第6話 行列式を解く(厳しい教授と困った友人) (教養課程時代)

 大学に入学後1年半は、専門の学部に行く前の教養課程だった。学部に関係なく学生は、文学、哲学、法律、経済、物理、化学、生物、数学、歴史、地理等々から選択した科目を学んだ。学生として必要な教養を身につけるべしとの趣旨であった(単位を取るという面もあった)がこの時でないと学べぬことも多く、有難い期間だった。教授の中には古いノートをただ読むだけの講義をする方もあった。テープレコーダーもスマホもない時代だったので学生はゆっくり読まれる文章をノートに写すので大変だった。出席しなくとも真面目な学生の記録したノートを借りる手もあった(このような教授は21世紀の今は絶滅種の仲間入りだ。)科学系の講義はそうはいかず学生はサボるわけにはいかなかった。


 数学のクラスでは初めて行列式を学んだ。これまで学んだ数学とはまるで異なる代物だった。計算方法は何とか理解できたがその利用方法については 難しくてよく分からなかった。* S教授は講義のあと「次回は試験を兼ねて演習してもらいます。行列式を解く練習をしてきてください」と言われて十数題の行列式を書かれた。一度講義を受けただけで充分理解したとは言えない状態の私は、ほとんど1日がかりで何とか解いて授業に出た。小学時代から宿題は必ずするものと心得ていた。

(*注:行列式の解法には法則性があり一旦理解すれば簡単だったが、その意義・利用法は難しかった。話の筋には無関係なので詳細は省略する。) 


「富川、前に出て1番の解法を書きなさい」 と教授に指名された友人は、私に向かいそれを貸してくれと言うなり、苦心のノートを取って黒板に向った。〈仕様のない奴だ。宿題もせずに麻雀でもしていたのかな?ま、いいか〉と思っていた。


 「富永、次の問題をやりなさい」と教授。思わず「ハイ」と返事したが頼りのノートがない。黒板の前で困った。パニックで頭の中は真っ白、外からは防音講義室の壁を突き破るようなジェット機の爆音**が入ってきて落ち着いて考えられない。まさに最悪だ。もう仕方がない。教授にばれぬよう富川に「」と言ったが夢中でノートにかじりついた彼は返事どころではない。「富永、どうした」と教授からの催促を受けてしまった。ようやく写し終えた彼はノートを返してくれた。何とかその場を切り抜けた。どうやら教授は一部始終を見ておられた節があった。

(**注:朝鮮戦争たけなわで、近くの米軍の板付基地からは連合軍のジェット機が頻繁に出撃していた。ジェット機が音速を超える際のドーンという轟音はすさまじく、講義もしばしば中断を余儀なくされた。)


 結果は言うまでもなくノートを私は不合格。「明朝拙宅まで来なさい」と言われて、再試験を受けるべく教授宅に行った。 私が庭で待っていると、窓から着物姿で顔を出された教授から数題の行列式の問題を渡された。さすがに前回の失敗から学んだ私はノートなしで即答で正解し、教授のお許しを得ることが出来た。教授がこの怠け者を矯正しようとされたのか、ノート’借用’(または’貸し’)の件を許す機会を与えるための異例の自宅での面接だったのかは(この一文を書くまで考えていなっかったが)不明だ。富川から「すまなかった」と言われたかどうか定かに記憶はしていない。


 S教授、

 富川、

 富永、大事なノートを貸したことを

  (肝心なところで言いをしない癖は直らず、同じような失敗を繰り返しているのも事実だ。)


 この様に苦労して学んだ行列式だが卒業後の会社勤めでそれを生かす場面には出くわさかった。しかし、その時の失敗は人生のどこかで役だったに違いない。

(第6話 おわり)




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