君に捧げるトーデストリープ

大魔王ダリア

第1話 荒れる波濤に赤き少女

  荘厳の一言に尽きる光景だ。


 大波が尖った岸壁に特攻し、見事な玉砕を遂げて白い飛沫になる。僕がいる場所は九丈望観きゅうじょうのぼうかんといって、一帯のリアス式海岸の中ではもっとも海抜の高い場所だけど、それでも陸海の境界に身をおけば、水飛沫が霰弾のように飛来する。

 

 ここは可惜岬あたらみさき。全国的に有名な、入水自殺のスポットだ。バスを降りてから海を見るまで一時間近く歩かなきゃいけない。その道程で、近隣の人権団体やら互助組織やら小学校やらが発行した自殺防止のポスターがいたるところに貼られていたのを、なんともいえない気分で横目に見つつ歩いてきた。


 僕は九丈望観を降って、東へ向かう。

 遠目には岩に閉じられたように見え、実は岩の割れ目から未知の領域に繋がっているという、人知れず死ぬために誂えられたような場所を、僕は二ヶ月くらい前に発見した。

 割れ目は細い。痩身じゃないと通れない。

 通り抜けると、急峻な下り坂があり、やがて、海を臨むわずかな平たい足場に辿り着く。

 そこは僕だけの聖地であるはずが、今日は僕ならぬ人が存在して、正直死ぬほどびっくりした。

 赤い髪。長身。肌は粉をまぶしたかのように白いし、後ろ姿だけで日本人じゃないとわかる。

 その人は、こうして自殺の名所の崖っぷちに立っているからには、自殺志願者であり自らの手で冥土を歩もうというお方なのだろう。

 僕は固唾を飲んで見守る。ひっきりなしに波が岩を殴りつけ、涙のように塩辛い飛沫となる。その人の体がすでにびしょびしょに濡れていることから推しても、ある程度の時間をここに立つことそれのみに費やしていたのだとわかる。

 強い風が吹き、赤い髪が燎原のごとく広がり靡く。

 大自然の猛威を見せつられ、無力を覚えるしかない光景を前にして、しかしその赤は空の青、海の青に負けない鮮烈を示し、息を呑むほど美しかった。

 その人の体が、二、三度大きく震えた。

 右足が持ち上がる。一歩を踏み出そうとする。踏み出す先に足場はなく、此岸から彼岸へ、大いなる一歩を進めんとしたとき、僕は矢も盾もたまらず声をかけた。

「君! そこの、赤い君!」

 その人は動きを止める。

 ゆっくりと、一人だけ違う時の流れを生きているかのように緩慢に振り返り、端正な顔を僕に向ける。

 哀しそうな表情だ。居る場所が場所で、取ろうとする行動が行動だから、満面の笑みを浮かべているとは僕も思っていなかった。それでもはっと胸を衝かれるほど悲愴な表情で、そして美しい容貌だ。

「聴かせてほしい! 君がなぜ、その一歩を踏み出すのかを!」

 僕は波の音に負けないよう、あらんかぎりの大声で叫ぶ。

 その人は一瞬驚きで目を丸くし、すぐに呆れたような表情になって、僕の方へ向かう。

「わざわざこんなところまでやってきて、人が死のうとする理由を聞きたがるなんて、あなたは何者なの? 見たところ、あいつらの仲間とは思えないけど」

 あいつら、が誰かはすごく気になるけど、今はどうだっていい。

「僕は登戸靱負のぼりとゆきえ夜祭市よまつりし在住の学生だよ」

「学生、か……あなたも死にたいの?」

「ううん、まったく」

 本当のことだ。死にたいなんて、生まれてこのかた思ったことがない。

「なら、人の死を茶化そうとする悪趣味な人ってこと」

「そう思われたなら、少し残念。僕はただ、何が君にそこまでの決意を与えるたのか、知りたいだけだよ。自分の人生を自分で閉じるなんて、尋常の心情じゃあない。此世に不満を抱えて、現世に憤懣を抱いて、それでも一歩を踏み出せずに生きている人で、世界は溢れている。君はそれを踏み出そうとした。僕はその姿に感動を覚えて、是非インタビューをと、そう思ったんだ」

「学生、なのよね? ジャーナリスト志望なの?」

「別にそういうわけじゃない。でも学校じゃ放送委員やってるよ」

「そう……」

「死ぬのは辛いよ。そんなことがわからない生物はこの世にいない。先天的に植え付けられた恐怖に打ち勝って、デストルドーを最大まで高めて、確固たる決意と情熱をもって、死出の旅へ向かう君の後ろ姿は、とっても綺麗だった。気になるじゃないか。ちょっと知りたくなるじゃないか。興味はあるけど、茶化そうなんて心根はさらさらないよ」

「……まさか、口説いてる?」

「そうだね。ここで口説かずどうするよ。君の心を知るまで、僕はここに居座るよ。そもそもここは、たぶんだけど僕が先に見つけたんだしね」

「じゃあ場所を移すわ」

「わかった。付いていくよ」

「……付き纏いは犯罪よ」

「自殺だって犯罪さ。カトリックならね。君はカトリックじゃないらしいけど……」

「ユナ教徒よ」

 少なからず、僕は驚いた。

 ユナ教はたしか、西欧の山間部にあるサングラシアという小さな王国でのみ信仰されていたはずだ。特徴は山岳信仰で、サングロシアの国土には日本の富士山に酷似した霊峰モントサングレが存在してそれを神格化し崇めるもの。見た目は富士山だけど、山肌が赤く、日本の富士山を『青富士』と呼んで、モントサングレを『赤富士』と呼んだりもする。

