第8話 君は最近大病を患ったのか?(不意打ちの質問)

 1. 裏返しの背広


 何のことか分かりますか? 


 私は学生時代を通じて学生服で通しました。そういう学生は決して少数派ではなかったと思います。学生服はどこにでも着て行ける便利な代物でした。学生の身分を証明していましたし。(これを利用して、学生服姿の押し売りも横行する危険性もありましたが)半面、冬の寒さには弱くて、玄海灘から吹いてくる風にはもろに影響を受けました。そこでオーヴァーが必要でした。夏の暑さには脱げば対抗できました。


 4回生後半になると社会との接触が増えてきて、そろそろ学生服以外の装いも求められ始めました。しかしまだ背広姿の学生は少ない時代でした。私が初めて背広を着たのはある会社の入社試験のためでした。


 親父が試験直前になって学生服では見劣りするからと言って自分の着ていた訳アリの一張羅を貸してくれたものでした。それを着て大阪にやってきました。 22歳で田舎の大学で実験室にこもっていた山猿みたいな人間が大阪に出てきていきなりの入社試験と面接でした。大阪では叔父の家に泊まりました。宿泊費は会社から出ましたが。


 父の背広は胸のポケットが右胸についている珍しいものでした。息子が初めての面接を受けるというのでいつも使っているものを貸してくれたのです。通常の背広とは反対側にポケットがあるので変だとは思いましたが父は父なりに考えてのことだっただったでしょう。ところがこれを見た叔父は「九州男さんには悪いが、裏返しの背広は普通でない。わしの背広を着ると良い。」と言って自分の背広を貸してくれました。左胸の所にちゃんとポケットのついたもので、私も叔父の折角の親切が有難く直ぐにそれに着替えました。


2. 面接試験


 その年(1962年)は企業が大勢学卒の新入社員を採用した年で、農薬事業部では12名の募集があったと記憶しています。急な応募で心構えもおぼつかないままT 製薬の試験に臨みました。


 十三ジュウソウの試験場は大阪工場の中の研究所でした。(十三は当時からの製造会社が今も数多く残っている)会社の工場でどんな薬を作っているか詳しくは知らなかったが、父の診察室で見て少しの知識はありました。しかし幸いにも製品に関する質問は面接でもありませんでした。筆記試験ではまず英文を訳す問題がありました。これは大学のセミナーで鍛えられていたので何と書くことが出来ました。


 それから面接がありました。 面接室には道修町ドショウマチの本社から佐竹人事部長、平島農薬部長、H人事課長ほかが正面に並び、面接を受ける側は三人ずつが試験官の前に並びました。私とM君が教室からの推薦で試験を受けました。


 まずM 君から質問を受けた。

「君は公務員試験は受けなかったの」

「はい。受けませんでした。あれは面倒くさいのでパスしました。」

 これには面接官もびっくりだったと思われた。日頃女性にもてた同君も相手が年季の入ったおじさんたちでは勝手が違ったか。少し(いや、大いに)問題ある発言だった。あるいは素直な持ち味を強調したかったのか。自分ならどう返事しただろうか。正直に「受けましたがダメでした」と言ったかもしれない。


 次は私の番でした、

 平島部長が「最近印象に残った出来事は何ですか」と聞かれたので、とっさに思いついて「プロ野球の大洋ホエールズが優勝したことです」と返事した。大洋ホエールズが六年連続の最下位から一躍優勝したのは衝撃だった。三原監督流の選手起用方法で選手らの潜在的能力を引き出したのだ。(後に知ったが平島部長は大の野球好きだった)

 そのとき佐竹人事部長が「君は最近何か大きな病気をしたのか?」と質問された。「エツ!」と不意を突かれた私は絶句しましました。やがて人事部長の視線が私の服装にあるのに気付きました。そこで「ああ、この洋服のことでしたら、これはです」と答えた。「そうか、あまりに長い腕の、しかもダブダブの服を着ているのできっと大病の後だと思ったよ」と人事部長。借り物で試験を受けるとはまずかったが正直に答えるべきと思った。あまりの真面目な返答と、人事部長の冗談に全員大笑いになった。不意打ちの質問にどういう反応を示すか試されたのかも知れない。

 大洋ホエールズに感謝すべきか、背広を変えるよう言ってくれた叔父に感謝すべきか分からない。会社員として忘れられぬ第一歩となった。

 それにしても自分の服装に無頓着だった生活態度には問題が残った。

 教訓:

(エピソード終わり)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る