其の六

「あたし、曇り空って嫌いじゃないのよね」


 週が明けて月曜日になり、僕は三日ぶりに屋上へと出向いた。


 つぐみさんが言っていたように、週末から雨が降り、土日は一日中降り続いていた。


 そして今日は雲一つない晴天になった。

 気温もグッと上昇し、昼間はアスファルトから湯気が立ち上るような熱気を感じたけれど、夕方になると流石に過ごし易い陽気になった。


「気分が落ち込むって言う人多いけど、むしろ昂揚こうようするわ」


 何故か凄く曇天を押すつぐみさん。理由を問うと、「だって閉塞感があるじゃない」と、先程僕が差し出したポテトチップを頬張る。


「あたしは広い所より狭い所の方が好き。なんか落ち着かない?」

「僕はどちらかと言うと閉所恐怖症なので……」


 申し訳ないけれど共感はできなかった。


「ま、いいけどね。――それにしても、カルビーも悪くないわね」


 今日でもう三度目の来訪である。突然話が変わるのにはもう慣れた。


「他に好きなメーカーがあるんですか?」

「あたしはコイケヤを押すわ。まぁ、普通のポテトチップではカルビーに譲る部分もあるだろうけれど、ムーチョシリーズは、正直頭ひとつ抜けてるわね」


 どういう意味だ。というか抜けてるもなにも、自分が好きなランク付けしているだけの癖に。


「まぁ子供には少し早いかしら? カラムーチョは文字通り辛いしね」

「いや、僕も食べたことありますけど、別に辛くなかったですよ」

「は、はぁ? それじゃあ、なに、あたしの舌が子供舌だって言いたいの?」

「い、いや、そんなことは思ってないですけど……」

「ふんっ。コイケヤは大人味なんだからね。確かそう言ってたし。CMでも」


 いつのCMだ。というか、なんのCMだ。普通は子供が食べるものだろうお菓子は。


「まぁいいわ。旨さのも知らないがきんちょとお菓子談義しててもなーんにも面白くなんてないもの」

「……」


 下手に拗ねられてしまうよりは、この話はこの辺で中断しておいた方が懸命だろうと踏み、僕も彼女に従った。


「そういえば、悩み相談なんですけど」

「あぁ、そう言えばそんなこと言ってたわね。めんどくさ」

「めんどくさ!? え、つぐみさんが言い出したんですよね!?」

「だからめんどくさいって言ってんじゃん。あんなこと言わなきゃよかったなぁって」


 何と言う駄目人間なんだ。いや、死んでいるから駄目幽霊か。


「というかさ、なんであんたは何度も来るの? あたし幽霊なんだけど。最初あんなにビビってたのに」

「いやー、それが自分でも分からないんですけど」


 確かに初対面の時は舌が回らないくらい恐怖と緊張で、心臓が破裂寸前までバクバクと爆音を立てていたし、もう二度と会いたくないとも思ったけれど、でも、何故かこうしてまた顔を出している。


 何だろう、こうして話してみると、全然怖くないんだよな。幽霊って感じが全然しないし、普通に同年代の女の子と話しているみたいで、怖いどころかむしろ――


「楽しくなってきてて」


 正直な気持ちが口をついてしまい、お互いに照れてしまう様を想像した直後、「あたしは全然楽しくないけどね」と、辛辣な言葉を返されてしまった。


「……」

「でもま、聞いてあげるわ。さっさと話しなさい、日が暮れちゃうわ」


 西に傾き始めた太陽を見ながら彼女は聞く姿勢を作る。


 壁にもたれかかってはいるものの、揃えた膝を此方へ向け、本当に面倒そうではあるけれど、僕に視線を向けた。


「最近、両親が喧嘩をするようになりまして――」


 仕事から帰って来た父と、専業主婦の母は、殆ど会話をしないのが常で、料理は作ってあるけれど、父は自分で温め直して食べている。そのかん母は寝室で本を読んだりPCを使用したりしてるみたいだけれど、今までは父も諦めていたのか、特に文句を言うこともなかったし、仲違いすることもなかった。


 それが先日、詳しい切っ掛けは分からないけれど、恐らく給料の話からどちらからともなくヒートアップし、激しい口論となった。


 正確には、初めてのは金曜の夜だった。


 仕事帰りの父がいつものようにレンジでおかずを温めている時に、珍しく母が何かしら声をかけた。


 僕が偶々たまたまお風呂に入ろうと部屋から出た時に、母が自室を出ていくのが見えたので珍しいなと思い、二人からは姿が見えない場所で立ち聞きをした。


 話の内容は、母がネットゲームか何かで課金している金額についてのことだった。


 父は請求書を見ていたらしく、いくらくらいつぎ込んでいたのかある程度把握していたみたいだったけれど、今まで黙認していたとのこと。


 しかし、最近少し度が過ぎてはいないかと父は指摘する。

 それに対し、母はあろうことか、更に課金額を増やしたいと宣った。


 正直、僕もそれはどうかと思った。僕ですらゲームに課金することはない。もちろんお小遣い自体が少ないからというのもあるけれど、ゲームは無料で楽しんでいるし、それで十分遊べるから満足しているのだけれど、母はここのところ、昼夜問わずやり込んでいるみたいで、ゲーム内のキャラだかアイテムだかが欲しいからと、父にお金をせびった。