 そんなわけで日本からの観光客がかなり多くて、サングロシアの経済は観光客が落とす金がかなりの重要度を誇っていたのだけど、三年くらい前から隣国に国境侵犯を受け始めて、今年の初めに本格的な交戦が始まったと、ニュースや新聞でやっていた。

 その人がここでこうして死の瀬戸際に身をおくのも、戦争が原因に違いない。戦争は人を最も衝動的にさせ、戦場は命が最も軽くなる重力場だ。

「もしかして君、不法滞在者? 難民ってやつ?」

「違う。私は永住ビザを持ってる。お父様が入手に尽力してくださったから……」

「なら、なんで死のうとするのさ。ここにいることを、君は許されているんだろう? それとも、君自身が君の存在を許せないとでもいうの?」

 自分の口調に、若干の期待が混じってしまったことを、自覚している。止むに止まれず、死に急ぐ他に為す術もなく、というのならその人の語ることは僕が望むものじゃないかもしれない。でも、自分のポリシーに則り、己の始末をつけるというのなら、誇り、矜持、自責、後悔、諦念、瞋恚、そういった内心が欲動を掻き立てるのなら、僕にとって参考にすべきことだ。

「自分で自分を許せない……そう、そんな考えをしたこともあったわ。私は祖国を捨てて、自分たちだけ安全な国に逃げてきた卑怯者。愛国心から必敗の戦に身を投じる兵士、貧窮ゆえに逃げることも戦うことも叶わない民、病身の家族を守るため歯を食いしばって焼夷降る地に留まる家長、夜ごと彼らの罵声が聞こえてくるのよ。この間ついに、死ねと言われたわ。お前に生きる価値はないって。ただそれだけのことよ。被害妄想の塊。根拠のない迫害感。そんなもののために両親が必死で守ってくれたこの命を捨てようとしている不孝者。それが私なのよ」

 立て板に水を流すがごとく、自虐の言葉を吐き続ける。

 僕は強い語気に腰が折れそうになりながらも、なんとか立っていた。

 いつの間にか太陽が地平線に触れ、あたりには茜が満ちていた。

 強風が赤い髪を四方八方へと巻き乱し、瞳はより赫灼と燃えて、夕景の全てが燃え上がる。溶岩流のように打ち寄せては爆ぜる波の飛沫はしかし冷たく、熱れる頬に当たって心地よい温度差を奏でる。

「それで、君は死ぬんだね」

「ええ、そうよ」

「見届けてもいいかな」

「物好きね」

「よく言われる」

「悪趣味よ」

「もっとよく言われる」

「気持ち悪いから、どこかに行ってくれないかしら」

「冷たい海に飛び込んだら気持ちよくなれるよ」

「……」

 その人は、押し黙った。

 瞳の炎が消えてゆく。

 風が熄み、赤い髪が収束してゆく。

 僕の心には言いしれぬ寂寥と安堵が互いに疎しながら回っていた。

「今日はやめておく。あなたに見られながら死ぬなんて、死んでも嫌」

「酷いなあ」

「でも、帰る場所も無いのよね……」

「あれ、両親がいるんだよね。あっ、もしかして」

「生きてるわ。言ったでしょう、私は不孝者なんだって。くだらない自己満足の遺書まで書いて家を飛び出してきたの。戻れると思う?」

「娘のために永住ビザまでとってくれたんでしょ。何食わぬ顔で戻っても、迎えてくれると思うけどなあ」

「それこそ、自分が許せないわ。親に向かって『私は死にます』なんて言った時点で、私は半分死んでるの。もう半分もさっさと殺そうとしたのに、邪魔されちゃったわ」

「なら、僕の家に来るかい」

「……やっぱり、口説いてたのね」

「嫌ならいいけど。ああ、言っておくけど僕はアレだから、身の心配はしなくていいよ」

「アレって……ED?」

 酷い。確かによく友達に『萎れた男根みたいな顔してるね』って言われるけど。

「僕はちゃんと年中発情期の色情魔だよ、失礼な」

「私は年中発情期の色情魔の家に誘われてるのね」

「そゆこと」

「心配しかないわ」

「ちょうど空いてる部屋もあるし、そろそろ暗くなる。さ、行こう」

 手を差し出す。

「君は知らないかもしれないけど、このあたりには夜行性の毒蛇が現れるんだ。噛まれても死なないけど、すごく悲惨な目に遭うよ。性欲に負けて暴れ回る僕の方が、何倍もマシさ」

 差し出した手を、その人は完膚なきまでにスルーして、

「私はグリセーダ。グリセーダ・アトレイヨ。生きる屍ともいうわ」

「了解。改めて、僕は登戸靱負。君か僕かが死ぬまで、よろしくね」

 もう一度差し出した手も華麗に無視して、その人……グリセーダは岩の隙間に身を入れた。

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