第47話 蓬莱山
#### 永禄11年(1568年)9月:信長の上洛と不穏な気配
秋の空が高く、風が肌寒くなってきたある日、三条殿(吉田羊)は屋敷の庭で黄梅院(當真あみ)の笑顔を思い出していた。信長が上洛したとの知らせが入ると、周囲には興奮と期待の声があふれた。しかし、三条殿の心には不安が広がっていた。
「この男、信長(松田龍平)は一体何を考えているのか。将軍・義昭(佐々木蔵之介)を奉じて上洛するとは、表向きは忠義に見えるが、その裏には何が潜んでいるのか。」
彼女の直感が、信長の野望を感じ取っていた。やがて、義昭と信長の間に亀裂が入り、義昭が信長を討つために信玄に書状を送るという事態に発展した。
#### 永禄12年(1569年)6月:大宮城の攻撃
ある日、信玄からの報告が届いた。彼が大宮城を攻めて降伏させたという知らせは、三条殿にとって一つの安心をもたらした。信玄の強さと戦略が功を奏したのだ。しかし、同時に彼女の心には、さらなる戦争の波が迫っていることへの恐れもあった。
「この戦がどこまで続くのか。愛する夫が無事であることを祈るばかり。」
#### 永禄12年(1569年)10月:小田原城侵攻と三増峠の戦い
信玄が小田原城を攻めるとの知らせが入った。三条殿は一心に信玄の勝利を願ったが、心の奥には不安が渦巻いていた。彼が戦に出向くたび、彼女の心は不安でいっぱいになる。夫の命が危険にさらされるからだ。
「どうか無事でいてください、信玄様。」
しかし、戦は思わぬ展開を見せる。撤退の際に三増峠での戦いが発生し、信玄が厳しい状況に追い込まれたとの報告が届く。彼女の心臓は締め付けられるような思いでいっぱいになった。
#### 蒲原城の落城
そして、蒲原城が落城したとの知らせが耳に入った。後北条家は、信玄による二正面作戦の前に力を失ったのだ。三条殿はその知らせに心が沈む。
「この戦争が終わった後、我が家族はどのように生きていくのだろうか。信玄様が勝利を収めても、失われたものは決して戻らない。」
彼女は窓から外を眺め、静かに流れる川の水面を見つめた。静けさの中に潜む不安、そして未来への恐れが胸に迫っていた。
#### 戦の終息と新たな決意
その夜、三条殿は信玄の帰りを待ちながら、黄梅院のことを考え続けた。彼女は決意した。信玄の強さと愛する者のために、彼女自身も強くなりたい。
「私もこの戦の一部であり、愛する者たちを守るために何かをしなければ。」
三条殿は、信玄が帰ってくる日を心待ちにし、強く生きることを誓った。彼女の心の中には、愛と希望が宿っていた。
数年後
### 三条殿の病と武田勝頼の旅
#### 不治の病
永禄12年の晩秋、三条殿は不治の病に倒れた。かつては美しさと知恵を兼ね備えた彼女も、今では虚ろな目をし、病床に伏せる日々を送っていた。信玄はその姿を見るたびに胸が痛む。彼女を助ける手立てはないのかと、毎日考え続けた。
「このままでは、私の愛する妻を失ってしまう…」
彼は無力感に苛まれながらも、三条殿に寄り添い続けた。
#### 蓬莱山の伝説
ある夜、三条殿は夢の中で、かつての富士山が「蓬莱山」と呼ばれ、不老不死の薬を求めて徐福が訪れたという古の物語を語り始めた。徐福はその薬を求めて海を渡り、行方不明になったという。
「もし、その薬を見つけることができれば、私の病も治るかもしれない…」と、三条殿はかすかな声で言った。
信玄は、その言葉を聞いて決意した。「我が息子、武田勝頼(松坂桃李)がこの旅に出るべきだ。」
#### 武田勝頼の旅立ち
信玄は養子の勝頼に富士山を訪れ、徐福の薬を探すよう命じた。勝頼は勇気を持ってその命令を受け入れ、出発の準備を整えた。彼は心の中で、母のために必ずやこの旅を成功させると誓った。
「お母様を助けるため、必ずや薬を見つけてみせます。」
旅立つ前夜、勝頼は三条殿の病床に向かい、手を握った。「お母様、必ず帰ります。そして、あなたを治す薬を持ち帰ります。」
三条殿は微笑み、力強い言葉を残した。「あなたの力を信じている。行ってらっしゃい。」
#### 富士山への旅
勝頼は仲間を連れ、富士山へ向かった。険しい道のりの中で、彼は数々の試練に直面した。厳しい自然、予想外の敵、そして自身の弱さに向き合いながら、彼は決して諦めなかった。
山を登るうちに、勝頼は徐福の伝説に思いを馳せた。彼は徐福が求めた薬がただの幻ではなく、何らかの形でこの山の奥に存在することを信じていた。
#### 徐福の幻影
ある夜、勝頼は夢の中で徐福の幻影に出会った。徐福は彼に言った。「不老不死の薬は、ただ手に入れることができるものではない。心の力を信じ、真摯な願いを持つ者だけに、その道は開かれる。」
勝頼はその言葉に力を得て、旅を続けた。彼は母のために、愛する者のために、そして自らの運命を切り開くために、懸命に進み続けた。
#### 未来への希望
数日後、勝頼はついに富士山の頂に辿り着いた。目の前には神秘的な光景が広がり、彼は感動とともに心を揺さぶられた。
「ここが徐福が求めた場所なのか…」
彼は心からの願いを込めて叫んだ。「母を助けるため、どうか不老不死の薬を見つけさせてください!」
その瞬間、彼の前に光が現れ、神秘的な薬の瓶が浮かび上がった。勝頼はその薬を手に取り、感謝の念を込めて三条殿のもとへ帰ることを決意した。
「お母様、必ず帰ります。」
彼の胸には、希望と勇気が満ち溢れていた。
武田勝頼
本姓では源 勝頼(みなもと の かつより)。通称は四郎。当初は母方の諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎・武田四郎勝頼ともいう。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は武田信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。信濃への領国拡大を行った武田信玄の庶子として生まれ、母方の諏訪氏を継ぎ高遠城主となる。武田氏の正嫡である長兄武田義信が廃嫡されると継嗣となり、元亀4年(1573年)には信玄の死により家督を相続する。
強硬策をもって領国拡大方針を継承するが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に敗退したことを契機に領国の動揺を招き、その後の長尾上杉氏との甲越同盟、佐竹氏との甲佐同盟で領国の再建を図り、織田氏との甲江和与も模索し、甲斐本国では躑躅ヶ崎館より新府城への本拠地移転により領国維持を図るが、織田信長の侵攻である甲州征伐を受け、天正10年(1582年)3月11日、嫡男・信勝とともに天目山で自害した。これにより平安時代から続く戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡した。
勝頼の母親
諏訪御料人(享禄2年(1530年) - 弘治元年11月6日(1555年12月18日))は、武田晴信(信玄)の側室で武田勝頼の母。諏訪頼重と側室の小見(麻績)氏の娘(太方様)。諏訪御「寮」人とも表記される。異母弟には、頼重の後室の禰々の産んだ寅王(千代宮丸)がいる。実名が不詳で、史料上においては諏訪御料人(御寮人)・諏訪御前(いずれも貴人の女性を指す)と記されている。
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