 当然、父は反対した。おかしいだろう、と。普通に考えて、うちは貧乏なのにそんなゲームなんかに金を使う余裕がないことくらい誰にでも分かるはずだ、と。


 それを受けて母は猛抗議した。


 大好きなゲームを馬鹿にされたと思ったのか、口汚く父を罵った。給料が少ないから悪いとか、他のユーザーの主婦たちはもっと課金してるのに、なんで私だけ……とか、とにかく被害妄想を垂れ流しながら、父を批難し続けた。最初は父も仕事疲れもあってか、ダルそうに相手をしていたのだけれど、段々怒りが込み上げてきたのか「うるせぇ!」と怒鳴りつけた。


 普段大人しい父が声を張り上げるのはとても珍しいことなので、僕は驚き、足音を立てそうになってしまったけれど、多分多少音を立ててたとしても、興奮状態の二人は気付かなかったのではと思う。


 それから二人は互いに激しく罵倒し合った。糞野郎とか死んじまえとか、物騒な言葉も飛び交っていたけれど、どちらも暴力を振るうことはなかったのがせめてもの救いだ。


 およそ一時間くらいで喧嘩が終わり、二人は息を切らしながら無言で睨み合い、母は大きく足音を立てながら寝室に戻って行った。


 父はテーブルに肘をつき、頭を抱えていた。本当に頭痛がしていたのか、比喩的な意味合いの頭痛を感じていたのかは分からないけれど、とにかく疲労困憊の体で、品数の少ないおかずを口に運んでいた。


「昨日の夜もあったんです。金曜程じゃなかったけれど、でもやっぱり凄く酷いことを言い合ってて」

「……そう。大変ね」


 して興味を引かれなかったのかと思いきや、今までにない真剣な表情で聞き入ってくれていた様子のつぐみさんは、「悩みの種は分かったわ。それで、あなたはどうなって欲しいの?」と僕の顔を覗き込んだ。


「どう、って……もちろん、仲直りをして欲しいです」


 夫婦で罵り会うなんてよくないということくらい小学生でも分かる。仲良くなくても、無関心でも良い、せめて元通りになって欲しいと僕は思う。


「元通り、ね。元通り、会話のない夫婦に戻って欲しいの? 殺伐とした、暖かみの全くない家族に戻りたいということ?」


 そういう言い方をされてしまうと、否定せずにはいられないけれど、喧嘩をしているよりはよっぽどいい。


「まぁ……そうね。険悪な状態が続けば離婚に発展する可能性もあるけれど――いっそ離婚してしまった方がいいのかも知れないわよ?」

「……え?」


 なんてことを言うんだこの人は。他人事だと思って。


「いいわけないじゃないですか、離婚なんて。困りますよ」

「誰が?」

「誰がって、そりゃ……」


 ――誰が困るんだ?


「お父さんはひとりで家族を養ってるのよね? 三人分の衣食住を安定させるのと、自分だけの為に働くのでは全然負担は変わってくるわ。お父さんは家事は全くできないの?」

「……いえ、何度か料理してるとこも見たことあるし、洗濯とかも自分でやってます」


「そう、ならやっぱりひとりの方が気が楽ね。それと、お母さんも、一度ひとりになった方が良いかもしれないわね」

「そんな、無理ですよ。だって仕事もできないんですよ?」


「何か病気なの?」

「いや、病気ではないと思いますけど」


「ならいいじゃない。ひとりで――なんなら一緒にいてあげれば? 息子と二人、母子家庭で生きていかなきゃならないって状況に追い込まれれば、火事場のなんとやらで、案外馬車馬の如く働いてくれるかもしれないわよ?」


 馬車馬のたとえは確実に望ましい表現ではないけれど、確かに母親は追い詰められて初めて行動するタイプなのかもしれない。でも――


「リスクが高過ぎるんじゃないですか? それでもし、逆に全部どうでもよくなっちゃってネトゲ廃人みたいになっちゃったら」

「ネトゲ廃人? インターネット中毒ってこと?」


「まぁ、そんな感じです」

「それならそれで仕方ないんじゃない? ――ちなみにお母さんの実家は両親がいるんでしょ?」

「いますけど……年金暮らしだし、余裕はないと思いますよ」


 というより、余裕があっても、あのじいちゃんばあちゃんの性格なら、そんな怠惰な理由で離婚された娘に家の敷居を跨ぐことを禁じるのではと思うけど。


「とにかくそれは難しいです。やっぱり仲直りしてもらって――」

「……ま、あんたがそうしたいなら止めないわ。外野が何と言おうと、やっぱり家族は家族にしか分からないことがたくさんあるでしょうし。あたしのアドバイスをどう受け止めるかは任せるわ」

「はぁ……」


 それもひとつの意見ではあるけれど、流石に採用するのは気が引けるし、そもそも子供の僕がそれを両親に提案して彼らがそのまま鵜呑うのむことがあるのかというと、それもまずありえないだろう。


「……とりあえず、自分のできることを探してみます。きっとある筈ですから」

「ま、精々頑張って」


 肩を竦め、シッシッと、野良猫を追い払う如く、掌を払う。


「――また、相談に来ます」

「気が向いたら乗ってあげるわ」


 そんなことを言いながら、お菓子を持っていけばきっとまた話を聞いてくれるのだろう。


 僅かなお小遣いをお菓子につぎ込むのはどうかとも思うけれど、つぐみさんと話している時間は決して無駄ではないし、何らかのプラスになっていると僕は断言できる。


 知らず知らずの内に、つぐみさんに会いに行くことを僕は楽しみに感じていた。

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