしい。きっと素敵な死顔になる。同じ顔で、僕もまた。
もうちょっとグリセーダと話したい気持ちはあるけど、そろそろ戻らないと。
「じゃあね。明日、住人の紹介をするから。別に挨拶とか社交辞令とか、全然気にしなくていい人たちだけど、出来れば仲良くしてね。無理にとは言わないけど」
僕は靴を履き、扉を開ける。
「何せ、僕や父さんなんて霞んで消滅しちゃうほど、個性的で怪奇千万な人たちだから」
顔を背けたままのグリセーダがピシリと固まった気がしたけど、気のせいだろう。
「おやすみ」
扉を閉め、下階へ戻る。
今日の夢は、どのような言葉でグリセーダを苛むのだろうか。それが彼女を死へ誘うならよし。でも、あの笑顔が歪むのは、少し惜しい気がした。
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