其の七

 夫婦喧嘩はエスカレートした。


 と言っても、直接的な暴力を振るったわけではなく、ただ母が父に向って目覚まし時計を投げて、それが父の顔に当たり、激怒した父が襖を殴り、大きな穴を開けたっていう程度だけど。


 流石に近所の人が様子を見に来て、なんとか取り繕った態度を見せて納得してもらっていたけれど、殴った拍子に切ったのか、父の手の甲は数センチの真っ赤な傷ができていた。


 人間は血を見ると興奮するらしいけれど、父はどうやらその傷を視認して冷静になったらしく、ティッシュを数枚取り、ずっと手に当てていた。


 ここでもガバっと一気に数枚取るのではなく、遠慮がちに二三枚しか取らない辺りが重度の貧乏性なのだなと思わせられた。


 母も落ち着きを取り戻した様子で、部屋に戻ってネットゲームに興じていたみたいだった。


 僕はこの夫婦喧嘩の翌日、つぐみさんの元へは行かなかった。


 何故か、躊躇われたのだ。


 両親の喧嘩が絶えないという家庭事情を知っているのはつぐみさんだけで、クラスメイトはもちろん、担任も知らないし、どこかへ相談しに行ったわけでもない。近所の人はもちろん知っているけれど、ただでさえ他人の家庭問題に首を突っ込みたくないはずであるのに、声や物音が響き渡る程の大袈裟な喧嘩の仲裁になんて入りたくはないだろう。実際、あの時もすんなり帰ったし、翌日の朝もいつも通りの挨拶を交わした。


 そう、人は他人の家庭には無関心を貫くものなのだ。


 しかし、これが金持ちだったらどうだろう。いや、金持ちでなくとも、立派な職について、世間的に評価の高い何かしらの功績を上げた親だったらどうだったのだろう。


 きっと、もっと関心を抱いてくれるはずだ。それはスキャンダラスさを面白がるのはもちろん、何かを成し遂げた人間に対するリスペクトもあり、進んで関わろうと思ったりもするだろう。


 しかし、うちの父親はただの一平卒に過ぎず、一平卒ですらないのかも知れないけれど、とにかく有象無象うぞうむぞうの一員だ。


 明日命を落とそうと、誰も死を嘆いてはくれないのではないだろうか。

 実に哀しい。哀し過ぎる。

 そんな人生、自分だったら耐えられないだろうなと、想像して身震いする。


 僕が次につぐみさんを訪ねたのは、それから三日後の夜半だった。

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